後漢(ごかん)・三国時代の異民族の内、東夷(とうい)に分類される東沃沮(ひがしよくそ)・北沃沮(きたよくそ)・濊族(わいぞく)(濊貊(わいばく))についてまとめています。

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東沃沮

東沃沮の領域・戸数

東沃沮

東沃沮(ひがしよくそ)


東沃沮(ひがしよくそ)は、高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))の蓋馬大山(がいばだいさん)の東にあり、

  • 東は現在の日本海
  • 北は挹婁(ゆうろう)・夫余国(ふよこく)
  • 南は濊貊(わいばく)

と境を接しています。

その領域は千里四方で、東西は狭(せま)く、南北に長くなっており、戸数は5千戸ほどでした。

統治・風土・風俗

統治

統治制度
  • 東沃沮(ひがしよくそ)には王(おう)はおらず、邑落(ゆうらく)(村落)ごとに渠帥(きょすい)(首長)がいます。
  • 沃沮(よくそ)の邑落(ゆうらく)(村落)の渠帥(きょすい)(首長)たちがみな三老(さんろう)と名乗っているのは、漢(かん)の支配下にあった時の、県国の制度に則(のっと)ったものです。
軍事
  • 人々の性格は質実剛健で、牛や馬が少ないことから、矛(ほこ)による歩兵戦を得意としています。

風土

  • 東沃沮(ひがしよくそ)の土地は山を背にして海に向かって開けており、その土壌(どじょう)は肥沃(ひよく)で五穀(ごこく)がよく成長し、農耕に適しています。

風俗

風習
  • 言語、飲食、住居、衣服などは、高句麗(こうくり)とほとんど同じで、小さな違いがあるだけです。
婚礼
  • 娘が10歳になると婚約を行い、婿(むこ)の家が迎(むか)え取って養(やしな)い、成長した後に婦(つま)とします。
  • 成人するともう1度女の家に帰され、女の家の方から結納金(ゆいのうきん)を求め、結納金(ゆいのうきん)が完全に支払われると、再び婿(むこ)の元に帰されます。
葬礼
  • その葬儀は、大木で長さ10丈(じょう)(約23.1m)余りの椁(かく)(棺(ひつぎ)を覆(おお)う外囲い・墓室)を作り、一端を開いて戸口とします。
  • 亡くなった者がいれば、まず1度仮りの埋葬(まいそう)を行い、遺体がやっと隠れる程度に土をかけ、皮や肉が腐敗(ふはい)し尽くすのを待ってから、骨を拾(ひろ)い集めて椁(かく)の中に安置します。
  • 一つの家族の者は、亡くなるとみな1つの椁(かく)に葬(ほうむ)られ、死者が出るたびに生前の姿を彫(ほ)った木像を作るので、その数は死者の数と同じになります。
  • 瓦䥶(がれき)(土製の三足の器(うつわ)・鬲(れき))の中に米を入れ、紐(ひも)で縛(しば)って椁(かく)の入り口の辺りにぶら下げます。*1
脚注

*1鬲(れき)にお粥(かゆ)を入れてぶら下げ、魂(たましい)の依(より)代(しろ)とする儀礼は中国でも行われ、「重(じゅう)」と呼ぶ。《『儀礼(ぎらい)』士喪礼(しもらい)》


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北沃沮

北沃沮の領域

北沃沮

北沃沮(きたよくそ)


北沃沮(きたよくそ)は別名を置溝婁(ちこうろう)(買溝(ばいこう))と言い、南沃沮(みなみよくそ)(東沃沮(ひがしよくそ))から8百余里(約344km)の場所にあり、北は挹婁(ゆうろう)と境を接しています。

風俗

風俗は、南沃沮(みなみよくそ)(東沃沮(ひがしよくそ))と異なるところはありません。

北の境を接する挹婁(ゆうろう)が船を使って盛んに侵入・略奪を行うため、北沃沮(きたよくそ)はこれを畏(おそ)れて、毎年夏になると険(けわ)しい山の深い洞窟の中で守りを固め、冬に氷が張って船の通行ができなくなると、山を下(お)りて再び邑落(ゆうらく)(村落)に居住します。


