袁術(えんじゅつ)が天子(てんし)(皇帝)の位を望むようになった経緯と、孫策(そんさく)が袁術(えんじゅつ)と関係を絶つまでの経緯についてまとめています。
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献帝の洛陽入りと曹操の豫州(予州)侵攻
献帝(けんてい)が司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)から洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入るまでと、曹操(そうそう)の豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))侵攻についてまとめています。
【三国志年表詳細】195年の主な出来事と三国志群雄勢力図
195年【漢:興平(こうへい)2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
袁紹はなぜ献帝を鄴に迎えなかったのか
興平(こうへい)2年(195年)7月、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て東に向かい、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を都に定めたことを受け、袁紹(えんしょう)は使者として郭図(かくと)・・・
李傕と郭汜に追われた献帝が、黄河を渡り安邑県を都に定める
長安(ちょうあん)を出て司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に至った献帝(けんてい)が、李傕(りかく)らの追撃を受けながら、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に到着し、都・・・
献帝の東遷。献帝が長安を出て司隷・弘農郡・華陰県に至る
興平(こうへい)2年(195年)7月、李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させた献帝(けんてい)が、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を目指して司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に至・・・