後漢・三国時代の異民族の内、東夷に分類される倭・東鯷(夷洲・澶洲)についてまとめています。
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目次
倭
倭の領域
倭
倭は韓の東南の大海の中にあり、山がちな島に住まい、合わせて百余国あります。国ごとにみな王と称して代々その位を継ぎ、彼らを統べる大倭王は邪馬台国に居住しています。
その国は幽州・楽浪郡の境界から12,000里(約5,160km)離れ、その西北の境界は拘邪韓国から7,000里(約3,010km)離れています。
その地は概ね揚州・会稽郡・東冶県の東にあり、硃崖郡・儋耳郡(共に海南島)に近いため、その制度や風俗は共通するものが多くなっています。
倭の諸国
女王国*1
拘邪韓国
幽州・楽浪郡(帯方郡)から倭に行くには、海岸に沿って船で進み、韓国を経て南に進んだり東に進んだりして7,000余里(約3,010km)、倭の北岸にある拘邪韓国に至ります。
対馬国
拘邪韓国から1,000余里(約430km)海を渡ると対馬国に至ります。対馬国の長官は卑狗と呼ばれ、副官は卑奴母離と呼ばれています。
四方400里(約172km)余りの四面を海に囲まれた島に住み、その土地は山が険しく深い森林が多く、その道は獣や鹿の通り道のようです。
1,000余戸の家があり、良田はなく海産物を食べて生活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れています。
一大国(一支国)
対馬国から南に向かって1,000余里(約430km)、瀚海と呼ばれる海を渡ると、一大国(一支国)に至り、ここでもまた長官は卑狗と呼ばれ、副官は卑奴母離と呼ばれています。
広さは四方300里(約129km)で、藪が多く、竹や木が生えています。
3,000ばかりの家があり、田畑もないことはないですが、農耕だけでは食糧が不足するため、南や北に海を渡って穀物を買い入れています。
末盧国
一大国(一支国)から海を渡って1,000余里(約430km)進むと末盧国に至り、そこには4,000余戸があります。
山と海に挟まれた海岸地帯に住み、前を歩いている人が見えないほど草木が生い茂っています。
末盧国の人々は魚や鰒(鮑)を捕ることに巧みで、水がどれだけ深くても潜って捕ってきます。
伊都国
末盧国から陸路で東南に500里(約215km)進むと伊都国に至り、ここでは長官を爾支と言い、副官を泄謨觚・柄渠觚と言ます。
1,000余戸があり、代々王がいて、ずっと女王国*1の支配を受けて来ました。幽州・楽浪郡(帯方郡)からの使者が往来する場合、いつもここに留まります。
奴国
伊都国から東南に100里(約43km)進むと奴国に至り、ここでは長官を兕馬觚、副官を卑奴母離と言い、20,000余戸の人家があります。
不弥国(不彌国)
奴国から東に100里(約43km)進むと不弥国に至り、ここでは長官を多模、副官を卑奴母離と言い、1,000余戸の人家があります。
投馬国
不弥国の南の投馬国には水路で20日かかります。投馬国では長官を弥弥、副官を弥弥那利と言い、50,000余戸の人家があります。
邪馬台国*2
南の女王が都する邪馬台国まで行くには、水路10日と陸路1ヶ月かかります。
邪馬台国には、長官に伊支馬、次に弥馬升、次に弥馬獲支、次に奴佳鞮と呼ばれる官が置かれ、70,000戸の人家があります。
邪馬台国*3のさらに向こうには斯馬国があり、次に已百支国があり、次に伊邪国があり、次に都支国があり、次に弥奴国があり、次に好古都国があり、次に不呼国があり、次に姐奴国があり、次に対蘇国があり、次に蘇奴国があり、次に呼邑国があり、次に華奴蘇奴国があり、次に鬼国があり、次に為吾国があり、次に鬼奴国があり、次に邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に巴厘国があり、次に支惟国があり、次に烏奴国があり、次に奴国があり、ここで女王の領域は終わります。
幽州・楽浪郡(帯方郡)から女王国*1(邪馬台国?)までは12,000余里(約5,160km)あります。
脚注
*1おそらく日本海・東シナ海を隔てた東の国々を倭と呼び、その中で邪馬台国の女王・卑弥呼に従う国々を総称して女王国と呼んでいるものと思われる。
