後漢ごかん・三国時代の異民族の内、東夷とういに分類される高句麗こうくり高句驪こうくり句麗くり)についてまとめています。

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高句麗(高句驪・句麗)

高句麗の領域・戸数

高句麗(高句驪・句麗)

高句麗こうくり高句驪こうくり句麗くり


高句麗こうくり高句驪こうくり句麗くり)は、幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんから千里(約430km)の場所にあり、

  • 南は朝鮮ちょうせん濊貊わいばく
  • 東は沃沮よくそ
  • 北は夫余国ふよこく夫餘国ふよこく扶餘国ふよこく扶余国ふよこく

と境を接しています。

丸都山がんとざんふもとに都を置き、その領域は2千里四方、戸数は3万戸ほどでした。

属国

高句麗こうくりの民衆たちは意気盛んで戦闘に慣れており、

  • 沃沮よくそ
  • 東濊とうわい

はみな高句麗こうくりの支配下にありました。

小水貊しょうすいばく

高句麗こうくりは国を建てる時、大河のそばに都を定めましたが、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん西安平県せいあんぺいけんの北に「南に流れて海にそそぐ小さな川(小水)」があって、句麗くり高句麗こうくり)の別種がこの小さな川のそばに国を建てました。

高句麗こうくり高句驪こうくり句麗くり)は別名を「ばく」と言い、その別種が小さな川(小水)にって国を建てたことから、彼らのことを「小水貊しょうすいばく」と言いました。

小水貊しょうすいばくは、「貊弓ばくきゅう」と呼ばれる軽い弓を産出します。

統治・風土・風俗

統治

統治制度
  • 高句麗こうくりにはおうがおり、
    • 相加そうか
    • 対盧たいろ
    • 沛者はいしゃ
    • 古雛加こすうか
    • 主簿しゅぼ
    • 優台丞ゆうたいじょう
    • 使者ししゃ
    • 皁衣先人そういせんじん

と呼ばれる官職があって、尊卑にそれぞれ等級があります。

  • 対盧たいろが置かれている時には沛者はいしゃは置かれず、沛者はいしゃが置かれている時には対盧たいろは置かれません。
  • おうの宗族や大加たいかの官にある者は、みな古雛加こすうかと呼ばれます。
  • 大加たいかの官にある者たちは、それぞれの配下に使者ししゃ皁衣先人そういせんじんの官を置いており、その官についている者たちの名はすべておうの元に通知されます。それはちょうど、中国の卿大夫けいたいふがそれぞれに持つ家臣のようなもので、会同の場に同席する時には王家の使者ししゃ皁衣先人そういせんじんと同列に並ぶことはできません。
  • 大加たいか主簿しゅぼは頭にさくをつけます。そのさくは中国の冠幘かんさくに似ていますが、後頭部があいています。
  • 小加しょうか(小官)は折風せっぷうをつけますが、その形は中国の弁冠べんかんに似ています。
  • 都に居住する豪族たちは1万人以上もいて、田畑で働くことはせず、下戸かこ(身分の低い者)たちが遠くから米などの食糧や魚、塩をかついできて彼らにおさめています。
部族
  • 人々の性格は荒々しく短気で、好んで侵入・略奪を働きます。
  • 東夷とういたちの古くからの言い伝えによると、夫余ふよの別種とされ、言葉やその他多くの点について夫余ふよと同じですが、その性格・気質と衣服については違いがあります。
  • 高句麗こうくりには、
    • 涓奴部けんどぶ消奴部しょうどぶ
    • 絶奴部ぜつどぶ
    • 順奴部じゅんどぶ
    • 灌奴部かんどぶ
    • 桂婁部けいろうぶ

の5つの部族がおり、元々は涓奴部けんどぶ消奴部しょうどぶ)からおうが立てられていましたが、次第に勢力を失い、後に桂婁部けいろうぶが代わっておうを立てるようになりました。

涓奴部けんどぶ消奴部しょうどぶ
  • 涓奴部けんどぶ消奴部しょうどぶ)が元々の支配者であったことから、彼らの内の正統を継ぐ大人たいじん古雛加こすうかを称することができ、また宗廟そうびょうを立て、霊星や社稷しゃしょく祭祀さいしを行うことができます。
絶奴部ぜつどぶ
  • 絶奴部ぜつどぶは、代々王家と通婚しているため、涓奴部けんどぶ消奴部しょうどぶ)と同様に古雛加こすうかの称号を与えられています。
刑罰
  • 牢獄はなく、罪人が出た時には加官かかんの者たちが評議した後にすぐさま死刑を執行し、その妻子を没収して奴婢ぬひとします。

