正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉖、河南郡(右扶風)賈氏(賈誼・賈嘉・賈光・賈徽・賈逵)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河内賈氏系図
河南郡(右扶風)賈氏系図
※賈光の時に河南郡から右扶風に移住した。
以下、河南郡(右扶風)賈氏の人物、
についてまとめています。
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か㉖[河内(右扶風)賈氏]
第1世代(賈誼)
賈誼
前漢の高祖7年(紀元前200年)〜前漢の文帝12年(紀元前168年)没。司隷・河南郡・雒陽県(洛陽県)の人。子に賈嘉。
18歳で『詩』や『書』を誦読することができ、文を綴ることに巧みなことで郡中に名高かったので、その噂を聞いた河南郡守の呉公に招かれて門下に置かれ、寵愛された。前漢の文帝は即位すると呉公を徵いて廷尉としたが、この時呉公は「賈誼は年少ながら諸家に通じていること」と言上したので、文帝は賈誼を召して博士とした。この時賈誼は20余歳、最年少の博士であった。
賈誼は詔令について下問される度に、老先生たちがまだ答えられないうちに悉く答えたが、それは誰もが心の中で思いながら言い表せない内容だったので、老先生たちも賈誼の才能を認めない訳にはいかなかった。文帝に気に入られ、異例の抜擢で1年の間に太中大夫にまで昇進した。
賈誼は、漢も建国して20余年が過ぎ、天下も平和に治まってきたので、新たに正朔や服色、制度、官名を定め、礼楽を興すべきであるとして、これらの礼儀・法度をつぶさに起草し、色は黄色を尊び、数は5を基準とし、官名を制定するなどして奏上したが、即位したばかりの文帝は謙遜して実施しなかった。
その後行われた法令の改定や列侯の人選も賈誼が発議したものだったので、文帝が群臣に「賈誼を公卿の位に就けること」を諮ったところ、多くの者がまだ若い賈誼を嫌って謗ったので、次第に文帝も彼を疎んじて建議を取り上げなくなり、長沙王の太傅とした。
賈誼は左遷されて出立したものの心中では納得ができず、湘水を渡る時、讒言により追放され、『離騒賦』を作って自ら江に身を投げた、楚の賢臣・屈原に我が身をたとえ、賦を作って彼を弔った。
また、賈誼が長沙の太傅となって3年、賈誼の官舎に不吉な鳥とされる梟が飛び入って部屋の隅に止まったことがあった。賈誼は、自分はすでに長沙に左遷された身であり、長沙は卑湿の地(土地が低くて湿気の多い土地)であることから、「到底長生きすることはできない」と嘆き悲しみ、賦を作って自らを慰めた。
それから1年余り経った頃、文帝は賈誼を思い彼を徵いた。賈誼が謁見すると、文帝は「鬼神(霊魂・神霊・天地創造の神)」について問うた。賈誼がその謂われを語り出すと、文帝は夜半まで膝を乗り出して聞き、その話に感心して、賈誼を梁の懐王[劉勝(劉揖)]の太傅とした。
懐王[劉勝(劉揖)]は文帝の末子で、父に愛され、読書を好んだので、賈誼をその傅役とした上で、漢朝の国家の得失についても彼に問うた。
当時は匈奴が強く辺境を侵しており、天下はようやく安定したものの、制度はまだ整っておらず、諸侯王は身分を越えて天子に比え、領地の広さは古代の制度を超え、淮南王・済北王らはいずれも叛逆して誅殺された。
そこで賈誼は、しばしば上疏して政事を述べ、これを匡して建て直そうとした。
当時、丞相であった絳侯・周勃は罷免されて領国に就いていたが、彼の謀叛を密告した者があった。周勃は捕らえられ、長安の獄に繋がれて取り調べを受けたが、結局その事実がなかったので、爵位・封邑を元に戻された。
