ぎょうしゅん西周せいしゅう東周とうしゅう時代の匈奴きょうどについてまとめています。

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尭・舜時代

匈奴(前漢時代)

匈奴きょうど前漢ぜんかん時代)

匈奴の紀元

匈奴きょうどの先祖は夏后氏かこうし王朝)の苗裔びょうえい(遠い子孫)で、その名を淳維じゅんいと言います。

陶唐氏とうとうしぎょう)・有虞氏ゆうぐししゅん)の時代以前には、北の辺境の地に山戎さんじゅう獫允けんいん薰粥くんいくなどの種族が居住していました。


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西周時代

太王

夏道かどう王朝の徳)がおとろえると、公劉こうりゅう*2は(世襲であった)稷官しょくかん(農官)の職を失い、ひん*3の地に移って西戎せいじゅう(西方の異民族)の風俗に同化しました。


その後3百有余年をて、戎狄じゅうてき(異民族)が太王たいおう亶父たんぽ*4を攻め、亶父たんぽ*4岐山きざんふもとに逃亡しましたが、ひん*3の人々のことごとくは亶父たんぽ*4に従ってそこに移り住み、しゅうの国をおこしました。

脚注

*2伝説上のしゅう王朝の始祖・后稷こうしょく曾孫ひまご

*3陝西せんせい三水さんすいの西。

*4公劉こうりゅうの9世の孫。しゅう王朝初代・武王ぶおう曾祖父そうそふ

文王

その後百有余年をて、しゅう西伯昌せいはくしょう文王ぶんおう)が畎夷けんい犬戎けんじゅう)をちました。

武王

さらに十有余年をて、しゅう武王ぶおういん紂王ちゅうおうつと雒邑らくゆう*5を造営してほうこう*6に居住し、戎夷じゅうい(異民族)を涇水けいすい洛水らくすいの北に放逐ほうちくして歳時に入貢させ、これを荒服こうふくと名づけます。

脚注

*5河南かなん洛陽らくようの西の郊外。

*6ほう文王ぶんおうの都、陝西せんせい鄠県こけんの東。

穆王

さらに2百有余年つと周道しゅうどうしゅう王朝の徳)もおとろえ、しゅう穆王ぼくおう畎戎けんじゅうち、4匹の白狼と4頭の白鹿を手に入れて帰りました。

その後、荒服こうふくが入貢しなくなると、穆王ぼくおう司寇しこう呂侯りょこう甫侯ほこう)に命じて呂刑りょけい甫刑ほけい)という刑罰を制定して四方を引きめました。

懿王

穆王ぼくおうの孫の懿王いおうの時代になるとしゅうの王室はついにおとろえ、戎狄じゅうてき(異民族)があいいで中国に侵攻して暴虐を振るいました。

中国がその苦しみをこうむると、詩人が初めてこの苦しみのうたを作って、


〽室(王室)がほろび家がほろぶは、獫允けんいんゆえなり。

〽どうして日々いましめないことがあろうか、獫允けんいんはなはだ急なり。


と歌いました。

宣王せんおう

懿王いおう曾孫ひまご宣王せんおうの時代になり、軍をおこし将に命じて獫狁けんいんを征伐すると、詩人はその功績を大きくたたえて、


「ここに獫狁けんいんち、太原たいげんに至る」

「車をだす彭彭ほうほうたり*7

朔方さくほうきずく」


と言いました。

これにより、四夷しい(四方の異民族)は中国に服従し、中興ちゅうこう*8しょうされました。

脚注

*7彭彭ほうほうとは車の轟音ごうおんの盛んなさま。

*8一旦いったんおとろえた物事や状態を再び盛んにすること。

幽王

幽王ゆうおうの時代、幽王ゆうおう褒姒ほうじ寵愛ちょうあいしたことから、申后しんこうとの間にわだかまりが生じました。

これに申侯しんこうは激怒し、畎戎けんじゅうと共に幽王ゆうおう麗山りざんふもとで攻め殺すと、ついにしゅうの地を奪い取って涇水けいすい渭水いすいの間に居住し、中国を荒らしました。

平王

しん襄公じょうこうしゅうを救ったため、しゅう平王へいおうほうこう*6の地を去って東方の雒邑らくゆう*5遷都せんとしました。紀元前770年のことです。

この時、しん襄公じょうこうえびす(異民族)をって𨙸山きざん*7まで行き、その功績により初めて諸侯しょこうつらなりました。

脚注

*5河南かなん洛陽らくようの西の郊外。

*6ほう文王ぶんおうの都、陝西せんせい鄠県こけんの東。

*7ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ漢書かんじょ7』より。原文:當時秦襄公伐戎至,始列為諸侯。


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東周時代

斉の釐公

その65年後、山戎さんじゅうえんを越えてせいを攻撃し、せい釐公きこうせいの郊外においてこれと戦いました。

斉の桓公

その44年後、山戎さんじゅうえんを攻撃すると、えんせいに危急を告げ、せい桓公かんこうは北方の山戎さんじゅうを攻撃してこれを敗走させました。

周の襄王

その20余年後、戎翟じゅうてき(異民族)が雒邑らくゆう*5に侵入してしゅう襄王じょうおうち、襄王じょうおうてい氾邑はんゆう*8出奔しゅっぽんしました。

初め襄王じょうおうは、戎翟じゅうてき王女おうじょめとってきさきとし、戎翟じゅうてき(異民族)と共にていちましたが、その後襄王じょうおう翟后てきこう戎翟じゅうてき王女おうじょ)をしりぞけてかえりみなかったため、翟后てきこうはこれをうらんでいました。*9

