後漢・三国時代の異民族の内、東夷に分類される高句麗(高句驪・句麗)についてまとめています。
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目次
高句麗(高句驪・句麗)
高句麗の領域・戸数
高句麗(高句驪・句麗)
高句麗(高句驪・句麗)は、幽州・玄菟郡から千里(約430km)の場所にあり、
- 南は朝鮮・濊貊
- 東は沃沮
- 北は夫余国(夫餘国・扶餘国・扶余国)
と境を接しています。
丸都山の麓に都を置き、その領域は2千里四方、戸数は3万戸ほどでした。
属国
高句麗の民衆たちは意気盛んで戦闘に慣れており、
- 沃沮
- 東濊
はみな高句麗の支配下にありました。
小水貊
高句麗は国を建てる時、大河の側に都を定めましたが、幽州・遼東郡・西安平県の北に「南に流れて海に注ぐ小さな川(小水)」があって、句麗(高句麗)の別種がこの小さな川の側に国を建てました。
高句麗(高句驪・句麗)は別名を「貊」と言い、その別種が小さな川(小水)に拠って国を建てたことから、彼らのことを「小水貊」と言いました。
小水貊は、「貊弓」と呼ばれる軽い弓を産出します。
統治・風土・風俗
統治
統治制度
- 高句麗には王がおり、
- 相加
- 対盧
- 沛者
- 古雛加
- 主簿
- 優台丞
- 使者
- 皁衣先人
と呼ばれる官職があって、尊卑にそれぞれ等級があります。
- 対盧が置かれている時には沛者は置かれず、沛者が置かれている時には対盧は置かれません。
- 王の宗族や大加の官にある者は、みな古雛加と呼ばれます。
- 大加の官にある者たちは、それぞれの配下に使者や皁衣先人の官を置いており、その官についている者たちの名はすべて王の元に通知されます。それはちょうど、中国の卿大夫がそれぞれに持つ家臣のようなもので、会同の場に同席する時には王家の使者や皁衣先人と同列に並ぶことはできません。
- 大加や主簿は頭に幘をつけます。その幘は中国の冠幘に似ていますが、後頭部があいています。
- 小加(小官)は折風をつけますが、その形は中国の弁冠に似ています。
- 都に居住する豪族たちは1万人以上もいて、田畑で働くことはせず、下戸(身分の低い者)たちが遠くから米などの食糧や魚、塩を担いできて彼らに納めています。
部族
- 人々の性格は荒々しく短気で、好んで侵入・略奪を働きます。
- 東夷たちの古くからの言い伝えによると、夫余の別種とされ、言葉やその他多くの点について夫余と同じですが、その性格・気質と衣服については違いがあります。
- 高句麗には、
- 涓奴部(消奴部)
- 絶奴部
- 順奴部
- 灌奴部
- 桂婁部
の5つの部族がおり、元々は涓奴部(消奴部)から王が立てられていましたが、次第に勢力を失い、後に桂婁部が代わって王を立てるようになりました。
涓奴部(消奴部)
- 涓奴部(消奴部)が元々の支配者であったことから、彼らの内の正統を継ぐ大人は古雛加を称することができ、また宗廟を立て、霊星や社稷の祭祀を行うことができます。
絶奴部
- 絶奴部は、代々王家と通婚しているため、涓奴部(消奴部)と同様に古雛加の称号を与えられています。
刑罰
- 牢獄はなく、罪人が出た時には加官の者たちが評議した後にすぐさま死刑を執行し、その妻子を没収して奴婢とします。
風土
- 高い山や深い谷が多く、平原や沢はありません。山や谷の地形を利用して住居を構え、谷川の水で生活をしています。
- 良田はなく、努力して耕作しても自分の生活を維持するだけの食糧は収穫できません。そのため、食物を倹約して生活していますが、その一方で宮殿や住居を建築・改修することを好みます。