風土

  • 高い山や深い谷が多く、平原やさわはありません。山や谷の地形を利用して住居を構え、谷川の水で生活をしています。
  • 良田はなく、努力して耕作しても自分の生活を維持するだけの食糧は収穫できません。そのため、食物を倹約して生活していますが、その一方で宮殿や住居を建築・改修することを好みます。
  • この国の馬はみな小柄で、山を登ることに慣れています。

風俗

祭祀
  • 居住地の左右に大きな建物を建て、そこで鬼神におそなえ物をし、また、星祭りや社稷しゃしょく(土地神と穀神こくしん)の祭礼を行います。
  • 10月には、都で東盟とうめいと呼ばれる「天を祭る大集会」が開かれます。
  • 高句麗こうくりの東部には隧穴すいけつ禭穴すいけつ)と呼ばれる大きな穴があって、10月になると人々が大勢都に集まって隧神すいしん禭神すいしん)を迎え降ろし、都の東の郊外にある水のほとりにおうつしして祭祀さいしを行い、その時、木製の隧神すいしん禭神すいしん)を神座にえます。
風習
  • 高句麗こうくり習俗しゅうぞく(習慣や風俗)はみだらで、都や各地の邑落ゆうらく(村落)では、夕暮れになると男女が群がってみだらな音楽をかき鳴らし、一緒に歌ったり遊んだりします。
  • 大きな倉庫はなく、家ごとにそれぞれ「桴京ふけい」と呼ばれる小さな倉があり、みなきれい好きで酒づくり(蔵醸)にたくみです。
  • おおやけの集まりがある時には、人々は錦繍きんしゅうにしき刺繍ししゅう)がほどこされた着物を着て、金銀の装飾品で身をかざります。
  • 跪拝きはいひざまずいて上半身を前にかがめて敬意を表すること)する際には片足を後ろに引き、歩く際にはみな小走りになります。
婚礼
  • 言葉で婚約をすると、女性の家では母屋おもやの後ろに婿屋むこやと呼ばれる小屋を建てます。
  • 婿むこになる男性が夕方になって女性の家にやって来ると、戸外で名を名乗り跪拝きはいをして「女性の元で夜を過ごしたい」と願い、これが何度か繰り返されてから、娘の父母が許して小屋の中に泊まらせます。
  • 一緒に住むようになると同時に、金銭やきぬの貯蓄をし、生まれた子供が大きくなってから、妻を連れて男の家に帰ります。
葬礼
  • 男女は結婚するとすぐ、少しずつ葬礼のための衣服をそろえ始めます。
  • 埋葬まいそうの礼は盛大で、金銀財貨は葬礼そうれいのために使い尽くされます。
  • 石を積んで墳丘ふんきゅうを作り、松やかしわを並べて植えます。

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高句麗(高句驪・句麗)の歴史

高句麗と中国の関係

前漢ぜんかん武帝ぶてい

元封げんほう3年(紀元前108年)夏、前漢ぜんかん武帝ぶてい衛氏朝鮮えいしちょうせんを滅ぼすと、高句麗こうくりを県として幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属させて、鼓吹こすい(楽隊)や伎人ぎじん(芸人)を下賜かししました。

以降、高句麗こうくりの使者はいつも玄菟郡げんとぐんにやって来て朝服ちょうふく衣幘いさくさずかり、前漢ぜんかん高句麗令こうくりれいが彼らの名簿を扱っていました。

ですが、次第に傲慢ごうまんになって郡の役所までは出向かなくなり、東の境界に幘溝漊さくこうろうと呼ばれる小城をきずいて朝服ちょうふく衣幘いさくを置いておき、年ごとあるいは季節ごとにそこに取りに来るようになりました。溝漊こうろうとは、句麗くり高句麗こうくり)の言葉で城を意味します。

