後漢・三国時代の異民族の内、東夷に分類される東沃沮・北沃沮・濊族(濊貊)についてまとめています。
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目次
東沃沮
東沃沮の領域・戸数
東沃沮
東沃沮は、高句麗(高句驪・句麗)の蓋馬大山の東にあり、
- 東は現在の日本海
- 北は挹婁・夫余国
- 南は濊貊
と境を接しています。
その領域は千里四方で、東西は狭く、南北に長くなっており、戸数は5千戸ほどでした。
統治・風土・風俗
統治
統治制度
- 東沃沮には王はおらず、邑落(村落)ごとに渠帥(首長)がいます。
- 沃沮の邑落(村落)の渠帥(首長)たちがみな三老と名乗っているのは、漢の支配下にあった時の、県国の制度に則ったものです。
軍事
- 人々の性格は質実剛健で、牛や馬が少ないことから、矛による歩兵戦を得意としています。
風土
- 東沃沮の土地は山を背にして海に向かって開けており、その土壌は肥沃で五穀がよく成長し、農耕に適しています。
風俗
風習
- 言語、飲食、住居、衣服などは、高句麗とほとんど同じで、小さな違いがあるだけです。
婚礼
- 娘が10歳になると婚約を行い、婿の家が迎え取って養い、成長した後に婦とします。
- 成人するともう1度女の家に帰され、女の家の方から結納金を求め、結納金が完全に支払われると、再び婿の元に帰されます。
葬礼
- その葬儀は、大木で長さ10丈(約23.1m)余りの椁(棺を覆う外囲い・墓室)を作り、一端を開いて戸口とします。
- 亡くなった者がいれば、まず1度仮りの埋葬を行い、遺体がやっと隠れる程度に土をかけ、皮や肉が腐敗し尽くすのを待ってから、骨を拾い集めて椁の中に安置します。
- 一つの家族の者は、亡くなるとみな1つの椁に葬られ、死者が出るたびに生前の姿を彫った木像を作るので、その数は死者の数と同じになります。
- 瓦䥶(土製の三足の器・鬲)の中に米を入れ、紐で縛って椁の入り口の辺りにぶら下げます。*1
脚注
*1鬲にお粥を入れてぶら下げ、魂の依代とする儀礼は中国でも行われ、「重」と呼ぶ。《『儀礼』士喪礼》
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北沃沮
北沃沮の領域
北沃沮
北沃沮は別名を置溝婁(買溝)と言い、南沃沮(東沃沮)から8百余里(約344km)の場所にあり、北は挹婁と境を接しています。
風俗
風俗は、南沃沮(東沃沮)と異なるところはありません。
北の境を接する挹婁が船を使って盛んに侵入・略奪を行うため、北沃沮はこれを畏れて、毎年夏になると険しい山の深い洞窟の中で守りを固め、冬に氷が張って船の通行ができなくなると、山を下りて再び邑落(村落)に居住します。
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沃沮の歴史
沃沮と中国の関係
【前漢】初期
漢代の初め、燕から逃亡した衛満が朝鮮に国を建てて王となると、沃沮の者たちはみなその支配下に入りました。
【前漢】武帝期
前漢の元封2年(紀元前109年)、武帝が朝鮮を征伐し、衛満の孫・右渠を殺害すると、その土地を分けて4つの郡*1を置き、沃沮城に玄菟郡の役所を置きました。
後に夷貊の侵入を受けたことから、郡の役所は高句麗の西北に移され、楽浪郡に属することになりました。
前漢の朝廷では、その土地が広く遠くまで及ぶことから、単単大嶺(太白山脈)の東側の部分に楽浪東部都尉を置き、不耐城を治所として嶺東の7県*2を治めさせましたが、この時、沃沮は改めて県とされ、楽浪東部都尉に属すことになりました。
脚注
*1真番郡・臨屯郡・楽浪郡・玄菟郡の4郡。
*2東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭昧県・前莫県・夫租県(沃沮県)の7県。
【後漢】光武帝期
後漢の建武6年(30年)、国境地帯の郡が整理された時、楽浪東部都尉もこれを機に廃止されました。これ以降、元楽浪東部都尉の県の主立った渠帥(首長)が県侯に封ぜられ、
- 不耐県
- 華麗県
- 夫租県(沃沮県)
の諸県はみな侯国となります。
異民族たちが争い合う中で、ただ不耐国の濊侯だけは現在*3も功曹や主簿などの官僚機構を置き、濊族の者たちがその官についています。
脚注
*3正史『三国志』が編纂された晋の初め[太康元年(280年)]以降?
