前漢(文帝)時代の匈奴、老上単于についてまとめています。
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匈奴・前漢時代②老上単于
匈奴(前漢時代)
宦官・中行説の暗躍【前漢:文帝】
中行説の怨み
文帝の6年(紀元前174年)、匈奴の冒頓単于と漢の文帝が和親し、その後間もなく冒頓が亡くなると、子の稽粥が立って老上単于と号しました。
老上稽粥単于が即位した当初、文帝はまた宗室の翁主(諸王の女)を閼氏*1として単于に娶せましたが、この時漢は、匈奴に行くことを拒む燕人の宦官・中行説を無理矢理翁主の傅役としました。
中行説は「必ずや我は漢の患となるだろう」と言い、匈奴に着くとそのまま単于に降ってその臣下となり、単于に寵愛されました。
脚注
*1単于の后妃の称号。匈奴部族中の特定の数氏族から選ばれるのが原則であった。
匈奴の漢化を防ぐ
当時、単于は漢の繒(薄手の絹織物)や絮(綿を入れた着物)、食物を愛好していましたが、中行説は、
「匈奴の人口は漢の1つの郡にも足りませんが、それでも匈奴が強者たる所以は『漢と衣食を異にし、その供給を漢に求めない』からです。
今、単于がその風俗を変えて漢の物産を愛好されるなら、漢は自国で費やす10のうち2を匈奴のために費やすだけで、匈奴の悉くを服従させることができるでしょう。
それに漢の絮(綿を入れた着物)や繒(薄手の絹織物)を着て草棘の中を馳せられれば、それらの衣服はみな裂け破れてしまいます。漢の衣服は匈奴の旃裘(毛織の服)の丈夫で機能性に優れていることに及ばないことを示し、また漢の食物をみな捨て去って、それらが匈奴の酪(乳製品)の便利で美味なことに及ばないことをお示しください」
と言い、また単于の側近に集計の方法を教え、匈奴の人口や家畜の数を再度調査・記録させました。
書簡の書き出しを改める
漢が単于に書簡を送る場合、長さ1尺1寸(約25.41cm)の1枚の牘(木札)に、
「皇帝敬問匈奴大單于無恙(皇帝が敬んで匈奴の大単于に問う、恙なきや*2)」
と書き始め、その後に遺物(贈り物)、本題へと進めるのが常でした。
そこで中行説は、単于に長さ1尺2寸(約27.72cm)の牘(木札)を用いさせ、封をする印もみな幅広く長く大きいものを用いさせ、またその文面も、
「天地所生日月所置匈奴大單于敬問漢皇帝無恙(天地の生める所、日月置く所の匈奴の大単于が敬んで漢の皇帝に問う、恙なきや)*3」
と書き始め、その後に遺物(贈り物)、本題へと進めるように改めさせました。
脚注
*2「恙なきや」とは「問題や心配事、病気、災難などがなくお元気ですか?」の意。
*3冒頓単于の時代には「天所立匈奴大單于敬問皇帝無恙(天の立てたる所の匈奴の大単于が敬んで皇帝に問う、恙なきや)」であった。
漢の使者との問答
ある漢の使者が「匈奴の風俗は老人を賎しめる」と言ったところ、中行説はその使者を窮って言いました。
中行説「汝たち漢の風俗では、屯戍(辺境守備)や従軍のために出発する者があれば、その親は自分の温厚(温かい衣服)や肥美(美食)を犠牲にして、出発する子に飲食を贈るのではないか?」
漢の使者「その通りだ」
中行説「匈奴は明らかに攻戦することを本分としている。ゆえに闘えない老弱な者は、壮健な者に肥美(美食)な飲食をさせて自分を守るのだ。このようにして父子が互いに安全を保っているのに、何をもって匈奴が老人を軽んじているというのだ?」
