後漢(ごかん)・三国時代の異民族の内、東夷(とうい)に分類される高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))についてまとめています。

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高句麗(高句驪・句麗)

高句麗の領域・戸数

高句麗(高句驪・句麗)

高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))


高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))は、幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)から千里(約430km)の場所にあり、

  • 南は朝鮮(ちょうせん)・濊貊(わいばく)
  • 東は沃沮(よくそ)
  • 北は夫余国(ふよこく)(夫餘国(ふよこく)・扶餘国(ふよこく)・扶余国(ふよこく))

と境を接しています。

丸都山(がんとざん)の麓(ふもと)に都を置き、その領域は2千里四方、戸数は3万戸ほどでした。

属国

高句麗(こうくり)の民衆たちは意気盛んで戦闘に慣れており、

  • 沃沮(よくそ)
  • 東濊(とうわい)

はみな高句麗(こうくり)の支配下にありました。

小水貊(しょうすいばく)

高句麗(こうくり)は国を建てる時、大河の側(そば)に都を定めましたが、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)・西安平県(せいあんぺいけん)の北に「南に流れて海に注(そそ)ぐ小さな川(小水)」があって、句麗(くり)(高句麗(こうくり))の別種がこの小さな川の側(そば)に国を建てました。

高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))は別名を「貊(ばく)」と言い、その別種が小さな川(小水)に拠(よ)って国を建てたことから、彼らのことを「小水貊(しょうすいばく)」と言いました。

小水貊(しょうすいばく)は、「貊弓(ばくきゅう)」と呼ばれる軽い弓を産出します。

統治・風土・風俗

統治

統治制度
  • 高句麗(こうくり)には王(おう)がおり、
    • 相加(そうか)
    • 対盧(たいろ)
    • 沛者(はいしゃ)
    • 古雛加(こすうか)
    • 主簿(しゅぼ)
    • 優台丞(ゆうたいじょう)
    • 使者(ししゃ)
    • 皁衣先人(そういせんじん)

と呼ばれる官職があって、尊卑にそれぞれ等級があります。

  • 対盧(たいろ)が置かれている時には沛者(はいしゃ)は置かれず、沛者(はいしゃ)が置かれている時には対盧(たいろ)は置かれません。
  • 王(おう)の宗族や大加(たいか)の官にある者は、みな古雛加(こすうか)と呼ばれます。
  • 大加(たいか)の官にある者たちは、それぞれの配下に使者(ししゃ)や皁衣先人(そういせんじん)の官を置いており、その官についている者たちの名はすべて王(おう)の元に通知されます。それはちょうど、中国の卿大夫(けいたいふ)がそれぞれに持つ家臣のようなもので、会同の場に同席する時には王家の使者(ししゃ)や皁衣先人(そういせんじん)と同列に並ぶことはできません。
  • 大加(たいか)や主簿(しゅぼ)は頭に幘(さく)をつけます。その幘(さく)は中国の冠幘(かんさく)に似ていますが、後頭部があいています。
  • 小加(しょうか)(小官)は折風(せっぷう)をつけますが、その形は中国の弁冠(べんかん)に似ています。
  • 都に居住する豪族たちは1万人以上もいて、田畑で働くことはせず、下戸(かこ)(身分の低い者)たちが遠くから米などの食糧や魚、塩を担(かつ)いできて彼らに納(おさ)めています。
部族
  • 人々の性格は荒々しく短気で、好んで侵入・略奪を働きます。
  • 東夷(とうい)たちの古くからの言い伝えによると、夫余(ふよ)の別種とされ、言葉やその他多くの点について夫余(ふよ)と同じですが、その性格・気質と衣服については違いがあります。
  • 高句麗(こうくり)には、
    • 涓奴部(けんどぶ)(消奴部(しょうどぶ))
    • 絶奴部(ぜつどぶ)
    • 順奴部(じゅんどぶ)
    • 灌奴部(かんどぶ)
    • 桂婁部(けいろうぶ)

の5つの部族がおり、元々は涓奴部(けんどぶ)(消奴部(しょうどぶ))から王(おう)が立てられていましたが、次第に勢力を失い、後に桂婁部(けいろうぶ)が代わって王(おう)を立てるようになりました。

