後漢ごかん・三国時代の異民族の内、西南夷せいなんいに分類される哀牢夷あいろういについてまとめています。

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哀牢夷

哀牢夷

哀牢夷あいろうい

哀牢夷の紀元

龍の子・九隆きゅうりゅう

牢山ろうざんに名を沙壱さいつ沙壹さいつ)という婦人が住んでいました。

かつて沙壱さいつ沙壹さいつ)が川で魚をつかまえようとしていた時のこと。川にしずんでいた木にれた時に何かを感じました。沙壱さいつ沙壹さいつ)はこれが原因で懐妊かいにんし、10ヶ月後に10人の男子を産みました。

それから数年がつと、しずんでいた木が変化して龍となり、突然水上に出て、


「そなたは私のために子を生んだ。今、すべての子供たちはどこにいるのか」


と語り始めました。

10人の子のうち9人の子らは龍を見て驚いて逃げ出しましたが、すえの子だけは逃げることができず、龍に背を向けて座ったところ、龍はすえの子の体をめました。母が話す鳥語ちょうご(異民族の言葉)では「背」のことを「九」と言い、「座」のことを「隆」と言うため、この出来事にちなんですえの子を「九隆きゅうりゅう」と名づけました。

のち九隆きゅうりゅうが成長すると、兄たちは九隆きゅうりゅうが父(龍)にめられ、聡明であることから、みなで推戴しておうとします。


その後、牢山ろうざんふもとにいた1組の夫婦が10人の女子を産み、九隆きゅうりゅうの兄弟はみな10人の姉妹をめとって妻としました。こうして次第に子孫が増えていきました。

九隆きゅうりゅうが亡くなるとその子孫がおうの位を継承し、各地に小王しょうおうを配置して集落を形成して渓谷けいこくのあちこちに散らばって住みました。

哀牢夷あいろういの居住地は遠く離れた未開の地であり山や川は険阻だったので、人が生まれて以来、いまだかつて中国と往来したことがありませんでした。

豆知識

哀牢伝あいろうでんに、

九隆きゅうりゅうより代々あいつたえ、名号めいごう(名称)は数え切れないが、禁高きんこうの代に至ってようやく記録によって知ることができる。禁高きんこうが死ぬと子のきゅうが代わり、きゅうが死ぬと子の建非けんひが代わり、建非けんひが死ぬと子の哀牢あいろうが代わり、哀牢あいろうが死ぬと子の桑藕そうぐうが代わり、桑藕そうぐうが死ぬと子の柳承りゅうしょうが代わり、柳承りゅうしょうが死ぬと子の柳貌りゅうぼうが代わり、柳貌りゅうぼうが死ぬと子の扈栗こりつが代わった」

とあります。

風俗

風土

  • その土地は肥沃ひよくで美しく、五穀ごこくの栽培と蚕桑さんそう養蚕ようさん)に適しています。
  • 哀牢あいろうの地域の竹のふしは、長さが1じょう(2.31m)あり、これを「濮竹ぼくちく」と言います。
  • 銅・鉄・なまりすず・金・銀・光珠こうしゅ*1虎魄こはく琥珀こはく)・水精すいしょう水晶すいしょう)・琉璃るり瑠璃るり)・軻蟲かちゅう(虫入りの琥珀こはく、または貝類)・蚌珠ぼうしゅどぶがいかられる真珠)・孔雀くじゃく翡翠ひすいさいぞう猩猩しょうじょう*2貊獣はくじゅう*3を産出します。
  • 益州えきしゅう永昌郡えいしょうぐん雲南県うんなんけんに両頭の神鹿がいて、好んで毒草を食べます。

風習

  • 哀牢夷あいろういの人間はみな身体に龍をかたどった文様をきざみ、衣服にはすべて尾の装飾をつけていました。
  • 哀牢夷あいろういはみな耳と鼻に穴を開け、耳をらしており、その渠帥きょすいおうを自称する者の耳は、いずれも肩下3寸(約6.93cm)ほどれ下がり、庶民は肩に届く程度にれ下がっています。
  • 布を鮮やかに染め、美しい刺繍ししゅうを入れる方法を知っており、罽毲けいたつ(フェルトの織物)や帛畳はくじょう(木綿の織物)、蘭干らんかんいちびの粗布)や細布さいふ(細い麻糸などで織った上質の布)に綾錦あやにしきのようにいろどり豊かな文様を織りなしていました。
  • 梧桐ごとう青桐あおぎり)の木の花*4つむいで幅5尺(約115.5cm)の布を作り、その布は純白で汚れを受けつけません。先にその布で亡くなった人をおおい、その後でそれを身につけました。
脚注

