後漢・三国時代の異民族の内、西南夷に分類される邛都夷についてまとめています。
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邛都夷
邛都夷の領域
邛都夷
邛都夷とは、前漢の武帝が開拓した地域に居住する夷人で、武帝はその地に邛都県を置きました。
県を置いてから程なくして、地面が陥没して汚沢となったので、それにちなんで邛池と名づけ、南人のは邛河と呼びました。
風土・風俗
風土
- その土地は平原であり、稲田があります。
- 青蛉県の禺同山では時々、碧鶏金馬の光景が出現します。
風俗
- 道楽者が多く、声を揃えて歌うことを喜ぶ様子は、牂柯郡(夜郎国)と似ています。
- 勢力のある渠帥は勝手気ままで制御することが困難です。
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邛都夷の歴史
邛都夷と中国の関係
【前漢】武帝期
後に邛都夷は再び反乱を起こし、元鼎6年(紀元前111年)に漢の兵が巂水を渡って邛都夷を討伐したことにより、この地を越巂郡としました。
【新】王莽期
王莽の時代、越巂太守の枚根は、邛人の長貴を選んで軍候[軍の斥候(偵察兵)]としました。
【漢】更始帝期
更始帝の更始2年(24年)、邛人の長貴が種族の人々を率いて枚根を攻め殺し、自立して邛穀王となりました。長貴は越巂太守の職務を兼任し、その後公孫述に降伏します。
【後漢】光武帝期
公孫述が敗れると、光武帝は長貴を邛穀王に封じました。
後漢・光武帝の建武14年(38年)、長貴が使者を派遣して3年間の会計報告を上奏すると、光武帝は長貴に越巂太守の印綬を授けました。
建武19年(43年)、武威将軍の劉尚が益州夷を攻撃した時、越巂郡に立ち寄りました。
そのことを聞いた長貴は、
「このまま劉尚が南の辺境を平定すれば、必ず厳格な法令が施行され、自分の好き勝手に振る舞えなくなるのではないか」
との疑念を持ち、兵を集めて営台を建て、君長たちを招集しました。
そこで長貴は、たくさんの毒酒を醸造して劉尚の軍を慰労し、(毒が回ったところで)劉尚を襲撃しようとします。
この謀略を察知した劉尚はすぐに兵を分け、先手を打って邛都県を占拠すると、長貴を誅殺してその家族を成都県に移しました。
【後漢】明帝期
後漢・明帝の永平元年(58年)、姑復夷が再び反乱を起こすと、益州刺史がこれを討伐して撃ち破り、渠帥を斬ってその首を京師[洛陽(雒陽)]に送りました。
越巂太守・張翕
その後、益州・巴郡出身の越巂太守・張翕は、その政治が清廉・公平であることから、夷人たちの信頼を得ていましたが、越巂郡に在任して17年で亡くなりました。
夷人たちは張翕を愛慕していたので、その悲しみようはまるで父母を喪ったかのようで、蘇祈県の叟(老爺)2百人余りが牛と羊を捧げて送喪し、張翕の本籍の益州・巴郡・安漢県に至ると、そこに墳墓を立てて祭祀を行いました。
また、詔書が下され、張翕を称えて、彼のために祠堂を建立させました。
【後漢】安帝期
後漢・安帝の元初3年(116年)、越巂郡の国境外(徼外)の夷・大羊ら8種族・31,000戸、167,620人が、後漢の義を慕って内属(服属)しました。
当時、郡県の租税が煩雑な上に、徴収が頻繁に行われていました。
元初5年(118年)、卷夷(巻夷)の大牛種・封離らが反乱を起こし、遂久県令を殺害します。
翌年の元初6年(117年)、永昌郡、益州郡、蜀郡の夷がみな離反して封離らに呼応し、その軍勢はついに10余万人となりました。封離らは20県余りを破壊し、長吏を殺害して邑郭を焼き払い、民に略奪を働いたので、辺り一面に骸骨が積み重なり、千里(約430km)に渡って人影がなくなってしまいます。
これに安帝は益州刺史の張喬に詔を下し、「有能な従事を選んで封離らを討伐する」ように命じました。
そこで張喬は従事の楊竦を派遣して益州・永昌郡・楪楡県の封離らを攻撃させようとしますが、賊の勢いが盛んなためめ楊竦は敢えて進まず、離反した3郡に詔書を告示して秘かに武士を徴集し、その賞金を重くします。
その後楊竦は軍を進めて封離らを大いに撃ち破り、3万余級を斬首し、生口(奴隷)1,500人、財物4千余万を獲得し、その悉くを兵士に褒賞として与えました。
封離らは怖れ、共謀した渠帥たちを斬って楊竦の元に出頭し、降伏を願い出ます。楊竦がこれを手厚く慰撫して降伏を受け容れると、その他の36種族もみなやって来て降伏し帰順します。
その後楊竦は、蛮夷を侵犯した狡猾な長吏90人を上奏しましたが、みな死一等を減ぜられました。