涓奴部(けんどぶ)(消奴部(しょうどぶ))
  • 涓奴部(けんどぶ)(消奴部(しょうどぶ))が元々の支配者であったことから、彼らの内の正統を継ぐ大人(たいじん)は古雛加(こすうか)を称することができ、また宗廟(そうびょう)を立て、霊星や社稷(しゃしょく)の祭祀(さいし)を行うことができます。
絶奴部(ぜつどぶ)
  • 絶奴部(ぜつどぶ)は、代々王家と通婚しているため、涓奴部(けんどぶ)(消奴部(しょうどぶ))と同様に古雛加(こすうか)の称号を与えられています。
刑罰
  • 牢獄はなく、罪人が出た時には加官(かかん)の者たちが評議した後にすぐさま死刑を執行し、その妻子を没収して奴婢(ぬひ)とします。

風土

  • 高い山や深い谷が多く、平原や沢(さわ)はありません。山や谷の地形を利用して住居を構え、谷川の水で生活をしています。
  • 良田はなく、努力して耕作しても自分の生活を維持するだけの食糧は収穫できません。そのため、食物を倹約して生活していますが、その一方で宮殿や住居を建築・改修することを好みます。
  • この国の馬はみな小柄で、山を登ることに慣れています。

風俗

祭祀
  • 居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神にお供(そな)え物をし、また、星祭りや社稷(しゃしょく)(土地神と穀神(こくしん))の祭礼を行います。
  • 10月には、都で東盟(とうめい)と呼ばれる「天を祭る大集会」が開かれます。
  • 高句麗(こうくり)の東部には隧穴(すいけつ)(禭穴(すいけつ))と呼ばれる大きな穴があって、10月になると人々が大勢都に集まって隧神(すいしん)(禭神(すいしん))を迎え降ろし、都の東の郊外にある水の畔(ほとり)にお遷(うつ)しして祭祀(さいし)を行い、その時、木製の隧神(すいしん)(禭神(すいしん))を神座に据(す)えます。
風習
  • 高句麗(こうくり)の習俗(しゅうぞく)(習慣や風俗)は淫(みだ)らで、都や各地の邑落(ゆうらく)(村落)では、夕暮れになると男女が群がって淫(みだ)らな音楽をかき鳴らし、一緒に歌ったり遊んだりします。
  • 大きな倉庫はなく、家ごとにそれぞれ「桴京(ふけい)」と呼ばれる小さな倉があり、みなきれい好きで酒醸(づく)り(蔵醸)に巧(たく)みです。
  • 公(おおやけ)の集まりがある時には、人々は錦繍(きんしゅう)(錦(にしき)の刺繍(ししゅう))が施(ほどこ)された着物を着て、金銀の装飾品で身を飾(かざ)ります。
  • 跪拝(きはい)(跪(ひざまず)いて上半身を前に屈(かが)めて敬意を表すること)する際には片足を後ろに引き、歩く際にはみな小走りになります。
婚礼
  • 言葉で婚約をすると、女性の家では母屋(おもや)の後ろに婿屋(むこや)と呼ばれる小屋を建てます。
  • 婿(むこ)になる男性が夕方になって女性の家にやって来ると、戸外で名を名乗り跪拝(きはい)をして「女性の元で夜を過ごしたい」と願い、これが何度か繰り返されてから、娘の父母が許して小屋の中に泊まらせます。
  • 一緒に住むようになると同時に、金銭や帛(きぬ)の貯蓄をし、生まれた子供が大きくなってから、妻を連れて男の家に帰ります。
葬礼
  • 男女は結婚するとすぐ、少しずつ葬礼のための衣服を揃(そろ)え始めます。
  • 埋葬(まいそう)の礼は盛大で、金銀財貨は葬礼(そうれい)のために使い尽くされます。
  • 石を積んで墳丘(ふんきゅう)を作り、松や柏(かしわ)を並べて植えます。

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高句麗(高句驪・句麗)の歴史

高句麗と中国の関係

【前漢(ぜんかん)】武帝(ぶてい)期

元封(げんほう)3年(紀元前108年)夏、前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)は衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼすと、高句麗(こうくり)を県として幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に属させて、鼓吹(こすい)(楽隊)や伎人(ぎじん)(芸人)を下賜(かし)しました。

