正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑬。東莱郡王氏②[王頎・王弥(王彌)]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
琅邪王氏②系図
東莱郡王氏②系図
この記事では東莱郡王氏②の人物、
についてまとめています。
その他の東莱王氏
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お⑬(東莱王氏)
第1世代(王頎)
王頎・孔碩
生没年不詳。青州・東萊郡の人。孫は晋の永嘉年間(307年〜313年)の大賊・王弥。
魏の正始年間、毌丘倹(毋丘倹)は高句驪征討に際し、玄菟太守・王頎を夫余に派遣して軍糧を供出させた。そして正始6年(245年)、毌丘倹(毋丘倹)は再び征討を行い、王頎は買溝に逃亡した句驪王の位宮を追撃した。
彼は沃沮(国名)を過ぎて千余里、粛慎氏(挹婁国の古名)の南境まで到達し、石に功績を刻みつけ、丸都の山に文字を彫り、不耐の城に銘文を記した。誅殺したり降伏させたりした数は8千人、軍功を取り上げられて賞を受け、侯となった者は百余人あった。また、山にトンネルを掘り灌漑を行ったので、住民はその恩恵を受けた。
正始8年(247年)、戦死した弓遵の後任として帯方太守に赴任すると、倭の女王・卑弥呼が載斯烏越らを派遣して「元々不和だった狗奴国の男子の王・卑弥弓呼との間で戦闘が行われていること」を報告してきた。
これに王頎は、帯方郡から塞曹掾史の張政らを遣わし、そのついでに正始6年(245年)に下された詔書と黄色の幢(軍隊の指揮や儀式などに用いる旗)を携えて難升米に仮授すると共に、檄文によって両国が和解するように教え諭した。
魏の景元4年(263年)秋、諸軍に蜀討伐の詔勅が下ると、大将軍・司馬昭が全指揮をとり、鄧艾に命じて姜維と全戦線に渡って対峙させる一方、雍州刺史・諸葛諸に命じて姜維の退路を絶たせて帰国できなくさせた。
鄧艾は、天水太守・王頎らに命じてまっすぐに姜維の陣営に突き進ませ、隴西太守・牽弘らにその手前で待ち受けさせ、金城太守・楊欣らを甘松に差し向けた。
姜維は鍾会の諸軍がすでに漢中に侵入したと聞くと、引き退いて帰国の途についた。
その後王頎は、武帝(司馬炎)の時代に汝南太守に任命された。
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第3世代[王弥(王彌)]
王弥(王彌)
生年不詳〜漢(前趙)の嘉平元年(311年)没。青州・東萊郡の人。弟に王璋、祖父は王頎・孔碩。
代々二千石をつとめた家柄で、王弥には才能があり書物を広く読んでいた。若い頃、洛陽で遊侠*1の徒となったが、王弥に会った隠者の董仲道は「君は豺のような声に豹のような眼光をしている。乱を好み禍を楽しむ相だ。もし天下が騒がしくなれば、士大夫にはならないだろう」と言った。
恵帝(司馬衷)の末年(306年頃)、妖賊(宗教的な反乱者)の劉柏根が青州・東萊郡・惤県で蜂起すると、王弥は家僮(家の召使い)を率いてこれに従ったので、劉柏根は彼を長史とした。その後、安北将軍・王浚の討伐軍に敗れた劉柏根が戦死すると、王弥は敗残兵をかき集めて海岸沿いへ逃れたが、苟純の討伐を受けて長広山に逃亡し、自ら山賊の首領となった。
王弥は権謀術数に優れて失策がなく、弓馬に長けて敏捷、筋力は人並み外れていたので、青州の人々に「飛豹」と呼ばれた。一度は兗州刺史・苟晞の討伐軍に敗れたが、再び兵を集めて侵攻を開始して青州・徐州・兗州・豫州(予州)の郡県を攻略した王弥は、許昌に入って武器を奪い、多くの太守・県令を殺害。王弥の軍勢は数万に上り、朝廷にも討伐不可能な勢力となった。