楊竦は、州内の論功行賞が天子(安帝)に届く前に傷を病んで亡くなり、益州刺史の張喬は彼の死を痛惜(非常に惜しむこと)して、石に銘を刻んで功績を記録し、その像を描かせました。
天子は、越巂太守の張翕に仁愛の遺風があるとして、その子・張湍を越巂太守に取り立てました。
夷人たちは歓喜し、道に出て張湍を奉迎して「若君の容貌は、我らが府君(張翕)にそっくりだ」と言いました。
後に張湍は夷人たちの人心を失い、反乱を起こそうとする者もいましたが、諸夷の長老たちは互いに諭して「前の府君(張翕)の恩顧のために我慢すべきである」と語り、どうにか安定を保つことができました。
【後漢】順帝・桓帝期
後に順帝・桓帝の時代[延光4年(125年)〜永康元年(167年)]に越巂太守となった広漢郡出身の馮顥は、政治・教化において非常に優れた事跡が多かったという。
邛都夷と中国の関係年表
西暦 |
出来事 |
B.C.111年 |
■前漢・武帝の元鼎6年
- 邛都夷が再び反乱を起こす。
- 漢の兵が巂水を渡って邛都夷を討伐する。
- 邛都夷の地を越巂郡とする。
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不明
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■新・王莽期
- 越巂太守の枚根が、邛人の長貴を軍候[軍の斥候(偵察兵)]とする。
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24年 |
■漢・更始帝の更始2年
- 邛人の長貴が種族の人々を率いて枚根を攻め殺し、自立して邛穀王となる。
- 長貴が越巂太守の職務を兼任する。
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不明 |
- 長貴が公孫述に降伏する。
- 公孫述が敗れる。
- 光武帝が長貴を邛穀王に封じる。
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38年 |
■後漢・光武帝の建武14年
- 長貴が使者を派遣して3年間の会計報告を上奏する。
- 光武帝が長貴に越巂太守の印綬を授ける。
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43年 |
■後漢・光武帝の建武19年
- 武威将軍の劉尚が益州夷を攻撃し、越巂郡に立ち寄る。
- 長貴が劉尚襲撃を企む。
- 長貴の謀略を察知した劉尚が、長貴を誅殺してその家族を成都県に移す。
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58年 |
■後漢・明帝の永平元年
- 姑復夷が再び反乱を起こす。
- 益州刺史がこれを討伐して撃ち破り、渠帥を斬ってその首を洛陽(雒陽)に送る。
- 越巂太守・張翕が夷人たちの信頼を得る。
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116年 |
■後漢・安帝の元初3年
- 越巂郡の国境外(徼外)の夷・大羊らが、後漢に内属(服属)する。
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118年 |
■後漢・安帝の元初5年
- 卷夷(巻夷)の大牛種・封離らが反乱を起こし、遂久県令を殺害する。
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119年 |
■後漢・元初6年
- 永昌郡、益州郡、蜀郡の夷がみな離反して封離らに呼応する。
- 安帝が益州刺史の張喬に「反乱討伐」の詔を下す。
- 従事の楊竦が封離らを大いに撃ち破る。
- 封離らが降伏し、その他の36種族もみな降伏・帰順する。
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不明 |
- 張翕の子・張湍が越巂太守に取り立てられ、夷人たちが歓喜する。
- 張湍が夷人たちの人心を失う。
- 諸夷の長老たちが反乱を起こさないように諭して安定が保たれる。
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121年
〜
167年 |
■後漢・順帝・桓帝期(延光4年〜永康元年)
- 越巂太守となった馮顥は、政治・教化において非常に優れた事跡を残す。
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【後漢・三国時代の異民族】目次