前漢ぜんかん武帝ぶてい③時代の匈奴きょうど烏維うい単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴・前漢時代⑤烏維単于

西域(後漢時代)

匈奴きょうど後漢ごかん時代)

烏維単于の即位【前漢:武帝】

伊稚斜いちしゃ単于ぜんうの時代

伊稚斜いちしゃ単于ぜんうの時代、匈奴きょうどかん大将軍だいしょうぐん衛青えいせい票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへいたびかさなる匈奴きょうど遠征を受け、砂漠の北にのがれました。

かんはさらに匈奴きょうど征伐を続けようとしましたが、霍去病かくきょへいが亡くなったため、それ以降、長い間匈奴きょうどつことはありませんでした。

烏維うい単于ぜんうの即位

かん元鼎げんてい3年(紀元前114年)、伊稚斜いちしゃ単于ぜんうが在位13年で亡くなると、子の烏維ういが立って単于ぜんうとなりました。

烏維うい単于ぜんうが立つと、かん武帝ぶていは初めて地方に出て郡県を巡狩じゅんしゅ*1し、その後 初めて南方の両越りょうえつ*2ちゅうしましたが、匈奴きょうどたず、匈奴きょうどもまた辺境に侵入しませんでした。

脚注

*1天子てんしが天下をめぐり、地方の政治や民の生活状態を視察すること。巡守じゅんしゅとも書く。

*2南越なんえつ東越とうえつ

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漢が匈奴に臣従を求める【前漢:武帝】

烏維うい単于ぜんうが立った3年後の元鼎げんてい6年(紀元前111年)、南越なんえつを滅ぼしたかんは、元太僕たいぼく公孫賀こうそんがに1万5千騎をひきいさせ、九原郡きゅうえんぐんから出撃して2千余里(約860km)先の浮苴井ふしょせいに至り、従票侯じゅうひょうこう趙破奴ちょうはどの1万余騎は、令居れいきょから出撃して数千里先の匈奴河水きょうどかすい匈河きょうが)に至りましたが、両軍とも匈奴きょうどを1人も見ることなく帰還しました。

この当時、天子てんし武帝ぶてい)は辺境を巡行しており、朔方郡さくほうぐんに至ると兵18万騎をひきいて武威を示し、使者として郭吉かくきつ匈奴きょうど単于ぜんうに派遣します。

郭吉かくきつ匈奴きょうどに至ると、匈奴きょうど主客しゅかく*3からその用向きをわれましたが、郭吉かくきつは身を低くして言葉たくみに「単于ぜんうにお目にかかった上で、直接申し上げたい」とだけ言いました。

そして単于ぜんう郭吉かくきつを引見すると、郭吉かくきつは次のように言いました。

南越王なんえつおうこうべかん北闕ほっけつ(宮城の北門)にけられております。今、単于ぜんうがすぐにかんと戦うおつもりなら、天子てんし武帝ぶてい)はみずから兵をひきいて辺境で待っておられます。もし戦うことができないのなら、すみやかに南面してかんに臣従なされませ。どうしていたずらに遠くげ、砂漠の北の寒く苦しく水・草のない土地にかくれるようなことをなされるのですか?」

これを聞くと単于ぜんうは大いに怒り、立ち所に取り次いだ主客しゅかく*3を斬ると、郭吉かくきつ拘留こうりゅうして帰さず、北海ほっかい*4ほとりうつしてはずかしめました。

ですが単于ぜんうは結局最後までかんの辺境に侵入しようとはせず、士馬を休養させ射猟を習わせつつ、しばしばかんに使者をつかわして、甘い言葉でもって和親を求めました。

脚注

*3賓客ひんかくを接待する官職。

*4バイカル湖か?

再び漢に侵入する【前漢:武帝】

かんの使者・王烏おうう

その後、かん王烏おううらをつかわして匈奴きょうどの様子をうかがわせました。

匈奴きょうどの法では、かんの使者がせつ(使者のしるし)を身辺から離し、すみで顔をめないと、単于ぜんう穹廬きゅうろ(テント状の住宅)の中に入ることは許されませんでした。*5

匈奴きょうどに近い)北地郡ほくちぐん出身の王烏おうう匈奴きょうど)の風俗に通じていたため、せつ(使者のしるし)を手放し、顔を黒く染めて穹廬きゅうろ(テント状の住宅)の中に入りました。

そのため単于ぜんう王烏おううを気に入って、表面うわべだけで「わし太子たいしかんへの人質につかわして、和親を求めたいと思っている」と言いました。

脚注

*5原文:匈奴法,漢使不去節,不以墨黥其面,不得入穹廬。「墨黥ぼくげい」は入れずみをすること。本当に入れずみをしたのかもしれない。

かん匈奴きょうどを孤立させる

当時、かんは東方の濊貉わいばく朝鮮ちょうせんを攻略してかんの郡とし、西方には酒泉郡しゅせんぐんを設置して匈奴きょうど)ときょうの交通路を遮断し、西方の月氏国げっしこく大夏国たいかこくと通じ、翁主おうしゅ諸王しょおうむすめ)を烏孫王うそんおうめあわせて匈奴きょうどとその西方の匈奴きょうどを支援する国を分断しました。