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沃沮の歴史

沃沮と中国の関係

【前漢(ぜんかん)】初期

漢(かん)代の初め、燕(えん)から逃亡した衛満(えいまん)が朝鮮(ちょうせん)に国を建てて王(おう)となると、沃沮(よくそ)の者たちはみなその支配下に入りました。

【前漢(ぜんかん)】武帝(ぶてい)期

前漢(ぜんかん)の元封(げんほう)2年(紀元前109年)、武帝(ぶてい)が朝鮮(ちょうせん)を征伐し、衛満(えいまん)の孫・右渠(ゆうきょ)を殺害すると、その土地を分けて4つの郡*1を置き、沃沮城(よくそじょう)に玄菟郡(げんとぐん)の役所を置きました。

後(のち)に夷貊(いばく)の侵入を受けたことから、郡の役所は高句麗(こうくり)の西北に移され、楽浪郡(らくろうぐん)に属することになりました。

前漢(ぜんかん)の朝廷では、その土地が広く遠くまで及ぶことから、単単大嶺(ぜんぜんたいれい)(太白山脈(たいはくさんみゃく))の東側の部分に楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)を置き、不耐城(ふたいじょう)を治所として嶺東(れいとう)の7県*2を治めさせましたが、この時、沃沮(よくそ)は改めて県とされ、楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)に属すことになりました。

脚注

*1真番郡(しんばんぐん)・臨屯郡(りんとんぐん)・楽浪郡(らくろうぐん)・玄菟郡(げんとぐん)の4郡。

*2東暆県(とういけん)・不耐県(ふたいけん)・蚕台県(さんたいけん)・華麗県(かれいけん)・耶頭昧県(やとうまいけん)・前莫県(ぜんばくけん)・夫租県(ふそけん)(沃沮県(よくそけん))の7県。

【後漢(ごかん)】光武帝(こうぶてい)期

後漢(ごかん)の建武(けんぶ)6年(30年)、国境地帯の郡が整理された時、楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)もこれを機に廃止されました。これ以降、元楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)の県の主(おも)立(だ)った渠帥(きょすい)(首長)が県侯(けんこう)に封ぜられ、

  • 不耐県(ふたいけん)
  • 華麗県(かれいけん)
  • 夫租県(ふそけん)(沃沮県(よくそけん))

の諸県はみな侯国(こうこく)となります。

異民族たちが争い合う中で、ただ不耐国(ふたいこく)の濊侯(わいこう)だけは現在*3も功曹(こうそう)や主簿(しゅぼ)などの官僚機構を置き、濊族(わいぞく)の者たちがその官についています。

脚注

*3正史(せいし)『三国志(さんごくし)』が編纂(へんさん)された晋(しん)の初め[太康(たいこう)元年(280年)]以降?

高句麗(こうくり)支配下

沃沮(よくそ)の国は小さく、大国の間にあって圧迫を受け、結局は高句麗(こうくり)の支配下に入りました。

高句麗(こうくり)は元通り沃沮(よくそ)の大人(たいじん)に使者(ししゃ)の官を与え、その地の統治にあたらせ、高句麗(こうくり)の大加(たいか)に命じて租税(そぜい)の徴収や貊布(ばくふ)(貂布(ちょうふ))、魚、塩、食用の海産物の献上の一切を請(う)け負(お)わせました。沃沮(よくそ)の者は、それらの献上品を千里(約430km)の距離を担(かつ)いで高句麗(こうくり)まで運びます。

また高句麗(こうくり)は、沃沮(よくそ)の美女を送らせて召使いや妾(めかけ)とし、奴婢(ぬひ)や下僕(げぼく)のように扱いました。

【魏(ぎ)】明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))期

正始(せいし)6年(245年)、魏(ぎ)の幽州刺吏(ゆうしゅうしし)・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が高句麗(こうくり)を討伐すると、高句麗王(こうくりおう)の位宮(いきゅう)は東沃沮(ひがしよくそ)に逃げ込みました。そこで毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は、沃沮(よくそ)の地まで軍を進めてその邑落(ゆうらく)(村落)をすべて打ち破り、斬首・捕虜にされた者は3千余人にのぼりました。