- この国の馬はみな小柄で、山を登ることに慣れています。
風俗
祭祀
- 居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神にお供え物をし、また、星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行います。
- 10月には、都で東盟と呼ばれる「天を祭る大集会」が開かれます。
- 高句麗の東部には隧穴(禭穴)と呼ばれる大きな穴があって、10月になると人々が大勢都に集まって隧神(禭神)を迎え降ろし、都の東の郊外にある水の畔にお遷しして祭祀を行い、その時、木製の隧神(禭神)を神座に据えます。
風習
- 高句麗の習俗(習慣や風俗)は淫らで、都や各地の邑落(村落)では、夕暮れになると男女が群がって淫らな音楽をかき鳴らし、一緒に歌ったり遊んだりします。
- 大きな倉庫はなく、家ごとにそれぞれ「桴京」と呼ばれる小さな倉があり、みなきれい好きで酒醸り(蔵醸)に巧みです。
- 公の集まりがある時には、人々は錦繍(錦の刺繍)が施された着物を着て、金銀の装飾品で身を飾ります。
- 跪拝(跪いて上半身を前に屈めて敬意を表すること)する際には片足を後ろに引き、歩く際にはみな小走りになります。
婚礼
- 言葉で婚約をすると、女性の家では母屋の後ろに婿屋と呼ばれる小屋を建てます。
- 婿になる男性が夕方になって女性の家にやって来ると、戸外で名を名乗り跪拝をして「女性の元で夜を過ごしたい」と願い、これが何度か繰り返されてから、娘の父母が許して小屋の中に泊まらせます。
- 一緒に住むようになると同時に、金銭や帛の貯蓄をし、生まれた子供が大きくなってから、妻を連れて男の家に帰ります。
葬礼
- 男女は結婚するとすぐ、少しずつ葬礼のための衣服を揃え始めます。
- 埋葬の礼は盛大で、金銀財貨は葬礼のために使い尽くされます。
- 石を積んで墳丘を作り、松や柏を並べて植えます。
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高句麗(高句驪・句麗)の歴史
高句麗と中国の関係
【前漢】武帝期
元封3年(紀元前108年)夏、前漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼすと、高句麗を県として幽州・玄菟郡に属させて、鼓吹(楽隊)や伎人(芸人)を下賜しました。
以降、高句麗の使者はいつも玄菟郡にやって来て朝服や衣幘を授かり、前漢の高句麗令が彼らの名簿を扱っていました。
ですが、次第に傲慢になって郡の役所までは出向かなくなり、東の境界に幘溝漊と呼ばれる小城を築いて朝服や衣幘を置いておき、年ごとあるいは季節ごとにそこに取りに来るようになりました。溝漊とは、句麗(高句麗)の言葉で城を意味します。
【新】王莽期
句麗侯・騊
王莽の時代の初め[新の初始元年(8年)]、王莽は高句麗の兵を動員して胡(匈奴)を伐とうとしましたが、高句麗は動員に応じようとしませんでした。
そこで脅迫して強制的に動員したところ、みな長城の外に逃亡して略奪を働くようになり、これを追って攻撃した遼西大尹・田譚は返り討ちに遭って戦死してしまいます。
これに州・郡・県の役所が揃ってその罪を句麗侯の騊に着せようとすると、厳尤が上奏して言いました。
「貊(高句麗)の人々が法に背きましたが、その罪は騊の発意によるものではありません。ここは一先ず(高句麗を)安慰されますように。今みだりに大罪として処分を加えられますならば、反乱を誘発する恐れがあります」