また襄王じょうおう継母ままはは恵后けいこうには子帯したいという子があり、恵后けいこう子帯したいおうに立てたいと思っていました。そこで恵后けいこう翟后てきこう子帯したいと共に戎翟じゅうてきに内応します。これにより戎翟じゅうてきは(しゅうの領内に)侵入することができ、襄王じょうおうを破り駆逐くちくして子帯したいおうに立てました。

こうして戎翟じゅうてきは、あるいは陸渾りくこん*10に居住し、あるいは東方のえいに至り、さらに侵略と盗みを繰り返しました。


しゅう襄王じょうおうは国外にること4年、しんに使者を派遣して危急を告げると、しん文公ぶんこうは即位したばかりで覇業をおさめようと、すぐさま出兵して戎翟じゅうてきち、子帯したい誅殺ちゅうさつして襄王じょうおう洛邑らくゆう*5に迎え入れました。

脚注

*5河南かなん洛陽らくようの西の郊外。

*8河南かなん襄城じょうじょう

*9原文:已而黜翟后。ちゅつには、
1.職務をめさせる。追い出す。しりぞける。
2.格下げする。おとしめる。
の意味がある。

*10河南かなん嵩県すうけんの東北。

晋の文公・秦の穆公

当時、しんしんは共に強国でした。

しん文公ぶんこうわれた戎翟じゅうてき(異民族)は、西河せいが圁水ぎんすい洛水らくすい*11の間に居住して赤翟せきてき白翟はくてきと号し、しん穆公ぼくこう由余ゆうよという人物を得て、(そのはかりごとで)西戎せいじゅうの8国をしんに服属させました。

ゆえにろう甘粛かんしゅく)以西には綿諸めんしょ畎戎けんじゅう狄獂てきがんなどのえびす(異民族)が、岐山きざん梁山りょうざん涇水けいすい漆水しつすいの北には義渠ぎきょ大荔たいれい烏氏うし朐衍くえんなどのえびす(異民族)が存在し、しんの北には林胡りんこ楼煩ろうはんえびす(異民族)が、えんの北には東胡とうこ山戎さんじゅうえびす(異民族)が存在しています。

みな分散して谿谷けいこくに居住し、それぞれに君長くんちょうがいて、ともすれば百有余のえびす(異民族)が集まることもありましたが、団結することはできませんでした。

脚注

*11圁水ぎんすい無定河むていかのちあやまって圜水えんすいに作る。洛水らくすい漆水しつすい沮水しょすいのこと。

晋の悼公

その百有余年後、しん悼公とうこう魏絳ぎこうつかわして戎翟じゅうてき(異民族)と和睦わぼくし、戎翟じゅうてきしんに朝貢しました。

三晋

その百有余年後、しん趙襄子ちょうじょうし趙無恤ちょうぶじゅつ)が句注山こうしゅさん雁門山がんもんさん)を越えてこれを破り、だいを併合して胡貉こばく[北方の夷狄いてき(異民族)]にのぞみました。

その後、かんと共に知伯ちはく*12を滅ぼしてしんの領土を分割し、ちょうだい句注山こうしゅさん雁門山がんもんさん)以北を領有し、西河せいが上郡じょうぐんを領有してえびす(異民族)と国境を接するようになります。

脚注

*12春秋しゅんじゅう時代のしん六卿りくけいの1人。知氏ちし

秦の恵王

その後、義渠ぎきょえびすは城郭をきずいて自衛しましたが、しんは次第にこれを侵略し、恵王けいおうの時代になってついに義渠ぎきょの25城を陥落させました。

恵王けいおうち、西河せいが上郡じょうぐんことごとくをしん割譲かつじょうしました。

秦の昭王

しん昭王しょうおうの時代、義渠ぎきょ戎王じゅうおう昭王しょうおうの母・宣太后せんたいこうが私通して2人の子をもうけます。

昭王しょうおう宣太后せんたいこうと「義渠ぎきょを滅ぼす」ための謀議をし、宣太后せんたいこういつわって義渠ぎきょ戎王じゅうおう甘泉宮かんせんきゅうで殺害すると、ついに出兵して義渠ぎきょち滅ぼしました。

こうしてしん隴西ろうせい北地ほくち上郡じょうぐんの3郡を領有し、長城をきずいてえびすを防ぎました。

趙の武霊王

ちょう武霊王ぶれいおうもまた風俗を胡服こふく(北方異民族の服装)に変え騎射をならわせて、北方の林胡りんこ楼煩ろうはんを破り、だいから陰山いんざん山脈ふもと沿って高闕こうけつ*13に至るまでをとりでとし、雲中ろうせい北地ほくち上郡じょうぐんを設置しました。

脚注

*13オルドス地方阿爾布坦アルフタンの東。

燕の昭王

その後、えん秦開しんかいという賢将がの人質となった際、秦開しんかいに大変信任されましたが、えんに帰ると東胡とうこを襲撃して破り、東胡とうこは千余里(約430km)後退しました。のち荊軻けいかと共に秦王しんおうを刺そうとする秦舞陽しんぶようは、秦開しんかいの孫にあたります。

えんもまた長城をきずき、造陽ぞうようから襄平じょうへい*14に至る地域に上谷じょうこく漁陽ぎょよう右北平ゆうほくへい遼西りょうせい遼東郡りょうとうぐんを設置してえびすを防ぎました。


当時、衣冠束帯いかんそくたい・礼儀文物のある戦国せんごく諸侯しょこうは7ヶ国を数え、その内、えんちょうしんの3国が匈奴きょうどと国境を接していましたが、ちょう将軍しょうぐん李牧りぼくが守備していた間、匈奴きょうどはあえてちょうの国境を越えて侵入しようとはしませんでした。

脚注

*14造陽ぞうよう河北かほく懐来かいらい襄平じょうへい奉天ほうてん遼陽りょうよう


【後漢・三国時代の異民族】目次