高句麗王(こうくりおう)・位宮(いきゅう)はさらに北沃沮(きたよくそ)に逃げ込み、これを追った玄菟太守(げんとたいしゅ)の王頎(おうき)は、北沃沮(きたよくそ)の東方の境界までやって来ました。

王頎(おうき)がその土地の老人に、


「この海の東にも人間は住んでいるのだろうか?」


と尋(たず)ねると、老人は次のように答えました。

  • 「この国の者が昔、船に乗って魚を捕っていたところ、暴風雨に遭(あ)って数十日も吹き流され、東方のある島に漂着(ひょうちゃく)したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では、毎年7月に童女(どうじょ)を選んで海に沈(しず)めます」
  • 「海中には、他に女ばかりで男がいない国があります」
  • 「1枚の布製の着物が海から漂(ただよ)い着いたことがあります。その着物の身頃(みごろ)(大きさ)は普通の人の着物と代わりませんが、両袖(りょうそで)は3丈(じょう)(約6.93m)もの長さがありました」
  • 「難破船(なんぱせん)が波に流され海岸に漂(ただよ)い着いたことがあり、その船には項(うなじ)のところにもう1つの顔がある人間がいて生け捕りにされましたが、話しかけても言葉が通じず、食べ物を摂(と)らずに死にました」

またある人は、


「その国には神の井戸があり、その中を覗(のぞ)くと子供を産む」


と言いました。こうした者たちのいる場所は、みな沃沮(よくそ)の東方の大海の中にあります。

沃沮と中国の関係年表

西暦 出来事
B.C.195年
  • 東沃沮(ひがしよくそ)が衛氏朝鮮(えいしちょうせん)の支配下に入る。
B.C.109年

■前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元封(げんほう)2年

  • 衛氏朝鮮(えいしちょうせん)が前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)に滅ぼされる。
  • 東沃沮(ひがしよくそ)が前漢(ぜんかん)の玄菟郡(げんとぐん)に属す。
不明
  • 東沃沮(ひがしよくそ)が楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)に属す。
30年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)6年

  • 楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)が廃止される。
  • 東沃沮(ひがしよくそ)の渠帥(きょすい)(首長)が県侯(けんこう)に封ぜられる。
不明

東沃沮(ひがしよくそ)が高句麗(こうくり)の支配下に入る。

245年

■魏(ぎ)・明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))の正始(せいし)6年

  • 魏(ぎ)の幽州刺吏(ゆうしゅうしし)・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が高句麗(こうくり)を討伐する。
  • 高句麗王(こうくりおう)・位宮(いきゅう)が東沃沮(ひがしよくそ)に逃げ込む。
  • 毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が東沃沮(ひがしよくそ)の邑落(ゆうらく)(村落)をすべて打ち破る。
  • 高句麗王(こうくりおう)・位宮(いきゅう)が北沃沮(きたよくそ)に逃げ込む。

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濊族(濊貊)

濊族(濊貊)の領域・戸数

濊族(濊貊)

濊族(わいぞく)(濊貊(わいばく))


濊族(わいぞく)(濊貊(わいばく))は、

  • 北は高句麗(こうくり)(高句驪(こうくり)・句麗(くり))、沃沮(よくそ)
  • 南は辰韓(しんかん)
  • 東は現在の日本海
  • 西は楽浪郡(らくろうぐん)

に接しており、戸数は2万戸、濊貊(わいばく)・沃沮(よくそ)・高句麗(こうくり)は、元はみな衛氏朝鮮(えいしちょうせん)の土地でした。

統治・風土・風俗

統治

統治制度

大君長(だいくんちょう)はおらず、漢(かん)代以来、

  • 侯(こう)
  • 邑君(ゆうくん)
  • 三老(さんろう)