漢の使者「匈奴の父子は同じ穹廬(テント状の住宅)で眠り、父が死ねば子が後母を妻とし、兄弟が死ねばその妻の悉くを自分の妻にする。それに冠帯の節(衣冠束帯の礼装)も闕庭(朝廷)の礼もないではないか」
中行説「匈奴の風俗では、家畜の肉を食べ、その汁(乳汁)を飲み、その皮を着る。家畜は草を食べ水を飲み、必要な時には移動する。ゆえに人々は急(戦時)には騎射を習い、寬(平事)には無事を楽しむのである。
その法は明瞭で実行しやすく、君臣の関係も気軽で長続きすることができる。ゆえに1国の政はまるで1人の身体のように自在なのである。
父兄が死ぬとその妻を娶って自分の妻とするのは、種姓(家系)が絶えることを悪むからである。ゆえに匈奴はたとえ国が乱れても、必ず宗種(宗族)が(単于に)立つのである。
今、確かに中国は父兄の妻を娶らないが、その結果、親属は益々疎遠になって殺し合い、易姓革命に至るのである。みなこの類(中国の礼義)が原因であろう。
また、礼義の弊害によって上下が怨み合い、宮殿の建築を極めるあまり民力を損なっている。
農耕・養蚕に衣食を求め、城郭を築いて備えとしているため、民は急(戦時)にも戦攻を習えず、緩(平事)にも作業(農作業)で疲弊している。
あぁ、土室の人(土の家に住む漢人)よ、これ以上のお喋りは無駄だ。冠など何の役に立つというのだっ!」
その後、漢の使者が弁論しようとすると、その度ごとに中行説は、
「漢の使者よ、多弁を弄するな。漢が匈奴に送る繒(薄手の絹織物)・絮(綿を入れた着物)・米・糱の量が充分で良質であるように心掛けさえすれば良いのだ。他に何を言う必要があるというのか?
ただ供給する品物が充分で良質ならばそれで良し。もし不充分で粗悪であれば、秋の収穫の時期を狙って騎馬を馳せ、汝たちの稼穡(農作物)を蹂躙するだけのことだ」
と言い、日夜単于に「漢に攻め入るために偵察する」ように勧めました。
漢に侵入する【前漢:文帝】
文帝の14年(紀元前166年)、匈奴単于の14万騎が朝那・蕭関*4に侵入して北地都の都尉・卬を殺害し、多くの民と家畜を捕虜にしてついに彭陽に至ると、騎馬を侵入させて回中宮*5を焼き、斥候の騎兵が雍の甘泉に至りました。
これに文帝は、中尉*6の周舍と郎中令の張武を将軍として戦車千乗と10万騎を発し、長安の傍に陣を布いて胡(匈奴)の攻撃に備えます。
また、
- 昌侯の盧卿を上郡将軍
- 甯侯の魏遫を北地将軍
- 隆慮侯の周竈を隴西将軍
- 東陽侯の張相如を大将軍
- 成侯の董赤を前将軍
として戦車・騎馬を大いに発し、胡(匈奴)を擊たせました。
1ヶ月余りして単于が塞内(漢の領内)から兵を退くと、漢は塞を出てこれを追撃しましたが、戦果を挙げることなくすぐに帰還しました。
匈奴は日増しに驕慢となり、毎年辺境に侵入して多くの民を殺害・略奪するようになりましたが、中でも雲中・遼東の2郡の被害が最も酷く、それぞれ1万余人にのぼりました。
漢はこれを甚だ憂慮し、使者を派遣して匈奴に書簡を送ると、匈奴もまた当戸を派遣して返書を寄せ、その恩に報いて再び和親することを提言しました。
脚注
*4関名。甘粛・固原の東南。
*5陝西・鳳翔の南にある。
*6巡察して盗賊を捕らえる官職。
漢との和親と老上単于の死【前漢:文帝】
文帝の後2年(紀元前162年)、漢は匈奴に使者を派遣し書簡を送って言いました。
「皇帝が敬んで匈奴の大単于に問う、恙なきや。
当戸・且渠の雕渠難、郎中の韓遼を遣わして朕*7に馬2頭を贈られたが、すでに到着し、敬んで受領した。