*2『魏書』東夷伝(『魏志』倭人伝)の原文は邪馬壹国。これを邪馬台国(邪馬臺国)と同一とするかどうかには諸説あるが、ここでは邪馬台国(邪馬臺国)とした。
*3『魏書』東夷伝(『魏志』倭人伝)の原文は女王国。
その他の諸国
奴国の南、女王国*1から東に海を1,000里(約430km)余り渡ったところに狗奴国(拘奴国)があり、男子が王となっている。狗奴国(拘奴国)の長官は狗古智卑狗と呼ばれ、その民もみな倭種ですが、女王の支配は受けていません。
女王国*1から南に4,000里(約1,720km)余り渡ると朱儒国(硃儒国・侏儒国)に至り、その民の身長は3尺〜4尺(約69.3cm〜92.4cm)です。
朱儒国(硃儒国・侏儒国)から東南に船で1年航海すると裸国・黒歯国に至り、倭の使者と通訳が伝えるところではここが極限です。
色々な情報を総合してみると、倭の地は大海に孤立した島々の上にあって、国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっと巡ると5,000余里(約2,150km)ほどあります。
脚注
*1おそらく日本海・東シナ海を隔てた東の国々を倭と呼び、その中で邪馬台国の女王・卑弥呼に従う国々を総称して女王国と呼んでいるものと思われる。
倭の統治・風土・風俗
統治
統治制度
- 倭には合わせて百余国あり、国ごとにみな王と称し、代々その系統を伝えています。
- 倭の百余国を統べる大倭王は邪馬台国に居住しています。
- 城壁や柵、家屋(屋室)があります。
- 租税や賦役の徴収が行われ、その租税を収める倉庫が置かれています。
- 武帝が朝鮮を滅ぼしてからは、倭の百余国の内の30ばかりの国が通訳を伴う使者を漢に派遣しており、倭の使者が中国にやって来る時には、みな自分のことを大夫と称しています。
- 国々に開かれた市場では、それぞれの地方の物産の交易が行われ、大倭が遣わされてその監督の任に当たっています。
- 女王国*1より北の地域には特別に一大率の官が置かれて諸国を監視し、諸国はそれを畏れ憚っています。一大率はいつも伊都国にその役所を置き、国中において中国の刺史のような権威を持っています。
- 王が中国の京都や幽州・楽浪郡(帯方郡)、韓の諸国に使者を派遣する場合、或いは逆に楽浪郡(帯方郡)からの使者が倭に遣わされる時には、いつも津で荷物を広げて、送られる文書や賜り物が女王の元に着いた時、間違いがないように点検します。
脚注
*1おそらく日本海・東シナ海を隔てた東の国々を倭と呼び、その中で邪馬台国の女王・卑弥呼に従う国々を総称して女王国と呼んでいるものと思われる。
軍事
- 兵器として矛・楯・木弓を使用しており、木弓は下が短くて上が長く、竹製の箭(矢)には、鉄または骨の鏃をつけたものもあります。
刑罰
- 倭の人々は盗みを働かないので、訴訟になることはあまりありません。
- 法を侵した者がいるとその妻子を没収し、罪が重い者は一族を根絶やしにされます。
風土
- 土地は禾稲・麻紵(麻布)・蚕桑に適しており、糸に紡いで目の細かい紵(麻布)や縑綿を作る知識を有しています。
- 白珠(真珠)や青玉を産出し、その山からは丹土(赤土)を産出します。
- 木材として柟・杼・豫樟・楺櫪・投橿・烏号・楓香などを産出し、竹には篠簳・桃支竹があり、薑・橘・椒・蘘荷などが生えていますが、倭の人々はそれらが美味なことを知りません。
- 気候は温暖で、冬・夏にかかわらず生野菜を食べます。
- 牛・馬・虎・豹・羊・鵲は生息しておらず、獮猴や黒雉が生息しています。
風俗
祭祀
- 何か事を起こしたり旅行をするなど、特別なことをする時には、必ず骨を焼いて占うことで、吉凶を判断します。亀卜に先だって占う内容を告げますが、その言葉は中国の令亀の法*4と同じで焼いてできた割れ目を見て吉凶の兆しを判断します。
- 正月を年の初めとすることや、4つの季節の区別は知られておらず、ただ春の耕作と秋の収穫を目安にして年を数えています。
脚注
*4卜に先だって占いの内容を亀甲に告げること。
風習
- 男子はみな顔と身体に入れ墨を入れ、その文様の左右の位置や大小によって尊卑の差を分けています。
- 男子は冠をつけず、木綿で頭を縛って髻をつくっており、みな横幅のある布を結び合わせたものを衣服とし、縫い合わせることはほとんどありません。
- 女性はざんばら髪でその一部を束ねて髻を結い、衣服は1枚の布の中央に穴を開け、そこに頭を通して着用しています。