以降、高句麗(こうくり)の使者はいつも玄菟郡(げんとぐん)にやって来て朝服(ちょうふく)や衣幘(いさく)を授(さず)かり、前漢(ぜんかん)の高句麗令(こうくりれい)が彼らの名簿を扱っていました。

ですが、次第に傲慢(ごうまん)になって郡の役所までは出向かなくなり、東の境界に幘溝漊(さくこうろう)と呼ばれる小城を築(きず)いて朝服(ちょうふく)や衣幘(いさく)を置いておき、年ごとあるいは季節ごとにそこに取りに来るようになりました。溝漊(こうろう)とは、句麗(くり)(高句麗(こうくり))の言葉で城を意味します。

【新(しん)】王莽(おうもう)期

句麗侯・騊

王莽(おうもう)の時代の初め[新(しん)の初始(しょし)元年(8年)]、王莽(おうもう)は高句麗(こうくり)の兵を動員して胡(こ)(匈奴(きょうど))を伐(う)とうとしましたが、高句麗(こうくり)は動員に応じようとしませんでした。

そこで脅迫して強制的に動員したところ、みな長城の外に逃亡して略奪を働くようになり、これを追って攻撃した遼西大尹(りょうせいたいいん)・田譚(でんたん)は返り討ちに遭(あ)って戦死してしまいます。

これに州・郡・県の役所が揃(そろ)ってその罪を句麗侯(くりこう)の騊(とう)に着せようとすると、厳尤(げんゆう)が上奏して言いました。


「貊(ばく)(高句麗(こうくり))の人々が法に背(そむ)きましたが、その罪は騊(とう)の発意によるものではありません。ここは一(ひと)先(ま)ず(高句麗(こうくり)を)安慰(あんい)されますように。今みだりに大罪として処分を加えられますならば、反乱を誘発する恐れがあります」


ですが王莽(おうもう)はこの意見を容(い)れず、詔(みことのり)を下して厳尤(げんゆう)に攻撃を命じました。

そこで厳尤(げんゆう)は句麗侯(くりこう)・騊(とう)に会見を申し入れると、やって来たところを斬り殺してその首を長安(ちょうあん)に送りました。

王莽(おうもう)は大いに喜んでこれを天下に布告し、高句麗(こうくり)の名を改めて下句麗(げくり)と呼ぶように命じます。これ以降、貊人(ばくじん)(高句麗(こうくり))の辺境への略奪がいよいよ激しくなりました。

【後漢(ごかん)】光武帝(こうぶてい)期

  • 後漢(ごかん)の建武(けんぶ)8年(32年)、高句麗(こうくり)が使者を派遣して朝貢して来ると、光武帝(こうぶてい)はその王号を下句麗侯(げくりこう)から高句麗王(こうくりおう)に戻しました。
  • 建武(けんぶ)23年(47年)冬、句麗(くり)(高句麗(こうくり))の蠶支落(さんしらく)の大加(たいか)・戴升(たいしょう)ら1万余人が幽州(ゆうしゅう)・楽浪郡(らくろうぐん)にやって来て内属しました。
  • 建武(けんぶ)25年(49年)春、句麗(くり)(高句麗(こうくり))が幽州(ゆうしゅう)の、
    • 右北平郡(ゆうほくへいぐん)
    • 渔陽郡(ぎょようぐん)
    • 上谷郡(じょうこくぐん)
    • 太原郡(たいげんぐん)[幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))]

を荒らし回りましたが、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の祭肜(さいゆう)が恩徳と信義をもって彼らを招(まね)くと、みな再び国境にやって来て親しく交(まじ)わりを結びました。

