前漢・武帝⑤・昭帝①時代の匈奴、狐鹿姑単于についてまとめています。
スポンサーリンク
目次
匈奴・前漢時代⑦狐鹿姑単于
匈奴(前漢時代)
狐鹿姑単于の即位【前漢:武帝】
且鞮侯単于には2人の子があり、長子は左賢王となり、次子は左大将となりました。
漢の太始元年(紀元前96年)、病となった単于は、その死に臨んで「左賢王を立てる」ように言い遺しましたが、左賢王がまだ到着しないうちに、(匈奴の)貴人(貴族)たちは「(左賢王は)病である」として、左大将を単于に立ててしまいました。
これを聞いた左賢王が[単于庭(匈奴の都)に]向かうのをやめると、左大将は人を遣り左賢王を召して(単于の位を)譲位しようとします。
左賢王は病と称して辞退しましたが、左大将はこれを聴き入れず、
「もし(あなたが)不幸にして亡くなるようなことがあれば、我に(単于の位を)伝えてください」
と言いました。
左賢王はこれを承諾し、ついに立って狐鹿姑単于となります。
狐鹿姑単于は、約束通り左大将を左賢王(太子)としましたが、数年して左大将が病死すると、左大将の子・先賢撣を左賢王(太子)とはせずに、日逐王としました。
日逐王の位は左賢王より賎しく、狐鹿姑単于は自ら我が子を左賢王(太子)とします。
漢の匈奴遠征【前漢:武帝】
単于が立って6年後の漢の征和3年(紀元前90年)、匈奴は上谷郡と五原郡に侵入して吏民を殺害・略奪し、その年の内にまた五原郡と酒泉郡に侵入して、それぞれの郡の都尉を殺害しました。
これに漢は、
- 弐師将軍・李広利の7万人を五原郡から出撃させ、
- 御史大夫・商丘成は3余万人を率いて西河郡から、
- 重合侯・莽通は4万騎を率いて酒泉郡から出撃して、
それぞれ千余里進軍させました。
単于は漢兵の大軍が出撃したと聞くと、輜重(軍需物資)の悉くを伴って趙信城の北の郅居水に徙り、左賢王は領民を駆り立てて余吾水を渡ると、そこから6〜7百里(約258km〜3.01km)の兜銜山に徙りました。
その後単于は、自ら左安侯の精兵を率いて姑且水を渡ります。
御史大夫・商丘成方面
商丘成の軍は追斜径(追邪径)に至りましたが、敵と出遭うことなく引き還しました。
匈奴は大将と李陵*1に3万余騎を率いて漢軍を追撃させ、浚稽山に至り9日間にわたって転戦しましたが、漢軍は陣を陥とし敵を却け、甚だ多くの敵兵を殺傷しました。
蒲奴水に至ると、虜(匈奴)は不利となって退却しました。
脚注
*1元漢の騎都尉。漢の天漢2年(紀元前99年)に匈奴に降伏し、且鞮侯単于の女を娶った。
重合侯・莽通方面
莽通の軍が天山に至ると、匈奴は大将の偃渠と左右の呼知王に2万余騎を率いさせ、漢兵を迎え撃たせましたが、「漢兵が強そうだ」と見て兵を退いて去りました。そのため、莽通の軍は得る物も失う物もありませんでした。
この時 漢は、車師国*2の兵が莽通の軍を遮断することを恐れ、闓陵侯*3に兵を率いて車師国*2を包囲させ、その王の民衆の悉くを得て還りました。
脚注
*2西域の国の1つ。
*3天漢2年(紀元前99年)に匈奴の投降者である介和王が封ぜられた。開陵侯。
弐師将軍・李広利方面
李広利が匈奴を破る
李広利の軍が塞を出ると、匈奴は右大都尉と衛律に5千騎を率いさせ、漢軍を夫羊・句山(西山)の狹(山間)で迎え撃たせましたましたが、これに李広利が属国の胡騎*4・2千余騎を当たらせると、虜兵(匈奴兵)は潰滅・離散し、死傷者は数百人にのぼりました。
漢軍が勝ちに乗じてこれを北に追い、范夫人城に至ると、匈奴は奔走して敢えて敵を距ごうとする者はいませんでした。
脚注
