前漢ぜんかん武帝ぶてい④時代の匈奴きょうど単于ぜんう句黎湖こうりこ単于ぜんう且鞮侯しょていこう単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑥児単于

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

児単于の即位【前漢:武帝】

児単于じぜんうの即位

かん元封げんほう6年(紀元前105年)、烏維うい単于ぜんうが立って10年で亡くなると子の詹師廬せんしろが立ちましたが、年少のため単于ぜんうばれました。

これより後、単于ぜんうはますます西北に移り、左方(東方)の兵は雲中郡うんちゅうぐんに接し、右方(西方)の兵は酒泉郡しゅせんぐん敦煌郡とんこうぐんに接していました。

かんの使者を拘留こうりゅうする

単于ぜんうが立つと、かんは2人の使者をつかわして、1人は烏維うい単于ぜんうとむらわせ、1人は右賢王ゆうけんおうとむらわせて、その国(匈奴きょうど)を離間させようとしました。

匈奴きょうどが使者を単于ぜんうの元に送致すると、単于ぜんうは怒ってかんの使者のことごとくを拘留こうりゅうしました。かんの使者で拘留こうりゅうされた者は前後10余人に及び、かんもまたやって来た匈奴きょうどの使者をすぐさま拘留こうりゅうして対抗しました。

漢軍を破る【前漢:武帝】

左大都尉さだいといの反乱計画

かん太初たいしょ元年(紀元前104年)、かん弐師将軍じししょうぐん李広利りこうりを派遣して西方の大宛国だいえんこくたせ、因杅将軍いんうしょうぐん公孫敖こうそんごうに命じて(内モンゴル自治区包頭パオトウ西北の黄河こうが沿岸に)受降城じゅこうじょうを築かせました。


この年の冬、匈奴きょうどに大雪が降って家畜の多くがえてこごえ死に、また単于ぜんうが年少で殺伐さつばつを好んだため、匈奴きょうどの国内には不安が広がっていました。

そこで(匈奴きょうどの)左大都尉さだいとい単于ぜんうを殺害しようと思い、秘かにかんに人をつかわして言いました。

わたくし単于ぜんうを殺してかんに降伏したいと願っておりますが、かんは遠いので、もしかんわたくしの近くまで兵を出していただけるのなら、わたくしは直ちに兵をげましょう」

実は、かんはこの言葉を聞いて受降城じゅこうじょうを築いたのですが、それでもまだ遠いということでした。

そこでかんは、浞野侯そくやこう趙破奴ちょうはどに2万騎をひきいさせ、朔方郡さくほうぐんから出陣して北方に2千余里(約860km)の浚稽山しゅんけいざんまで行ってかえらせる約束をしました。

かん軍を破る

翌年の太初たいしょ2年(紀元前103年)春、浞野侯そくやこう趙破奴ちょうはどは約束通り浚稽山しゅんけいざんに至りましたが、左大都尉さだいといの方では兵をげようとしていることが発覚。単于ぜんう左大都尉さだいとい誅殺ちゅうさつすると、兵を発して趙破奴ちょうはどを攻撃します。

これに趙破奴ちょうはどは合わせて数千人を捕虜・斬首にしましたが、受降城じゅこうじょうに帰還する4百里(約172km)手前で匈奴きょうどの8万騎に包囲されてしまいました。そして趙破奴ちょうはどが、夜に水を求めてみずから(陣の)外に出たところ、匈奴きょうど趙破奴ちょうはどを生け捕りにして、そのままかん軍を急襲します。