- 男女共に中国で白粉を使って化粧をするように、身体に丹硃(赤色)を塗っています。
- ちゃんとした家に住んで父母兄弟は住まいを別にしており、一堂に会する時だけは男女の区別がありません。
- 会合の場での立居振舞いには、父子や男女の区別がありません。
- 飲食には手を使い、食器には籩豆*5を用いています。
- 大人や敬うべき人物に会った時にも、跪いて拝する代わりに拍手をし、みな裸足で、蹲踞の姿勢を取って恭敬(慎み敬うこと)の意を表します。
- 宗族間の関係や尊卑についてはそれぞれ序列があって、上の者の言いつけはよく守られます。
- 酒を嗜み非常に長寿で、80歳や90歳、100歳を越える者も多くいます。
- 倭には女性が多く、国々の大人たちみな4、5人の妻を持ち、その他の人々(下戸)は2人か3人の妻を持っています。
- 下戸の者が道で大人と出会うと、後ずさりして道端の草の中に入り、言葉を伝えたり説明したりする時には、うずくまったり跪いたりして両手を地につき、大人に対する恭敬を表します。
- 答える時には「噫」と言い、中国で「然諾(承諾)」と言うのとよく似ています。
- 倭の人々は淫乱を知らず、女性たちは身持ちがしっかりしていて嫉妬することもありません。
- 海を渡って中国と行き来する時はいつも1人の者を選んで、髪を梳かず虱もそのままに、沐浴をせず衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪中の人のようにさせます。これを「持衰」と呼び、もし道中が無事安全であれば報酬として皆で家畜や財物を与え、もし病人が出たり災害に遭遇したりすれば、持衰の謹慎が不充分であったとして殺します。
入れ墨について
夏王朝の主君であった少康の息子は、会稽郡に封ぜられると、髪を切り身体に入れ墨をして、蛟や龍の害を避けました。
今、倭の水人たちは盛んに水に潜って魚や蛤を捕っていますが、身体に入れ墨をするのは少康の息子と同様に、大きな魚や水禽(水上生活をする鳥)を追い払うためであって、それが次第に装飾の意味合いを持つようになりました。
国ごとにそれぞれ入れ墨が異なり、或いは左側、或いは右側、或いは大きく、或いは小さくて、尊卑による区別があります。
脚注
*5籩は果実類を盛る竹製の器。豆は肉類を盛る木製の器。
葬礼
- 遺体を収める棺はありますが槨(墓室)はなく、土で塚を作っています。
- 人が亡くなると10日余り喪に服し、喪主は嘆き悲しみ酒や食事を避けますが、その他の者はその側で歌い舞い、酒を飲みます。
- 埋葬が終わると、家中の者が水の中に入って身体を洗い清めますが、その様子は中国で行う練沐とよく似ています。
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倭国の歴史
倭国と中国の関係
卑弥呼以前
後漢・光武帝の建武中元2年(57年)、倭国の極南の境の国・奴国から、自ら大夫と称する使者が奉貢して朝賀し、光武帝は印綬を下賜しました。
後漢・安帝の永初元年(107年)、倭国の王・帥升らが奴隷・160人を献上し、拝謁を願い出ました。
卑弥呼
倭国では元々男子が王位についていましたが、そうした状態が7、80年も続いた後、後漢の桓帝と霊帝の期間(146年〜189年)、倭国は大いに乱れてお互いに攻撃し合い、長年主君がいない状態が続いていました。
この頃、卑弥呼という女子が現れ、年齢を重ねても嫁に行かず、鬼神道の優れた妖術によって民衆の心を掴んでいたので、倭の諸国は共同して彼女を王に立てました。卑弥呼の弟が国の統治を補佐し、その法制は厳格でした。
卑弥呼には侍婢(侍女)が千人もいましたが、彼女に直接会ったことがある者は少なく、ただ1人の男子が飲食を給仕し、卑弥呼の言葉を伝えました。
卑弥呼が日常生活を送る宮室や楼観の周りには城壁や柵が厳しく巡らされ、すべて武器を持った兵士が四六時中、警護にあたっています。
魏・明帝(曹叡)の景初2年(238年)6月、倭の女王が、大夫の難升米らを帯方郡に遣わして「天子に朝献して献上物を捧げたい」と願い出てきたので、帯方太守の劉夏は役人と兵士をつけて京都まで案内させた。
その年の12月、倭の女王に労いの詔書を下しました。
明帝(曹叡)の詔書全文
魏・斉王(曹芳)の正始元年(240年)、帯方太守の弓遵は、建中校尉の梯儁(梯俊)らに詔書と印綬を携えて倭国に遣わして、倭王の位を仮授し、詔と共に金・帛・錦罽・刀・鏡・采物(身分を表す采のある旗や衣服)を下賜しました。倭王はその使者を通じて上表し、厚い詔に対する感謝の気持ちを表しました。