といった官の者が、下戸(げこ)(平民)たちを統治していました。

単単大嶺(ぜんぜんたいれい)(太白山脈(たいはくさんみゃく))以西の地は楽浪郡(らくろうぐん)の支配下にあり、嶺東(れいとう)の7県*2は楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)が治めていましたが、共に濊族(わいぞく)がその住民を構成しています。

後(のち)に楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)が廃止され、濊族(わいぞく)の渠帥(きょすい)が濊侯(わいこう)に封ぜられました。

異民族たちが争い合う中で、ただ不耐国(ふたいこく)の濊侯(わいこう)だけは現在*3も功曹(こうそう)や主簿(しゅぼ)などの官僚機構を置き、濊族(わいぞく)の者たちがその官についています。漢(かん)末になると、高句麗(こうくり)の支配下に入りました。

その後濊族(わいぞく)は魏(ぎ)に降伏し、不耐侯(ふたいこう)(濊族(わいぞくの長)は不耐濊王(ふたいわいおう)の位を授(さず)けられましたが、特別な宮殿はなく、一般の住民と雑居していて、季節ごとに郡の役所にやって来て朝謁(ちょうえつ)します。

また、楽浪郡(らくろうぐん)と帯方郡(たいほうぐん)の2郡に軍征や特別な徴税がある時には、彼らにも税や夫役(ふえき)が割り当てられ、普通の郡の住民と同じような扱いを受けました。

脚注

*2東暆県(とういけん)・不耐県(ふたいけん)・蚕台県(さんたいけん)・華麗県(かれいけん)・耶頭昧県(やとうまいけん)・前莫県(ぜんばくけん)・夫租県(ふそけん)(沃沮県(よくそけん))の7県。

*3正史(せいし)『三国志(さんごくし)』が編纂(へんさん)された晋(しん)の初め[太康(たいこう)元年(280年)]以降?

軍事
  • 長さ3丈(じょう)(約6.93m)の矛(ほこ)を作り、時に数人がかりでこれを持って、巧(たく)みに歩兵線を行います。
刑罰
  • 邑落(ゆうらく)(村落)の間で侵犯があると、罰として奴隷(どれい)や牛馬を取り立てられます。この制度を「責禍(せきか)」と言います。
  • 人を殺した者は死をもって罪を償(つぐな)わされます。

風土

  • 麻布(あさぬの)を産出し、蚕(かいこ)を飼い桑(くわ)を育てて真綿(まわた)を作ります。
  • 楽浪檀弓(らくりょうだんきゅう)と呼ばれるマユミの木を使ってつくった弓を産出します。
  • 海では班魚(はも)を産出し、陸には文豹(ぶんひょう)(模様のある豹(ひょう))が多く、また果下馬(かかば)*4を産出します。後漢(ごかん)の桓帝(かんてい)の時代、濊族(わいぞく)の使者が来るとみなこれを献上しました。
脚注

*4ポニー。馬高3尺(約69.3cm)程で、これに乗ったまま果樹の下を通ることができたので果下馬(かかば)と名づけられました。

風俗

祭祀
  • 星宿の観測に通暁(つうぎょう)していて、その年の豊作・凶作を予知します。
  • 毎年10月に、昼夜にわたって酒を飲み歌をうたい舞いをまう「舞天(ぶてん)」と呼ばれる天の祭りを行います。
  • 虎を神として祭っています。
風習
  • 古くから濊族(わいぞく)の古老たちによって「自分たちは高句麗(こうくり)と同じ種族」だと、言い伝えられています。
  • 人々の性格は素朴で欲望に耽(ふけ)ることなく、廉恥(れんち)(心が清らかで恥を知る心が強いこと)を知り、自立の精神を持っています。
  • 略奪や泥棒は少ないです。
  • 山や川が重視され、山や川にはそれぞれ所属するところがあって、みだりに他人の山や川に入り込むことは許されません。
  • 言葉や風俗は、ほぼ高句麗(こうくり)と同じですが、衣服に違いがあり、男女の上衣は共に曲領(きょくれい)(丸首の貫頭衣)を身につけ、男子は幅(はば)数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとしています。
  • 同姓の者は結婚しません。
  • 濊族(わいぞく)の婦人は貞操(ていそう)を守ります。
  • 珠玉(しゅぎょく)は珍重されません。
  • 飲食は籩豆(へんとう)(食物を盛る器(うつわ))を用(もち)います。
  • 忌諱(きい)(忌(い)み憚(はばか)るべきこと)が多く、病気や死者が出ると、その度(たび)ごとに元の住居を棄(す)て新居を造り直します。