高句麗支配下
沃沮の国は小さく、大国の間にあって圧迫を受け、結局は高句麗の支配下に入りました。
高句麗は元通り沃沮の大人に使者の官を与え、その地の統治にあたらせ、高句麗の大加に命じて租税の徴収や貊布(貂布)、魚、塩、食用の海産物の献上の一切を請け負わせました。沃沮の者は、それらの献上品を千里(約430km)の距離を担いで高句麗まで運びます。
また高句麗は、沃沮の美女を送らせて召使いや妾とし、奴婢や下僕のように扱いました。
【魏】明帝(曹叡)期
正始6年(245年)、魏の幽州刺吏・毌丘倹(毋丘倹)が高句麗を討伐すると、高句麗王の位宮は東沃沮に逃げ込みました。そこで毌丘倹(毋丘倹)は、沃沮の地まで軍を進めてその邑落(村落)をすべて打ち破り、斬首・捕虜にされた者は3千余人にのぼりました。
高句麗王・位宮はさらに北沃沮に逃げ込み、これを追った玄菟太守の王頎は、北沃沮の東方の境界までやって来ました。
王頎がその土地の老人に、
「この海の東にも人間は住んでいるのだろうか?」
と尋ねると、老人は次のように答えました。
- 「この国の者が昔、船に乗って魚を捕っていたところ、暴風雨に遭って数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では、毎年7月に童女を選んで海に沈めます」
- 「海中には、他に女ばかりで男がいない国があります」
- 「1枚の布製の着物が海から漂い着いたことがあります。その着物の身頃(大きさ)は普通の人の着物と代わりませんが、両袖は3丈(約6.93m)もの長さがありました」
- 「難破船が波に流され海岸に漂い着いたことがあり、その船には項のところにもう1つの顔がある人間がいて生け捕りにされましたが、話しかけても言葉が通じず、食べ物を摂らずに死にました」
またある人は、
「その国には神の井戸があり、その中を覗くと子供を産む」
と言いました。こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあります。
沃沮と中国の関係年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
B.C.195年 |
|
B.C.109年 |
■前漢・武帝の元封2年
|
不明 |
|
30年 |
■後漢・光武帝の建武6年
|
不明 |
東沃沮が高句麗の支配下に入る。 |
245年 |
■魏・明帝(曹叡)の正始6年
|
濊族(濊貊)
濊族(濊貊)の領域・戸数
濊族(濊貊)
濊族(濊貊)は、
- 北は高句麗(高句驪・句麗)、沃沮
- 南は辰韓
- 東は現在の日本海
- 西は楽浪郡
に接しており、戸数は2万戸、濊貊・沃沮・高句麗は、元はみな衛氏朝鮮の土地でした。
統治・風土・風俗
統治
統治制度
大君長はおらず、漢代以来、
- 侯
- 邑君
- 三老
といった官の者が、下戸(平民)たちを統治していました。
単単大嶺(太白山脈)以西の地は楽浪郡の支配下にあり、嶺東の7県*2は楽浪東部都尉が治めていましたが、共に濊族がその住民を構成しています。
後に楽浪東部都尉が廃止され、濊族の渠帥が濊侯に封ぜられました。
異民族たちが争い合う中で、ただ不耐国の濊侯だけは現在*3も功曹や主簿などの官僚機構を置き、濊族の者たちがその官についています。漢末になると、高句麗の支配下に入りました。
その後濊族は魏に降伏し、不耐侯(濊族の長)は不耐濊王の位を授けられましたが、特別な宮殿はなく、一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所にやって来て朝謁します。
また、楽浪郡と帯方郡の2郡に軍征や特別な徴税がある時には、彼らにも税や夫役が割り当てられ、普通の郡の住民と同じような扱いを受けました。
脚注
*2東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭昧県・前莫県・夫租県(沃沮県)の7県。
*3正史『三国志』が編纂された晋の初め[太康元年(280年)]以降?