【後漢(ごかん)】和帝(わてい)、殤帝(しょうてい)、安帝(あんてい)期

高句麗王・宮
  • 高句麗王(こうくりおう)の宮(きゅう)*1は、生まれながらにして目を開き、物を見ることができたので、高句麗(こうくり)の国人たちは宮(きゅう)*1に期待を寄せていました。こうして勇壮に成長した高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)*1は、しばしば辺境を侵(おか)すようになります。
和帝(わてい)
  • 和帝(わてい)の元興(げんこう)元年(105年)春、高句麗(こうくり)は再び幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に侵入して6県を荒らしましたが、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の耿夔(こうき)がこれを撃破してその渠帥(きょすい)を斬りました。
安帝(あんてい)
  • 安帝(あんてい)の永初(えいしょ)5年(111年)、高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)*1は使者を派遣して朝貢し、幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に属したいと求めました。
  • 元初(げんしょ)5年(118年)、高句麗(こうくり)は濊貊(わいばく)と共に再び玄菟郡(げんとぐん)を荒らし、華麗城(かれいじょう)を攻撃しました。
  • 建光(けんこう)元年(121年)春、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の馮煥(ふうかん)・玄菟太守(げんとたいしゅ)の姚光(ようこう)・遼東太守(りょうとうたいしゅ)の蔡諷(さいふう)(蔡風(さいふう))らが長城の外に出て高句麗(こうくり)・濊貊(わいばく)らを攻撃し、濊貊(わいばく)の渠帥(きょすい)を捕らえて斬り、兵馬・財物を得ました。

高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)*1は嗣子(しし)の遂成(すいせい)に2千の兵を率(ひき)いさせ、姚光(ようこう)らを迎撃させていましたが、濊貊(わいばく)らが敗れると偽(いつわ)って降伏し、講話を申し入れました。

姚光(ようこう)らがこれを信じて攻撃を止めると、高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)*1は、遂成(すいせい)に険(けわ)しい地形を利用して大軍の退路を遮断させ、その上で秘(ひそ)かに3千人を派遣して玄菟郡(げんとぐん)を攻めて候城県(こうじょうけん)に火をかけ、遼東郡(りょうとうぐん)・遼隧県(りょうすいけん)に侵入して役人や民衆を殺傷しました。

これに姚光(ようこう)らは広陽郡(こうようぐん)、渔陽郡(ぎょようぐん)、右北平郡(ゆうほくへいぐん)の兵を召集し、涿郡属国(たくぐんぞっこく)の3千騎余りを加えて共にこれを救援しましたが、貊人(ばくじん)(高句麗(こうくり))たちはすでに引き揚(あ)げた後でした。

  • 夏、高句麗(こうくり)は再び遼東郡(りょうとうぐん)の鮮卑(せんぴ)8千余人と共に遼東郡(りょうとうぐん)・遼隧県(りょうすいけん)を攻撃して、役人を殺害したので、遼東太守(りょうとうたいしゅ)・蔡諷(さいふう)(蔡風(さいふう))は軽装備で軍吏や兵士を引き連れて遼東郡(りょうとうぐん)・新昌県(しんしょういん)までこれを追撃しましたが、戦いに敗れて戦死してしまいました。

この時、

    • 功曹(こうそう)の耿耗(こうもう)
    • 兵曹掾(へいそうえん)の龍端(りゅうたん)
    • 兵馬掾(へいばえん)の公孫酺(こうそんほ)

らは身を挺(てい)して蔡諷(さいふう)(蔡風(さいふう))を守って共に戦死し、この戦いの死者は100人余りにのぼりました。

  • 秋、高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)*1は馬韓(ばかん)*2・濊貊(わいばく)の数千騎を率(ひき)いて幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)を包囲しました。

この時、夫余王(ふよおう)は子の尉仇台(いきゅうたい)に2万余人を率(ひき)いさせ、州郡と力を合わせてこれを撃ち破り、5百級余りを斬首しました。

高句麗王・遂成

この年、高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)*1が亡くなって子の遂成(すいせい)が後を嗣(つ)ぎました。

玄菟太守(げんとたいしゅ)の姚光(ようこう)が、


「宮(きゅう)*1の喪(も)に乗じて兵を出して高句麗(こうくり)を攻撃したく存じます」


と上言すると、議者はみな「許可するべきだ」と言いました。

ですが、これに尚書(しょうしょ)の陳忠(ちんちゅう)は、


「宮(きゅう)*1は生前、凶暴で狡猾(こうかつ)であったため、姚光(ようこう)は討伐できませんでした。死んだからと言ってこれを攻撃するのは義にかないません。どうか使者を派遣して弔問(ちょうもん)させ、そこで宮(きゅう)*1の生前の罪を責めた上で許して罰を加えず、その将来の善行に期待するべきです」


と言い、安帝(あんてい)は陳忠(ちんちゅう)の言葉に従います。その結果、翌年の建光(けんこう)2年(122年)、高句麗王(こうくりおう)・遂成(すいせい)は漢(かん)の奴隷を返還し、幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)までやって来て降伏しました。

