前漢・文帝・景帝・武帝①時代の匈奴、軍臣単于についてまとめています。
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目次
匈奴・前漢時代③軍臣単于
匈奴(前漢時代)
再度漢に侵入する【前漢:文帝】
文帝の後4年(紀元前160年)、老上単于が亡くなると子の軍臣単于が立ち、中行説はまた軍臣単于に仕えました。
軍臣単于が立って1年余り、匈奴はまたもや和親を絶つと、上郡と雲中郡にそれぞれ3万騎で大挙して侵入し、殺戮・略奪を欲しいままにしました。
これに漢は3人の将軍を派遣して北地郡、代郡の句注山、趙国の飛狐口にそれぞれ駐屯させ、その他の辺境も堅く守って胡(匈奴)の侵入に備え、またさらに3人の将軍を派遣して長安の西の細柳、渭水の北の棘門・覇上に駐屯させ、胡(匈奴)の侵入に備えます。
ですが、胡(匈奴)の騎兵が代郡の句注山の辺りに侵入すると、そのことを知らせる烽火が甘泉から長安に通るまで数ヶ月かかったため、漢兵が辺境に到着した頃には、すでに匈奴は塞から遠く離れており、漢兵も追撃するのをやめました。
呉楚七国の乱【前漢:景帝】
それから1年余り後、漢では文帝が崩御して景帝が即位します。
そして趙王・劉遂が秘かに匈奴に使者を遣わし、呉・楚が叛乱を起こすと、匈奴は趙と通謀して辺境の塞に侵入しようとしますが、漢が趙を包囲して破ったため、これを中止しました。
その後また匈奴と和親した景帝は、関市(関所で行う貿易)を通じて(漢の物産を)単于に供給・贈与し、また以前の約束通り翁主(諸王の女)を閼氏*1として単于に娶せました。
その結果 匈奴は、時々小規模に侵入して辺境を略奪することはあっても、景帝の末年まで、大規模に侵略して来ることはありませんでした。
脚注
*1単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
馬邑の役【前漢:武帝】
漢の謀略
武帝が即位すると、漢は匈奴との和親の約束を明確にし、関市(関所で行う貿易)による通商を厚遇して多くの物産を供給したため、匈奴は単于以下みな漢に親しみ、長城の城下に往来するようになりました。
ですが元光2年(紀元前133年)、漢は馬邑出身の聶翁壱(聶壱)を遣わし、秘かに闌出(許可なく域外に出ること)して匈奴と交易し、馬邑城が裏切ると見せかけて単于を誘惑させました。
すると単于はこれを信用して、馬邑の財物を奪うため10万騎を率いて武州の塞に侵入します。
この時、漢は馬邑の傍らに30余万の兵を伏せ、御史大夫の韓安国を護軍将軍として麾下に4人の将軍を加え、単于を待ち伏せていました。
単于の撤退
単于が漢の塞に侵入して馬邑の手前百余里(約43km)まで来た時、家畜が野に放たれているのに牧者がいないのを見て怪しく思いましたが、亭(旅人が宿泊するための宿舎)への攻撃を開始しました。
この時、巡行視察していた雁門郡の尉史がこれに気づいて亭の守備に入りましたが、単于に捕らえられて刺し殺されそうになります。
尉史は漢の謀を知っていたためその謀を単于に白状すると、単于は大いに驚いて「吾も怪しいと思っていた」と言い、すぐさま兵を還しました。
漢の塞を出ると単于は「吾が尉史を得たのは天の思し召しだ」と言い、尉史を尊称して「天王」と呼びました。
漢との和親を絶つ
漢兵は「単于が馬邑に入ったところに兵を縱って撃つ」計画でしたが、単于が来なかったため、何も得るものがありませんでした。
この時、将軍・王恢の部隊は「代郡から出て胡(匈奴)の輜重(軍需物資)を撃つ」ことになっていましたが、「単于が撤退し、その兵も多い」と聞いて敢えて出撃しませんでした。
これに漢は「元々王恢が建てた兵謀であるのに、進撃しなかった」ことから、王恢を誅殺しました。
その後、匈奴は漢との和親を絶って行く先々で塞を攻め、漢の辺境に侵入して数え切れないほどの略奪を繰り返すようになります。
匈奴は貪欲で、それでもなお関市(関所で行う貿易)を楽しみ、漢の財物を欲しがったので、漢もまた関市を通じて交易を続け、匈奴の要望に応えました。
漢の匈奴遠征【前漢:武帝】
衛青の第1次匈奴遠征
馬邑の役から5年後[元光6年(紀元前129年)]の秋、漢は4人の将軍にそれぞれ1万騎を率いさせ、関市の付近で匈奴を擊ちました。
この時、漢の将軍・衛青は上谷郡から出撃して龍城に至り、胡(匈奴)の首級・捕虜7百人を得た一方で、雲中郡から出撃した公孫賀は得る所がなく、代郡から出撃した公孫敖は胡(匈奴)に敗れて7千人の兵を失い、雁門郡から出撃した李広は、胡(匈奴)に敗れ捕らえられましたが、道中逃亡して帰還しました。
これに漢は敗れた公孫敖と李広を囚えて庶人としました。
この年[元光6年(紀元前129年)]の冬、匈奴数千人が辺境を略奪したのを受け、漢は被害が最も大きな漁陽郡に将軍の韓安国を駐屯させ、胡(匈奴)に備えさせました。
衛青の第2次匈奴遠征
翌年[元朔元年(紀元前128年)]の秋、2万騎の匈奴が漢に侵入して遼西太守を殺害し、2千余人を略奪すると、漁陽太守の軍千余人を破って韓安国を包囲しました。
この時、韓安国の兵は千余騎しかおらず危うく全滅するところでしたが、燕国の援軍が到着すると匈奴は退却し、今度は雁門郡に侵入して千余人を殺戮・略奪しました。
そこで漢は、将軍・衛青は3万騎を率いて雁門郡から、李息は代郡から出撃して胡(匈奴)を撃たせ、合わせて数千人の首級・捕虜を得ました。
衛青の第3次匈奴遠征
その翌年[元朔2年(紀元前127年)]、衛青はまた雲中郡から出撃して西の隴西郡に至ると、河南において胡(匈奴)の楼煩・白羊の2王を撃って、胡(匈奴)の首級・捕虜数千と羊百余万頭を得ました。
こうして漢はついに河南の地を奪取すると、朔方郡に城塞を築き、秦の時代に蒙恬が造った塞を修繕し、黄河によって防備を固めます。
漢はまた、上谷郡の地で胡(匈奴)の地に突出している造陽県を胡(匈奴)に与えました。
軍臣単于の死【前漢:武帝】
その後[元朔2年(紀元前127年)]の冬、軍臣単于が亡くなると、弟の左谷蠡王・伊稚斜が自ら立って単于となり、軍臣単于の太子・於単を攻め破りました。
於単は逃亡して漢に投降し、漢は彼を陟安侯に封じましたが、於単はその数ヶ月後に亡くなりました。
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