兗州(えんしゅう)をほぼ手中に収(おさ)めた曹操(そうそう)が最後に残った雍丘県(ようきゅうけん)を包囲すると、これを救援しようとする臧洪(ぞうこう)と、それを許さない袁紹(えんしょう)の間に亀裂が生じました。 雍丘県(・・・
「後漢」の記事一覧(11 / 18ページ目)
孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
孫策(そんさく)の江東(こうとう)平定の前半戦。袁術(えんじゅつ)の下を離れた孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を逃亡させるまでについてまとめています。
袁紹はなぜ献帝を鄴に迎えなかったのか
興平(こうへい)2年(195年)7月、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て東に向かい、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を都に定めたことを受け、袁紹(えんしょう)は使者として郭図(かくと)・・・
李傕と郭汜に追われた献帝が、黄河を渡り安邑県を都に定める
長安(ちょうあん)を出て司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に至った献帝(けんてい)が、李傕(りかく)らの追撃を受けながら、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に到着し、都・・・
献帝の東遷。献帝が長安を出て司隷・弘農郡・華陰県に至る
興平(こうへい)2年(195年)7月、李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させた献帝(けんてい)が、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を目指して司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に至・・・
曹操の兗州平定。曹操に敗れた呂布が徐州の劉備を頼る
興平(こうへい)2年(195年)春、先年の蝗害(こうがい)により停戦していた曹操(そうそう)が再度兗州(えんしゅう)奪還に動きだし、兗州(えんしゅう)を平定するまでについてまとめています。
李傕と郭汜の争い。李傕が献帝を、郭汜が公卿を人質に取る
初平(しょへい)3年(192年)6月、長安(ちょうあん)を落として朝廷の実権を握った李傕(りかく)と郭汜(かくし)ですが、それぞれ自(みずか)らの功績を誇(ほこ)って権力を争い、興平(こうへい)2年(195年)に入ると、・・・