後漢・三国時代の異民族の内、東夷に分類される夫余国と挹婁についてまとめています。
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目次
夫余国
夫余国とは
夫余国
夫余国は、かつて中国の東北地方から朝鮮半島の北東部にかけて存在した部族名・国名。
夫餘国・扶餘国・扶余国とも書き、民族の系統についてはツングース系*1とも言われていますが、定説はありません。
脚注
*1シベリアと中国の東北地方に生活している複数の民族の総称。
夫余国の紀元
夫余国の紀元は、北夷の索離国*2の王の外出中に、その侍女が後宮で妊娠したことから始まります。
帰還すると、王は彼女を殺そうとしましたが、
「前に天上に気があったので見てみると、その大きさは鶏の卵ほどで、私の元に降りて来て、そこで妊娠したのです」
という侍女の弁解を聞いた王は彼女を捕らえ、後に男の子が生まれました。
王がその男の子を豚小屋に放置させたところ、豚に息を吹きかけられた赤子は死なずに生き続け、試しに馬小屋に置いてみたところ、馬もまた同じようなことをしました。
王は「この子には神のご加護がある」と考え、そこで母親(侍女)にこの赤子を養育することを許し、「東明」と名づけました。
ですが、成長して弓術に長じるようになった東明を見た王は、その勇猛さを嫌って、また東明を殺そうとします。
そこで東明は南に向かって逃走しますが、掩淲水(蓋斯水)が行く手を阻みました。
東明が水面に向かって弓を射ると、魚や亀が集まって来て水上に浮かんだので、東明はこれに乗って河を渡ることができました。
こうして夫余の地に着いた東明は、夫余の王となりました。
脚注
*2『後漢書』東夷列伝より。『論衡』吉験篇では「橐離国」、『魏書』東夷伝では「槀離之国」とも。
夫余国の領域・戸数
夫余国は、長城の北、幽州・玄菟郡から千里(約430km)の場所にあり、
- 南は高句麗(高句驪)
- 東は挹婁
- 西は鮮卑
と接していて、北には弱水が流れています。
その領域は2千里四方、戸数は8万戸で、元は濊族の土地でした。
統治・風土・風俗
統治
統治制度
- 夫余国の民は定住していて、老人たちは「自分たちは古の中国からの逃亡者だ」と言っていました。
- 城や柵は中国の牢獄に似て円形に作られており、宮室や倉庫、牢獄などの建築物を有しています。
- 国には君王がおり、官名にはみな六畜*3に因んだ名前がついていて、
- 馬加
- 牛加
- 豬加
- 狗加
- 大使
- 大使者
- 使者
といった官職があり、邑落(村落)はみなそれぞれの加に所属していました。
- 馬加などの加官の者は、それぞれに分かれて都から四方に通じる道を治め、大きな領地を持つ者は数千家、小さな者は数百家を支配しています。
また、邑落(村落)ごとに豪民(勢力・財力をもつ者)がいて、下戸(身分の低い者)たちを奴婢や下僕のように使役していました。 - 天候が不順で五穀が実らない時には「その咎は王にある」とされ、「王は退位すべき」「王を殺すべき」という意見が出されるのが常でした。
脚注
*3馬・牛・羊・犬・豕・鶏の6種の家畜のこと。史料にはないが、羊加や鶏加もあったと思われる。
軍事
- 夫余国の人々は大柄で勇猛ですが、慎み深く誠実な性格で他国への侵攻や略奪は行わず、弓・矢・刀・矛を武器として用い、家ごとに鎧や武器を蓄えています。
- 軍事行動を起こす時には天を祭り、牛を殺してその蹄を見て吉凶を占って、蹄が分かれていれば凶、合わさっていれば吉と判断します。
- 敵と戦う場合には、馬加などの加官の者たちが戦い、下戸(身分の低い者)の者たちはみなで兵糧を運んで戦士たちに食物を供給しました。
刑罰
夫余国は刑罰の適用が極めて厳しく、
- 人を殺した者は死刑に処せられ、その家族は没収されて奴婢とされます。
- 窃盗を働いた者は、盗んだ物の12倍を弁償させられます。
