前漢ぜんかん武帝ぶてい②時代の匈奴きょうど伊稚斜いちしゃ単于ぜんうについてまとめています。

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匈奴・前漢時代④伊稚斜単于

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

伊稚斜単于の即位【前漢:武帝】

元朔げんさく2年(紀元前127年)冬、軍臣ぐんしん単于ぜんうが亡くなると、弟の左谷蠡王さろくりおう伊稚斜いちしゃみずから立って単于ぜんうとなり、軍臣ぐんしん単于ぜんう太子たいし於単おぜんを攻め破りました。

於単おぜんは逃亡してかんに投降し、かんは彼を陟安侯しょうあんこうに封じましたが、於単おぜんはその数ヶ月後に亡くなりました。

衛青の第4次匈奴遠征【前漢:武帝】

匈奴きょうどの侵入

元朔げんさく3年(紀元前126年)夏、数万騎の匈奴きょうど代郡だいぐんに侵入して太守たいしゅ共友きょうゆうを殺害し、民千余人を略奪しました。

秋、匈奴きょうどはまたも鴈門郡がんもんぐんに侵入して千余人を殺戮さつりく・略奪しました。

その翌年[元朔げんさく4年(紀元前125年)]、匈奴きょうどはまた代郡だいぐん定襄郡ていじょうぐん上郡じょうぐんに侵入し、それぞれ3万騎をもって数千人を殺戮さつりく・略奪しました。

匈奴きょうど右賢王ゆうけんおうは「(軍臣ぐんしん単于ぜんうの時代に)かん河南オルドスの地を奪って朔方郡さくほうぐんを築いた」ことをうらみ、しばしば辺境に侵入して略奪し、さらに河南オルドスに侵入して朔方郡さくほうぐんおかみだし、その吏民を大量に殺戮さつりく・略奪しました。

衛青えいせいの第4次匈奴きょうど遠征

その翌年[元朔げんさく5年(紀元前124年)]の春、(匈奴きょうどたびかさなる侵入を受けた)かん衛青えいせいに6人の将軍しょうぐんと10余万人の兵をひきいて朔方郡さくほうぐん高闕こうけつから出撃させます。

この時、右賢王ゆうけんおうは「漢兵かんぺいはここまで来ることはできない」と、酒を飲んでっていました。

漢兵かんぺいとりでを出て6〜7百里(約258km〜301km)進み、夜になって右賢王ゆうけんおうを包囲すると、右賢王ゆうけんおうは大いに驚き、包囲を抜け出して逃走し、彼がひきいていた精鋭の騎兵もみな右賢王ゆうけんおうの後にしたがって逃げ去ります。

この時、かん将軍しょうぐん右賢王ゆうけんおうの人衆、男女1万5千人と裨小王ひしょうおう(小国のおう)10余人を手に入れました。

衛青の第5次匈奴遠征【前漢:武帝】

その[元朔げんさく5年(紀元前124年)]秋、また1万騎の匈奴きょうど代郡だいぐんに侵入して都尉とい朱央しゅおうを殺害し、千余人を略奪しました。

翌年[元朔げんさく6年(紀元前123年)]春、かんはまた大将軍だいしょうぐん衛青えいせいに6人の将軍しょうぐんと10余万騎をひきいさせ、定襄郡ていじょうぐんから数百里進出して匈奴きょうどち、首級・捕虜1万9千余人を得ましたが、かんもまた2人の将軍しょうぐんと3千余騎を失いました。

この時、右将軍ゆうしょうぐん蘇建そけん窮地きゅうちを脱することができましたが、前将軍ぜんしょうぐん翕侯きゅうこう趙信ちょうしんの兵は形勢が悪く、匈奴きょうどに降伏しました。この趙信ちょうしんという者は、元は匈奴きょうど)の小国のおうで、かんに降伏して翕侯きゅうこうに封ぜられ、前将軍ぜんしょうぐんとなって右将軍ゆうしょうぐんの軍と行動を共にしていましたが、分かれて単独でいる時に単于ぜんうの兵と遭遇したため、降伏するに至ったのでした。

単于ぜんう翕侯きゅうこう趙信ちょうしん)を得ると、彼を自分に次ぐ地位のおうとして尊重し、自分の姉をめあわせて共にかんに対する策をはかりました。

すると趙信ちょうしんは「さらに北方の砂漠に漢兵かんぺいを誘い込み、その疲弊ひへいきわまったところをつべきです。とりでに近づけてはいけません」と教え、単于ぜんうはこれに従いました。

霍去病の匈奴遠征【前漢:武帝】

焉耆山えんきさん祁連山きれんざん方面

その翌年[元狩げんしゅ元年(紀元前122年)]、数万騎の匈奴きょうど)が上谷郡じょうこくぐんに侵入して数百人を殺害しました。

翌年[元狩げんしゅ2年(紀元前121年)]、かん票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへいに1万騎をひきいさせ、隴西郡ろうせいぐんから出撃して焉耆山えんきさん*1を過ぎること千余里(約430km)、匈奴きょうど)をって首級・捕虜8千余人、休屠王きゅうとおう祭天金人さいてんきんじん*2を得ました。

