正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑳(綦毋闓(きぶがい)・綦毋君(きぶくん)・綦毋俊(きぶしゅん))です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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き⑳

綦毋闓

綦毋闓(きぶがい)・広明(こうめい)*1

生没年不詳。後漢(ごかん)末期の儒学者(じゅがくしゃ)。劉表(りゅうひょう)の命を受け、『五経(ごきょう)』の章句(しょうく)[経書の句読(くとう)(区切り)や注釈]を整理した『後定(こうてい)』を編纂(へんさん)した。

脚注

*1維基百科:綦毋闓の注に「《風俗通義校注》:『後漢書(ごかんじょ)』劉表伝(りゅうひょうでん)および『三国志(さんごくし)』魏書(ぎしょ)・劉表伝(りゅうひょうでん)の注に引用された『英雄記(えいゆうき)』に、綦毋闓(きぶがい)という人物が見える。これはおそらくこの人物と同一人物であろう。名は闓(かい)、字(あざな)は広明(こうめい)であり、その名と字(あざな)は意味の上でも互いによく対応している」とある。筆者は《風俗通義校注》の原文を直接確認できていませんが、参考まで。

荊州に移住する

漢(かん)の荊州牧(けいしゅうぼく)・劉表(りゅうひょう)は、古(いにしえ)の制度に従い、その事業を受け継いで発展させようとして言った。


「先王(古(いにしえ)の聖王たち)は天地を手本とし、その法則や規範を模範として人々を導き、経書(けいしょ)を整理し学業を順序立てて教え、辟雍(へきよう)(天子(てんし)が直属で設置した最高学府)や泮宮(はんきゅう)(周(しゅう)代に諸侯(しょこう)が設置した公立の学校)を建て、また師(し)や保(ほ)(教育を担当する官)を置いた。さらに、礼(れい)と楽(がく)を制定して(人々の我がままな)本性を正し整え、歴史や古典の記録を世に示して(人々の)徳性を維持させた。

その結果、上に立つ者はどのように下の者に臨(のぞ)むべきかを知り、下の者はどのように上の者に仕えるべきかを知った。それぞれの官職は職責を失わず、民は教えに背(そむ)くことがなかった。そうして初めて天下の秩序は平らかとなったのである。

そもそも文学というものは、人倫を守るための要(かなめ)であり、大いなる教化の根本なのである」


そこで劉表(りゅうひょう)は、伍業従事(ごぎょうじゅうじ)(教育・学術の最高責任者)の宋衷(そうちゅう)に命じて文学を興隆(こうりゅう)させ、同志の学者たちを招(まね)き集めた。

また、その徳を称揚(しょうよう)するために善(よ)き教えを広く宣布し、人々を励(はげ)ますために厚い礼遇を与えたので、教化は大いに行き渡った。


その結果、荊州(けいしゅう)には関西(かんせい)・兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)から学者たちが続々と帰服して来るようになり、その数はおよそ千人にも達し、徳望の高い長老たちや綦毋闓(きぶがい)ら、書物を背負(せお)い学問の道具を携(たずさ)えて遠方からやって来た者たちだけでも、3百人余りに達した。

『後定』を編纂する

そこで劉表(りゅうひょう)は、学校を設立して広く儒学(じゅがく)の学術を求め、綦毋闓(きぶがい)・宋忠(そうちゅう)らに命じて『五経(ごきょう)』の章句(しょうく)[経書の句読(くとう)(区切り)や注釈]を編纂(へんさん)させ、これを『後定(こうてい)』と称した。

こうして童幼(幼い子供)たちは猛烈に学問に励(はげ)むようになり、荒々しい武人たちも心を入れ替えて学ぶようになった。

髪を結(ゆ)い始めた少年や、冑(かぶと)を脱いだ兵士たちが肩を並べて次々と学校へ押し寄せる様子は、川が流れ泉が湧(わ)き出るかのようであり、人々は尽きることなく努力し、慎(つつし)み深く真剣に学問に励(はげ)んだ。

こうして『六経(りっけい)』*2が教授されて、礼制と器物が講究され、八音(はちおん)*3は調和され、律呂(りつりょ)[12音の音階(十二律)]は整えられ、暦法(れきほう)は修(おさ)められ、刑法は整理された。