文帝は賈誼の諫めの言葉を深く聞き入れて、臣下を恩養(慈しみ養うこと)するのに節度を持つようになった。これ以降、大臣は罪を得るとみな自殺して、刑罰を受けなかった。武帝の時に至って次第にまた獄に入るようになったが、それは寧成から始まった。
初め、文帝は代王として都に入り皇位に即いたが、その後、代を分けて2国とし、皇子・武を立てて代王とし、参を太原王とし、末子の勝を梁王とした。
後にまた代王・武を移して淮陽王とし、太原王・参を代王とし、元の土地まで悉く領有させた。そうして数年が経つと、梁王・勝が亡くなって子がなかった。
そこで賈誼はまたも「諸侯王の増長を防ぐため、皇子の封国を増やす」よう上疏し、文帝はこれに従って淮陽王・武を移して梁王とし、北は泰山を境界に、西は高陽城に至る大県40余城を領有させ、城陽王・喜を移して淮南王とし、その民を安堵させた。
またこの時文帝は、誅殺された淮南厲王の4人の子をみな列侯に封じたので、賈誼はこれを諫めたが、聞き入れられなかった。
梁王・勝が馬から落ちて亡くなってから、賈誼は「傅役でありながら不行き届きであったこと」を自ら傷み嘆いて哭泣に明け暮れていたが、1年余りの後、33才で亡くなった。
第2世代(賈嘉)
賈嘉
生没年不詳。司隷・河南郡・雒陽県(洛陽県)の人。祖父に賈誼。
孝武帝が即位すると、賈誼の孫・2人が登用され、いずれも官は郡守に至った。
その1人、賈嘉は優れて学問を好み、その家業を継いだ。
第7世代(賈光)
賈光
生没年不詳。司隷・河南郡・雒陽県(洛陽県)の人。孫に賈徽。曾孫に賈逵。
常山太守となり、前漢の宣帝の時、吏二千石を理由に司隷・河南郡・雒陽県(洛陽県)から司隷・右扶風・平陵県に移住した。
第9世代(賈徽)
賈徽
生没年不詳。司隷・右扶風・平陵県の人。
賈徽は、劉歆から『左氏春秋』を受け、『国語』『周官』を学び、また塗惲*1から『古文尚書』を受け、謝曼卿に『毛詩』を学び、『左氏條例』21篇を作った。
脚注
*1『風俗通』に「塗姓は塗山氏の後裔である」とある。塗惲は字を子真と言い、胡常から『尚書』を受けた。
第10世代(賈逵)
賈逵・景伯
建武6年(30年)〜後漢の永元13年(101年)没。司隷・右扶風・平陵県の人。
9世前の先祖に当たる賈誼は、前漢の文帝の時に梁の懐王[劉勝(劉揖)]の太傅となった。
賈逵は父の学業をことごとく伝え、弱冠(20歳)にして『春秋左氏伝』と五経の本文を諳んじることができ、『大夏侯尚書』を教授した。古文学を修めていながら五家*2の『春秋穀梁伝』の説にも精通していた。
子供の頃から常に太学にいたので、世間のことに疎かった。身長は8尺2寸(約189.42cm)、儒者たちは「休むことなく物事を問う賈長頭(ノッポの賈逵)」と噂した。人柄は穏やかで知恵が多く、思慮深くて才気に優れ、高い節操を持っていた。
とりわけ『春秋左氏伝』と『国語』に通じており、両書の解詁(解釈)51篇*3を作り、永平年間(58年〜75年)中に上疏して献上した。明帝はこの書を重んじ、書き写して宮中の書庫に所蔵した。
ある時、5色の冠羽*4を持つ神雀が現れて宮殿・官府に集まった。明帝はこれを「異」と考え、臨邑侯・劉復にその意味を問うたが、劉復は答えることができず、博物多識な者として賈逵を推薦した。
明帝が賈逵を呼び寄せて問うと、賈逵は「昔、周の武王が父の宿願である殷の打倒を成し遂げると鸑鷟(鳳凰)が岐山に出現し、宣帝が威光によって戎狄を懐柔すると神雀がしきりに集まりました。これは胡が降伏する徴候です」と答えた。
