正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑰巴西郡閻氏(閻穆・閻圃・閻璞・閻纘・閻亨)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
巴西郡閻氏系図
巴西郡閻氏系図
閻穆と閻圃の関係について
『新唐書』宰相世系三下には「閻顕の子・閻穆(顯生穆)、閻顕の孫・閻圃(顯孫甫)」とあり、「穆生甫」とは記されていないため、閻圃が閻穆の兄弟の子である可能性もある。
参考記事
この記事では巴西郡閻氏の人物、
についてまとめています。
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え⑰(巴西閻氏)
第0世代(閻穆)
閻穆
生没年不詳。益州・巴西郡・安漢県の人。父は閻顕。子に閻圃*1。
益州・巴西郡・安漢県に避難した*2。
脚注
*1『新唐書』宰相世系三下には「閻顕の子・閻穆(顯生穆)、閻顕の孫・閻圃(顯孫甫)」とあり、「穆生甫」とは記されていないため、閻圃が閻穆の兄弟の子である可能性もある。
*2『新唐書』宰相世系三下に「(閻氏は)前漢末、司隷・河南郡・滎陽県に居住した(前漢末,居滎陽)」とあるが、その後「(閻圃は)司隷・河南尹・新安県に転居(復居)した。(復居河南新安)」とあり、閻穆がどこから避難したのかは分からない。
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第1世代(閻圃)
閻圃
生年不詳〜[黄初元年(230年)〜青龍4年(236年)]没。益州・巴西郡・安漢県の人。父は閻穆*1。子は閻璞。孫に閻纘。張魯の功曹。
益州・漢中郡の住民の中に地中から玉印を手に入れて献上した者があり、部下たちは張魯に漢寧王の尊号を名乗ることを望んだが、閻圃はこれを諫め、張魯も彼の意見に従った。
建安20年(215年)、曹操が張魯征伐に向かい陽安関に達すると、張魯は漢中郡をあげて降伏しようとしたが、閻圃は「今追い詰められた状態で出向いて行ったならば、きっと評価は小さくなりましょう。杜濩を頼るか朴胡の元に行き、抵抗した後で臣下の礼を取られるならば、必ずや評価は大きくなりましょう」と言い、張魯はこれに従って、蔵に封印をして立ち去った。
この態度に感心した曹操は使者を立てて慰撫・説得し、張魯が出頭すると張魯とその5人の子を列侯に封じた。この時、閻圃も平楽郷侯に封ぜられ、馬超の妾(董氏)を与えられた。
その後閻圃は、司隷・河南尹・新安県に転居(復居)した。
黄初年間に爵位と領地を加増され、朝議の席で礼遇される身分となり、その後10年あまりで病死した。
脚注
*1『新唐書』宰相世系三下には「閻顕の子・閻穆(顯生穆)、閻顕の孫・閻圃(顯孫甫)」とあり、「穆生甫」とは記されていないため、閻圃が閻穆の兄弟の子である可能性もある。
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第2世代(閻璞)
閻璞
生没年不詳。益州・巴西郡・安漢県の人。父は閻圃。子に閻纘。
父・閻圃の爵位を継ぎ、晋に仕えて牂牁太守となった。
維基百科・閻纘・注より
『晋書』閻纘伝には「父の爵位を継いだが、呉に仕えて牂牁太守となった。(父璞,嗣爵,仕吳至牂柯太守)」とあるが、『新唐書』宰相世系三下には「(閻圃は)牂牁太守・閻璞を生んだ。(生牂柯太守璞)」とあり、「呉」の字がない。
清初の学者・趙一清は「閻璞が魏で爵位を継ぎながら、歴史書に『東呉に出仕したこと』について詳細が記されていない」ことに疑問を呈している。
労格(劳格)の『晋書校勘記』は「東呉が(益州・)牂牁郡を領有したことはなく、『呉』の字は衍字(語句の中に間違って入った不要な文字)である」と言っている。
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第3世代(閻纘)
閻纘・続伯
生没年不詳。益州・巴西郡・安漢県の人。父は閻璞。祖父は閻圃。晋の西戎司馬。
広く詳細に物事に通じて、歴史の記録者として立派な資質を持っていた。
閻纘は司隷・河南尹・新安県に仮住まいし、若い頃は旅をして多くの英雄・豪傑と交友を結び、古書典籍(墳典)を広く読んで、物事の理に通じていた。
父・閻璞の死後、閻纘は継母に愛されなかったが、常に敬意を表して接していた。
継母の病気が重くなると、閻纘は「父の金銀財宝を盗んだ」と誣告され、有司(役人)に訴えられた。審議を受けること10余年にわたったが、閻纘は怨むことなく孝行を怠らなかった。後に継母の疑念が晴れると、中正に移されて品を回復することができた。
初め太傅・楊駿の舍人となり、安復県令に転任した。
晋の永平元年(291年)に楊駿が賈后の一党に誅殺されると、閻纘は官を棄てて帰り、元楊駿の主簿・潘岳、元掾(属官)の崔基らと共にこれを葬ろうとしたが、崔基と潘岳は罪を畏れて閻纘を喪主に推した。
墓が完成して埋葬する時になって、楊駿の従弟の楊模が武陵王・司馬澹に「発案者を殺す」ように言った。人々は懼れ、墓を埋め直して逃げ出したが、閻纘はただ1人、家財を投じて楊駿を埋葬して去った。
国子祭酒の鄒湛は、閻纘を「佐著作に堪え得る才の持ち主」として秘書監の華嶠に推薦したが、華嶠は「佐著作は多くの貴族たちが争う重要な職なので空きはない」と言い、閻纘を用いなかった。
結局、河間王・司馬顒に西戎校尉の司馬に任命され、功あって平楽郷侯に封ぜられた。
また、後にその忠烈さが朝廷に認められ、漢中太守に抜擢された。
晋の建始元年(301年)、趙王・司馬倫が死んで埋葬されると、閻纘は車でその墓を轢いた。
閻纘は細かいことにはこだわらず、国家の存亡にかかわる重大事や正義に外れたことなどに激しく憤り嘆いた。在任中に59歳で亡くなった。
閻纘の5人の子はみな明るく広やかで、優れた才能と力量があった。
『魏書』管輅伝の裴松之注に、閻纘が劉太常(劉寔)から聞いた「管辰が『管輅伝』に載せていない管輅の話」が紹介されている。
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第4世代(閻亨)
閻亨
生没年不詳。益州・巴西郡・安漢県の人。父・閻纘の長子。
遼西太守となったが、王濬が身内を用いているため就任を見送った。
青州刺史の苟晞の政治と刑罰が苛烈で残虐であったので、閻亨は何度も切実に諫めたため、苟晞によって殺害された。
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