また北方では益々田地を広め、眩雷けんらい*6に至るまでとりでを造りましたが、匈奴きょうどはついに異議を申し立てようとしませんでした。

脚注

*6西河郡せいかぐんの西北辺のとりで名。

かんの使者・楊信ようしん

この年、匈奴きょうどでは翕侯きゅうこう趙信ちょうしん*7が亡くなったので、かんは「匈奴きょうどはすでに弱体化しており、臣従させることができる」と考え、かんは使者として楊信ようしん匈奴きょうどつかわしました。

楊信ようしんは剛直屈強な人物でしたが、もとより貴臣ではなかったので単于ぜんうに気に入られず、またし入れようとしてもせつ(使者のしるし)を手放そうとしなかったので、穹廬きゅうろ(テント状の住宅)の外で楊信ようしんを引見しました。

そこで楊信ようしんが、

「もしすぐに和親することをお望みなら、単于ぜんう太子たいしを人質としてかんにお入れください」

と言うと、単于ぜんうは、

「それは元の約束と違う。元の約束では『かんは常に翁主おうしゅ諸王しょおうむすめ)を(閼氏あつし*8として)つかわして、季節ごとに一定量のきぬまわた・食物を提供して和親し、匈奴きょうどもまた辺境を乱さない*9』ということであったのに、今これを反古ほごにしようとしている。わし太子たいしを人質とするぐらいなら、和親など願わない」

と言いました。

これは匈奴きょうどの「かんの使者が中貴人ちゅうきじん*10でないことを見て取ると、それが儒生じゅせいであればこちらを説得しようとする者としてその辞弁じべんり、年少者であればこちらを刺そうとする者としてその気をくじく」という風俗(しきたり)によるものであり、また匈奴きょうどは「漢兵かんぺい匈奴きょうどに侵入するたびにすぐさま報復し、かん匈奴きょうどの使者を拘留こうりゅうすれば、匈奴きょうどもまたかんの使者を拘留こうりゅうする」など、すべてにおいてかんと対等にしなければ気が済みませんでした。

脚注

*7元は匈奴きょうど)の小国のおうかんに降伏して翕侯きゅうこうに封ぜられたが、大将軍だいしょうぐん衛青えいせいの第5次匈奴きょうど遠征に従軍した際に匈奴きょうどに降伏し、伊稚斜いちしゃ単于ぜんうの姉をめとって単于ぜんうの参謀となっていた。

*8単于ぜんう后妃こうひの称号。匈奴きょうど部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。

*9かん高祖こうそ劉邦りゅうほう)と匈奴きょうど冒頓ぼくとつ単于ぜんうの間でわされた約束。

*10内官で天子てんし寵愛ちょうあいのある者。

再びかんに侵入する

楊信ようしんが帰還すると、かんはまた王烏おううらを匈奴きょうどつかわしました。

すると匈奴きょうどはまたも甘言をもってへつらい、かんの財物を多く得ようとし、王烏おうう紿あざむいて、

わしかんに入って天子てんしと会見し、直接対面して兄弟のちぎりを結びたい」

と言いました。

そして、帰還した王烏おううから報告を受けたかん単于ぜんうのために長安ちょうあんに邸宅を建築すると、単于ぜんうは、

かんの貴人を使者として寄越さなければ、わしは共に腹を割って語ることはできない」

と言って匈奴きょうどの貴人を使者としてかんつかわしたところ、その使者が病気にかかり、(かんは)薬を飲ませていやそうとしましたが、不幸にも亡くなってしまいます。

そこでかんは、路充国ろじゅうこくに命じ二千石にせんせき印綬いんじゅびてそのを送らせ、へい(香典)を厚くし、数千金に値するものをおくりました。

ですが、単于ぜんうは「かんわしの貴人の使者を殺した」として路充国ろじゅうこく拘留こうりゅうして帰しませんでした。


こうしたことは、単于ぜんうがただむなしく王烏おうう紿あざむいた言葉に過ぎず、単于ぜんうにはことさらかんに行く気も太子たいしを人質としてかんつかわす気もありませんでした。

こうして匈奴きょうどは奇兵(敵の不意をつ兵)をもってかんの辺境に侵入するようになり、かん郭昌かくしょう抜胡将軍ばっこしょうぐんに任命し、浞野侯さくやこう趙破奴ちょうはど朔方郡さくほうぐん以東に駐屯させて、匈奴きょうど)にそなえさせました。

烏維単于の死

かん元封げんほう6年(紀元前105年)、烏維うい単于ぜんうが立って10年で亡くなると、子の詹師廬せんしろが立ちましたが、年少のため単于ぜんうばれました。

これより後、単于ぜんうはますます西北に移り、左方(東方)の兵は雲中郡うんちゅうぐんに接し、右方(西方)の兵は酒泉郡しゅせんぐん敦煌郡とんこうぐんに接していました。


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