明帝は蘭台*5に勅命を下し、筆と札(木簡・竹簡)を与えて「神雀頌」を作らせると、賈逵を郎に任命して班固と共に宮中の秘書を校定させ、天子の左右で諮問に応対させた。
章帝が即位すると、儒学に傾倒し、特に『古文尚書』と『春秋左氏伝』を好んだ。
建初元年(76年)、章帝は賈逵に詔して、北宮の白虎観と南宮の雲台に講論させた。
章帝は賈逵の説を善しとし、『左氏伝』の大義が『公羊伝』と『穀梁伝』の2伝より優れている箇所を指摘させた。賈逵がその代表的な30の事について、具体的に箇条書きにして上奏すると、章帝は喜んで、布5百匹と衣1襲を下賜し、賈逵に自ら『春秋公羊伝』の厳氏・顔氏*6の諸生で才能が高い者20人を選んで『春秋左氏伝』を教授させ、竹簡と竹紙に書かれた経伝(経書とその解釈書)をそれぞれ1通ずつ与えた。
賈逵の母は病気がちであった。章帝は加賜しようと思い、賈逵が書物の校定をした回数が多かったことから、穎陽侯・馬防を使わして特別に銭20万を与えた。この時、章帝は馬防に「賈逵の母が病気になった。その子(賈逵)は外に広く交際せず、しばしば困窮しており、このままでは孤竹君の子(伯夷・叔斉)が首陽山で餓死したことに従ってしまうだろう」と言ったと言う。
賈逵はしばしば章帝のために『古文尚書』は経伝(経書とその解釈書)が『爾雅』の詁訓(解釈)と対応していることを言上した。
章帝が「歐陽や大小夏侯の『尚書』と古文の『尚書』との異同を撰集するように」と詔すると、賈逵はその異同を撰集して3巻にまとめたので、章帝はこれを善しとした。
また賈逵は『斉詩』『魯詩』『韓詩』の3詩と『毛詩』との異同を撰集し、『周官解故』を作った。章帝は賈逵を転任させ、衛士令とした。
建初8年(83年)、儒者に詔してそれぞれに才能の優れた者を選ばせ、『左氏春秋』『穀梁春秋』『古文尚書』『毛詩』を受けさせ、これにより四経はついに世に行われた。
また、賈逵の選んだ弟子及び門下生を千乗王・劉伉(章帝の子)の王国の郎に任命し、朝夕、黄門署で教えを受けさせたので、学ぶ者はみな大いに喜んで敬慕した。
和帝が即位すると、永元3年(91年)に左中郎将に任命され、永元8年(96年)には、また侍中に任命され、騎都尉を兼務した。
朝廷内に身を置き、宮中の天子の側近の部署を兼務し、とても信用された。
賈逵は青州・東萊郡出身の司馬均と豫州(予州)・陳国出身の汝郁を推薦し、和帝は彼らを徴召いて共に優遇した。
賈逵の著した経伝(経書とその解釈書)の解釈や訓詁(解釈)及び論難(不正や誤りを論じ立てて、非難し攻撃すること)は百余万言。また、詩・頌・誄・書・連珠・酒令を作ること9篇。学者はこれを「宗(大本)」とし、後世はこれを「通儒」と称したが、細かい節度を修めず、当時の人々はこれをたいそう譏り、そのため大官には至らなかった。
永元13年(101年)に亡くなった。享年72歳。朝廷はでなくなった。朝廷は愍れみ惜しみ、賈逵の2人の子を太子舍人に任命した。
脚注
*2五家とは、尹更始・劉向・周慶・丁姓・王彦たちを言い、いずれも『春秋穀梁伝』を修めた。
*3『左氏解詁』は30篇、『国語解詁』は21篇。
*4鳥類の頭上にあって周囲の羽毛より長く伸びた羽毛。
*5後漢の支配の正統生を保証する図讖(未来の吉凶を予言した書物)が保存された場所のこと。
*6公羊高は『春秋』の伝を作り、号して『公羊春秋』とした。厳彭祖・顔安楽は共に『公羊春秋』を教授されたため、『公羊伝』には厳氏公羊春秋と顔氏公羊春秋という学派がある。
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