*4属国とは、辺境の異民族を居住させた郡のこと。胡騎は北方異民族の騎兵。
巫蠱の乱の影
たまたま李広利の妻子が「巫蠱の乱*5」に連座して捕らえられたため、これを聞いた李広利は憂え懼れました。
すると、罪を逃れるために弐師将軍(李広利)の掾(属官)として従軍していた胡亜夫が、李広利に説いて言いました。
「今、夫人もご家族もみな吏(役人)の手中にあり、帰還してもし天子(武帝)の御意に称わなければ、(李広利も)獄に繋がれることになります。どうして再び郅居水以北を見ることができるでしょうか?」
李広利はこの言葉を疑い、深く敵地に入って戦功を挙げようと、ついに北方の郅居水の畔に至りましたが、虜(匈奴)はすでに去った後でした。
そこで李広利は、護軍将軍の2万騎を遣わして郅居水を渡らせたところ、1日で(匈奴の)左賢王・左大将と遭遇しました。合戦すること1日、漢軍は左大将を殺害し、(匈奴の)多くを殺傷・捕虜にします。
ですが、長史と決眭都尉の煇渠侯*6は、
「将軍(李広利)は異心を懐き、戦功を求めて兵を危険に晒した。必ず敗れるに違いない」
と言い、共に謀って李広利を捕らえようと企てます。
李広利はこれを聞くと、長史を斬り、速邪烏*7の燕然山まで兵を退きました。
脚注
*5巫蠱とは偶人(木の人形)を土中に埋め、巫に祈らせて願いを叶えたり人を呪い殺すという迷信。
武帝が行幸先の甘泉宮で病床に伏すと、衛太子と反目していた江充は「武帝の病は巫蠱によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮にまで及び、そこで偶人が発見された。
身の危険を感じた衛太子は長安で挙兵して江充を殺害したが、武帝はこれを謀反として討伐し、敗れた衛太子は自害した。
後にこれが冤罪であることが分かると、武帝は江充の一族を皆殺しにし、衛太子が自害した湖県に思子宮(子を思う宮殿)を建設した。
*6帰義侯・僕朋の子。
*7喀爾喀地方。
李広利が匈奴に降伏する
単于は漢軍が疲れ果てていることを知ると自ら5万騎を率い、李広利を遮って攻撃しましたが、両軍共に非常に多くの死傷者を出してしまいます。
(そこで単于は)夜のうちに漢軍の前方に深さ数尺(1尺=23.1cm)の塹壕を掘っておき、後方から急襲すると、漢軍は大いに乱れて敗れ、李広利は降伏しました。
単于は以前から、李広利が漢の大将を務める貴臣であることを知っていたので、彼に自分の女を娶せ、衛律の上位に立てて尊寵しました。
漢の使者との問答【前漢:武帝】
その翌年の漢の征和4年(紀元前89年)、単于は使者を遣わし書簡を送って言いました。
「南に大漢があり、北に強胡(強い匈奴)がある。胡(匈奴)は天の驕子(わがまま放題の子)であり、些細な礼儀で自らを煩わせることはない。
今、漢との間に大きな関所を開き、漢の皇女を娶って妻とし、我に対し、年ごとに糱酒1万石・稷米5千斛・雑繒(絹織物)1万匹を支給し、その他は故の約条の通りであるならば、辺境で盗みを働くことはしない」
漢が匈奴の使者を送り届けさせると、単于は左右の者を使って、
「漢は礼儀の国であるはずですが、弐師(李広利)は『前太子(衛太子)が兵を挙げて叛いた(巫蠱の乱*5)』と言っているが、これはどういうことですかな?」
と、漢の使者を非難させました。
これに漢の使者が、
「その通りである。だがそれは丞相が太子と私的に争い、太子が兵を発して丞相を誅殺なされようとしたところ、丞相がこれを誣告したため、丞相を誅殺したものである。『子(衛太子)が父(武帝)の兵を弄んだ』ことは、笞刑に当たる小さな罪に過ぎない。
