西羌の諸種族と中国(夏・殷・西周・東周の時代)の関係についてまとめています。
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西羌と中国の関係①
夏(夏后氏)
中国の王政が行われると異民族たちは服従し、徳教が失われると侵攻して荒らしました。
- 昔、太康*11が国を失うと、西夷(西羌)は反逆しました。
- 后相(帝相)*12が即位するに及んで畎夷(犬戎)を征伐し、7年後に畎夷(犬戎)が来朝しました。
- 后泄(帝泄)*13の代になり、初めて爵位を授け、これにより畎夷(犬戎)は服従しました。
- 后桀(桀王)の乱の時、畎夷(犬戎)は邠・岐の間に侵入して居住しました。
脚注
*11夏啓(帝啓)の子。田猟(狩猟)を好み、人事を顧みなかったために羿に放逐され、国に帰ることができなくなった。
*12太康の孫、仲康の子。
*13夏啓(帝啓)の8代の孫。帝芒の子。
殷(商)
- 殷の成湯(湯王)が興隆すると、討伐して畎夷(犬戎)を追い払いました。
- 殷王室が中頃になって衰えると、諸夷はみな離反しました。
- 殷の武丁の代になると西戎や遠方(鬼方)を征伐し、3年経ってようやく勝利を収めました。このことは『詩経』商頌殷武篇に「かの氐・羌から、あえて来朝せぬものはいない」とあります。
- 殷の武乙が暴虐を振るうようになると、犬戎が辺境に侵略し、周の古公亶父は梁山を越えて岐山の麓に避難しました。
- 周の古公亶父の子・季歴の代になると、ついに西落の鬼戎を征伐しました。
- 殷の太丁の時、周の季歴が再び燕京の戎を征伐しましたが、周軍は戎人に大敗しました。
- 2年後、周人(周軍)が余無の戎に勝利すると、殷の太丁は季歴に命じて牧師(牧畜を掌る官)としました。これ以降(季歴は)、さらに始呼・翳徒の戎を征伐して勝利します。
- 季歴の子・周の文王が殷の西伯となった時、西には昆夷の憂患があり、北には獫狁(猃狁)の困難がありましたが、ついに戎狄を討ち、そのことごとくを服従させました。そこで周の文王は西戎を率いて殷に反乱を起こした国を征伐して紂王に仕えました。
西周
- 文王の子・周の武王が商(殷)を征伐するに及んで、羌と髳は軍を率いて牧野に集まりました。
- 第5代・穆王の時になると戎狄が朝貢しなくなったので、穆王は西の犬戎を征伐し、その5人の王を捕らえ、さらに4頭の白鹿と4匹の白狼を獲得し、戎を太原に移住させました。
- 第9代・夷王が衰弱すると荒服*14の諸侯は朝見しなくなったので、虢公に命じて六師*15を率いて太原の戎を征服させ、俞泉に至って馬千頭を獲得しました。
- 第10代・厲王は無道であったため、戎狄は侵攻して略奪を働き、さらに犬丘に侵入して秦仲の一族を殺害しました。そこで厲王は秦仲に命じて戎を征伐させましたが、勝つことはできませんでした。
- 第12代・宣王が即位して4年後、秦仲に命じて戎を征伐させましたが、秦仲は戎に殺害されてしまいました。そこで宣王は、秦仲の子・荘公を召し出して兵7千人を与え、戎を征伐させこれを撃ち破らせると、戎は少しだけ退きました。
27年後、宣王は兵を派遣して太原の戎を征伐させましたが、勝利を得ることはできませんでした。
5年後、宣王は條戎と奔戎を征伐しましたが、宣王の軍は敗れました。
2年後、晋人が汾水・隰水において北戎に敗れ、戎人が姜侯の邑を滅ぼしました。
翌年、宣王は申戎を征伐してこれを撃ち破りました。
- 10年後、幽王は伯士に命じて六済の戎を討伐させましたが、軍は敗れ、伯士は戦死しました。またこの年、戎が犬丘を包囲し、秦の襄公の兄・伯父を捕虜としました。
幽王は暗愚で残虐であり、四夷が代わる代わる侵攻して来ました。幽王が申后を廃して褒姒を后に立てると、申后は怒って戎をと共に周に侵攻し、酈山において幽王を殺害しました。これを受け、周は洛邑に東遷し、秦の襄公が戎を攻めて周を救いました。
- 2年後、邢侯が北戎を大いに撃ち破りました。
脚注
*14京畿を中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服)の1つ。京畿に近い順に甸服・侯服・綏服・要服・荒服という。
*15天子の率いる軍隊。六軍。
東周