濊族(濊貊)の歴史

朝鮮侯(ちょうせんこう)・箕子(きし)〜箕準(きじゅん)

昔、周(しゅう)の武王(ぶおう)が箕子(きし)を朝鮮(ちょうせん)に封じると、箕子(きし)は礼儀や農耕・養蚕(ようさん)を教え、教化のために「八條之教(8条の教え)」を制定しました。これにより濊族(わいぞく)の人々には、住居(すまい)を閉ざす門戸を作らなくても泥棒を働くような者はいなくなりました。

その40数代目にあたる子孫の朝鮮侯(ちょうせんこう)・箕準(きじゅん)が、中国の承認を得ないまま朝鮮王(ちょうせんおう)を僭称(せんしょう)します。

朝鮮王(ちょうせんおう)・衛満(えいまん)〜右渠(ゆうきょ)

秦(しん)の二世皇帝(にせいこうてい)元年(紀元前209年)7月、陳勝(ちんしょう)らが兵を起こし、天下が秦(しん)の支配に反抗した時、燕(えん)や斉(せい)、趙(ちょう)の民衆は戦乱を避けて朝鮮(ちょうせん)に移住し、その数は1万人にのぼりました。

燕(えん)から逃亡した衛満(えいまん)はこの地にやって来てると、朝鮮王(ちょうせんおう)・箕準(きじゅん)を撃破して自(みずか)ら朝鮮王(ちょうせんおう)として君臨します。

衛満(えいまん)は魋結(ついけつ)(才槌(さいづち)形の髷(まげ))を結(ゆ)い、土着の人々と同じ服装をして統治にあたり、国は孫の右渠(ゆうきょ)にまで引き継がれました。


前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元朔(げんさく)元年(紀元前128年)、濊君(わいくん)の南閭(なんりょ)らが朝鮮王(ちょうせんおう)・右渠(ゆうきょ)に反抗し、28万人を率(ひき)いて幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に内属します。武帝(ぶてい)はその地を蒼海郡(そうかいぐん)としましたが、数年で廃止しました。

【前漢(ぜんかん)】武帝(ぶてい)期

元封(げんほう)3年(紀元前108年)夏、武帝(ぶてい)は衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼすと、朝鮮(ちょうせん)の地に4つの郡*1を置きました。これ以降、朝鮮(ちょうせん)の土着民と漢族(かんぞく)の移住民との間に区別がつけられるようになります。

脚注

*1真番郡(しんばんぐん)・臨屯郡(りんとんぐん)・楽浪郡(らくろうぐん)・玄菟郡(げんとぐん)の4郡。

【前漢(ぜんかん)】昭帝(しょうてい)期

始元(しげん)5年(紀元前82年)になると、昭帝(しょうてい)は臨屯郡(りんとんぐん)と真番郡(しんばんぐん)を廃止して楽浪郡(らくろうぐん)と玄菟郡(げんとぐん)に併合しました。この時、玄菟郡(げんとぐん)は再び拠点を高句麗県(こうくりけん)に移し、単単大嶺(ぜんぜんたいれい)(太白山脈(たいはくさんみゃく))より東の沃沮(よくそ)・濊貊(わいばく)のことごとくは楽浪郡(らくろうぐん)に属させました。

後(のち)に楽浪郡(らくろうぐん)の領域が広すぎることから再び嶺東(れいとう)の7県*2を分割し、楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)を設置します。

