後漢ごかん・三国時代の異民族の内、東夷とういに分類される東鯷とうてい夷洲いしゅう澶洲せんしゅう)についてまとめています。

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倭の領域

倭


かんの東南の大海の中にあり、山がちな島に住まい、合わせて百余国あります。国ごとにみなおうと称して代々その位を継ぎ、彼らをべる大倭王だいわおう邪馬台国やまたいこくに居住しています。

その国は幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐんの境界から12,000里(約5,160km)離れ、その西北の境界は拘邪韓国くやかんこくから7,000里(約3,010km)離れています。

その地はおおむ揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん東冶県とうやけんの東にあり、硃崖郡しゅがいぐん儋耳郡たんじぐん(共に海南島かいなんとう)に近いため、その制度や風俗は共通するものが多くなっています。

倭の諸国

女王国じょおうこく*1

拘邪韓国

幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐん帯方郡たいほうぐん)からに行くには、海岸に沿って船で進み、韓国かんこくて南に進んだり東に進んだりして7,000余里(約3,010km)、の北岸にある拘邪韓国くやかんこくに至ります。

対馬国

拘邪韓国くやかんこくから1,000余里(約430km)海を渡ると対馬国つしまこくに至ります。対馬国つしまこくの長官は卑狗ひこと呼ばれ、副官は卑奴母離ひなもりと呼ばれています。

四方400里(約172km)余りの四面を海にかこまれた島に住み、その土地は山がけわしく深い森林が多く、その道はけものや鹿の通り道のようです。

1,000余戸の家があり、良田はなく海産物を食べて生活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物こくもつを買い入れています。

一大国(一支国)

対馬国つしまこくから南に向かって1,000余里(約430km)、瀚海かんかいと呼ばれる海を渡ると、一大国(一支国いきこく)に至り、ここでもまた長官は卑狗ひこと呼ばれ、副官は卑奴母離ひなもりと呼ばれています。

広さは四方300里(約129km)で、やぶが多く、竹や木が生えています。

3,000ばかりの家があり、田畑もないことはないですが、農耕だけでは食糧が不足するため、南や北に海を渡って穀物こくもつを買い入れています。

末盧国

一大国(一支国いきこく)から海を渡って1,000余里(約430km)進むと末盧国まつろこくに至り、そこには4,000余戸があります。

山と海にはさまれた海岸地帯に住み、前を歩いている人が見えないほど草木がしげっています。

末盧国まつろこくの人々は魚やあわびあわび)を捕ることにたくみで、水がどれだけ深くてももぐって捕ってきます。

伊都国

末盧国まつろこくから陸路で東南に500里(約215km)進むと伊都国いとこくに至り、ここでは長官を爾支じきと言い、副官を泄謨觚せつぼこ柄渠觚へいきょこと言ます。

1,000余戸があり、代々おうがいて、ずっと女王国じょおうこく*1の支配を受けて来ました。幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐん帯方郡たいほうぐん)からの使者が往来おうらいする場合、いつもここにとどまります。

奴国

伊都国いとこくから東南に100里(約43km)進むと奴国なこくに至り、ここでは長官を兕馬觚じばこ、副官を卑奴母離ひなもりと言い、20,000余戸の人家があります。

不弥国(不彌国)

奴国なこくから東に100里(約43km)進むと不弥国ふみこくに至り、ここでは長官を多模たも、副官を卑奴母離ひなもりと言い、1,000余戸の人家があります。

投馬国

不弥国ふみこくの南の投馬国とうまこくには水路で20日かかります。投馬国とうまこくでは長官を弥弥みみ、副官を弥弥那利みみなりと言い、50,000余戸の人家があります。

邪馬台国*2

南の女王じょおうが都する邪馬台国やまたいこくまで行くには、水路10日と陸路1ヶ月かかります。

邪馬台国やまたいこくには、長官に伊支馬いしま、次に弥馬升みましょう、次に弥馬獲支みまかくき、次に奴佳鞮ぬかていと呼ばれる官が置かれ、70,000戸の人家があります。

