後漢・三国時代の異民族の内、西南夷に分類される莋都夷についてまとめています。
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莋都夷
莋都夷の領域
莋都夷
莋都夷とは、前漢の武帝が開拓した地域に居住する夷人で、武帝はその地に莋都県を置きました。
風土・風俗
風土
- 長生の神薬を産出します。
- 仙人の山図が住む場所です。*1
脚注
*1原文:土出長年神藥,仙人山圖所居焉。
風俗
- 莋都夷の人々はみなざんばら髪で襟を左前にしています。
- 言語は譬類(比喩)を多用することを好みます。
- 莋都夷の居住地は汶山夷とほぼ同じです。
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莋都夷の歴史
莋都夷と中国の関係
【前漢】武帝期
前漢・武帝の元鼎6年(紀元前111年)、武帝はこの土地を沈黎郡とし、天漢4年(紀元前97年)に至ると、蜀郡に併合して西部として2つの都尉を置きました。
1つは旄牛県に置いて国境外(徼外)の夷を統治し、1つは青衣県に置いて漢人の統治を行います。
【後漢】明帝期
後漢・明帝の永平年間(58年〜75年)、兗州・梁国(東平国)出身の益州刺史・朱輔(硃輔)は功名を立てることを好み、意気盛んにして大略を備えていました。
朱輔(硃輔)が益州に在任すること数年、漢の徳を宣示し、その威信により遠方の夷人まで懐かせました。
益州・汶山郡より西の地域は、前漢時代には徳が及ばず、中国の天子が発布する正朔(暦)が加えられていませんでしたが、白狼、槃木、唐菆ら百余国・130余万戸・6百万人以上が種族を挙げて貢物を奉じ、臣僕となりました。
朱輔(硃輔)は、従事使の李陵と夷人の言葉に通暁している犍為郡の掾・田恭と共に夷人の使者を宮城に参内させ、夷人の「楽詩」を奉らせ、
「古の聖帝は、『四夷の楽』を舞わせました。今上奏するものも、どうか『四夷の楽』の1つとして備えられますように」
と上疏した。
明帝はこれを褒め称え、事を史官に下してその歌を記録させました。
遠方の夷人が徳を楽しむ歌
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〽大漢はよく治まり、天と意思が合致する。
吏の通訳は平端で、我らの土地から来た者ではない。
評判を聞き徳化に従い、見るものすべてが珍しい。
多くの絹布を賜って、おいしい酒と食事まで。
歌って舞って体は躍り、曲げて伸ばしてあらゆる動作。
蛮夷は貧しく、なんらお返しするものもなし。
願わくは主上(天子)は長寿にあらせられ、子孫が繁栄されますように。
遠方の夷人が徳を慕う歌
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〽蛮夷の住処は、日の沈む所。
義を慕って徳化に従い、日の出づる所の主君に帰服した。
聖徳は恩情深く、人々に富裕を与える。
冬には霜雪が多く、夏には穏やかな雨が多い。
寒さ暑さは時宜に適い、部の人々は多くいる。
危険を渡り険しき所を経ても、万里を遠いとは思わない。
卑俗を捨てて徳に帰し、心を慈母(の如き天子)に帰服しよう。
遠方の夷人が徳に懐く歌
タップ(クリック)すると開きます。
〽最果ての化外の地は、石ころばかりで痩せている。
肉を食らい毛皮を着て、塩と穀物を見たことがない。
役人と通訳が評判を伝える、大漢は安楽であると。
手を携え荷物を背負って仁徳に帰服し、険阻狭隘な地を冒して来た。
高山はそびえ立ち、崖には大岩がくっついている。
木々が枯れることに家を出発し、百日経って洛陽(雒陽)に到着した。
父子共に賜物を受け、懐に多くの絹織物を抱きかかえる。
種族の者たちに告げよう、「願わくは永久に臣下でありたい」と。
【後漢】章帝期
後漢・粛宗(章帝)の初め、益州刺史の朱輔(硃輔)は事件に連座して罷免されました。
この時、郡尉の庁舎にはみな彫刻が施され、山神・海霊・奇禽・異獣を描いてまばゆく輝かせたことで、夷人は益々畏怖して憚りました。
【後漢】和帝期
後漢・和帝の永元12年(100年)、益州・蜀郡属国・旄牛県の国境外(徼外)の白狼・楼薄の蛮夷の王・唐繒らが、ついに種族17万人を率い、漢の徳義に帰順して内属(服属)します。
そこで和帝は詔を下して金印紫綬を下賜し、小豪にはそれぞれ差をつけて銭帛を与えました。
【後漢】安帝期
後漢・安帝の永初元年(107年)、益州・蜀郡の三襄種の夷が国境外(徼外)の汗衍種(污衍種)と共に兵3千余人を合わせて反乱を起こし、蚕陵城(蚕陵県)を攻撃して長吏を殺害しました。
永初2年(108年)、青衣道夷*2の邑長・令田は、国境外(徼外)の3種夷・31万人と共に、黄金・旄牛(ヤク)の毦*3をもたらし、土地を挙げて内属(服属)します。安帝は令田に爵号を加えて奉通邑君としました。