- 男女が密通したり、女性が嫉妬深かったりした時には、みな死刑に処せられます。特に嫉妬が嫌われ、死刑に処した後にその死体を都の南の山上に運んで晒し、腐爛するにまかされました。女の家の者がその死体を引き取りたいと思う時には、牛や馬を納めて初めて死体を返還されます。
風土
- 領内には山や丘が多く、湿地が広がっていて、東夷の地域の内では最も平坦で、その土地は五穀を植えるのに適していますが、五果(桃・李・杏・栗・杏・棗などの主要な果物)の生育には適していません。
- 夫余国の民は家畜を飼うことに巧みで、名馬や赤玉、貂・豽(狖)*4、大きなものは酸枣(サネブトナツメ)程もある美珠(真珠)を産出します。
脚注
*4『後漢書』東夷列伝・李賢注に「豽は豹に似ており前足がない」とある。
風俗
儀礼
- 殷の正月[臘月(旧暦の12月)]には天を祭り、国中の者がこぞって集まって盛大に宴会が開かれ、連日、飲食歌舞が行われます。この行事は迎鼓と呼ばれ、この時に裁判の判決が下されたり、囚徒の釈放が行われました。
- 死者が出た時には、夏ならば遺体を保存するために氷を用い、殉葬のために人を殺し、多い場合にはそれが数百人にもなります。葬送の礼は丁重で、槨(墓室)はありますが、棺(棺桶)はありません。
- 停喪*5期間は5ヶ月で、その期間が長いことを名誉だと考えていました。
- 死者に対する祭礼には生ものと調理したものの両方が用いられます。
- 埋葬する際には、喪主はなるべくゆっくり行おうとし、他の人々はそれを急き立てるので、両者の言い争いの中で葬送の列が進みます。
- 喪に服している期間は、男女共に純白の衣服を身につけ、婦人は布の面衣(顔を覆うヴェール)をつけ、環珮を外すなど、おおよそ中国での場合とよく似ています。
- 王を弔う際には、埋葬するのに玉匣(金縷玉衣)を使用し、漢の朝廷はいつも、あらかじめ玉匣(金縷玉衣)を幽州・玄菟郡の役所に預けておいて、王が亡くなると夫余国の者たちがその玉匣(金縷玉衣)を受け取りに来て埋葬に用いました。
脚注
*5殯。死者を埋葬するまで、一定期間遺体を仮安置して別れを惜しむこと。
風習
- 飲食には俎や豆*6を用い、人々が集まる際には爵を受けると洗って返し、中国の礼のように手を胸の前で合わせて(揖・拱手)から、先を譲り合って座ったり、座席を離れたりしました。
- 通訳が言葉を伝える時にはみな跪き、手を地についてボソボソと話します。
- 匈奴の風習と同じく、兄が亡くなれば弟が嫂を妻にします。
- 道行く人は昼夜の別なく老いも若きも歌吟をうたい、1日中歌声を絶やすことがありません。
脚注
*6俎は食物を盛るまな板状の食器。豆は食物を盛る脚の高い台のこと。高杯。
服飾
- 国内では白色の着物が上服とされ、白い布の大袂(ふりそで)の袍と袴を着け、革の鞜をはいていました。
- 国外に出る時は、繒(きぬ)・繡(ぬいとり)・錦(にしき)・罽(毛織物)のものが上服とされ、大人はその上に狐狸や狖白、黒貂の裘を重ね、帽子には金銀の飾りをつけました。
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夫余国の歴史
霊帝期までの年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
25年〜56年 |
■光武帝(劉秀)の建武年間
|
49年 |
■光武帝(劉秀)の建武25年
|
111年 |
■安帝の永初5年
|
120年 |
■安帝の永寧元年
|
136年 |
■順帝の永和元年
|
161年 |
■桓帝の延熹4年
|
167年 |
■桓帝の永康元年
|
174年 |
■霊帝の熹平3年
|
脚注
*7天子が群臣に賜る宴会音楽。「大予楽」「周頌雅楽」「短簫鐃歌」と並ぶ漢楽四品の1つ。
*8「組み合って力と技を角べる相撲に似た儀礼的な競技。見世物・娯楽としても喜ばれた。由来については、蚩尤あるいは秦末の黄公という幻術士を模したものとされる。
献帝期以降の夫余国
尉仇台
夫余国は元々幽州・玄菟郡に属していましたが、後漢の献帝期、公孫度(公孫度)が海東の地域に勢力を伸ばして異民族たちを威服させると、夫余王の尉仇台は改めて幽州・遼東郡の支配下に入りました。