先帝[高祖(劉邦)]の制詔に『長城以北の弓引く国は匈奴の命を受け、長城以内の冠帯(衣冠束帯)の室は朕*7がこれを取り決め、耕織・射猟によって万民を衣食させ、父子を離散させず、君臣共に安堵しているので、互いに暴虐な行いがない*8』とある。
今、聞くに邪悪な民が貪ってその趨を降し、義に背いて約束を絶ち、万民の生命を忘れて双方の君主の親交を離間したとか。しかしそれはもはや過ぎ去ったことである。
送られた書簡には『2国が和親した上は両主が交歓し、戦争をやめて士卒を休ませ、馬を養って代々栄え楽しみ(世世昌楽)、和合して事態を一新したい』とあるが、朕*7はこれを甚だ嘉とする。
聖者は日々その徳を新たにして過ちを改め、老人には休息を与え、幼少を成長させ、それぞれ生命を保って天寿を全うさせる。
朕*7は単于と共にこの道に由り、天に順い民を恤れみ、代々相伝えてこれを無窮(永遠)に施すならば、天下は称賛に満ち溢れるだろう。
漢と匈奴は隣接する敵国であるが、匈奴がいる北の地は寒く、秋冬の殺気が早く降りる。ゆえに吏(役人)に詔して、単于に毎年定量の秫(もちあわ)・糱(麹)・金・帛・綿・絮、その他を贈る。
今、天下は大いに安んじられ、万民は熙熙(やわらぎ楽しむさま)として、独り朕*7は単于と共に万民の父母である。
前事を追想するに、些細な事故で謀臣の謀に過失があったものの、みな(漢と匈奴の)昆弟(兄弟)としての親密さを引き離すほどではなかった。
『天は物を覆うに偏らず、地は物を載せるに偏かない(天不頗覆,地不偏載)』と聞く。
朕*7も単于もみな些細な事故を忘れて共に大道を蹈み、以前の悪事を打ち砕いて長久(の和親)を図り、両国の民を一家の子と看做そう。
善良な万民はもとより下は魚・鱉(すっぽん)、上は空を飛ぶ鳥、跂行喙息*9、蠢動の類までを安全・利益に就かせ、危険を避けさせたいものであり、来る者を拒まないのは天の道である。
共に前事を忘れ、朕*7は匈奴を前に逃亡・捕虜となった(漢の)民を釈す。単于もまた漢に降った章尼らを責めないで欲しい。
古の帝王は『約束が確実で食言*10することがない』と聞く。単于がこれを留意されるなら、天下は大いに平安となるだろう。和親したからには、漢の方から先に過ちを犯すことはない。単于はこれをよく考慮するように」
そして単于が和親を約束すると、(文帝は)御史に制詔して言いました。
「匈奴の大単于が朕*7に書簡を送って和親を申し出て来たゆえ、約条はすでに成立した。
亡人(亡命者)では人口を増やし土地を広めることはできない。『今後、匈奴は塞を越えて侵入してはいけない、漢は塞を出てはいけない』。この約条を犯す者は処刑することとする。それでこそ咎なく長く親善することができ、双方共に利益のあることだ。
朕*7はすでにこれを裁可した。これを天下に布告して、みなに周知させよ」
文帝の後4年(紀元前160年)、老上単于が亡くなって、子の軍臣単于が立つと、中行説はまたこれに仕え、漢もまた匈奴と和親しました。
脚注
*7皇帝・天皇のみが用いる一人称。
*8原文:先帝制,長城以北引弓之國受令單于,長城以內冠帶之室朕亦制之,使萬民耕織,射獵衣食,父子毋離,臣主相安,居無暴虐。
*9動物のこと。特に虫や鳥の類を指す言葉。
*10前に言った言葉と違ったことを言うこと。約束を破ること。嘘をつくこと。一度口から出した言葉をまた口に入れるの意から。
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