邪馬台国やまたいこく*3のさらに向こうには斯馬国しまこくがあり、次に已百支国いひゃくしこくがあり、次に伊邪国いやこくがあり、次に都支国つしこくがあり、次に弥奴国みなこくがあり、次に好古都国こうこつこくがあり、次に不呼国ふここくがあり、次に姐奴国さなこくがあり、次に対蘇国とそこくがあり、次に蘇奴国そなこくがあり、次に呼邑国こゆうこくがあり、次に華奴蘇奴国かなそなこくがあり、次に鬼国きこくがあり、次に為吾国いごこくがあり、次に鬼奴国きなこくがあり、次に邪馬国やまこくがあり、次に躬臣国きゅうしんこくがあり、次に巴厘国はりこくがあり、次に支惟国しいこくがあり、次に烏奴国うなこくがあり、次に奴国なこくがあり、ここで女王じょおうの領域は終わります。

幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐん帯方郡たいほうぐん)から女王国じょおうこく*1邪馬台国やまたいこく?)までは12,000余里(約5,160km)あります。

脚注

*1おそらく日本海・東シナ海をへだてた東の国々をと呼び、その中で邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこに従う国々を総称して女王国じょおうこくと呼んでいるものと思われる。

*2魏書ぎしょ東夷伝とういでん魏志ぎし倭人伝わじんでん)の原文は邪馬壹国やまいちこく。これを邪馬台国やまたいこく邪馬臺国やまたいこく)と同一とするかどうかには諸説あるが、ここでは邪馬台国やまたいこく邪馬臺国やまたいこく)とした。

*3魏書ぎしょ東夷伝とういでん魏志ぎし倭人伝わじんでん)の原文は女王国じょおうこく

その他の諸国

奴国なこくの南、女王国じょおうこく*1から東に海を1,000里(約430km)余り渡ったところに狗奴国くなこく拘奴国くなこく)があり、男子がおうとなっている。狗奴国くなこく拘奴国くなこく)の長官は狗古智卑狗くこちひこと呼ばれ、その民もみな倭種わしゅですが、女王じょおうの支配は受けていません。

女王国じょおうこく*1から南に4,000里(約1,720km)余り渡ると朱儒国しゅじゅこく硃儒国しゅじゅこく侏儒国しゅじゅこく)に至り、その民の身長は3尺〜4尺(約69.3cm〜92.4cm)です。

朱儒国しゅじゅこく硃儒国しゅじゅこく侏儒国しゅじゅこく)から東南に船で1年航海すると裸国らこく黒歯国こくしこくに至り、の使者と通訳が伝えるところではここが極限です。


色々な情報を総合してみると、の地は大海に孤立した島々の上にあって、国々がつらなったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると5,000余里(約2,150km)ほどあります。

脚注

*1おそらく日本海・東シナ海をへだてた東の国々をと呼び、その中で邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこに従う国々を総称して女王国じょおうこくと呼んでいるものと思われる。

倭の統治・風土・風俗

統治

統治制度
  • には合わせて百余国あり、国ごとにみなおうと称し、代々その系統を伝えています。
  • の百余国をべる大倭王だいわおう邪馬台国やまたいこくに居住しています。
  • 城壁やさく、家屋(屋室)があります。
  • 租税そぜい賦役ふえき徴収ちょうしゅうが行われ、その租税そぜいおさめる倉庫が置かれています。
  • 武帝ぶてい朝鮮ちょうせんを滅ぼしてからは、の百余国の内の30ばかりの国が通訳をともなう使者をかんに派遣しており、の使者が中国にやって来る時には、みな自分のことを大夫たいふと称しています。
  • 国々に開かれた市場では、それぞれの地方の物産の交易こうえきが行われ、大倭たいわつかわされてその監督の任に当たっています。
  • 女王国じょおうこく*1より北の地域には特別に一大率いちだいそつの官が置かれて諸国を監視し、諸国はそれをおそはばかっています。一大率いちだいそつはいつも伊都国いとこくにその役所を置き、国中において中国の刺史ししのような権威を持っています。
  • おうが中国の京都みやこ幽州ゆうしゅう楽浪郡らくろうぐん帯方郡たいほうぐん)、かんの諸国に使者を派遣する場合、あるいは逆に楽浪郡らくろうぐん帯方郡たいほうぐん)からの使者がつかわされる時には、いつもみなとで荷物を広げて、送られる文書やたまわり物が女王じょおうの元に着いた時、間違いがないように点検します。
脚注