*1博物志はくぶつしに「光珠こうしゅ紅珠こうしゅ琥珀こはくの異名または真珠)のことである」とある。

*2古代中国の想像上の動物。水経注すいきょうちゅうに「猩猩しょうじょうは形が犬のようで人面をしている。顔立ちは端正であり、人と言葉をわすことができ、その声は妙麗みょうれいで、婦人が対話しているようである。これを聞いて悲しまない者はいない」とあり、また南中志なんちゅうしに「酒と藁靴わらぐつを好む」とある。現在では一般にオランウータンの別名とされる。

*3南中八郡志なんちゅうはちぐんしに「はくの大きさはろばのようで、その形状はとてもくまに似ている。力が強く、鉄をらい、触れたところはみなくだけた」とある。また広志こうしに「はくの色は蒼白であり、その皮は温かい」とある。

*4広志こうしに「梧桐ごとう青桐あおぎり)には白いものがある。剽国ひょうこく桐木きりのきがあり、その花には白いむくげがあり、そのむくげを取って清水にひたし、つむぎ織って布を作る」とある。


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哀牢夷の歴史

哀牢夷と中国の関係

後漢ごかん光武帝こうぶてい

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ23年(47年)、哀牢あいろうおう賢栗けんりつ賢慄けんりつ)は兵を派遣して(竹製の)箄船いかだに乗り、南の長江ちょうこう漢水かんすいを下って辺境の鹿茤ろくたを攻撃させました。

鹿茤ろくたの人々は弱く、みな生け捕りにしましたが、突然雷がとどろいて激しい雨が降り、南風が巻き起こったかと思うと、川の水が逆流して2百余里(約86km)にわたってあふれ返り、箄船いかだが沈没して哀牢あいろう軍・数千人が溺死できししてしまいます。

その後賢栗けんりつ賢慄けんりつ)は、再び配下の6人のおうに1万人をひきいさせて鹿茤ろくたを攻めさせますが、鹿茤王ろくたおうはこれを迎え撃ち、6人のおうを討ち取りました。

哀牢あいろうの長老たちは6人のおう埋葬まいそうしましたが、夜に虎が6人のおうの遺体を掘り返してらったため、残りの兵は驚きおそれて引き退いてしまします。

賢栗けんりつ賢慄けんりつ)は恐れおののき、その長老たちに、


「我が一族は辺境に入り、昔からここに住んでいた。今、鹿茤ろくたを攻めるも天誅てんちゅうこうむった。これは中国に聖帝がいるのではなかろうか。天が聖帝を助けているのは明らかではないかっ!」


と言いました。


建武けんぶ27年(51年)、賢栗けんりつ賢慄けんりつ)らはついに種族の2,770戸、17,659人をひきいて越巂太守えっすいたいしゅ鄭鴻ていこうの元に来て降伏し、内属(服属)することを求めました。

光武帝こうぶてい賢栗けんりつ賢慄けんりつ)らを君長くんちょうとし、以降、哀牢あいろうは毎年朝貢にやって来るようになります。

後漢ごかん明帝めいてい

後漢ごかん明帝めいてい永平えいへい12年(69年)、哀牢王あいろうおう柳貌りゅうぼうが子をつかわし種族の人々をひきいて内属(服属)しました。その内訳は邑王ゆうおうを称する者・77人、51,890戸、553,711人でした。

顕宗けんそう明帝めいてい)は洛陽らくよう雒陽らくよう)から西南に7千里(約3,010km)離れた地に哀牢県あいろうけん博南県はくなんけんの2県を置き、益州郡えきしゅうぐん西部都尉せいぶとい*5の所領する6県*6き、合わせて永昌郡えいしょうぐんとしました。

初めて博南山はくなんざんを開通し、蘭倉水らんそうすいを渡った*7が、行く人々は蘭倉水らんそうすいに苦しみ、


かんの徳は広く、服従しなかったところが開かれた。博南山はくなんざんを越え蘭津らんしんを渡る。(しかし)蘭倉水らんそうすいを渡ると、(漢人かんじんではなく)他人となる」


と歌いました。


これより先、益州えきしゅう広漢郡こうかんぐん出身の益州郡えきしゅうぐん西部都尉せいぶとい*5鄭純ていじゅんは清潔な政治を行い、その教化は夷貊いはく哀牢夷あいろうい)に広く行き渡りました。(哀牢夷あいろういの)君長くんちょうは感服して鄭純ていじゅんしたい、みなが土地の珍品を献上し、その徳の素晴らしさを称えました。天子てんしはこれをめ称え、すぐに鄭純ていじゅん永昌太守えいしょうたいしゅとします。