しん王莽おうもう

句麗侯・騊

王莽おうもうの時代の初め[しん初始しょし元年(8年)]、王莽おうもう高句麗こうくりの兵を動員して匈奴きょうど)をとうとしましたが、高句麗こうくりは動員に応じようとしませんでした。

そこで脅迫して強制的に動員したところ、みな長城の外に逃亡して略奪を働くようになり、これを追って攻撃した遼西大尹りょうせいたいいん田譚でんたんは返り討ちにって戦死してしまいます。

これに州・郡・県の役所がそろってその罪を句麗侯くりこうとうに着せようとすると、厳尤げんゆうが上奏して言いました。


ばく高句麗こうくり)の人々が法にそむきましたが、その罪はとうの発意によるものではありません。ここはひとず(高句麗こうくりを)安慰あんいされますように。今みだりに大罪として処分を加えられますならば、反乱を誘発する恐れがあります」


ですが王莽おうもうはこの意見をれず、みことのりを下して厳尤げんゆうに攻撃を命じました。

そこで厳尤げんゆう句麗侯くりこうとうに会見を申し入れると、やって来たところを斬り殺してその首を長安ちょうあんに送りました。

王莽おうもうは大いに喜んでこれを天下に布告し、高句麗こうくりの名を改めて下句麗げくりと呼ぶように命じます。これ以降、貊人ばくじん高句麗こうくり)の辺境への略奪がいよいよ激しくなりました。

後漢ごかん光武帝こうぶてい

  • 後漢ごかん建武けんぶ8年(32年)、高句麗こうくりが使者を派遣して朝貢して来ると、光武帝こうぶていはその王号を下句麗侯げくりこうから高句麗王こうくりおうに戻しました。
  • 建武けんぶ23年(47年)冬、句麗くり高句麗こうくり)の蠶支落さんしらく大加たいか戴升たいしょうら1万余人が幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐんにやって来て内属しました。
  • 建武けんぶ25年(49年)春、句麗くり高句麗こうくり)が幽州ゆうしゅうの、
    • 右北平郡ゆうほくへいぐん
    • 渔陽郡ぎょようぐん
    • 上谷郡じょうこくぐん
    • 太原郡たいげんぐん幷州へいしゅう并州へいしゅう)]

を荒らし回りましたが、遼東太守りょうとうたいしゅ祭肜さいゆうが恩徳と信義をもって彼らをまねくと、みな再び国境にやって来て親しくまじわりを結びました。

後漢ごかん和帝わてい殤帝しょうてい安帝あんてい

高句麗王・宮
  • 高句麗王こうくりおうきゅう*1は、生まれながらにして目を開き、物を見ることができたので、高句麗こうくりの国人たちはきゅう*1に期待を寄せていました。こうして勇壮に成長した高句麗王こうくりおうきゅう*1は、しばしば辺境をおかすようになります。
和帝わてい
  • 和帝わてい元興げんこう元年(105年)春、高句麗こうくりは再び幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに侵入して6県を荒らしましたが、遼東太守りょうとうたいしゅ耿夔こうきがこれを撃破してその渠帥きょすいを斬りました。
安帝あんてい
  • 安帝あんてい永初えいしょ5年(111年)、高句麗王こうくりおうきゅう*1は使者を派遣して朝貢し、幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属したいと求めました。
  • 元初げんしょ5年(118年)、高句麗こうくり濊貊わいばくと共に再び玄菟郡げんとぐんを荒らし、華麗城かれいじょうを攻撃しました。
  • 建光けんこう元年(121年)春、幽州刺史ゆうしゅうしし馮煥ふうかん玄菟太守げんとたいしゅ姚光ようこう遼東太守りょうとうたいしゅ蔡諷さいふう蔡風さいふう)らが長城の外に出て高句麗こうくり濊貊わいばくらを攻撃し、濊貊わいばく渠帥きょすいを捕らえて斬り、兵馬・財物を得ました。

高句麗王こうくりおうきゅう*1嗣子しし遂成すいせいに2千の兵をひきいさせ、姚光ようこうらを迎撃させていましたが、濊貊わいばくらが敗れるといつわって降伏し、講話を申し入れました。