ですが王莽はこの意見を容れず、詔を下して厳尤に攻撃を命じました。
そこで厳尤は句麗侯・騊に会見を申し入れると、やって来たところを斬り殺してその首を長安に送りました。
王莽は大いに喜んでこれを天下に布告し、高句麗の名を改めて下句麗と呼ぶように命じます。これ以降、貊人(高句麗)の辺境への略奪がいよいよ激しくなりました。
【後漢】光武帝期
- 後漢の建武8年(32年)、高句麗が使者を派遣して朝貢して来ると、光武帝はその王号を下句麗侯から高句麗王に戻しました。
- 建武23年(47年)冬、句麗(高句麗)の蠶支落の大加・戴升ら1万余人が幽州・楽浪郡にやって来て内属しました。
- 建武25年(49年)春、句麗(高句麗)が幽州の、
- 右北平郡
- 渔陽郡
- 上谷郡
- 太原郡[幷州(并州)]
を荒らし回りましたが、遼東太守の祭肜が恩徳と信義をもって彼らを招くと、みな再び国境にやって来て親しく交わりを結びました。
【後漢】和帝、殤帝、安帝期
高句麗王・宮
- 高句麗王の宮*1は、生まれながらにして目を開き、物を見ることができたので、高句麗の国人たちは宮*1に期待を寄せていました。こうして勇壮に成長した高句麗王・宮*1は、しばしば辺境を侵すようになります。
和帝
- 和帝の元興元年(105年)春、高句麗は再び幽州・遼東郡に侵入して6県を荒らしましたが、遼東太守の耿夔がこれを撃破してその渠帥を斬りました。
安帝
- 安帝の永初5年(111年)、高句麗王・宮*1は使者を派遣して朝貢し、幽州・玄菟郡に属したいと求めました。
- 元初5年(118年)、高句麗は濊貊と共に再び玄菟郡を荒らし、華麗城を攻撃しました。
- 建光元年(121年)春、幽州刺史の馮煥・玄菟太守の姚光・遼東太守の蔡諷(蔡風)らが長城の外に出て高句麗・濊貊らを攻撃し、濊貊の渠帥を捕らえて斬り、兵馬・財物を得ました。
高句麗王・宮*1は嗣子の遂成に2千の兵を率いさせ、姚光らを迎撃させていましたが、濊貊らが敗れると偽って降伏し、講話を申し入れました。
姚光らがこれを信じて攻撃を止めると、高句麗王・宮*1は、遂成に険しい地形を利用して大軍の退路を遮断させ、その上で秘かに3千人を派遣して玄菟郡を攻めて候城県に火をかけ、遼東郡・遼隧県に侵入して役人や民衆を殺傷しました。
これに姚光らは広陽郡、渔陽郡、右北平郡の兵を召集し、涿郡属国の3千騎余りを加えて共にこれを救援しましたが、貊人(高句麗)たちはすでに引き揚げた後でした。
- 夏、高句麗は再び遼東郡の鮮卑8千余人と共に遼東郡・遼隧県を攻撃して、役人を殺害したので、遼東太守・蔡諷(蔡風)は軽装備で軍吏や兵士を引き連れて遼東郡・新昌県までこれを追撃しましたが、戦いに敗れて戦死してしまいました。
この時、
-
- 功曹の耿耗
- 兵曹掾の龍端
- 兵馬掾の公孫酺
らは身を挺して蔡諷(蔡風)を守って共に戦死し、この戦いの死者は100人余りにのぼりました。
- 秋、高句麗王・宮*1は馬韓*2・濊貊の数千騎を率いて幽州・玄菟郡を包囲しました。
この時、夫余王は子の尉仇台に2万余人を率いさせ、州郡と力を合わせてこれを撃ち破り、5百級余りを斬首しました。
高句麗王・遂成
この年、高句麗王・宮*1が亡くなって子の遂成が後を嗣ぎました。
玄菟太守の姚光が、
「宮*1の喪に乗じて兵を出して高句麗を攻撃したく存じます」
と上言すると、議者はみな「許可するべきだ」と言いました。
ですが、これに尚書の陳忠は、