あらゆる学問の分野は秩序(ちつじょ)を得て、諸子百家(しょしひゃっか)の学説もまた備(そな)わるに至った。

脚注

*2儒教(じゅきょう)で貴(とうと)ぶ6種の経典。『易経(えききょう)』『書経(しょきょう)』『詩経(しきょう)』『春秋(しゅんじゅう)』『礼記(らいき)』『楽経(がくきょう)』。後(のち)に『楽経(がくきょう)』が亡(ほろ)んだので、代わりに『周礼(しゅらい)』を加えて『六経(りっけい)』と呼ぶようになった。

*3楽器を「作られている主要な材料」によって、金(きん)(金属で作られた楽器)・石(せき)(珍しい石や玉(ぎょく)で作られた楽器)・糸(し)(絹糸の弦楽器)・竹(ちく)(竹で作られた管楽器)・匏(ほう)(瓢箪(ひょうたん)を土台に使った管楽器)・土(ど)(粘土(ねんど)を焼いて作った素焼きの楽器)・革(かく)(動物の皮を張った打楽器)・木(ぼく)(木で作られた打楽器)の8つに分類したもの。古代中国では、これら8つの材料から作られた楽器がバランスよく合奏されることで、世界の調和(天候の安定や豊作)が保(たも)たれると考えられていた。

出典
  • 王粲(おうさん)『荊州文学記(けいしゅうぶんがくき)』
  • 『後漢書(ごかんじょ)』袁紹劉表列伝(えんしょうりゅうひょうでん)・下
  • 『後漢書(ごかんじょ)』劉表伝(りゅうひょうでん)・下
  • 『魏書(ぎしょ)』董二袁劉伝(とうにえんりゅうでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『英雄記(えいゆうき)』
  • 『魏書(ぎしょ)』劉表伝(りゅうひょうでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『英雄記(えいゆうき)』
  • 維基百科:綦毋闓

「綦毋闓(きぶがい)」の関連記事

綦毋君

綦毋君(きぶくん)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・東莞県(とうかんけん)(または豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん))の人。後漢(ごかん)末期の処士(しょし)(在野の学者)。趙昱(ちょういく)に『公羊伝(くようでん)』を、阮諶(げんしん)に礼学(れいがく)を教えた。

『魏書』陶謙伝・裴松之注・謝承『後漢書』

陶謙(とうけん)が徐州牧(じょしゅうぼく)であった時代に(徐州(じょしゅう)の)広陵太守(こうりょうたいしゅ)であった趙昱(ちょういく)は、(若い頃に)徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・東莞県(とうかんけん)出身の処士(しょし)(在野の学者)・綦毌君(きぶくん)に師事して『公羊伝(くようでん)』を学び、さらに諸学を広く修(おさ)めた。

文淵閣四庫全書本『河南通志』巻62

阮諶(げんしん)は字(あざな)を士信(ししん)といい、兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)の人であった。礼制(礼の制度・作法)を深く究(きわ)めようと努(つと)め、同時代には鄭康成(じょうこうせい)(鄭玄(じょうげん))と並んで名声があった。豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)の綦册君(きさくくん)*4のもとで礼学(れいがく)を学び、その説を採用して3巻の図を作成した。後世に伝えられる『三礼図(さんらいず)』*5は、阮諶(げんしん)が作ったものであると伝えられている。

脚注

*4綦册君(きさくくん)となっているのは、綦毌君(きぶくん)の誤字。

*5儒教(じゅきょう)の最も重要な3つの礼儀経典(「三礼(さんらい)」)に登場する衣服、王冠、道具(礼器(れいき))、建物の配置などを図で解説した視覚的な解説書。

文淵閣四庫全書本『経義考』巻163

裴松之(はいしょうし)は「阮諶(げんしん)の字(あざな)は士信(ししん)である」と言う。

『隋書(ずいしょ)』には「阮諶(げんしん)は後漢(ごかん)の侍中(じちゅう)であった」と注記されている。

北魏(ほくぎ)の『礼志(れいし)』には、阮諶(げんしん)の『礼図(らいず)』が引用されており、あわせて秦(しん)・漢(かん)以来の輿(こし)や服飾(ふくしょく)の制度も記載されている。

張昭(ちょうしょう)は「阮諶(げんしん)は綦毌君(きぶくん)のもとで礼学(れいがく)を学び、その説を採(と)って3巻の図を作った。しかしその内容には礼経(らいけい)の本文に基(もと)づいていないものが多く、漢(かん)代の事例を引用しており、また鄭君(じょうくん)(鄭玄(じょうげん))の説とも食い違い、錯誤(さくご)がある」と言っている。