姚光ようこうらがこれを信じて攻撃を止めると、高句麗王こうくりおうきゅう*1は、遂成すいせいけわしい地形を利用して大軍の退路を遮断させ、その上でひそかに3千人を派遣して玄菟郡げんとぐんを攻めて候城県こうじょうけんに火をかけ、遼東郡りょうとうぐん遼隧県りょうすいけんに侵入して役人や民衆を殺傷しました。

これに姚光ようこうらは広陽郡こうようぐん渔陽郡ぎょようぐん右北平郡ゆうほくへいぐんの兵を召集し、涿郡属国たくぐんぞっこくの3千騎余りを加えて共にこれを救援しましたが、貊人ばくじん高句麗こうくり)たちはすでに引きげた後でした。

  • 夏、高句麗こうくりは再び遼東郡りょうとうぐん鮮卑せんぴ8千余人と共に遼東郡りょうとうぐん遼隧県りょうすいけんを攻撃して、役人を殺害したので、遼東太守りょうとうたいしゅ蔡諷さいふう蔡風さいふう)は軽装備で軍吏や兵士を引き連れて遼東郡りょうとうぐん新昌県しんしょういんまでこれを追撃しましたが、戦いに敗れて戦死してしまいました。

この時、

    • 功曹こうそう耿耗こうもう
    • 兵曹掾へいそうえん龍端りゅうたん
    • 兵馬掾へいばえん公孫酺こうそんほ

らは身をていして蔡諷さいふう蔡風さいふう)を守って共に戦死し、この戦いの死者は100人余りにのぼりました。

  • 秋、高句麗王こうくりおうきゅう*1馬韓ばかん*2濊貊わいばくの数千騎をひきいて幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんを包囲しました。

この時、夫余王ふよおうは子の尉仇台いきゅうたいに2万余人をひきいさせ、州郡と力を合わせてこれを撃ち破り、5百級余りを斬首しました。

高句麗王・遂成

この年、高句麗王こうくりおうきゅう*1が亡くなって子の遂成すいせいが後をぎました。

玄菟太守げんとたいしゅ姚光ようこうが、


きゅう*1に乗じて兵を出して高句麗こうくりを攻撃したく存じます」


と上言すると、議者はみな「許可するべきだ」と言いました。

ですが、これに尚書しょうしょ陳忠ちんちゅうは、


きゅう*1は生前、凶暴で狡猾こうかつであったため、姚光ようこうは討伐できませんでした。死んだからと言ってこれを攻撃するのは義にかないません。どうか使者を派遣して弔問ちょうもんさせ、そこできゅう*1の生前の罪を責めた上で許して罰を加えず、その将来の善行に期待するべきです」


と言い、安帝あんてい陳忠ちんちゅうの言葉に従います。その結果、翌年の建光けんこう2年(122年)、高句麗王こうくりおう遂成すいせいかんの奴隷を返還し、幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんまでやって来て降伏しました。

安帝あんていみことのりを下し、


遂成すいせいたちは悪逆非道であり、まさしく斬殺して塩漬けにし、人々に示すべきではあるが、幸いにも恩赦おんしゃを受け、罪を認めて降伏を求めた。鮮卑せんぴ濊貊わいばくは連年略奪して住民を誘拐すること、時には数千に及ぶにもかかわらず、遂成すいせいは百人足らずの奴隷を返送してきたに過ぎない。改心する心があるとは言えまい。今後、県官と戦闘をけてみずから服属して奴隷(生口せいこう)を返還する者にはすべて代価を与えることとし、1人につき絹40匹、小口しょうこうはその半分とする」


と言いました。


高句麗王こうくりおう遂成すいせいが亡くなると、子の伯固はくこが後をぎました。その後、濊貊わいばくはおおむね服従し、東方の辺境は大人しくなります。

後漢ごかん順帝じゅんてい質帝しつてい桓帝かんてい霊帝れいてい

高句麗王・伯固
順帝じゅんてい

順帝じゅんてい陽嘉ようか元年(132年)、後漢ごかん幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに6部の屯田とんでん軍屯ぐんとん)を置きました。

質帝しつてい桓帝かんてい

質帝しつてい桓帝かんていの治世になると、高句麗こうくりは再び新安しんあん居郷きょきょう民郷みんきょう)で略奪を働き、さらに幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん西安平県せいあんぺいけんに侵犯。その道すがら帯方令たいほうれいを殺害し、楽浪太守らくろうたいしゅの妻子を奪い去りました。