鄭純ていじゅん哀牢夷あいろういの人々と約束し、ゆう(村)の豪族は毎年あさ貫頭衣かんとうい2りょうと塩1こく(約20ℓ)を納めることとし、これらを通常のとしたので、これにより夷俗いぞく哀牢夷あいろうい)は安堵あんどしました。鄭純ていじゅん益州郡えきしゅうぐん西部都尉せいぶとい*5永昌太守えいしょうたいしゅとなってから10年して亡くなりました。

脚注

*5古今注ここんちゅうに「永平えいへい10年(67年)、益州えきしゅう西部都尉せいぶといを置き、巂唐県すいとうけんに(治所を)置いた」とある。

*6続漢書ぞくかんじょ郡国ぐんこく5に「6県とは不韋県ふいけん巂唐県すいとうけん比蘇県ひそけん楪楡県ようゆけん邪龍県じゃりゅうけん雲南県うんなんけんを言う」とある。

*7華陽国志かようこくし南中志なんちゅうしに「博南県はくなんけんの西の山は高さ30里(約12,900m?)であり、これを越え蘭倉水らんそうすいを渡る」とある。(エベレストの標高は8848.86m

後漢ごかん章帝しょうてい

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ元年(76年)、哀牢王あいろうおう類牢るいろう守令しゅれい県令けんれい)と争い、ついに守令しゅれい県令けんれい)を殺害して反乱を起こしました。類牢るいろう巂唐県すいとうけんを攻撃すると、永昌太守えいしょうたいしゅ王尋おうじん楪楡県ようゆけんに逃亡します。

その後、哀牢夷あいろういの3千人余りが博南県はくなんけんを攻めて民家を焼き払うと、粛宗しゅくそう章帝しょうてい)は越巂郡えっすいぐん益州郡えきしゅうぐん永昌郡えいしょうぐん漢人かんじん9千人をつのってこれを討伐させました。


翌年の建初けんしょ2年(77年)春、邪龍県じゃりゅうけん昆明夷こんめいい鹵承ろしょうらが種族の人々をひきいて募兵に応じ、諸郡の兵と共に博南県はくなんけん類牢るいろうを大いに撃ち破り、類牢るいろうを斬ってその首を洛陽らくよう雒陽らくよう)に送りました。

粛宗しゅくそう章帝しょうてい)は鹵承ろしょうきぬ1万匹を下賜かしし、破虜傍邑侯はりょぼうゆうこうに封じました。

後漢ごかん和帝わてい

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん6年(94年)、永昌郡えいしょうぐんの国境外(徼外きょうがい)にある敦忍乙国とんじんいつこくおう莫延ばくえんかんの徳をしたい、使者と通訳を派遣して犀牛さいぎゅう大象おおぞうを献上しました。


永元えいげん9年(97年)、国境外(徼外きょうがい)のばん撣国せんこくおう雍由調ようゆうちょうが、通訳を何度も介して国の珍宝を献上しました。これに和帝わてい雍由調ようゆうちょう金印紫綬きんいんしじゅ下賜かしし、小君長しょうくんちょうにはみな印綬いんじゅと銭・きぬおくりました。


後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年(107年)、国境外(徼外きょうがい)の焦僥種しょうぎょうしゅ僬僥種しょうぎょうしゅ)の陸類りくるいら3千人余りが種族をげて内属(服属)し、象牙ぞうげ水牛すいぎゅう封牛こぶうしを献上しました。


後漢ごかん安帝あんてい永寧えいねい元年(120年)、撣国王せんこくおう雍由調ようゆうちょうが再びけつ(宮城)に使者を派遣して朝賀し、楽人がくじん幻人げんじん奇術師きじゅつし)を献上します。

この幻人げんじん奇術師きじゅつし)は、変身して火をき、みずか四肢ししをバラバラにして牛や馬の頭と取りえることができました。またジャグリングにたくみで、その回数は千回を越えました。

撣国せんこくは西南が大秦だいしん(ローマ帝国)に通じており、幻人げんじん奇術師きじゅつし)はみずからを「海西かいせいじん大秦だいしん(ローマ帝国)じん]である」と言いました。

翌年の永寧えいねい2年(121年)、安帝あんていは元旦の朝会において彼らに宮廷で音楽を演奏させると、雍由調ようゆうちょう漢大都尉かんだいといに封じ、その他の者には身分に応じて印綬いんじゅ・金銀・彩繒あやぎぬ下賜かししました。