前漢(ぜんかん)に内属して以降、濊族(わいぞく)の風俗は段々と軽薄になり、禁令が増えて60余条を数えるまでになりました。

脚注

*2東暆県(とういけん)・不耐県(ふたいけん)・蚕台県(さんたいけん)・華麗県(かれいけん)・耶頭昧県(やとうまいけん)・前莫県(ぜんばくけん)・夫租県(ふそけん)(沃沮県(よくそけん))の7県。

【後漢(ごかん)】光武帝(こうぶてい)期

後漢(ごかん)の建武(けんぶ)6年(30年)、光武帝(こうぶてい)は楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)を廃止するとついに嶺東(れいとう)の地を放棄し、元楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)の県の主(おも)立(だ)った渠帥(きょすい)(首長)を県侯(けんこう)に封じます。以降、みな季節ごとに朝賀(ちょうが)を行いました。

【魏(ぎ)】斉王(せいおう)(曹芳(そうほう))期

魏(ぎ)の正始(せいし)6年(245年)、楽浪太守(らくろうたいしゅ)の劉茂(りゅうぼう)と帯方太守(たいほうたいしゅ)の弓遵(きょうじゅん)は、嶺東(れいとう)の濊族(わいぞく)が高句麗(こうくり)の支配下に入ったことから、軍を起こしてこれを攻めました。すると不耐侯(ふたいこう)(濊族(わいぞくの長)らは配下の邑落(ゆうらく)(村落)を挙(あげて降伏します。

魏(ぎ)の正始(せいし)8年(247年)、濊族(わいぞくは魏(ぎ)の朝廷にやって来て朝貢しました。この時、詔(みことのりにより改めて不耐濊王(ふたいわいおう)の位が授(さず)けられました。

濊族と中国の関係年表

西暦 出来事
不明
  • 周(しゅう)の武王(ぶおう)が箕子(きし)を朝鮮(ちょうせん)に封じる。
  • 箕子(きし)の40代目の子孫の朝鮮侯(ちょうせんこう)・箕準(きじゅん)が、朝鮮王(ちょうせんおう)を僭称(せんしょう)する。
B.C.209年

■秦(しん)の二世皇帝(にせいこうてい)元年

  • 燕(えん)から逃亡した衛満(えいまん)が箕準(きじゅん)を撃破して朝鮮王(ちょうせんおう)となる。
不明
  • 衛満(えいまん)の孫・右渠(ゆうきょ)が朝鮮王(ちょうせんおう)となる。
B.C.128年

■前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元朔(げんさく)元年

  • 濊君(わいくん)の南閭(なんりょ)らが幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)に内属する。
B.C.108年

■前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元封(げんほう)3年

  • 武帝(ぶてい)が衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼす。
B.C.82年

■前漢(ぜんかん)・昭帝(しょうてい)の始元(しげん)5年

  • 昭帝(しょうてい)が沃沮(よくそ)・濊貊(わいばく)を楽浪郡(らくろうぐん)に属させる。
不明
  • 昭帝(しょうてい)が楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)を設置する。
  • 濊族(わいぞく)の風俗が段々と軽薄になる。
30年

■後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)6年

  • 光武帝(こうぶてい)が楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)を廃止する。
  • 元楽浪東部都尉(らくろうとうぶとい)の県の主(おも)立(だ)った渠帥(きょすい)(首長)が県侯(けんこう)に封ぜられる。
不明
  • 濊族(わいぞくが高句麗(こうくり)の支配下に入る。
245年

■魏(ぎ)・斉王(せいおう)(曹芳(そうほう))の正始(せいし)6年

  • 魏(ぎ)の楽浪太守(らくろうたいしゅ)・劉茂(りゅうぼう)と帯方太守(たいほうたいしゅ)・弓遵(きょうじゅん)の攻撃を受ける。
  • 濊族(わいぞくが魏(ぎ)に降伏する。
247年

■魏(ぎ)・斉王(せいおう)(曹芳(そうほう))の正始(せいし)8年

  • 不耐侯(ふたいこう)(濊族(わいぞくの長)に不耐濊王(ふたいわいおう)の位が授(さず)けられる。

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【後漢・三国時代の異民族】目次