霊帝れいてい

霊帝れいてい建寧けんねい2年(169年)、玄菟太守げんとたいしゅ耿臨こうりんがこれを討伐し、斬首や捕虜にした者は数百にのぼりました。

すると高句麗王こうくりおう伯固はくこは降伏し、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんの支配下に入りましたが、熹平きへい年間(172年〜178年)に、高句麗王こうくりおう伯固はくこの願い出により幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属すことになりました。

脚注

*1三国史記さんごくしきによると、第6代の太祖大王たいそだいおう国祖王こくそおう)。いみなきゅうで、小名は於漱おそう

*2古代朝鮮半島の南部に居住した韓族かんぞくの1つ。当時、韓族かんぞくは3つに分かれ、馬韓ばかんは半島の南西部にあり、大小50余国から構成され、一種の部族連合的段階にあったものとみられている。

後漢ごかん献帝けんてい

高句麗王・伯固

献帝けんてい中平ちゅうへい6年(189年)、公孫度こうそんたく公孫度こうそんど)が海東かいとうの地域に勢力を伸ばすと、高句麗王こうくりおう伯固はくこ大加たいか優居ゆうきょ主簿しゅぼ然人ぜんじんらを派遣して公孫度こうそんたく公孫度こうそんど)を助けて富山ふざんぞくを撃ち破りました。

高句麗王・伊夷模

高句麗王こうくりおう伯固はくこには2人の息子がいました。長子を拔奇ばっきと言い、次子を伊夷模いいもと言います。

伯固はくこが亡くなると、長子の拔奇ばっきおろかであったため、国人たちは協議して伊夷模いいも高句麗王こうくりおうに立てました。高句麗こうくり伯固はくこの時代以来、しばしば幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんで略奪を働き、また逃亡して来た匈奴きょうど)の5百余家を受け入れていました。

献帝けんてい建安けんあん年間(196年〜220年)*3、(自称)遼東王りょうとうおう公孫康こうそんこうは軍を出して高句麗こうくりに攻撃を加え、その都を破って邑落ゆうらくを焼きました。

一方、伯固はくこの長子・拔奇ばっきは、兄でありながら王位につけなかったことをうらみに思い、涓奴部けんどぶ消奴部しょうどぶ)のたちと共に、それぞれ下戸かこ(身分の低い者)3万余人をひきいて公孫康こうそんこうもとおもむいて降伏し、戻って沸流水ふつりゅうすい鴨緑江おうりょくこう)のそばに住居を定めました。

この時、降伏していた匈奴きょうど)も高句麗王こうくりおう伊夷模いいもそむいたので、伊夷模いいもは別に新しい都を立てました。拔奇ばっきはそのまま幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんおもむき、息子の駮位居はくいきょ句麗国くりこく高句麗こうくり)にとどまらせます。

その後、高句麗こうくりが再び幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに攻撃をかけて来たので、玄菟郡げんとぐん遼東郡りょうとうぐんと連合して迎撃し、これを大破しました。

脚注

*3公孫康こうそんこう公孫度こうそんたく公孫度こうそんど)の後をいだ建安けんあん9年(204)以降。

高句麗王・位宮

伊夷模いいもには嫡子ちゃくしがなく、位宮いきゅうという灌奴部かんどぶの女性と通じて生まれた子供がいました。伊夷模いいもが亡くなると位宮いきゅう高句麗王こうくりおうに即位します。

高句麗こうくりでは「似ていること」を「」と言い、この位宮いきゅう曾祖父そうそふきゅうと同じく、生まれ落ちるとすぐに目を開いて周囲の人々を見回すことがので、位宮いきゅうと名づけられました。位宮いきゅうは力があって勇敢で、くらをつけた馬を乗りこなし、狩猟・射撃に優れていました。

明帝めいてい曹叡そうえい)期
  • 明帝めいてい曹叡そうえい)の景初けいしょ2年(238年)、太尉たいい司馬懿しばいが軍勢をひきいて公孫淵こうそんえんを討った時、高句麗王こうくりおうきゅう位宮いきゅう)は主簿しゅぼ大加たいかつかわし数千人をひきいてちからえをさせました。
  • 斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし3年(242年)、高句麗王こうくりおうきゅう位宮いきゅう)は幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん西安平県せいあんぺいけんに侵入して略奪を働きました。
  • 正始せいし5年(244年)、幽州刺吏ゆうしゅうしし毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は、高句麗こうくりたびたび反逆して侵攻して来るため、諸軍の歩兵・騎兵1万人を指揮して幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんを進発し、諸街道を通って討伐の軍を起こしました。