またこの年の夏、票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい)は合騎侯ごうきこう公孫敖こうそんごう)の数万騎と共に隴西郡ろうせいぐん北地郡ほくちぐんから出撃すること2千里(約860km)、居延きょえん*3を過ぎて祁連山きれんざん*4を攻め、匈奴きょうど)をって首級・捕虜3万余人と裨小王ひしょうおう(小国のおう)以下10余人を得ました。

脚注

*1焉支山えんしさんに同じ。甘粛かんしゅく山丹さんたんの南にある。水草が多い。

*2天神てんじんの主(ご神体)として天を祭るための金属製の人像。祭天の場所は休屠王きゅうとおうの右地にあった。のち霍去病かくきょへいがこれを雲陽うんよう陝西せんせい涇陽けいようの北)に置いた。

*3甘粛かんしゅく張掖ちょうえきの西北1,200里(約516km)。

*4甘粛かんしゅく張掖ちょうえきの西南にある。北の祁連山きれんざん天山てんざん北山ほくざんと言うのに対して、南山なんざんとも言う。

左賢王さけんおう方面

この時、匈奴きょうどもまた代郡だいぐん鴈門郡がんもんぐんに侵入して数百人を殺戮さつりく・略奪していました。

これに対してかんは、博望侯はくぼうこう張騫ちょうけん)と将軍しょうぐんこう李広りこう)を右北平郡ゆうほくへいぐんから出撃させて匈奴きょうど左賢王さけんおうたせます。

この時、左賢王さけんおうに包囲された李広りこう軍4千人のうち死者は半数を超えましたが、李広りこう軍もまた非常に多くの匈奴きょうど兵を殺害・捕虜にしていました。

そこへ博望侯はくぼうこう張騫ちょうけん)の援軍が到着し、李広りこう軍は脱出できたものの、その軍のことごとくを失ってしまいます。

また、合騎侯ごうきこう公孫敖こうそんごう)は票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい)との約束に遅れ、博望侯はくぼうこう張騫ちょうけん)と共に死罪に値したが、あがなって*5庶人しょじんとなりました。

脚注

*5金品を出して罪をまぬかれること。

昆邪王が漢に降る【前漢:武帝】

その[元狩げんしゅ2年(紀元前121年)]秋、単于ぜんうは西方に昆邪王こんやおう休屠王きゅうとおうかんのために殺害・捕虜にされたことを怒り、2人をし出して誅殺ちゅうさつしようとしました。

これを恐れた昆邪王こんやおう休屠王きゅうとおうかんに投降することをはかり、かん票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい)に出迎えさせました。すると昆邪王こんやおう休屠王きゅうとおうを殺害してその軍勢をあわせた4万余人を10万と号し、これをひきいてかんくだりました。

昆邪王こんやおうを得たかんは、隴西郡ろうせいぐん北地郡ほくちぐんなど河西かせいの地に匈奴きょうど)の侵入と略奪が少なくなったことから、関東かんとうの貧民を匈奴きょうどから奪った河南オルドス新秦中しんしんちゅう*6うつしてこの地を満たし、また北地郡ほくちぐん以西の戍卒じゅそつ(辺境守備兵)の半数を削減しました。

脚注

*6始皇帝しこうてい蒙恬もうてんをして河南オルドス匈奴きょうどわせ、この地に民をうつして「新秦中しんしんちゅう」と名づけた。

衛青と霍去病の匈奴遠征【前漢:武帝】

かん匈奴きょうど遠征計画

翌年[元狩げんしゅ3年(紀元前120年)]の春、匈奴きょうど右北平郡ゆうほくへいぐん定襄郡ていじょうぐんにそれぞれ数万騎で侵入し、千余人を殺戮さつりく・略奪しました。

翌年[元狩げんしゅ4年(紀元前119年)]*7の春、かんは、

翕侯きゅうこう趙信ちょうしん単于ぜんうのためにはかって幕北(砂漠の北)にり、『漢兵かんぺいはここまで来ることはできない』とたかをくくっているはずだ」

謀議ぼうぎして、あわ・馬・兵10万騎・私物を背負う従馬およそ14万頭を徴発しましたが、糧食を背負う馬はその中に含まれていませんでした。

大将軍だいしょうぐん衛青えいせい票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへいとで軍を分け、大将軍だいしょうぐん衛青えいせい)は定襄郡ていじょうぐんから、票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい)は代郡だいぐんから出撃し、共に厳しい砂漠を進んで匈奴きょうどつことを約束しました。

脚注

*7原文には「其年春」とあるが改めた。

伊稚斜いちしゃ単于ぜんうの敗北

単于ぜんうはこれを聞くと、輜重しちょう(軍需物資)を遠くにけ、精兵をそろえて砂漠の北で漢兵かんぺいを待ち受けます。

かん大将軍だいしょうぐん衛青えいせい)と接戦をり広げること1日、日がれた頃に大風が起こり、漢兵かんぺいは左右の翼をひらく陣形(鶴翼かくよくの陣)を敷いて単于ぜんうを包囲しました。