かんの軍吏は「大将を失った罪」で誅殺ちゅうさつされることをおそれ、はげまし合って帰還することもなく、匈奴きょうどかん軍を撃ち破りました。

単于ぜんうは大いに喜んで、ついに兵を派遣して受降城じゅこうじょうを攻めさせましたが、これを降すことができなかったため、辺境に侵入して去りました。

児単于の死

翌年の太初たいしょ3年(紀元前102年)、単于ぜんうみずか受降城じゅこうじょうを攻めようとしましたが、また到着しないうちに病死してしまいました。


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句黎湖単于

句黎湖単于の即位【前漢:武帝】

かん太初たいしょ3年(紀元前102年)、単于ぜんうが立って3年で亡くなってしまうと、その子が幼少であったため、匈奴きょうどは(単于ぜんうの)季父きふ(末の叔父おじ)で烏維うい単于ぜんうの弟の右賢王ゆうけんおう句黎湖こうりこ単于ぜんうに立てました。

雲中・定襄・五原・朔方の4郡に侵入する【前漢:武帝】

句黎湖こうりこ単于ぜんうが立つと、かん光禄勲こうろくくん徐自為じょじいつかわして、五原塞ごげんさいを出ること数百里から千里(約430km)にわたって城障じょうしょう(城壁や堤防)を築き、盧朐山ろくざんに至るまでていつらねると、遊擊将軍ゆうげきしょうぐん韓説かんえつ長平侯ちょうへいこう衛伉えいこう衛青えいせいの子)をそのかたわらに駐屯させ、また、強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくつかわして居延沢きょえんたくほとりに城を築かせました。


その秋、匈奴きょうどは大挙して雲中郡うんちゅうぐん定襄郡ていじょうぐん五原郡ごげんぐん朔方郡さくほうぐんに侵入し、数千人を殺害・略奪して二千石にせんせき太守たいしゅ)数人を破り、徐自為じょじいが築いた亭障ていしょうを破壊しました。また、右賢王ゆうけんおう酒泉郡しゅせんぐん張掖郡ちょうえきぐんの2郡に侵入させて、数千人を略奪しました。

ですがこの時、たまたま(かんの)任文じんぶん匈奴きょうどを攻撃して救ったため、匈奴きょうどは得たものすべてを失って去りました。

句黎湖単于の死【前漢:武帝】

その冬、「弐師将軍じししょうぐん李広利りこうり大宛国だいえんこくを破り、そのおうを斬ってかえるところだ」と聞くと、単于ぜんうはその帰途をさえぎろうとしましたが、実行に移す前に病死してしまいました。


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且鞮侯単于

且鞮侯単于の即位【前漢:武帝】

かん太初たいしょ3年(紀元前102年)冬、句黎湖こうりこ単于ぜんうが立って1年で亡くなると、その弟の左大都尉さだいとい且鞮侯しょていこう単于ぜんうに立ちました。

武帝の恨みと且鞮侯単于の驕り【前漢:武帝】

この時、かんはすでに大宛国だいえんこくちゅうしてその国威は外国に響き渡っていました。

かん太初たいしょ4年(紀元前101年)、天子てんし武帝ぶてい)はあくまでも匈奴きょうど)を困窮こんきゅうさせたいと思い、みことのりを下して、


高皇帝こうこうてい劉邦りゅうほう)はちん(皇帝の一人称)に『平城へいじょううれ*1』をのこし、高后こうこう呂后りょこう)の時に単于ぜんう冒頓ぼくとつ単于ぜんう)が送った書簡は道に悖逆もとるものであった。

昔、せい襄公じょうこうが9世のあだかえした*2が、春秋しゅんじゅうはこれを大義とした。(ちんもこれにならいたい)」


と言いました。


単于ぜんうに立った当初、且鞮侯しょていこう単于ぜんうは、

わたし児子こどもであるし、かん天子てんし武帝ぶてい)はわたし丈人じょうじん(妻の父)だ。どうしてかん天子てんしになろうなどと望もうかっ!」

と思い、またかんに襲われることを恐れ、(拘留こうりゅうしていても)降伏しなかったかんの使者・路充国ろじゅうこくらをことごとかんに帰しました。

ですが、かん中郎将ちゅうろうしょう蘇武そぶつかわして単于ぜんうに手厚い幣賂へいろおくり物)をおくると、単于ぜんうますますおごり、かんが望むような礼をらず、はなはあなどった態度を取りました。