*1おそらく日本海・東シナ海をへだてた東の国々をと呼び、その中で邪馬台国やまたいこく女王じょおう卑弥呼ひみこに従う国々を総称して女王国じょおうこくと呼んでいるものと思われる。

軍事
  • 兵器としてほこたて木弓もくきゅうを使用しており、木弓もくきゅうは下が短くて上が長く、竹製の(矢)には、鉄または骨のやじりをつけたものもあります。
刑罰
  • の人々は盗みを働かないので、訴訟になることはあまりありません。
  • 法を侵した者がいるとその妻子を没収し、罪が重い者は一族を根絶やしにされます。

風土

  • 土地は禾稲いね麻紵まちょ(麻布)・蚕桑さんそうに適しており、糸につむいで目の細かいちょ(麻布)や縑綿かとりぎぬを作る知識を有しています。
  • 白珠はくじゅ真珠しんじゅ)や青玉せいぎょくを産出し、その山からは丹土たんど(赤土)を産出します。
  • 木材としてくすとち豫樟くすのき楺櫪くぬぎ投橿かし烏号やまぐわ楓香おかつらなどを産出し、竹には篠簳しのだけ桃支竹とうしちくがあり、しょうがたちばなさんしょう蘘荷みょうがなどが生えていますが、の人々はそれらが美味なことを知りません。
  • 気候は温暖で、冬・夏にかかわらず生野菜を食べます。
  • 牛・馬・虎・豹・羊・かささぎは生息しておらず、獮猴おおざる黒雉くろきじが生息しています。

風俗

祭祀
  • 何か事を起こしたり旅行をするなど、特別なことをする時には、必ず骨を焼いてうらなうことで、吉凶を判断します。亀卜きぼくに先だってうらなう内容を告げますが、その言葉は中国の令亀れいきの法*4と同じで焼いてできた割れ目を見て吉凶のきざしを判断します。
  • 正月を年の初めとすることや、4つの季節の区別は知られておらず、ただ春の耕作と秋の収穫を目安にして年を数えています。
脚注