軍事
- 長さ3丈(約6.93m)の矛を作り、時に数人がかりでこれを持って、巧みに歩兵線を行います。
刑罰
- 邑落(村落)の間で侵犯があると、罰として奴隷や牛馬を取り立てられます。この制度を「責禍」と言います。
- 人を殺した者は死をもって罪を償わされます。
風土
- 麻布を産出し、蚕を飼い桑を育てて真綿を作ります。
- 楽浪檀弓と呼ばれるマユミの木を使ってつくった弓を産出します。
- 海では班魚を産出し、陸には文豹(模様のある豹)が多く、また果下馬*4を産出します。後漢の桓帝の時代、濊族の使者が来るとみなこれを献上しました。
脚注
*4ポニー。馬高3尺(約69.3cm)程で、これに乗ったまま果樹の下を通ることができたので果下馬と名づけられました。
風俗
祭祀
- 星宿の観測に通暁していて、その年の豊作・凶作を予知します。
- 毎年10月に、昼夜にわたって酒を飲み歌をうたい舞いをまう「舞天」と呼ばれる天の祭りを行います。
- 虎を神として祭っています。
風習
- 古くから濊族の古老たちによって「自分たちは高句麗と同じ種族」だと、言い伝えられています。
- 人々の性格は素朴で欲望に耽ることなく、廉恥(心が清らかで恥を知る心が強いこと)を知り、自立の精神を持っています。
- 略奪や泥棒は少ないです。
- 山や川が重視され、山や川にはそれぞれ所属するところがあって、みだりに他人の山や川に入り込むことは許されません。
- 言葉や風俗は、ほぼ高句麗と同じですが、衣服に違いがあり、男女の上衣は共に曲領(丸首の貫頭衣)を身につけ、男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとしています。
- 同姓の者は結婚しません。
- 濊族の婦人は貞操を守ります。
- 珠玉は珍重されません。
- 飲食は籩豆(食物を盛る器)を用います。
- 忌諱(忌み憚るべきこと)が多く、病気や死者が出ると、その度ごとに元の住居を棄て新居を造り直します。
濊族(濊貊)の歴史
朝鮮侯・箕子〜箕準
昔、周の武王が箕子を朝鮮に封じると、箕子は礼儀や農耕・養蚕を教え、教化のために「八條之教(8条の教え)」を制定しました。これにより濊族の人々には、住居を閉ざす門戸を作らなくても泥棒を働くような者はいなくなりました。
その40数代目にあたる子孫の朝鮮侯・箕準が、中国の承認を得ないまま朝鮮王を僭称します。
朝鮮王・衛満〜右渠
秦の二世皇帝元年(紀元前209年)7月、陳勝らが兵を起こし、天下が秦の支配に反抗した時、燕や斉、趙の民衆は戦乱を避けて朝鮮に移住し、その数は1万人にのぼりました。
燕から逃亡した衛満はこの地にやって来てると、朝鮮王・箕準を撃破して自ら朝鮮王として君臨します。
衛満は魋結(才槌形の髷)を結い、土着の人々と同じ服装をして統治にあたり、国は孫の右渠にまで引き継がれました。
前漢・武帝の元朔元年(紀元前128年)、濊君の南閭らが朝鮮王・右渠に反抗し、28万人を率いて幽州・遼東郡に内属します。武帝はその地を蒼海郡としましたが、数年で廃止しました。
【前漢】武帝期
元封3年(紀元前108年)夏、武帝は衛氏朝鮮を滅ぼすと、朝鮮の地に4つの郡*1を置きました。これ以降、朝鮮の土着民と漢族の移住民との間に区別がつけられるようになります。
脚注
*1真番郡・臨屯郡・楽浪郡・玄菟郡の4郡。
【前漢】昭帝期
始元5年(紀元前82年)になると、昭帝は臨屯郡と真番郡を廃止して楽浪郡と玄菟郡に併合しました。この時、玄菟郡は再び拠点を高句麗県に移し、単単大嶺(太白山脈)より東の沃沮・濊貊のことごとくは楽浪郡に属させました。
後に楽浪郡の領域が広すぎることから再び嶺東の7県*2を分割し、楽浪東部都尉を設置します。
前漢に内属して以降、濊族の風俗は段々と軽薄になり、禁令が増えて60余条を数えるまでになりました。
脚注
*2東暆県・不耐県・蚕台県・華麗県・耶頭昧県・前莫県・夫租県(沃沮県)の7県。
【後漢】光武帝期
後漢の建武6年(30年)、光武帝は楽浪東部都尉を廃止するとついに嶺東の地を放棄し、元楽浪東部都尉の県の主立った渠帥(首長)を県侯に封じます。以降、みな季節ごとに朝賀を行いました。
【魏】斉王(曹芳)期
魏の正始6年(245年)、楽浪太守の劉茂と帯方太守の弓遵は、嶺東の濊族が高句麗の支配下に入ったことから、軍を起こしてこれを攻めました。すると不耐侯(濊族の長)らは配下の邑落(村落)を挙げて降伏します。
魏の正始8年(247年)、濊族は魏の朝廷にやって来て朝貢しました。この時、詔により改めて不耐濊王の位が授けられました。
濊族と中国の関係年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
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B.C.209年 |
■秦の二世皇帝元年
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不明 |
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B.C.128年 |
■前漢・武帝の元朔元年
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B.C.108年 |
■前漢・武帝の元封3年
|
B.C.82年 |
■前漢・昭帝の始元5年
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不明 |
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30年 |
■後漢・光武帝の建武6年
|
不明 |
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245年 |
■魏・斉王(曹芳)の正始6年
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247年 |
■魏・斉王(曹芳)の正始8年
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