正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑭紀霊です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き⑭紀霊
正史『三国志』での紀霊
紀霊
生没年不詳。袁術の部将。
徐州争奪戦
後漢の献帝(劉協)の建安元年(196年)6月、袁術が徐州に侵攻すると、劉備は徐州・下邳国の盱眙県と淮陰県でこれを防いだ。
劉備は袁術と1ヶ月余りにわたって対峙したが、その隙に乗じて、劉備の元に身を寄せていた呂布が袁術と呼応して下邳県を襲撃し、これを奪い取った。
ところが、呂布は「袁術が約束の兵糧を送ってこない」ことに腹を立て、劉備の和睦要請を受け入れ、彼を豫州(予州)・沛国・沛県(小沛)に駐屯させて、力を合わせて袁術を討つことにした。
轅門射戟
袁術は将の紀霊らに歩兵・騎兵あわせて3万を率いさせ、劉備を攻撃させた。そこで劉備が呂布に救援を求めると、呂布の諸将は、
「将軍(呂布)はいつも劉備を殺したいと思っておられました。今こそ袁術の手を借りてそれを実現できるではありませんか」
と言った。ところが呂布は、
「そうではない。袁術がもし劉備を破れば、北では兗州・泰山郡の諸将と連携することになる。そうなれば、吾は袁術に包囲される形となってしまう。だから救わざるを得ないのだ」
と言い、歩兵千人・騎兵2百騎を厳選して整えると、急いで劉備のもとへ向かった。
紀霊らは「呂布が来た」と聞くとすべての兵を収め、あえて攻撃を続けようとはしなかった。
一方、呂布は沛県(小沛)の西南1里(約430m)の場所に陣を構えると、配下の者を使者として紀霊らに使いを出した。
すると紀霊らもまた、呂布を招いて共に飲食をしようと申し出た。
そこで呂布は紀霊らに言った。
「玄徳(劉備)は布の弟のようなものだ。その弟が諸君らに困らされているので救いに来たまでのこと。布は争い戦うことを好まない。ただ争いを解決することを好むのだ」
そして呂布は、門番に命じて陣営の門の中に1本の戟を立てさせた。
「諸君、布がこの戟の小枝(援・枝刃)を射るのをご覧いただきたい。一矢で命中すれば、諸君は兵を引いて去ること。もし当たらなければ、そのまま残って決戦してもよい」
そう言い終わると、呂布は弓を引き、戟に向かって射たところ、見事にその小枝に命中した。
そこに居合わせた諸将はみな驚き、
「将軍(呂布)の武威は天のごとし!」
と言った。
翌日、再び宴を開いて歓談し、その後それぞれ軍を引いて帰った。
出典
- 『魏書』呂布臧洪伝
- 『魏書』呂布伝
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『三国志演義』での紀霊
紀霊
生年不詳〜建安4年(199年)没。山東の人。袁術配下の上将、都督。第14回〜第17回、第21回に登場する。
正史『三国志』では、袁術配下の将として1度名前が登場するだけだが、『三国志演義』では、関羽と30合にわたって打ち合うほどの豪傑でありながら、関羽との再戦を避けたり、呂布が自分を殺そうとしているのではないかと怯えるなど臆病な面を見せ、最期は張飛に討ち取られている。
第14回:盱眙県での関羽との一騎打ち
袁術は「劉備が上表して自分の州や県を奪い取ろうとしている」と聞くと大いに怒り、上将の紀霊に10万の兵を与えて徐州へ向けて進軍させ、両軍は徐州・下邳国・盱眙県で対峙した。
この紀霊という男、山東の出身で、重さ50斤(約11kg)もある三尖刀(三つの刃を持つ長柄の大刀)を使う猛将である。
紀霊が大声を張り上げて罵戦を挑みかけると、劉備もこれに応じた。
すると紀霊は激怒し、馬に鞭打ち、刀を振り上げてまっすぐ劉備へと突進した。これを関羽が大喝し、馬を出して紀霊と激しく戦ったが、30合にわたって打ち合っても勝敗はつかなかった。
そこで紀霊が「少し休戦だ!」と叫ぶと、関羽はすぐに馬首を返して陣へ戻り、陣前に立って再戦を待ったが、いつまで経っても紀霊は出て来ない。
その後、紀霊は副将の荀正を出陣させたが、関羽は馬を交えてわずか1合で荀正を馬上から斬り落とした。
これを見た劉備は軍を進めて攻撃を仕掛け、敵将を討ちつつ前進したため、紀霊は大敗した。