安帝(あんてい)は詔(みことのり)を下し、


「遂成(すいせい)たちは悪逆非道であり、まさしく斬殺して塩漬けにし、人々に示すべきではあるが、幸いにも恩赦(おんしゃ)を受け、罪を認めて降伏を求めた。鮮卑(せんぴ)・濊貊(わいばく)は連年略奪して住民を誘拐すること、時には数千に及ぶにもかかわらず、遂成(すいせい)は百人足らずの奴隷を返送してきたに過ぎない。改心する心があるとは言えまい。今後、県官と戦闘を避(さ)けて自(みずか)ら服属して奴隷(生口(せいこう))を返還する者にはすべて代価を与えることとし、1人につき絹40匹、小口(しょうこう)はその半分とする」


と言いました。


高句麗王(こうくりおう)・遂成(すいせい)が亡くなると、子の伯固(はくこ)が後を嗣(つ)ぎました。その後、濊貊(わいばく)はおおむね服従し、東方の辺境は大人しくなります。

【後漢(ごかん)】順帝(じゅんてい)、質帝(しつてい)、桓帝(かんてい)、霊帝(れいてい)期

高句麗王・伯固
順帝(じゅんてい)

順帝(じゅんてい)の陽嘉(ようか)元年(132年)、後漢(ごかん)は幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に6部の屯田(とんでん)(軍屯(ぐんとん))を置きました。

質帝(しつてい)、桓帝(かんてい)

質帝(しつてい)・桓帝(かんてい)の治世になると、高句麗(こうくり)は再び新安(しんあん)と居郷(きょきょう)(民郷(みんきょう))で略奪を働き、さらに幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)・西安平県(せいあんぺいけん)に侵犯。その道すがら帯方令(たいほうれい)を殺害し、楽浪太守(らくろうたいしゅ)の妻子を奪い去りました。

霊帝(れいてい)

霊帝(れいてい)の建寧(けんねい)2年(169年)、玄菟太守(げんとたいしゅ)の耿臨(こうりん)がこれを討伐し、斬首や捕虜にした者は数百にのぼりました。

すると高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)は降伏し、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)の支配下に入りましたが、熹平(きへい)年間(172年〜178年)に、高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)の願い出により幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に属すことになりました。

脚注

*1『三国史記(さんごくしき)』によると、第6代の太祖大王(たいそだいおう)(国祖王(こくそおう))。諱(いみな)が宮(きゅう)で、小名は於漱(おそう)。

*2古代朝鮮半島の南部に居住した韓族(かんぞく)の1つ。当時、韓族(かんぞく)は3つに分かれ、馬韓(ばかん)は半島の南西部にあり、大小50余国から構成され、一種の部族連合的段階にあったものとみられている。

【後漢(ごかん)】献帝(けんてい)期

高句麗王・伯固

献帝(けんてい)の中平(ちゅうへい)6年(189年)、公孫度(こうそんたく)(公孫度(こうそんど))が海東(かいとう)の地域に勢力を伸ばすと、高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)は大加(たいか)の優居(ゆうきょ)、主簿(しゅぼ)の然人(ぜんじん)らを派遣して公孫度(こうそんたく)(公孫度(こうそんど))を助けて富山(ふざん)の賊(ぞく)を撃ち破りました。

高句麗王・伊夷模

高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)には2人の息子がいました。長子を拔奇(ばっき)と言い、次子を伊夷模(いいも)と言います。

伯固(はくこ)が亡くなると、長子の拔奇(ばっき)が愚(おろ)かであったため、国人たちは協議して伊夷模(いいも)を高句麗王(こうくりおう)に立てました。高句麗(こうくり)は伯固(はくこ)の時代以来、しばしば幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)で略奪を働き、また逃亡して来た胡(こ)(匈奴(きょうど))の5百余家を受け入れていました。

献帝(けんてい)の建安(けんあん)年間(196年〜220年)*3、(自称)遼東王(りょうとうおう)・公孫康(こうそんこう)は軍を出して高句麗(こうくり)に攻撃を加え、その都を破って邑落(ゆうらく)を焼きました。