翌年のかん天漢てんかん元年(紀元前100年)、(単于ぜんうの時代に捕虜となった)浞野侯そくやこう趙破奴ちょうはどかんに逃げ帰ることができました。*3

脚注

*1かん高祖こうそ7年(紀元前200年)に高皇帝こうこうてい劉邦りゅうほう)が冒頓ぼくとつ単于ぜんうの精兵30余万騎に包囲されたこと。

*2荘公そうこう4年(紀元前690年)春、せい襄公じょうこう紀国きこくを滅ぼして、9世の祖先のために復讐した故事。春秋公羊伝しゅんじゅうくようでん

*3原文:浞野侯破奴得亡歸漢。且鞮侯しょていこう単于ぜんうが返還したのではなく逃げ帰った。

漢の遠征軍を撃退する①【前漢:武帝】

その翌年のかん天漢てんかん2年(紀元前99年)、かん弐師将軍じししょうぐん李広利りこうりに3万の騎兵をひきいさせ、酒泉郡しゅせんぐんから出撃して天山てんざんにおいて右賢王ゆうけんおうを攻撃し、匈奴きょうど首級しゅきゅう・捕虜1万余を得て引き返しました。

すると匈奴きょうど李広利りこうりの軍を大軍で包囲し、漢兵かんぺいは脱出することができず、その6〜7割が物故ぶっこ(死亡)してしまいます。

かんはまた因杅将軍いんうしょうぐん公孫敖こうそんごう西河郡せいかぐんから出撃させ、強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとく涿邪山たくやさんで合流させましたが、何ら得るところがありませんでした。


かんはまた)騎都尉きとい李陵りりょうに歩兵5千人をひきいさせ、居延県きょえんけんから出撃して北へ千余里進んだところ、単于ぜんうの軍と遭遇そうぐうして合戦となりました。

この時、李陵りりょうは1万余人の敵を殺傷しましたが、武器・兵糧が尽きて退却しようとしたところ、単于ぜんうはこれを包囲します。李陵りりょうは降伏し、李陵りりょうの兵で脱出してかんに帰ることができた者は400人程しかいませんでした。

単于ぜんう李陵りりょうとうとび、そのむすめを彼にめあわせました。

漢の遠征軍を撃退する②【前漢:武帝】

2年後のかん天漢てんかん4年(紀元前97年)、かんは、

  • 弐師将軍じししょうぐん李広利りこうりの6万騎と歩兵7万人を朔方郡さくほうぐんから出撃させ、強弩都尉きょうどとい路博徳ろはくとくは1万余騎をひきいて李広利りこうりと合流させ、
  • 遊擊将軍ゆうげきしょうぐん韓説かんえつの歩兵3万人を五原郡ごげんぐんから出撃させ、
  • 因杅将軍いんうしょうぐん公孫敖こうそんごうは1万騎と歩兵3万人をひきいて雁門郡がんもんぐんから出撃させました。

匈奴きょうどはこれを聞くと、妻子・財産のことごとくを余吾水よごすいの北に避難させ、単于ぜんうは10万騎をひきいてすい余吾水よごすい)の南で待って李広利りこうりの軍と接戦しました。すると弐師将軍じししょうぐん李広利りこうりは兵をいて退き、単于ぜんうと10余日にわたって連闘しました。

一方、遊擊将軍ゆうげきしょうぐん韓説かんえつは何ら得るところがなく、因杅将軍いんうしょうぐん公孫敖こうそんごうは(匈奴きょうどの)左賢王さけんおうと戦って敗れ、兵を退きました。

且鞮侯単于の死

翌年のかん太始たいし元年(紀元前96年)、且鞮侯しょていこう単于ぜんうが在位5年で亡くなり、長子の左賢王さけんおうが立って狐鹿姑ころくこ単于ぜんうとなりました。


【後漢・三国時代の異民族】目次