紀霊は淮陰の河口まで退いて守りを固め、夜襲や奇襲を試みさせたが、そのたびに徐州軍(劉備軍)に撃退された。
一方、徐州では、留守を守る張飛に不満を募らせた曹豹が内応し、呂布が徐州を奪い取ってしまっていた。
第15回:呂布の裏切り
袁術は「呂布が徐州を襲った」と聞くと、夜を徹して呂布のもとへ使者を送り、
「兵糧5万斛、馬5百頭、金銀1万両、さらに彩り豊かな絹布千匹を与えるので、挟み撃ちにして劉備を討とう」
ともちかけた。これを喜んだ呂布は、配下の高順に5万の兵を率いさせ、劉備の背後を襲わせたが、高順の軍が到着したときには、すでに劉備は去った後であった。
高順は紀霊と会って袁術が約束した物資の引き渡しを求めたが、紀霊はただ、
「ひとまず軍をお引きください。私が主君にお目にかかり、この件を相談してまいりましょう」
と言うだけであった。
ところがその後、袁術から届いた書状には、
「高順は出兵したが、まだ劉備は討ち取られていない。まず劉備を捕らえてから、その時にこそ約束の品を送ろう」
とあったので、激怒した呂布は袁術を攻めようとしたが、陳宮の進言を聞き入れて、「劉備を呼び戻して小沛に駐屯させ、劉備を先鋒として袁術を攻める」ことにした。
第16回:轅門射戟
この頃、「伝国の玉璽」を形に袁術から兵を借りて江東の地を平定した孫策が、「伝国の玉璽」の返還を求めてきたが、ひそかに皇帝を称する野心を抱いていた袁術は「伝国の玉璽」を返したくはなかった。
そこで急ぎ、長史の楊大将、都督の張勲・紀霊・橋蕤、さらに上将の雷薄・陳蘭ら30余人を招集して対策を協議した結果、
「孫策は長江という天然の要害に守られおり、兵は精強で兵糧も豊富なため、今すぐにこれを攻め取るのは難しい。まずは劉備を討とう」
ということになり、また楊大将は「呂布の怒りを解いて劉備を救援させないようにするべき」と進言した。
そこで袁術は、すぐに20万斛の穀物を用意させ、韓胤に密書を持たせて呂布のもとへ派遣すると、紀霊を大将に、雷薄・陳蘭を副将として数万の兵を率いさせ、小沛へ進軍させた。
劉備はこの知らせを聞くと、孫乾を派遣して呂布に救援を求めた。すると、呂布は「劉備の次は自分が袁術の標的となる」ことを恐れ、劉備を救援するために出陣した。
紀霊は「呂布が劉備を救いに来た」と知ると、急いで使者を送って「約束を破った」と呂布を責めたが、呂布は笑って「我には1つ策がある。袁術にも劉備にも怨まれずに済む方法だ」と言い、使者を送って紀霊と劉備の両人を宴に招いた。
紀霊が帳内に入ると、そこに劉備がいるのを見て驚き、「将軍(呂布)はこの紀霊を殺すおつもりか?」と言った。呂布が「違う」と答えると、「ではあの大耳(劉備)を殺すのか?」と問うたが、呂布は「それも違う」と言う。
紀霊が「では何のためだ?」と問うと、呂布は「布と劉備は兄弟だ。その兄弟が今、将軍(紀霊)に攻められているので救いに来たのだ」と言った。
これに紀霊がまた、「ならば霊を殺すのか?」と問うと、呂布は「そんなことはない。布は争うことを好まず、争いを解くことを好む。今日は両者の争いを解くのだ」と答えた。
これに紀霊は、
「主君の命で10万の兵を率いて来たのだ。劉備を捕らえるのが任務だ。やめるわけにはいかない」
と言い、一方で張飛は怒って剣を抜き、
「吾らは兵は少ないが、お前たちなど子供同然だ!百万の黄巾賊に比べてどうだ!兄者に指一本でも触れようものなら、ただでは済まさんぞ!」
と怒鳴った。
これを見た呂布は大いに怒り、「戟を持て!」と命じて方天画戟を手に取ると、紀霊も劉備も皆一様に顔色を失った。
呂布は「我は両家に戦いをやめよと勧めているのだ。すべては天命に任せようではないか」と言うと、左右の者にその方天画戟を轅門(陣の門)の外、150歩離れたところに立てさせて言った。
「もし吾が 一矢でその戟の小枝(援・枝刃)を射抜けたならば、両軍とも兵を退け。外れたならば好きに戦え。もし従わぬ者があれば、両軍まとめて吾が相手をしようではないか」
紀霊は内心、「あの距離で当たるはずがない。承諾しておこう」と考えて同意し、劉備ももちろん承知した。
呂布は再び酒を飲むと、袖をまくって弓を引き絞り、「当たれ!」と叫んで矢を放った。するとその矢は流星のように飛翔し、見事に一矢で戟の小枝を射抜いたので、将兵たちは一斉に歓声を上げた。