一方、伯固(はくこ)の長子・拔奇(ばっき)は、兄でありながら王位につけなかったことを怨(うら)みに思い、涓奴部(けんどぶ)(消奴部(しょうどぶ))の加(か)たちと共に、それぞれ下戸(かこ)(身分の低い者)3万余人を率(ひき)いて公孫康(こうそんこう)の下(もと)に赴(おもむ)いて降伏し、戻って沸流水(ふつりゅうすい)(鴨緑江(おうりょくこう))の側(そば)に住居を定めました。

この時、降伏していた胡(こ)(匈奴(きょうど))も高句麗王(こうくりおう)・伊夷模(いいも)に叛(そむ)いたので、伊夷模(いいも)は別に新しい都を立てました。拔奇(ばっき)はそのまま幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に赴(おもむ)き、息子の駮位居(はくいきょ)を句麗国(くりこく)(高句麗(こうくり))に留(とど)まらせます。

その後、高句麗(こうくり)が再び幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に攻撃をかけて来たので、玄菟郡(げんとぐん)は遼東郡(りょうとうぐん)と連合して迎撃し、これを大破しました。

脚注

*3公孫康(こうそんこう)が公孫度(こうそんたく)(公孫度(こうそんど))の後を嗣(つ)いだ建安(けんあん)9年(204)以降。

高句麗王・位宮

伊夷模(いいも)には嫡子(ちゃくし)がなく、位宮(いきゅう)という灌奴部(かんどぶ)の女性と通じて生まれた子供がいました。伊夷模(いいも)が亡くなると位宮(いきゅう)が高句麗王(こうくりおう)に即位します。

高句麗(こうくり)では「似ていること」を「位(い)」と言い、この位宮(いきゅう)も曾祖父(そうそふ)の宮(きゅう)と同じく、生まれ落ちるとすぐに目を開いて周囲の人々を見回すことがので、位宮(いきゅう)と名づけられました。位宮(いきゅう)は力があって勇敢で、鞍(くら)をつけた馬を乗りこなし、狩猟・射撃に優れていました。

【魏(ぎ)】明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))期
  • 魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))の景初(けいしょ)2年(238年)、魏(ぎ)の太尉(たいい)・司馬懿(しばい)が軍勢を率(ひき)いて公孫淵(こうそんえん)を討った時、高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)(位宮(いきゅう))は主簿(しゅぼ)と大加(たいか)を遣(つか)わし数千人を率(ひき)いて力(ちから)添(ぞ)えをさせました。
  • 魏(ぎ)の斉王(せいおう)(曹芳(そうほう))の正始(せいし)3年(242年)、高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)(位宮(いきゅう))は幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)・西安平県(せいあんぺいけん)に侵入して略奪を働きました。
  • 正始(せいし)5年(244年)、魏(ぎ)の幽州刺吏(ゆうしゅうしし)・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は、高句麗(こうくり)が度(たび)々(たび)反逆して侵攻して来るため、諸軍の歩兵・騎兵1万人を指揮して幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)を進発し、諸街道を通って討伐の軍を起こしました。

これに高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)(位宮(いきゅう))は2万の歩兵・騎兵を率(ひき)いて沸流水(ふつりゅうすい)(鴨緑江(おうりょくこう))の畔(ほとり)に出陣しましたが、梁口(かつこう)で大会戦となって敗北し、宮(きゅう)(位宮(いきゅう))は負け戦を重ねて逃走しました。

毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は馬を括(くく)って担(かつ)ぎ、車を吊(つる)して丸都山(がんとざん)に登ると、高句麗(こうくり)の都を破壊して4桁(けた)にのぼる首級(しゅきゅう)と捕虜を得ました。

高句麗(こうくり)の沛者(はいしゃ)・得来(とくらい)は度(たび)々(たび)宮(きゅう)(位宮(いきゅう))を諫(いさ)めましたが、宮(きゅう)(位宮(いきゅう))はその言葉に従いませんでした。

得来(とくらい)は嘆息(たんそく)して、


「たちまちのうちにこの地に蓬蒿(ほうこう)(ヨモギ)が生えるだろう」


と言い、食事を摂(と)らずに死んだので、高句麗(こうくり)の国民はみな彼を称(たた)え、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は「得来(とくらい)の墓を破壊するな」「墓の木を伐(き)るな」「妻子を捕まえてもすべて釈放しろ」と諸軍に命令を下しました。