「宮*1は生前、凶暴で狡猾であったため、姚光は討伐できませんでした。死んだからと言ってこれを攻撃するのは義にかないません。どうか使者を派遣して弔問させ、そこで宮*1の生前の罪を責めた上で許して罰を加えず、その将来の善行に期待するべきです」
と言い、安帝は陳忠の言葉に従います。その結果、翌年の建光2年(122年)、高句麗王・遂成は漢の奴隷を返還し、幽州・玄菟郡までやって来て降伏しました。
安帝は詔を下し、
「遂成たちは悪逆非道であり、まさしく斬殺して塩漬けにし、人々に示すべきではあるが、幸いにも恩赦を受け、罪を認めて降伏を求めた。鮮卑・濊貊は連年略奪して住民を誘拐すること、時には数千に及ぶにもかかわらず、遂成は百人足らずの奴隷を返送してきたに過ぎない。改心する心があるとは言えまい。今後、県官と戦闘を避けて自ら服属して奴隷(生口)を返還する者にはすべて代価を与えることとし、1人につき絹40匹、小口はその半分とする」
と言いました。
高句麗王・遂成が亡くなると、子の伯固が後を嗣ぎました。その後、濊貊はおおむね服従し、東方の辺境は大人しくなります。
【後漢】順帝、質帝、桓帝、霊帝期
高句麗王・伯固
順帝
順帝の陽嘉元年(132年)、後漢は幽州・玄菟郡に6部の屯田(軍屯)を置きました。
質帝、桓帝
質帝・桓帝の治世になると、高句麗は再び新安と居郷(民郷)で略奪を働き、さらに幽州・遼東郡・西安平県に侵犯。その道すがら帯方令を殺害し、楽浪太守の妻子を奪い去りました。
霊帝
霊帝の建寧2年(169年)、玄菟太守の耿臨がこれを討伐し、斬首や捕虜にした者は数百にのぼりました。
すると高句麗王・伯固は降伏し、幽州・遼東郡の支配下に入りましたが、熹平年間(172年〜178年)に、高句麗王・伯固の願い出により幽州・玄菟郡に属すことになりました。
脚注
*1『三国史記』によると、第6代の太祖大王(国祖王)。諱が宮で、小名は於漱。
*2古代朝鮮半島の南部に居住した韓族の1つ。当時、韓族は3つに分かれ、馬韓は半島の南西部にあり、大小50余国から構成され、一種の部族連合的段階にあったものとみられている。
【後漢】献帝期
高句麗王・伯固
献帝の中平6年(189年)、公孫度(公孫度)が海東の地域に勢力を伸ばすと、高句麗王・伯固は大加の優居、主簿の然人らを派遣して公孫度(公孫度)を助けて富山の賊を撃ち破りました。
高句麗王・伊夷模
高句麗王・伯固には2人の息子がいました。長子を拔奇と言い、次子を伊夷模と言います。
伯固が亡くなると、長子の拔奇が愚かであったため、国人たちは協議して伊夷模を高句麗王に立てました。高句麗は伯固の時代以来、しばしば幽州・遼東郡で略奪を働き、また逃亡して来た胡(匈奴)の5百余家を受け入れていました。
献帝の建安年間(196年〜220年)*3、(自称)遼東王・公孫康は軍を出して高句麗に攻撃を加え、その都を破って邑落を焼きました。
一方、伯固の長子・拔奇は、兄でありながら王位につけなかったことを怨みに思い、涓奴部(消奴部)の加たちと共に、それぞれ下戸(身分の低い者)3万余人を率いて公孫康の下に赴いて降伏し、戻って沸流水(鴨緑江)の側に住居を定めました。
この時、降伏していた胡(匈奴)も高句麗王・伊夷模に叛いたので、伊夷模は別に新しい都を立てました。拔奇はそのまま幽州・遼東郡に赴き、息子の駮位居を句麗国(高句麗)に留まらせます。
その後、高句麗が再び幽州・玄菟郡に攻撃をかけて来たので、玄菟郡は遼東郡と連合して迎撃し、これを大破しました。
脚注
*3公孫康が公孫度(公孫度)の後を嗣いだ建安9年(204)以降。