この当時、句麗(高句麗)と鮮卑の勢力が強かったので、夫余国がこの2つの異民族の間に位置していることから、公孫度(公孫度)は自分の一族の娘を尉仇台に妻として与えました。
簡位居
尉仇台が亡くなると、簡位居が夫余王に即位しました。
簡位居が亡くなると、簡位居には嫡子(正室の子)がいなかったので、加官の位にある者たちは共議して、孽子(妾腹)の麻余(麻餘)を夫余王に即位させました。
麻余(麻餘)/ 位居
牛加であった兄の子・位居は、大使の位につくと財貨を惜しまず人々に施したので、国人たちは彼につき従いました。
位居はまた、年ごとに京師[洛陽(雒陽)]に使者を送って貢ぎ物を献上しました。
魏の斉王(曹芳)の正始年間(240年〜249年)、幽州刺史の毌丘倹(毋丘倹)が句麗(高句麗)を討伐した時のこと。
毌丘倹(毋丘倹)が玄菟太守の王頎を夫余国に遣わすと、位居は大加の位の者に郊外(都の外)まで出迎えさせて、軍糧を供出しました。
その後、牛加の位にある季父(末の叔父)が魏に叛こうとしたので、位居は季父(末の叔父)とその子を殺してその財産を没収し、使者を派遣して没収した物に帳簿をつけて官に差し出しました。
依慮
麻余(麻餘)が亡くなると、その子の依慮が6歳で王に即位しました。
夫余王の倉庫には、玉璧・珪・瓚(いずれも玉製品)などが代々宝として伝えられており、老人たちの言うところでは「王の祖先が中国から賜ったものである」とされています。
また、夫余王の用いる印に刻まれた文字に「濊王之印」とあり、国内には濊城と呼ばれる古い城があります。
夫余国は元々濊貊の地に王として君臨してできた国ですので、自ら「中国からの亡命者」と称していることも、理由がない訳ではありません。
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挹婁
挹婁の領域
挹婁
挹婁は古の肅慎(粛慎)の国で、夫余国から東北に千里(430km)余りの場所にあり、
- 東は大海(日本海)
- 南は北沃沮
と接していて、北はどこまで広がっているのか分かりません。
統治・風土・風俗
統治
統治制度
- 君長は存在せず、邑落(村落)ごとにそれぞれ大人がいます。
- 漢の勃興以来、夫余国に臣従しています。
軍事
- 種族の人口は少ないですが、それでも勇敢で力持ちが多く、弓術に優れており、人の目を狙って撃ち込むことができるほど正確な射撃ができます。
- 弓の長さは4尺(約92.4cm)で、その威力は弩に匹敵します。
- 矢は楛(ニンジンボク)の木を用い、長さは1尺8寸(約41.58cm)で青石を鏃とし、鏃にはすべて毒が塗ってあるので、人に当たれば即死します。
- 操船に優れ、略奪を好むので、隣国は畏怖して悩みの種としていましたが、それでも遂に服属させることができませんでした。
風土
- 挹婁の土地は山や険阻な地形が多く、人々の容姿は夫余国人と似ていますが、言語は各々異なります。
- 五穀や麻布、赤玉、良質の貂を産出します。
風俗
- 気候が極寒なため、山林の間に穴居*9をつくって居住しました。穴が深いほど貴いとされ、大家の穴の深さは9段の梯子をつなぐほどになります。
- 好んで豚を飼い、その肉を食べ、その皮を着て、冬には豚の脂を身体に塗って風の寒さを防ぎますが、塗る脂の厚さは数分*10にもなります。
- 夏には半裸になり、尺布で下半身の前後を覆います。
- 挹婁の人々は臭く汚く不潔で、厠を住居の中に作り、これを囲んで住んでいます。
- 東夷の夫余国では飲食に概ね俎や豆*6を用いますが、挹婁だけは俎や豆*6を用いることはなく、法制的にも風俗的にも最も規範が乱れた地域と言えます。
脚注
*6俎は食物を盛るまな板状の食器。豆は食物を盛る脚の高い台のこと。高杯。
*9洞窟や横穴などを住居とする居住様式。中国北部の黄土地帯では黄土によって構成された台地の崖や丘陵の斜面などに横穴をうがって住居とすることが古くから行われ、現在でもこのような住居をもつところが多い。
*101分は約2.31mm。