宮(きゅう)(位宮(いきゅう))はただ1人、妻子を連れて逃げ隠れしていましたが、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は軍を引き揚(あ)げて帰還します。

  • 正始(せいし)6年(245年)、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は再び征討を行い、宮(きゅう)(位宮(いきゅう))はついに買溝(ばいこう)[置溝婁(ちこうろう)(北沃沮(きたよくそ))]へと逃走しました。

毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は玄菟太守(げんとたいしゅ)・王頎(おうき)にこれを追撃させ、王頎(おうき)は沃沮(よくそ)を過ぎて千余里(約430km)、粛慎氏(しゅくしんし)(挹婁国(ゆうろうこく)の古名)の南の境まで到達します。

そこで王頎(おうき)は、丸都(がんと)の山の石に功績を刻(きざ)みつけて目印とし、不耐(ふたい)の城に銘文(めいぶん)を記(しる)しました。誅殺(ちゅうさつ)したり降伏させたりした数は8千余人にのぼりましたが、山にトンネルを掘って灌漑(かんがい)を行ったので、その地の住民はその恩恵を受けることができました。

高句麗と中国の関係年表

西暦 中国 高句麗 出来事
B.C.108年 武(ぶ)帝(てい)  
  • 高句麗(こうくり)を幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に属させて県とする。
  • 鼓吹(こすい)や伎人(ぎじん)を下賜(かし)する。
  王(おう)莽(もう) 騊(とう)
  • 王莽(おうもう)が匈奴(きょうど)討伐に動員した高句麗(こうくり)兵が逃亡する。
  • 高句麗(こうくり)を攻めた遼西大尹(りょうせいたいいん)・田譚(でんたん)が戦死する。
  • 厳尤(げんゆう)が句麗侯(くりこう)・騊(とう)を会見に誘い出して斬る。
  • 王莽(おうもう)が高句麗(こうくり)の名を下句麗(げくり)と改める。
  • 高句麗(こうくり)の略奪が激化する。
32年 光(こう)武(ぶ)帝(てい)  
  • 高句麗(こうくり)が朝貢する。
  • 光武帝(こうぶてい)が高句麗(こうくり)の王号を下句麗侯(げくりこう)から高句麗王(こうくりおう)に戻す。
47年
  • 高句麗(こうくり)の蠶支落(さんしらく)の大加(たいか)・戴升(たいしょう)ら1万余人が楽浪郡(らくろうぐん)に内属する。
49年
  • 高句麗(こうくり)が幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))の諸郡を荒らし回る。
  • 遼東太守(りょうとうたいしゅ)・祭肜(さいゆう)が恩徳と信義をもって親しく交(まじ)わりを結ぶ。
105年 和(わ)帝(てい) 宮(きゅう)
  • 高句麗(こうくり)が再び幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)を荒らす。
  • 遼東太守(りょうとうたいしゅ)・耿夔(こうき)が高句麗(こうくり)を撃破して渠帥(きょすい)を斬る。
111年 安(あん)帝(てい)
  • 高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)が朝貢して幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に属すことを求める。
118年
  • 高句麗(こうくり)が濊貊(わいばく)と共に再び玄菟郡(げんとぐん)を荒らし、華麗城(かれいじょう)を攻撃する。
121年

春

  • 馮煥(ふうかん)・姚光(ようこう)・蔡諷(さいふう)(蔡風(さいふう))らが高句麗(こうくり)・濊貊(わいばく)らを攻撃し、濊貊(わいばく)の渠帥(きょすい)を斬る。
  • 高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)が嗣子(しし)の遂成(すいせい)に姚光(ようこう)らを迎撃させる。
  • 宮(きゅう)が偽(いつわ)って降伏し、大軍の退路を遮断して玄菟郡(げんとぐん)と遼東郡(りょうとうぐん)の吏民を殺傷する。

夏

  • 高句麗(こうくり)が鮮卑(せんぴ)と共に遼東郡(りょうとうぐん)を攻撃する。
  • 遼東太守(りょうとうたいしゅ)・蔡諷(さいふう)(蔡風(さいふう))が戦いに敗れて戦死する。