- 平王の末年になると、周はとうとう衰退して戎が諸夏(中華の諸国)に迫り、隴山以東の伊水・洛水に及ぶまで、あちこちに戎が住み着きました。
こうして渭水の上流には狄(狄道)・䝠(䝠道)・邽(上邽)・冀(冀県)の戎が、涇北には義渠の戎が、洛川(洛水)には大荔の戎が、渭南には驪戎が、伊水・洛水の間には楊・拒・泉・皋の戎が、潁首以西には蛮氏の戎が住み着くようになったのです。
- 春秋時代になると、中原の地にあった戎は、諸夏(中華の諸国)と会盟しました。
- 魯の荘公が秦を討伐して邽・冀の戎の地を奪取しました。
- 10余年後、晋が酈戎を滅ぼしました。
この時、伊水・洛水の戎は強く、東の曹・魯を侵略しました。 - 19年後、ついに戎が周の王城に侵入したので、秦・晋は戎を征伐して周を救いました。
- 2年後、戎がまた京師(洛邑)に侵略すると、斉の桓公が諸侯を集めて周を守りました。
- 9年後、陸渾の戎が瓜州から伊川(伊水)に遷り、允姓の戎(陰戎の祖)が渭汭*16に遷り、東の轘轅山*17に遷りました。また、河南山の北に居住する者たちは陰戎と号し、陰戎の種族はますます広がりました。
- 晋の文公は、覇業を修めようとして戎狄に賄賂を贈って道を開かせ、周王室を救いました。
- 秦の穆公は戎人の由余*18を得て、ついに西戎の地の覇者なり、その地を開発すること千里(約430km)に及びました。
- 晋の悼公の代になると、また魏絳に命じて諸戎を懐柔させ、再び覇業を修めました。
- この当時、強盛であった楚と晋は、諸戎を威服し、陸渾・伊・洛・陰戎は晋に仕え、蛮氏の戎は楚に従いました。後に陸渾の戎が晋に対して叛乱を起こしたので、晋は荀呉に命じて陸渾の戎を滅ぼさせました。
- 44年後、楚が蛮氏の戎を捕らえてそのことごとくを虜囚としました。またこの頃、義渠・大荔の戎が最も強く、数十の城を築き、みな王を称していました。
- 周の貞王8年(紀元前461年)に至ると、秦の厲公が大荔の戎を滅ぼしてその地を奪取し、趙もまた代戎を滅ぼしました。代戎とは北戎のことです。
また韓と魏は共に次第に伊・洛・陰戎を併呑してこれを滅ぼし、討伐を免れた者はいずれも西の汧山・隴山を越えて逃走しました。
こうして中国には戎による侵略がなくなり、ただ義渠の戎だけが残っていました。
- 周の貞王25年(紀元前444年)になると、秦が義渠の戎を伐ち、その王を捕虜としました。
- 14年後、義渠の戎が秦に侵攻して渭陰に至りました。
- 百年ほど後、義渠の戎が秦軍を洛で撃ち破りました。
- 4年後、義渠国が乱れると、秦の恵王が庶長の操に兵を率いて義渠国を平定させ、義渠の戎は秦に臣従しました。
- 8年後、秦は義渠の戎を討伐し、郁郅県を奪取しました。
- 2年後、義渠の戎は李伯で秦軍を破りました。
- 翌年、秦は義渠の戎を討伐し、徒涇*19の25城を奪取しました。
- 秦の昭王が即位すると、義渠王は秦に朝貢し、昭王の母の宣太后と密通して2人の子を生みました。
- 周の王赧(赧王)の43年(紀元前272年)になると、宣太后は義渠王を甘泉宮に誘い込んで殺害し、兵を起こして義渠の戎を滅ぼし、初めて隴西郡・北地郡・上郡を置きました。
脚注
*16渭水が黄河に流入する陝西省・潼関県の北部一帯。
*17河南省・偃師区の南東。
*18由余の先祖は晋人で、戎に亡命した。
*19原文:取徒涇二十五城。
『後漢書』西羌伝・李賢注に「徒涇は県の名であり西河郡に属する」とある。「徒涇他、西河郡の25城」の意か。
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まとめ(要約)
戎(西羌)には元々勢力を統一するような君長がおらず、夏(夏后氏)の末期、殷(商)・周の時代には、あるものは諸侯の長の征伐に従軍した功績があったので、天子はこれに爵位を与え、藩服(藩屏:王家を守護するもの)としました。
春秋時代になると、陸渾・蛮氏の戎が子爵を称するようになり、戦国時代になると、大荔・義渠の戎が王号を称しました。
それらが衰退・滅亡すると、その他の種族はみな旧来のものに戻って豪(首領)となりました。
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