出典
  • 『魏書(ぎしょ)』二公孫陶四張伝(にこうそんとうしちょうでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『漢書(かんじょ)』
  • 『魏書(ぎしょ)』陶謙伝(とうけんでん)・裴松之(はいしょうし)注(ちゅう)・謝承(しゃしょう)『後漢書(ごかんじょ)』
  • 文淵閣(ぶんえんかく)四庫全書本(しこぜんしょぼん)『河南通志(かなんつうし)』巻62
  • 文淵閣(ぶんえんかく)四庫全書本(しこぜんしょぼん)『経義考(けいぎこう)』巻163

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綦毋俊

綦毋俊(きぶしゅん)

生没年不詳。揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)・上虞県(じょうぐけん)の人。

『百越先賢志』綦毋俊伝

若い頃、『左氏春秋(さししゅんじゅう)』を学んだ。

後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の永初(えいしょ)年間(107年〜113年)に孝廉(こうれん)に推挙されて左校令(さこうれい)に任命され、その後、地方に出て交趾刺史(こうししし)となった。

元初(げんしょ)3年(116年)、合浦郡(がっぽぐん)の蛮夷(ばんい)が反乱を起こしたため、朝廷は侍御史(じぎょし)の任連(じんれん)を派遣して、綦毋俊(きぶしゅん)に州郡の兵を統率して討伐にあたらせた。

そこで蒼梧郡(そうごぐん)方面の軍陣へ赴(おもむ)いたが、綦毋俊(きぶしゅん)の軍勢の向かうところ敵はことごとく打ち破られ、その功績は封爵(ほうしゃく)と賞賜(しょうし)を受けるに十分なものであった。


朝廷は使者を派遣して恩賞を与えようとしたが、綦毋俊(きぶしゅん)は、

「賊(ぞく)の反乱を招(まね)く結果となった責任は臣(わたくし)にあり、本来なら誅罰(ちゅうばつ)を受けるべきです。どうして爵位(しゃくい)や恩賞を受けることができましょうか(致冦當誅安)」

と言って辞退した。そこで天子(てんし)は詔(みことのり)を下して彼を賞賛した。


同郡出身の虞翻(ぐはん)が、

「綦毋俊(きぶしゅん)は一郡の人々を救済したにもかかわらず、爵位(しゃくい)と封土(ほうど)の恩賞を辞退した」

と称賛しているのは、このことを指(さ)しているのである。

『交広記(こうこうき)』『会稽典録(かいけいてんろく)』に拠(よ)り、『百越先賢志(ひゃくえつせんけんし)』編纂(へんさん)の際に参照・修訂した。


※『百越先賢志(ひゃくえつせんけんし)』綦毋俊伝(きぶしゅんでん)の原文には欠字が多く、上記は前後の文脈から推定して補(おぎな)ったものです。

『呉書』虞翻伝・裴松之注『会稽典録』

以前、会稽太守(かいけいたいしゅ)であった王朗(おうろう)が、功曹(こうそう)の虞翻(ぐはん)に「揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)の有能な人物」について尋(たず)ねたことがあった。


呉(ご)の孫亮(そんりょう)の時代、会稽太守(かいけいたいしゅ)の濮陽興(ぼくようこう)が「掾吏(えんり)(下級の官吏)を招(まね)いた元旦の宴(うたげ)」の席で『王朗(おうろう)の質問に対する虞翻(ぐはん)の返答』について知っている者はいないか?」と尋(たず)ね、門下書佐(もんかしょさ)の朱育(しゅいく)がこれに答えたが、その中に、

「綦毋俊(きぶしゅん)は一郡の人々を救済したにもかかわらず、爵位(しゃくい)と封土(ほうど)の恩賞を辞退した」

とある。

出典
  • 『百越先賢志(ひゃくえつせんけんし)』綦毋俊伝(きぶしゅんでん)
  • 『呉書(ごしょ)』虞陸張駱陸吾朱伝(ぐりくちょうらくりくごしゅでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『会稽典録(かいけいてんろく)』
  • 『呉書(ごしょ)』虞翻伝(ぐはんでん)・裴松之注(はいしょうしちゅう)『会稽典録(かいけいてんろく)』

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