秋

  • 宮(きゅう)が馬韓(ばかん)・濊貊(わいばく)の数千騎を率(ひき)いて幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)を包囲する。
  • 夫余王(ふよおう)が子の尉仇台(いきゅうたい)に2万余人を率(ひき)いさせ、州郡に協力してこれを撃ち破る。
  • 高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)が死に、子の遂成(すいせい)が後を嗣(つ)ぐ。
  • 安帝(あんてい)が遂成(すいせい)に弔問(ちょうもん)の使者を派遣する。
122年

遂(すい)成(せい)

  • 高句麗王(こうくりおう)・遂成(すいせい)が漢(かん)の奴隷を返還し、幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に来て降伏する。
不明 伯(はく)固(こ)
  • 高句麗王(こうくりおう)・遂成(すいせい)が死に、子の伯固(はくこ)が後を嗣(つ)ぐ。
  • 濊貊(わいばく)はおおむね服従し、東方の辺境は大人しくなる。
132年 順(じゅん)帝(てい)
  • 幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に6部の屯田(とんでん)(軍屯(ぐんとん))を置く。
145年
〜
168年
質(しつ)帝(てい)
  • 高句麗(こうくり)が再び幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に侵犯して、帯方令(たいほうれい)を殺害し、楽浪太守(らくろうたいしゅ)の妻子を奪い去る。
桓(かん)帝(てい)
169年 霊(れい)帝(てい)
  • 玄菟太守(げんとたいしゅ)・耿臨(こうりん)が高句麗(こうくり)を討伐し、数百人を斬首・捕虜にする。
  • 高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)が降伏し、幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に属す。
172年
〜
178年
  • 高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)の願い出により幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に属す。
189年 献(けん)帝(てい)
  • 公孫度(こうそんたく)(公孫度(こうそんど))が海東(かいとう)の地域に勢力を伸ばす。
  • 高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)が公孫度(こうそんたく)(公孫度(こうそんど))を助けて富山(ふざん)の賊(ぞく)を撃ち破る。
不明 伊(い)夷(い)模(も)
  • 高句麗王(こうくりおう)・伯固(はくこ)が死に、次子の伊夷模(いいも)が後を嗣(つ)ぐ。
  • 高句麗(こうくり)がしばしば幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)で略奪を働く。
  • 高句麗(こうくり)が逃亡して来た胡(こ)(匈奴(きょうど))の5百余家を受け入れる。
204年
〜
220年
  • 遼東郡(りょうとうぐん)の公孫康(こうそんこう)が高句麗(こうくり)を攻撃し、その都を破って邑落(ゆうらく)を焼く。
  • 高句麗王(こうくりおう)・伊夷模(いいも)の兄・拔奇(ばっき)が公孫康(こうそんこう)の下(もと)に赴(おもむ)いて降伏する。
  • 高句麗(こうくり)に降伏していた胡(こ)(匈奴(きょうど))が高句麗王(こうくりおう)・伊夷模(いいも)に叛(そむ)く。
  • 高句麗(こうくり)が新しい都を立てる。
  • 高句麗(こうくり)が幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)に攻撃をかける。
  • 玄菟郡(げんとぐん)と遼東郡(りょうとうぐん)の連合軍がこれを大破する。
不明   位(い)宮(きゅう)
  • 高句麗王(こうくりおう)・伊夷模(いいも)が死に、子の位宮(いきゅう)が後を嗣(つ)ぐ。
238年 曹(そう)叡(えい)
  • 高句麗王(こうくりおう)・位宮(いきゅう)が魏(ぎ)の太尉(たいい)・司馬懿(しばい)の公孫淵(こうそんえん)討伐に協力する。
242年 曹(そう)芳(ほう)
  • 高句麗王(こうくりおう)・宮(きゅう)(位宮(いきゅう))が幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)・西安平県(せいあんぺいけん)に侵入して略奪を働く。
244年
  • 魏(ぎ)の幽州刺吏(ゆうしゅうしし)・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が高句麗(こうくり)征討の軍を起こす。
  • 梁口(かつこう)で敗北した位宮(いきゅう)が逃亡する。
  • 毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が高句麗(こうくり)の都を破壊する。
245年
  • 毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が再び高句麗(こうくり)の征討を行う。
  • 玄菟太守(げんとたいしゅ)・王頎(おうき)が挹婁国(ゆうろうこく)の南の境まで追撃する。

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