*4ぼくに先だってうらないの内容を亀甲きこうに告げること。

風習
  • 男子はみな顔と身体に入れずみを入れ、その文様もんようの左右の位置や大小によって尊卑そんぴの差を分けています。
  • 男子はかんむりをつけず、木綿もめんで頭をしばってまげをつくっており、みな横幅のある布を結び合わせたものを衣服とし、い合わせることはほとんどありません。
  • 女性はざんばら髪でその一部をたばねてまげい、衣服は1枚の布の中央に穴を開け、そこに頭を通して着用しています。
  • 男女共に中国で白粉おしろいを使って化粧けしょうをするように、身体に丹硃たんしゅ(赤色)をっています。
  • ちゃんとした家に住んで父母兄弟は住まいを別にしており、一堂に会する時だけは男女の区別がありません。
  • 会合の場での立居振舞いには、父子や男女の区別がありません。
  • 飲食には手を使い、食器には籩豆へんとう*5もちいています。
  • 大人たいじんうやまうべき人物に会った時にも、ひざまずいてはいする代わりに拍手はくしゅをし、みな裸足はだしで、蹲踞そんきょの姿勢を取って恭敬きょうけいつつうやまうこと)の意を表します。
  • 宗族そうぞく間の関係や尊卑そんぴについてはそれぞれ序列があって、上の者の言いつけはよく守られます。
  • 酒をたしなみ非常に長寿で、80歳や90歳、100歳を越える者も多くいます。
  • には女性が多く、国々の大人たいじんたちみな4、5人の妻を持ち、その他の人々(下戸げこ)は2人か3人の妻を持っています。
  • 下戸げこの者が道で大人たいじんと出会うと、後ずさりして道端の草の中に入り、言葉を伝えたり説明したりする時には、うずくまったりひざまずいたりして両手を地につき、大人たいじんに対する恭敬きょうけいを表します。
  • 答える時には「あい」と言い、中国で「然諾ぜんだく(承諾)」と言うのとよく似ています。
  • の人々は淫乱いんらんを知らず、女性たちは身持ちがしっかりしていて嫉妬しっとすることもありません。
  • 海を渡って中国と行き来する時はいつも1人の者を選んで、髪をかずしらみもそのままに、沐浴もくよくをせず衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪中もちゅうの人のようにさせます。これを「持衰じさい」と呼び、もし道中が無事安全であれば報酬としてみなで家畜や財物を与え、もし病人が出たり災害に遭遇そうぐうしたりすれば、持衰じさい謹慎きんしんが不充分であったとして殺します。
入れ墨について

王朝の主君であった少康しょうこうの息子は、会稽郡かいけいぐんに封ぜられると、髪を切り身体に入れずみをして、みずちや龍の害をけました。

今、水人あまたちはさかんに水にもぐって魚やはまぐりっていますが、身体に入れずみをするのは少康しょうこうの息子と同様に、大きな魚や水禽すいきん(水上生活をする鳥)を追い払うためであって、それが次第に装飾の意味合いを持つようになりました。

国ごとにそれぞれ入れずみが異なり、あるいは左側、あるいは右側、あるいは大きく、あるいは小さくて、尊卑そんぴによる区別があります。

脚注

*5へんは果実類を盛る竹製のうつわとうは肉類を盛る木製のうつわ

葬礼
  • 遺体いたいおさめるひつぎはありますがかく(墓室)はなく、土でつかを作っています。
  • 人が亡くなると10日余りに服し、喪主もしゅなげき悲しみ酒や食事をけますが、その他の者はそのそばで歌い舞い、酒を飲みます。
  • 埋葬まいそうが終わると、家中の者が水の中に入って身体を洗い清めますが、その様子は中国で行う練沐れんもくとよく似ています。

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倭国の歴史

倭国と中国の関係

卑弥呼ひみこ以前

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武中元けんぶちゅうげん2年(57年)、倭国わこくの極南の境の国・奴国なこくから、みずか大夫たいふと称する使者が奉貢して朝賀し、光武帝こうぶてい印綬いんじゅ下賜かししました。


後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年(107年)、倭国わこくおう帥升すいしょうらが奴隷どれい・160人を献上し、拝謁はいえつを願い出ました。

卑弥呼ひみこ

倭国わこくでは元々男子が王位についていましたが、そうした状態が7、80年も続いた後、後漢ごかん桓帝かんてい霊帝れいていの期間(146年〜189年)、倭国わこくは大いに乱れてお互いに攻撃し合い、長年主君がいない状態が続いていました。

この頃、卑弥呼ひみこという女子が現れ、年齢を重ねてもよめに行かず、鬼神道きしんどうすぐれた妖術によって民衆の心をつかんでいたので、の諸国は共同して彼女をおうに立てました。卑弥呼ひみこの弟が国の統治を補佐し、その法制は厳格でした。