延光2年(123年)春、旄牛夷*4が反乱を起こして益州・越巂郡・霊関道を攻撃し、長吏を殺害しましたが、益州刺史の張喬が西部都尉と共に旄牛夷*4を撃破しました。
この時安帝は蜀郡属国都尉を分置し、太守と同じように4県を管轄させました。
脚注
*2益州・蜀郡属国・青衣道(漢嘉県)の夷。
*3毛を結んで飾りとしたもの。
*4益州・蜀郡属国・旄牛県の夷。
【後漢】桓帝期
後漢・桓帝の永寿2年(156年)、蜀郡夷が反乱を起こし、吏民を殺害して略奪しました。
延熹2年(159年)、益州・蜀郡の三襄夷が蚕陵城(蚕陵県)を攻撃して長吏を殺害しました。
延熹4年(161年)、益州・犍為属国の夷が郡界を荒らしましたが、益州刺史の山昱が三襄夷を撃破して1,400級を斬首し、残りの者たちはすべて解放しました。
【後漢】霊帝期
後漢・霊帝の光和元年(184年)、霊帝は蜀郡属国を漢嘉郡としましたが、中平5年(188年)にまた蜀郡属国に戻しました。
莋都夷と中国の関係年表
西暦 |
出来事 |
B.C.111年 |
■前漢・武帝の元鼎6年
- 武帝が莋都夷の居住地を沈黎郡とする。
|
B.C.97年
|
■前漢・武帝の天漢4年
- 沈黎郡を蜀郡に併合し、西部として2つの都尉を置く。
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58年
〜
75年 |
■後漢・明帝の永平年間
- 益州刺史の朱輔(硃輔)がその威信により遠方の夷人まで懐かせる。
- 益州・汶山郡より西の白狼、槃木、唐菆ら百余国が臣僕となる。
- 朱輔(硃輔)が夷人の「楽詩」を奉り、明帝が史官に下してその歌を記録させる。
|
76年頃 |
■後漢・章帝の建初元年頃
- 後漢・章帝の初め、益州刺史の朱輔(硃輔)が事件に連座して罷免される。
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100年 |
■後漢・和帝の永元12年
- 益州・蜀郡属国・旄牛県の国境外(徼外)の白狼・楼薄の蛮夷の王・唐繒らが内属(服属)する。
- 和帝が詔を下して金印紫綬を下賜し、小豪にはそれぞれ差をつけて銭帛を与える。
|
107年 |
■後漢・安帝の永初元年
- 益州・蜀郡の三襄種の夷が国境外(徼外)の汗衍種(污衍種)と共に反乱を起こし、蚕陵城(蚕陵県)を攻撃して長吏を殺害する。
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108年 |
■後漢・安帝の永初2年
- 青衣道夷*2の邑長・令田が国境外(徼外)の3種夷と共に、黄金・旄牛(ヤク)の毦*3をもたらし、土地を挙げて内属(服属)する。
- 安帝が令田に爵号を加えて奉通邑君とする。
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123年 |
■後漢・安帝の延光2年
- 春、旄牛夷*4が反乱を起こして益州・越巂郡・霊関道を攻撃し、長吏を殺害する。
- 益州刺史の張喬が西部都尉と共に旄牛夷*4を撃破する。
- 安帝が蜀郡属国都尉を分置し、4県を管轄させる。
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156年 |
■後漢・桓帝の永寿2年
- 蜀郡夷が反乱を起こし、吏民を殺害して略奪する。
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159年 |
■後漢・桓帝の延熹2年
- 益州・蜀郡の三襄夷が蚕陵城(蚕陵県)を攻撃して長吏を殺害する。
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161年 |
■後漢・桓帝の延熹4年
- 益州・犍為属国の夷が郡界を荒らす。
- 益州刺史の山昱が三襄夷を撃破して1,400級を斬首し、残りの者たちはすべて解放する。
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184年 |
■後漢・霊帝の光和元年
- 霊帝が蜀郡属国を漢嘉郡とする。
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188年 |
■後漢・霊帝の中平5年
- 霊帝が漢嘉郡を蜀郡属国に戻す。
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脚注
*2益州・蜀郡属国・青衣道(漢嘉県)の夷。
*3毛を結んで飾りとしたもの。
*4益州・蜀郡属国・旄牛県の夷。
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【後漢・三国時代の異民族】目次