これに高句麗王こうくりおうきゅう位宮いきゅう)は2万の歩兵・騎兵をひきいて沸流水ふつりゅうすい鴨緑江おうりょくこう)のほとりに出陣しましたが、梁口かつこうで大会戦となって敗北し、きゅう位宮いきゅう)は負け戦を重ねて逃走しました。

毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は馬をくくってかつぎ、車をつるして丸都山がんとざんに登ると、高句麗こうくりの都を破壊して4けたにのぼる首級しゅきゅうと捕虜を得ました。

高句麗こうくり沛者はいしゃ得来とくらいたびたびきゅう位宮いきゅう)をいさめましたが、きゅう位宮いきゅう)はその言葉に従いませんでした。

得来とくらい嘆息たんそくして、


「たちまちのうちにこの地に蓬蒿ほうこう(ヨモギ)が生えるだろう」


と言い、食事をらずに死んだので、高句麗こうくりの国民はみな彼をたたえ、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は「得来とくらいの墓を破壊するな」「墓の木をるな」「妻子を捕まえてもすべて釈放しろ」と諸軍に命令を下しました。

きゅう位宮いきゅう)はただ1人、妻子を連れて逃げ隠れしていましたが、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は軍を引きげて帰還します。

  • 正始せいし6年(245年)、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は再び征討を行い、きゅう位宮いきゅう)はついに買溝ばいこう置溝婁ちこうろう北沃沮きたよくそ)]へと逃走しました。

毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は玄菟太守げんとたいしゅ王頎おうきにこれを追撃させ、王頎おうき沃沮よくそを過ぎて千余里(約430km)、粛慎氏しゅくしんし挹婁国ゆうろうこくの古名)の南の境まで到達します。

そこで王頎おうきは、丸都がんとの山の石に功績をきざみつけて目印とし、不耐ふたいの城に銘文めいぶんしるしました。誅殺ちゅうさつしたり降伏させたりした数は8千余人にのぼりましたが、山にトンネルを掘って灌漑かんがいを行ったので、その地の住民はその恩恵を受けることができました。

高句麗と中国の関係年表

西暦 中国 高句麗 出来事
紀元前108年 てい  
  • 高句麗こうくり幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属させて県とする。
  • 鼓吹こすい伎人ぎじん下賜かしする。
  おうもう とう
  • 王莽おうもう匈奴きょうど討伐に動員した高句麗こうくり兵が逃亡する。
  • 高句麗こうくりを攻めた遼西大尹りょうせいたいいん田譚でんたんが戦死する。
  • 厳尤げんゆう句麗侯くりこうとうを会見に誘い出して斬る。
  • 王莽おうもう高句麗こうくりの名を下句麗げくりと改める。
  • 高句麗こうくりの略奪が激化する。
32年 こうてい  
  • 高句麗こうくりが朝貢する。
  • 光武帝こうぶてい高句麗こうくりの王号を下句麗侯げくりこうから高句麗王こうくりおうに戻す。
47年
  • 高句麗こうくり蠶支落さんしらく大加たいか戴升たいしょうら1万余人が楽浪郡らくろうぐんに内属する。
49年
  • 高句麗こうくり幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)の諸郡を荒らし回る。
  • 遼東太守りょうとうたいしゅ祭肜さいゆうが恩徳と信義をもって親しくまじわりを結ぶ。
105年 てい きゅう
  • 高句麗こうくりが再び幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんを荒らす。
  • 遼東太守りょうとうたいしゅ耿夔こうき高句麗こうくりを撃破して渠帥きょすいを斬る。
111年 あんてい
  • 高句麗王こうくりおうきゅうが朝貢して幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属すことを求める。
118年
  • 高句麗こうくり濊貊わいばくと共に再び玄菟郡げんとぐんを荒らし、華麗城かれいじょうを攻撃する。
121年