王弥は天下の乱れに乗じて洛陽に侵攻したが、晋軍に敗北を喫し、黄河を渡って劉元海(劉淵)に帰順し、彼に尊号(帝号)を称することを勧めた。
永嘉年間(307年〜313年)の初め、王弥は幷州(并州)・上党郡に侵攻して壺関県を包囲。東海王・司馬越が派遣した淮南内史の王曠、安豊太守の衛乾らの討伐軍を大いに撃ち破り、征東大将軍・東莱公に封ぜられた。
その後、(劉淵の族子・)劉曜、石勒らと郡県を攻め落とし、王弥は(劉淵の子・)劉曜と1万騎で洛陽に至ると二学(太学と国子学?)を焼いたが、西明門で東海王・司馬越の迎撃を受けて敗走した。
王弥がまた2千騎を率いて豫州(予州)・襄城郡の諸県に侵攻すると、司州諸郡からの流民が呼応して城邑を焼き払い、二千石(太守)や長吏(県令・県長)を殺害した。これにより2万人を率いた王弥は石勒と合流し、また弟の王璋を派遣して石勒と共に徐州と兗州に侵攻させ、東海王・司馬越の軍を破って洛陽に迫った。
当時、洛陽は大飢饉で人々は互いに食い合い、百姓たちは離散して公卿は河陰県に逃亡していた。
劉曜、王弥らはついに宮城を落として太極前殿に至ると兵を放って大いに略奪をさせ、懐帝を端門に幽閉して羊皇后を陵辱し、皇太子の司馬詮を殺害。陵墓を暴いて宮廟を焼いた。これにより城も役所も破壊し尽くされ、百官や民衆・3万余人が殺されて、懐帝は司州・平陽郡・平陽県に遷された。
王弥が略奪を行った時、劉曜はこれを禁じたが、王弥が従わなかったので、劉曜は王弥の牙門将・王延を斬った。これに激怒した王弥は、劉曜と互いに攻撃し合い、死者は千余人の上った。ここに至り、王弥は長史・張嵩の諫言に従って劉曜に謝罪して以前と同じように手を結んだ。
その後王弥は、洛陽が天下の中心であり、険阻な要害の地でもあることから、平陽県から都を遷すように進言するも、劉曜はこれを聞き入れず、洛陽を焼き払って去ったので、激怒した王弥はついに軍を率いて東の項関に駐屯した。
その後、劉暾が(郷里の)青州に還ることを勧めたので、王弥はこれに従って、左長史の曹嶷を鎮東将軍とし、兵5千と宝物を持たせて郷里に還し、亡命者を招いてその家族を迎えさせたが、この時、王弥の将・徐邈と高梁が、数千人の部曲を率いて曹嶷と共に去ってしまったので、王弥の勢力は益々衰えた。
石勒は以前から王弥の驍勇(猛々しさ)を嫌い、常に秘かに王弥のために備えていた。
王弥が洛陽を落とした時のこと。王弥は石勒に美女や宝貨を贈って手を結ぼうとしたが、石勒が苟晞を左司馬としていることを知ると、「素晴らしいっ!公(石勒)は苟晞を捕らえ、しかも用いておられるのか。苟晞を公(石勒)の左に、私を公(石勒)の右とすれば、天下は定まったようなものです」と言った。
この言葉を聞いた石勒はいよいよ王弥を嫌うようになり、秘かに陰謀を巡らせていたのである。
その後、また劉暾が「曹嶷の軍勢をもって石勒を討つ」ように勧めると、王弥は劉暾を青州に派遣して曹嶷に兵を率いて合流するように命令を下し、石勒には偽って共に青州に向かうように求めた。
使者の劉暾が兗州・済北国・東阿県に差し掛かった時、石勒の遊騎兵がこれを捕らえた。
「王弥から曹嶷に宛てた密書」を見て激怒した石勒は、劉暾を殺害すると伏兵をもって王弥を殺害し、その軍勢を収めた。
脚注
*1仁義を重んじ、強きを挫き弱きを助けること。男伊達。
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