これに単于ぜんうはこのまま戦っていても漢兵かんぺいに勝つことはできないと思い、ついにひと壮騎そうき(勇壮な騎馬兵)数百と共にかんかこみを破って西北に遁走とんそうします。

漢兵かんぺいが落ちるまでこれを追いましたが、単于ぜんうに追いつくことはできず、道中、敵の首級を斬り捕虜にした者はおよそ1万9千人、北方の窴顏山てんがんざん趙信城ちょうしんじょうまで行って帰還しました。


単于ぜんうが敗走した時、残された匈奴きょうどの軍勢はかん軍と入り乱れながら単于ぜんうの後をいました。

その後、いつまでっても単于ぜんうと合流できないため、右谷蠡王ゆうろくりおうは「すでに伊稚斜いちしゃ単于ぜんうは死んだ」のだと思い、そのままみずから立って単于ぜんうとなりましたが、のち伊稚斜いちしゃ単于ぜんうが合流すると、単于ぜんうの号をて元のくらいに復しました。

砂漠の北に逃れる【前漢:武帝】

その後、票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい)は代郡だいぐんから出撃して2千余里(約860km)、左王さおう左賢王さけんおう)と戦いをまじえて敗走させ、匈奴きょうど)の首級・捕虜およそ7万余人を得ました。

票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへい)は狼居胥山ろうきょしょざん*8で天を祭り、姑衍山こえんざん*9で山川を祭り、翰海かんかい*10のぞんで帰還します。


これ以降、匈奴きょうどは遠くにげ、砂漠の南部には匈奴きょうど王庭みやこはなくなりました。

これによりかんの勢力は黄河こうがを越えて朔方郡さくほうぐん以西の令居れいきょ*11に至り、要所に溝渠こうきょを通して田官でんかんを置きました。その吏卒は5〜6万人、養蚕ようさんを始め、北は匈奴きょうどの領土と接していました。

脚注

*8内蒙古自治区うちもうこじちく五原ごげんの西北、黄河こうがの北岸にある。狼山ろうざんとも言う。

*9蒙古もうこの大沙漠の北にある山の名前。

*10バイカル。一説にゴビ砂漠さばく

*11青海せいかい西寧せいねいの東北。

和親の失敗と伊稚斜単于の死【前漢:武帝】

和親の失敗

初め、かんの両将(衛青えいせい霍去病かくきょへい)は大挙して単于ぜんうを包囲し、敵兵8〜9万人を殺害・捕虜にしましたが、かんの士卒で物故ぶっこ(死亡)した者もまた数万人、馬は10余万頭が死んでいました。

そのため、匈奴きょうどやぶれて遠くに去ったとはいえ、かんもまた馬が不足していたので、これ以上前進することができませんでした。


その後、単于ぜんう趙信ちょうしんはかりごともちい、使者を派遣して言葉たくみに和親をいました。

天子てんし武帝ぶてい)がこの「匈奴きょうどとの和親」について意見を求めると、ある者は「和親すべき」と言い、ある者は「臣従させるべき」と言って意見が割れていましたが、丞相じょうしょう長史ちょうし任敞じんしょうの、

匈奴きょうどは今や困窮こんきゅうしています。よろしく使者を派遣してこれを外臣となし、朝請ちょうせいの礼*12らせるべきです 」

という意見を採用し、任敞じんしょう単于ぜんうの元に派遣しました。

ですが単于ぜんう任敞じんしょうはかりごとを聞くと大いに怒り、彼を拘留こうりゅうしてかんかえしませんでした。これは以前、かんに降伏してかえらなかった匈奴きょうどの使者がいたことから、単于ぜんうもまたかんの使者をとどめてり合いを取ったものでした。

これにかんは、再度士卒・軍馬を整えて匈奴きょうど征伐をしようとしましたが、たまたま票騎将軍ひょうきしょうぐん霍去病かくきょへいが亡くなったので、これ以降 かんは長い間、北方の匈奴きょうど)をつことはありませんでした。

脚注

*12春・秋に朝廷に伺候しこう(貴人のげんうかがいに行くこと)する礼。春にはちょうと言い、秋にはせいと言う。

伊稚斜いちしゃ単于ぜんうの死

元鼎げんてい3年(紀元前114年)、伊稚斜いちしゃ単于ぜんうが在位13年で亡くなると、子の烏維ういが立って単于ぜんうとなりました。

烏維うい単于ぜんうが立つと、かん武帝ぶていは初めて地方に出て郡県を巡狩じゅんしゅ*13し、その後 初めて南方の両越りょうえつ*14ちゅうしましたが、匈奴きょうどたず、匈奴きょうどもまた辺境に侵入しませんでした。

脚注

*13天子てんしが天下をめぐり、地方の政治や民の生活状態を視察すること。巡守じゅんしゅとも書く。

*14南越なんえつ東越とうえつ


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