かの冒頓単于が、自ら父を殺して単于に立ち、父の後母(後妻)を妻としたような禽獣の如き行いと、どちらが礼儀に反していようかっ!」
と答えると、単于はこの漢の使者を拘留し、漢の使者は、3年後にようやく帰還することができました。
脚注
*5巫蠱とは偶人(木の人形)を土中に埋め、巫に祈らせて願いを叶えたり人を呪い殺すという迷信。
武帝が行幸先の甘泉宮で病床に伏すと、衛太子と反目していた江充は「武帝の病は巫蠱によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮にまで及び、そこで偶人が発見された。
身の危険を感じた衛太子は長安で挙兵して江充を殺害したが、武帝はこれを謀反として討伐し、敗れた衛太子は自害した。
後にこれが冤罪であることが分かると、武帝は江充の一族を皆殺しにし、衛太子が自害した湖県に思子宮(子を思う宮殿)を建設した。
李広利の死【前漢:武帝】
弐師将軍・李広利が匈奴に留まって1年余り、衛律は李広利が単于の寵愛を受けていることを憎んでいました。
たまたま単于の母・閼氏*8が病となると、衛律は胡巫(胡人の巫)に言い含め、
「先の単于が怒って『胡(匈奴)は以前から、出兵して戦う際に兵を祠っている。かねてより”弐師(李広利)を得たからには社に祠れ”と言っておったのに、今どうしてそれを実行しないのか?』と言っておられます」
と言わせました。これを真に受けた単于が李広利を捕らえると、李広利は「我は死んでも必ず匈奴を滅ぼしてくれようっ!」と罵りました。
ついに単于は李広利を屠って(生命を奪って)社に祠りましたが、雨雪が数ヶ月にわたって降り続き、家畜は死に、民は疫病にかかり、農作物は実らなくなったので、単于は恐れ、李広利のために祠室(祠堂)を立てました。
李広利の没後、漢は新たに大将軍はの士卒数万人を失ったため、再び出兵しませんでした。
脚注
*8単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
狐鹿姑単于の死【前漢:昭帝】
武帝の崩御
3年後の漢の後元2年(紀元前87年)、武帝が崩御しました。
漢が20余年にわたり胡地(匈奴の土地)深く入って追い詰めたことから、匈奴では妊婦が流産するほど疲れ切って苦しみ、単于以下の者たちは常に漢との和親を望んでいました。
単于の後継者を巡る争い
単于の異母弟が殺害される
単于には賢明な異母弟がいて左大都尉となっており、国人たちは彼に信頼を寄せていました。
母の閼氏*8(原文:母閼氏)は「単于が自分の子ではなく左大都尉に後を継がせる」ことを恐れて秘かに彼を殺害させたので、左大都尉の同母兄はこれを怨み、ついに再び単于庭(朝廷)に参内しようとはしませんでした。
脚注
*8単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
単于の死
漢の昭帝の始元2年(紀元前85年)、狐鹿姑単于は病にかかると、その死に臨んで貴人(貴族)たちに、
「我が子は幼く、国を治めることはできない。弟の右谷蠡王を(単于に)立てよ」
と言い遺しました。
衛律と顓渠閼氏の陰謀
単于が病死すると、衛律らは顓渠閼氏*8と謀って単于の死を隠し、単于の命令と詐って、貴人(貴族)たちと酒を飲んで盟い、改めて子の左谷蠡王を立てて壺衍鞮単于としました。
脚注
*8単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
スポンサーリンク