  • 馮煥ふうかん姚光ようこう蔡諷さいふう蔡風さいふう)らが高句麗こうくり濊貊わいばくらを攻撃し、濊貊わいばく渠帥きょすいを斬る。
  • 高句麗王こうくりおうきゅう嗣子しし遂成すいせい姚光ようこうらを迎撃させる。
  • きゅういつわって降伏し、大軍の退路を遮断して玄菟郡げんとぐん遼東郡りょうとうぐんの吏民を殺傷する。

  • 高句麗こうくり鮮卑せんぴと共に遼東郡りょうとうぐんを攻撃する。
  • 遼東太守りょうとうたいしゅ蔡諷さいふう蔡風さいふう)が戦いに敗れて戦死する。

  • きゅう馬韓ばかん濊貊わいばくの数千騎をひきいて幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんを包囲する。
  • 夫余王ふよおうが子の尉仇台いきゅうたいに2万余人をひきいさせ、州郡に協力してこれを撃ち破る。
  • 高句麗王こうくりおうきゅうが死に、子の遂成すいせいが後をぐ。
  • 安帝あんてい遂成すいせい弔問ちょうもんの使者を派遣する。
122年

すいせい

  • 高句麗王こうくりおう遂成すいせいかんの奴隷を返還し、幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに来て降伏する。
不明 はく
  • 高句麗王こうくりおう遂成すいせいが死に、子の伯固はくこが後をぐ。
  • 濊貊わいばくはおおむね服従し、東方の辺境は大人しくなる。
132年 じゅんてい
  • 幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに6部の屯田とんでん軍屯ぐんとん)を置く。
145年

168年
しつてい
  • 高句麗こうくりが再び幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに侵犯して、帯方令たいほうれいを殺害し、楽浪太守らくろうたいしゅの妻子を奪い去る。
かんてい
169年 れいてい
  • 玄菟太守げんとたいしゅ耿臨こうりん高句麗こうくりを討伐し、数百人を斬首・捕虜にする。
  • 高句麗王こうくりおう伯固はくこが降伏し、幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんに属す。
172年

178年
  • 高句麗王こうくりおう伯固はくこの願い出により幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属す。
189年 けんてい
  • 公孫度こうそんたく公孫度こうそんど)が海東かいとうの地域に勢力を伸ばす。
  • 高句麗王こうくりおう伯固はくこ公孫度こうそんたく公孫度こうそんど)を助けて富山ふざんぞくを撃ち破る。
不明
  • 高句麗王こうくりおう伯固はくこが死に、次子の伊夷模いいもが後をぐ。
  • 高句麗こうくりがしばしば幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐんで略奪を働く。
  • 高句麗こうくりが逃亡して来た匈奴きょうど)の5百余家を受け入れる。
204年

220年
  • 遼東郡りょうとうぐん公孫康こうそんこう高句麗こうくりを攻撃し、その都を破って邑落ゆうらくを焼く。
  • 高句麗王こうくりおう伊夷模いいもの兄・拔奇ばっき公孫康こうそんこうもとおもむいて降伏する。
  • 高句麗こうくりに降伏していた匈奴きょうど)が高句麗王こうくりおう伊夷模いいもそむく。
  • 高句麗こうくりが新しい都を立てる。
  • 高句麗こうくり幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに攻撃をかける。
  • 玄菟郡げんとぐん遼東郡りょうとうぐんの連合軍がこれを大破する。
不明   きゅう
  • 高句麗王こうくりおう伊夷模いいもが死に、子の位宮いきゅうが後をぐ。
238年 そうえい
  • 高句麗王こうくりおう位宮いきゅう太尉たいい司馬懿しばい公孫淵こうそんえん討伐に協力する。
242年 そうほう
  • 高句麗王こうくりおうきゅう位宮いきゅう)が幽州ゆうしゅう遼東郡りょうとうぐん西安平県せいあんぺいけんに侵入して略奪を働く。
244年
  • 幽州刺吏ゆうしゅうしし毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)が高句麗こうくり征討の軍を起こす。
  • 梁口かつこうで敗北した位宮いきゅうが逃亡する。
  • 毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)が高句麗こうくりの都を破壊する。
245年
  • 毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)が再び高句麗こうくり征討を行う。
  • 玄菟太守げんとたいしゅ王頎おうき挹婁国ゆうろうこくの南の境まで追撃する。

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