呂布は高らかに笑うと、2人の手を取って「これは天が両者に戦いをやめよと命じたのだ」と言い、酒を振る舞った。
紀霊はしばらく黙っていたが、「将軍(呂布)の言葉に従わぬわけにはいかないが、帰って主君が信じるかどうか」と言った。
すると呂布は「吾が書状を書いて説明しよう」と言い、紀霊はその書状を受け取って兵を退き、劉備も関羽・張飛と共に帰った。
紀霊が淮南に帰って袁術に報告したところ、袁術は激怒して、
「呂布はあれほどの食糧を受け取りながら、このような児戯で劉備を助けたのか!吾が自ら大軍を率いて、劉備と呂布を討つ!」
と言った。すると紀霊は諫めて言った。
「軽率に動くべきではありません。呂布は勇猛で徐州も持っています。もし劉備と連携すれば、これを討つのは容易ではありません。呂布の妻・厳氏には成長した娘が1人います。そして主君にはご子息が1人おられる。婚姻を申し入れてはどうでしょう。もし縁組が成立すれば、呂布は必ず劉備を討つでしょう。これを『疎不間親の計』と申します」
袁術はこれに従い、韓胤を使者として呂布に婚姻を申し入れた。
第17回:呂布に敗れる
袁術はついに皇帝を僭称して国号を「仲氏」と定め、百官を設け、龍や鳳凰で飾られた輦(輿)に乗り、南北の郊外で祭祀を行い、馮方の娘を皇后に立てて、自らの子を皇太子とした。
そして呂布の娘を皇太子妃とするために迎えを出そうとしたところ「すでに呂布が韓胤を捕らえて許都へ送り、曹操に処刑させた」と聞いて大いに怒った。
そこで袁術は張勲を大将軍に任命し、20万余の大軍を7つの部隊に分けて徐州へ進軍させた。
第1路は張勲が中央軍を率い、第2路は橋蕤が左翼、第3路は陳紀が右翼、第4路は雷薄が左、第5路は陳蘭が右、第6路は降将の韓暹が左、第7路は降将の楊奉が右を担当し、それぞれ精鋭を率いて出発した。
また、兗州刺史の金尚を太尉として兵糧輸送の監督に任命したが、金尚は従わなかったため袁術はこれを殺害し、紀霊を7路の都救応使に任命した。
そして、袁術自身も3万の兵を率い、李豊・梁剛・楽就を催進使として各軍を支援させた。
呂布は急いで謀士たちを集めて協議し、陳宮と陳珪・陳登父子も出席した。
袁術の使者・韓胤を許都(朝廷)へ送って処刑させたことは、陳珪・陳登父子の進言によるものであった。
この協議の席で陳宮が、
「陳珪・陳登父子の首を斬って袁術に差し出せば、敵軍は自然に退くでしょう」
と言うと、呂布は直ちに陳珪と陳登を捕らえさせた。すると陳登は大笑いして、
「(第6路と第7路の将である)韓暹と楊奉はもともと漢の臣です。今は曹操を恐れて袁術のもとに身を寄せていますが、袁術に軽んじられて不満を抱いています。彼らに密書を送って内応させ、劉備に外から呼応させれば、袁術を捕らえることができます」
と言った。そこで呂布は陳登の策を採用し、陳登に自ら赴いて説得させた。
陳登の策は功を奏し、内応することを約束した韓暹と楊奉が各所で火を放ち、呂布軍を導き入れたため、張勲の軍は大混乱に陥った。
そこへ紀霊が救援に来たが、韓暹・楊奉の挟撃を受け、大敗して逃走した。
第21回:張飛に討ち取られる
その後、呂布の攻撃を受けて許都の曹操を頼った劉備は、曹操と共に徐州を攻めて呂布を滅ぼした。
そして、献帝の「曹操を討て」との密詔を賜った董承らの計画に加担した劉備は、袁術討伐を申し出て曹操の下を離れ、曹操配下の徐州刺史・車胄が治める徐州に入った。
「袁術は奢侈にふけりすぎており、雷薄と陳蘭は嵩山へ逃れてしまいました。勢力は大きく衰えています。また帝位を袁紹に譲ろうとして書状を送りましたが、袁紹はこれを拒否し、逆に袁術を呼び寄せました。そのため袁術は軍勢と宮廷の財宝をまとめ、徐州へ向かっております」
この報告を受けた劉備は、関羽・張飛・朱霊・路昭と共に5万の兵を率いて出撃し、袁術軍の先鋒・紀霊と遭遇した。*1
張飛は何も言わずにそのまま突撃し、10合も戦わぬうちに大喝一声、紀霊を馬上から突き落として討ち取った。
脚注
*1朱霊と路昭は曹操配下の将。
出典
- 『三国志演義』
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