正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑫。東莱郡王氏①(王豹・王翁・王基・王喬・王徽・王廙)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
東莱王氏①系図
東莱郡王氏①系図
この記事では東莱郡王氏①の人物、
についてまとめています。
その他の東莱王氏
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お⑫(東莱王氏①)
第1世代(王豹・王翁)
王豹
生没年不詳。青州・東萊郡・曲成県(曲城県)の人。子に王基。
甘露3年(258年)に王基の母が亡くなると、高貴郷公(曹髦)は詔勅を下してその凶報を秘密にしておき、王基の父・王豹の遺体を迎えて洛陽に合葬させ、王豹に北海太守の官を追贈した。
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第2世代(王基・王喬)
王基・伯輿
初平元年(190年)〜魏の景元2年(261年)没。青州・東萊郡・曲成県(曲城県)の人。父は王豹。子に王徽。孫に王廙。叔父は王翁。従兄弟(叔父の子)に王喬。
若くして孤児となり、叔父の王翁に極めて大事に慈しみ育てられ、王基も叔父に孝行をつくして称賛された。
17歳で郡に召し出されたが、好みに合わなかったので辞任して徐州・琅邪国で遊学し、黄初年間(220年〜226年)に孝廉に推挙されて郎中となる。
青州刺史の王淩に請われて別駕となり、後に中央に召されて秘書郎となったが、王淩は再び彼を帰任させるように要請した。しばらくして司徒の王朗が王基を召し出したが王淩は手放さなかった。青州において王淩を称賛する声が多かったことは、王基の補佐によるところも大きかったと言える。
司馬懿によって中央に召されると、明帝(曹叡)の宮殿造営を諫言し、新たに政治を取り仕切ることになった司馬師を戒めて進言を受け入れられた。
魏の正元2年(255年)の毌丘倹(毋丘倹)の反乱、甘露2年(257年)の諸葛誕の反乱を平定し、征東将軍・都督揚州諸軍事に転任され、東武侯に爵位を上げたが、王基は上奏文を奉って固持し、功績を補佐官たちに譲った。
そのお陰で、長史・司馬の官職にあった7人の者は皆、侯に取り立てられた。
景元2年(261年)、「呉の鄧由らが帰順を願い出ていること」を偽りであることを見抜いたのを最後に亡くなり、司空の位を追贈され景侯と諡された。
晋王室が帝位に昇ると、次のような詔勅が下った。
「もと司空の王基は徳義をあらわし、勲功を立てた上に、身を修めること清潔質素にして、利益を得るための事業を行わず、久しく重い任務にありながら、家には個人的な蓄積がなかった。身没して行いあらわると言ってよく、世俗を奮い立たすに足るものである。よって奴婢2人をその家に下賜する」
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王喬
生没年不詳。青州・東萊郡・曲成県(曲城県)の人。父は王翁*3。従兄弟(伯父の子)に王基。
曹休の子・曹纂、王喬らが九族(親族)の集う時節ということで王家に集まったが、その時期に外れていたこともあり「すべて禁令に違反している」と所管の役人に上奏された。
王基は養育してくれた叔父の徳に報いたいと、叔父の子の王喬に2百戸を分割し、関内侯の爵位を賜りたいと上奏して許可された。
脚注
*3『魏書』王基伝に「孤児となった王基は叔父の王翁に極めて大事に慈しみ育てられた」とあることから推測した。王豹に王翁の他に弟がいた可能性もある。
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第3世代(王徽)
第4世代(王廙)
王廙
生没年不詳。青州・東萊郡・曲成県(曲城県)の人。父は王徽。祖父は王基。
咸熙年間(264年〜265年)に五等級の爵位制度が設けられたが、祖父の王基が先帝の時代に勲功を挙げたため、東武の残った町を一子に賜り、関内侯の爵位を与えられた。
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