高句麗王・位宮
伊夷模には嫡子がなく、位宮という灌奴部の女性と通じて生まれた子供がいました。伊夷模が亡くなると位宮が高句麗王に即位します。
高句麗では「似ていること」を「位」と言い、この位宮も曾祖父の宮と同じく、生まれ落ちるとすぐに目を開いて周囲の人々を見回すことがので、位宮と名づけられました。位宮は力があって勇敢で、鞍をつけた馬を乗りこなし、狩猟・射撃に優れていました。
【魏】明帝(曹叡)期
- 魏の明帝(曹叡)の景初2年(238年)、魏の太尉・司馬懿が軍勢を率いて公孫淵を討った時、高句麗王・宮(位宮)は主簿と大加を遣わし数千人を率いて力添えをさせました。
- 魏の斉王(曹芳)の正始3年(242年)、高句麗王・宮(位宮)は幽州・遼東郡・西安平県に侵入して略奪を働きました。
- 正始5年(244年)、魏の幽州刺吏・毌丘倹(毋丘倹)は、高句麗が度々反逆して侵攻して来るため、諸軍の歩兵・騎兵1万人を指揮して幽州・玄菟郡を進発し、諸街道を通って討伐の軍を起こしました。
これに高句麗王・宮(位宮)は2万の歩兵・騎兵を率いて沸流水(鴨緑江)の畔に出陣しましたが、梁口で大会戦となって敗北し、宮(位宮)は負け戦を重ねて逃走しました。
毌丘倹(毋丘倹)は馬を括って担ぎ、車を吊して丸都山に登ると、高句麗の都を破壊して4桁にのぼる首級と捕虜を得ました。
高句麗の沛者・得来は度々宮(位宮)を諫めましたが、宮(位宮)はその言葉に従いませんでした。
得来は嘆息して、
「たちまちのうちにこの地に蓬蒿(ヨモギ)が生えるだろう」
と言い、食事を摂らずに死んだので、高句麗の国民はみな彼を称え、毌丘倹(毋丘倹)は「得来の墓を破壊するな」「墓の木を伐るな」「妻子を捕まえてもすべて釈放しろ」と諸軍に命令を下しました。
宮(位宮)はただ1人、妻子を連れて逃げ隠れしていましたが、毌丘倹(毋丘倹)は軍を引き揚げて帰還します。
- 正始6年(245年)、毌丘倹(毋丘倹)は再び征討を行い、宮(位宮)はついに買溝[置溝婁(北沃沮)]へと逃走しました。
毌丘倹(毋丘倹)は玄菟太守・王頎にこれを追撃させ、王頎は沃沮を過ぎて千余里(約430km)、粛慎氏(挹婁国の古名)の南の境まで到達します。
そこで王頎は、丸都の山の石に功績を刻みつけて目印とし、不耐の城に銘文を記しました。誅殺したり降伏させたりした数は8千余人にのぼりましたが、山にトンネルを掘って灌漑を行ったので、その地の住民はその恩恵を受けることができました。
高句麗と中国の関係年表
西暦 | 中国 | 高句麗 | 出来事 |
---|---|---|---|
B.C.108年 | 武帝 |
|
|
王莽 | 騊 |
|
|
32年 | 光武帝 |
|
|
47年 |
|
||
49年 |
|
||
105年 | 和帝 | 宮 |
|
111年 | 安帝 |
|
|
118年 |
|
||
121年 |
春
夏
秋
|
||
122年 |
遂成 |
|
|
不明 | 伯固 |
|
|
132年 | 順帝 |
|
|
145年 〜 168年 |
質帝 |
|
|
桓帝 | |||
169年 | 霊帝 |
|
|
172年 〜 178年 |
|
||
189年 | 献帝 |
|
|
不明 | 伊夷模 |
|
|
204年 〜 220年 |
|
||
不明 | 位宮 |
|
|
238年 | 曹叡 |
|
|
242年 | 曹芳 |
|
|
244年 |
|
||
245年 |
|
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