魏・斉王(曹芳)の正始4年(243年)、倭王は再び大夫の伊声耆(伊聲耆)・掖邪狗ら8人を使者に立てて、奴隷(生口)・倭錦・絳青の縑、錦衣・帛布・丹木・𤝔・短弓とその矢を献上し、掖邪狗らは揃って率善中郎将の印綬を賜りました。
魏・斉王(曹芳)の正始6年(245年)、詔により倭の難升米に黄色の幢(旗指物)が下賜され、帯方郡を通じて本人に仮授されました。
魏・斉王(曹芳)の正始8年(247年)、帯方太守の弓遵が戦死して後任の王頎が帯方郡に赴任しました。
倭の女王・卑弥呼は、元々狗奴国(拘奴国)の男性の王・卑弥弓呼と不和でした。
倭が載斯・烏越*7らを帯方郡に派遣して「2国間で戦闘が行われている」ことを報告すると、帯方郡から塞曹掾史の張政らが遣わされ、正始6年(245年)に下された詔書と黄色の幢(旗指物)を難升米に仮授すると共に、檄告によって両国が和解するように教え諭しました。
脚注
*7原文:遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。ちくま学芸文庫『正史三国志』では、載斯烏越と1人の名前としています。
壱与(壹與)
卑弥呼が亡くなると、直径100余歩に及ぶ大規模な塚が築かれ、奴婢100人以上が殉葬されました。
その後、男性の王が即位したが、国中の者が心服せず、殺し合いが続いて1,000人以上の死者が出ました。そこで卑弥呼の親族の娘・壱与(壹與)が13歳で王に立てられると、国中はやっと安定します。
張政らが檄告によって壱与に教え諭すと、壱与は倭の大夫・率善中郎将の掖邪狗ら20人を遣わして張政らの帰還を送らせ、そのまま中国の朝廷に赴いて男女の奴隷(生口)30人を献上し、白珠5,000、孔青大句珠2枚、異文雑錦20匹を貢物として納めました。
倭と中国の関係年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
57年 |
■後漢・光武帝の建武中元2年
|
107年 |
■後漢・安帝の永初元年
|
146年 〜 189年 |
■後漢・桓帝〜霊帝期
|
不明 |
|
238年 |
■魏・明帝(曹叡)の景初2年6月
■12月
|
240年 |
■魏・斉王(曹芳)の正始元年
|
243年 |
■魏・斉王(曹芳)の正始4年
|
245年 |
■魏・斉王(曹芳)の正始6年
|
247年 |
■魏・斉王(曹芳)の正始8年
|
不明 |
|
脚注
*7原文:遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。ちくま学芸文庫『正史三国志』では、載斯烏越と1人の名前としています。
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東鯷(夷洲・澶洲)
東鯷
夷洲と澶洲
揚州・会稽郡の海の外に東鯷の人々がいて、20余りの国に分かれています。
夷洲・澶洲
また揚州・会稽郡の海の外に夷洲と澶洲があります。
言い伝えによれば「秦の始皇帝は方士の徐福を派遣して童男・童女数千人を率いて海に入らせ、蓬莱の神仙を求めさせたが得られなかった」とあり、この時徐福は誅殺されることを畏れて帰還せずにその洲に留まりました。その子孫が数万家になり、時々会稽郡の市にやって来ます。
揚州・会稽郡・東冶県の人で、海に航海に出て風に遭い、澶洲に流れ着いた者がいましたが、その場所はあまりにも遠く、往来することはできません。
軍事
- 鹿の骼(骨)を矛に加工し、青石を研磨して鏃を作ります。
風土
- 夷洲は揚州・臨海郡の東南にあり、郡から2,000里(約860km)離れています。その土地は四方を山や渓谷に囲まれており、霜雪がなく、草木は1年を通じて枯れません。
- 土地は肥沃で五穀が生育しており、魚が多く捕れます。
- 犬が生息し、その犬の尾は短く、麕(シカ科の哺乳類)の尾の形状に似ています。
- 地中には銅や鉄の鉱脈があります。
風俗
- 夷洲の人々は誰もが頭髪を剃り上げて耳に穴を開けていますが、女性は耳に穴を開けていません。
- 舅や姑、子や妻が1つの大きな寝床を共有し、ほとんど互いに避けることはありません。
- 生の魚肉をつまんで大きな瓦器の中で混ぜ合わせ、1ヶ月余り塩漬けにして貪るように食べ、最高の珍味としています。