哀牢夷と中国の関係年表

西暦 出来事
47年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ23年

  • 哀牢王あいろうおう賢栗けんりつ賢慄けんりつ)が辺境の鹿茤ろくたを攻撃する。
  • 賢栗けんりつ賢慄けんりつ)が鹿茤王ろくたおうに敗れる。

51年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ27年

  • 哀牢王あいろうおう賢栗けんりつ賢慄けんりつ)が種族をひきいて越巂太守えっすいたいしゅ鄭鴻ていこうの元に来て降伏し、内属(服属)することを求める。
  • 光武帝こうぶてい賢栗けんりつ賢慄けんりつ)らを君長くんちょうとする。
  • 以降、哀牢あいろうは毎年朝貢にやって来るようになる。
不明

後漢ごかん明帝めいてい永平えいへい10年(67年)以降

  • 哀牢夷あいろうい益州郡えきしゅうぐん西部都尉せいぶとい*5鄭純ていじゅんしたたたえる。
  • 顕宗けんそう明帝めいてい)が鄭純ていじゅんたたえ、永昌太守えいしょうたいしゅとする。
69年

後漢ごかん明帝めいてい永平えいへい12年

  • 哀牢王あいろうおう柳貌りゅうぼうが子をつかわし、種族をひきいて内属(服属)する。
  • 哀牢県あいろうけん博南県はくなんけん益州郡えきしゅうぐん西部都尉せいぶとい*5の6県*6き、合わせて永昌郡えいしょうぐんとする。
  • 漢人かんじんが初めて博南山はくなんざんを越え蘭倉水らんそうすいを渡った。
76年

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ元年

  • 哀牢王あいろうおう類牢るいろう守令しゅれい県令けんれい)を殺害して反乱を起こす。
  • 類牢るいろう巂唐県すいとうけんを攻撃すると、永昌太守えいしょうたいしゅ王尋おうじん楪楡県ようゆけんに逃亡する。
  • 哀牢夷あいろういの3千人余りが博南県はくなんけんを攻めて民家を焼き払う。
  • 章帝しょうてい越巂郡えっすいぐん益州郡えきしゅうぐん永昌郡えいしょうぐん漢人かんじん9千人をつのって類牢るいろうをを討伐させる。
77年

後漢ごかん章帝しょうてい建初けんしょ2年春

  • 邪龍県じゃりゅうけん昆明夷こんめいい鹵承ろしょうらが種族をひきいて募兵に応じる。
  • 鹵承ろしょうらが諸郡の兵と共に博南県はくなんけん類牢るいろうを大いに撃ち破り、類牢るいろうを斬ってその首を洛陽らくよう雒陽らくよう)に送る。
  • 章帝しょうてい鹵承ろしょうきぬ1万匹を下賜かしし、破虜傍邑侯はりょぼうゆうこうに封じる。
94年

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん6年

  • 永昌郡えいしょうぐんの国境外(徼外きょうがい)にある敦忍乙国とんじんいつこくおう莫延ばくえんかんの徳をしたい、使者と通訳を派遣して犀牛さいぎゅう大象おおぞうを献上する。
97年

後漢ごかん和帝わてい永元えいげん9年

  • 国境外(徼外きょうがい)のばん撣国せんこくおう雍由調ようゆうちょうが、通訳を何度も介して国の珍宝を献上する。
  • 和帝わてい雍由調ようゆうちょう金印紫綬きんいんしじゅ下賜かしし、小君長しょうくんちょうにはみな印綬いんじゅと銭・きぬおくる。
107年

後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年

  • 国境外(徼外きょうがい)の焦僥種しょうぎょうしゅ僬僥種しょうぎょうしゅ)の陸類りくるいら3千人余りが種族をげて内属(服属)し、象牙ぞうげ水牛すいぎゅう封牛こぶうしを献上する。
120年

後漢ごかん安帝あんてい永寧えいねい元年

  • 撣国王せんこくおう雍由調ようゆうちょうが再びけつ(宮城)に使者を派遣して朝賀し、楽人がくじん幻人げんじん奇術師きじゅつし)を献上する。
121年

後漢ごかん安帝あんてい永寧えいねい2年

  • 安帝あんていが元旦の朝会で撣国せんこく楽人がくじんに宮廷で音楽を演奏させる。
  • 安帝あんてい雍由調ようゆうちょう漢大都尉かんだいといに封じ、その他の者には身分に応じて印綬いんじゅ・金銀・彩繒あやぎぬ下賜かしする。
脚注

*5古今注ここんちゅうに「永平えいへい10年(67年)、益州えきしゅう西部都尉せいぶといを置き、巂唐県すいとうけんに(治所を)置いた」とある。

*6続漢書ぞくかんじょ郡国ぐんこく5に「6県とは不韋県ふいけん巂唐県すいとうけん比蘇県ひそけん楪楡県ようゆけん邪龍県じゃりゅうけん雲南県うんなんけんを言う」とある。


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【後漢・三国時代の異民族】目次