卑弥呼ひみこには侍婢じひ(侍女)が千人もいましたが、彼女に直接会ったことがある者は少なく、ただ1人の男子が飲食を給仕し、卑弥呼ひみこの言葉を伝えました。

卑弥呼ひみこが日常生活を送る宮室きゅうしつ楼観たかどのの周りには城壁やさくが厳しくめぐらされ、すべて武器を持った兵士が四六時中、警護にあたっています。


明帝めいてい曹叡そうえい)の景初けいしょ2年(238年)6月、女王じょおうが、大夫たいふ難升米なそめらを帯方郡たいほうぐんつかわして「天子てんしに朝献して献上物をささげたい」と願い出てきたので、帯方太守たいほうたいしゅ劉夏りゅうかは役人と兵士をつけて京都みやこまで案内させた。

その年の12月、女王じょおうねぎらいの詔書しょうしょを下しました。

明帝(曹叡)の詔書全文
タップ(クリック)すると開きます。

親魏倭王しんぎわおう卑弥呼ひみこ制詔みことのりを下す。

帯方太守たいほうたいしゅ劉夏りゅうかが使者をつけて、なんじ大夫たいふ難升米なしめ次使じし都巿牛利つしごりを護衛し、なんじの献上物、男の奴隷(生口せいこう)4人、女の奴隷(生口せいこう)6人、班布はんぷ2匹2じょうを奉じてやって来た。

なんじはるか遠い土地におるにもかかわらず、使者をおくり献上物をした。これこそなんじの忠孝の情の表れであり、私はなんじ衷情ちゅうじょう真心まごころ)に心を動かされた。

今、なんじ親魏倭王しんぎわおうとなし金印紫綬きんいんしじゅを仮授するが、その印綬いんじゅは封印して帯方太守たいほうたいしゅ劉夏りゅうか)にたくし、なんじに仮授させるものとする。なんじの種族の者たちをしずやすんじ、孝順につとめるように。

なんじ寄越よこした使者・難升米なしめ牛利ごり都巿牛利つしごり)は遠く旅をし、途中苦労を重ねた。

今、難升米なしめ率善中郎将りつぜんちゅうろうしょうとし、牛利ごり都巿牛利つしごり)を率善校尉りつぜんこういとして銀印青綬ぎんいんせいじゅを仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ、品を与えて帰途につかせる。

今、絳地交龍文こうじこうりゅうもん*6の綿5匹、絳地縐粟こうじすうぞく*6けい(毛織物)10はり蒨絳せんこう茜色あかねいろの絹)50匹、紺青こんじょう50匹をもってなんじの献上物への答礼とする。

加えて特になんじ紺地句文こんじこうもんの綿3匹、細班華さいはんかけい(毛織物)5はり、白絹50匹、金8両、5尺の刀2口、銅鏡100枚、真珠と鉛丹えんたん各50きんずつを下賜かしし、みな箱に入れ封印して難升米なしめ牛利ごり都巿牛利つしごり)にたくし、持ち帰って目録と共になんじさずけさせる。

これらのすべては、それをなんじの国の者たちに示して、朝廷がなんじらに深く心をそそいでいることを知らしめんがためのもので、それゆえ特別丁重になんじに良き品々を下賜かしするのである。

脚注

*6魏書ぎしょ東夷伝とういでん裴松之はいしょうし注に『「絳地こうじ」の「地」の字は「てい」につくるべきである』とある。


斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし元年(240年)、帯方太守たいほうたいしゅ弓遵きゅうじゅんは、建中校尉けんちゅうこうい梯儁ていしゅん梯俊ていしゅん)らに詔書しょうしょ印綬いんじゅたずさえて倭国わこくつかわして、倭王わおうの位を仮授し、みことのりと共に金・しろぎぬ錦罽きんけい・刀・鏡・采物さいぶつ(身分を表すいろどりのある旗や衣服)を下賜かししました。倭王わおうはその使者を通じて上表し、厚いみことのりに対する感謝の気持ちを表しました。


斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし4年(243年)、倭王わおうは再び大夫たいふ伊声耆いせいぎ伊聲耆いせいぎ)・掖邪狗ややこら8人を使者に立てて、奴隷(生口せいこう)・倭錦わきん絳青こうせいかとりぎぬ錦衣めんい帛布はくふ丹木たんぼく𤝔・短弓とその矢を献上し、掖邪狗ややこらはそろって率善中郎将りつぜんちゅうろうしょう印綬いんじゅたまわりました。


斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし6年(245年)、みことのりにより難升米なしめに黄色のどうはたさしもの)が下賜かしされ、帯方郡たいほうぐんを通じて本人に仮授されました。


斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし8年(247年)、帯方太守たいほうたいしゅ弓遵きゅうじゅんが戦死して後任の王頎おうき帯方郡たいほうぐんに赴任しました。

女王じょおう卑弥呼ひみこは、元々狗奴国くなこく拘奴国くなこく)の男性のおう卑弥弓呼ひみここと不和でした。

載斯そし烏越あお*7らを帯方郡たいほうぐんに派遣して「2国間で戦闘が行われている」ことを報告すると、帯方郡たいほうぐんから塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいらがつかわされ、正始せいし6年(245年)に下された詔書しょうしょと黄色のどうはたさしもの)を難升米なしめに仮授すると共に、檄告ふれぶみによって両国が和解するように教えさとしました。

脚注

*7原文:遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。ちくま学芸文庫がくげいぶんこ正史せいし三国志さんごくしでは、載斯烏越そしあおと1人の名前としています。

壱与いよ壹與いよ

卑弥呼ひみこが亡くなると、直径100余歩に及ぶ大規模なつかきずかれ、奴婢ぬひ100人以上が殉葬じゅんそうされました。

その後、男性のおうが即位したが、国中の者が心服せず、殺し合いが続いて1,000人以上の死者が出ました。そこで卑弥呼ひみこの親族の娘・壱与いよ壹與いよ)が13歳でおうに立てられると、国中はやっと安定します。

張政ちょうせいらが檄告ふれぶみによって壱与いよに教えさとすと、壱与いよ大夫たいふ率善中郎将りつぜんちゅうろうしょう掖邪狗ややこら20人をつかわして張政ちょうせいらの帰還を送らせ、そのまま中国の朝廷におもむいて男女の奴隷(生口せいこう)30人を献上し、白珠はくじゅ5,000、孔青大句珠こうせいだいこうじゅ2枚、異文雑錦いもんぞうきん20匹を貢物みつぎものとしておさめました。

倭と中国の関係年表

西暦 出来事
57年

後漢ごかん光武帝こうぶてい建武中元けんぶちゅうげん2年

  • 奴国なこくから使者が奉貢して朝賀し、光武帝こうぶてい印綬いんじゅ下賜かしした。
107年

後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年

  • 倭国わこくおう帥升すいしょうらが奴隷どれい・160人を献上し、拝謁はいえつを願い出た。
146年

189年

後漢ごかん桓帝かんてい霊帝れいてい

  • 倭国わこくは大いに乱れてお互いに攻撃し合い、長年主君がいない状態が続いた。
不明
  • の諸国が共同して卑弥呼ひみこおうに立てる。
  • 卑弥呼ひみこの弟が国の統治を補佐する。
238年

明帝めいてい曹叡そうえい)の景初けいしょ2年6月

  • 女王じょおう卑弥呼ひみこ大夫たいふ難升米なそめらを帯方郡たいほうぐんつかわす。
  • 帯方太守たいほうたいしゅ劉夏りゅうかが役人と兵士をつけて難升米なそめらを京都みやこまで案内する。

■12月

  • 明帝めいてい曹叡そうえい)が女王じょおう卑弥呼ひみこねぎらいの詔書しょうしょを下す。
240年

斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし元年

  • 帯方太守たいほうたいしゅ弓遵きゅうじゅんが、建中校尉けんちゅうこうい梯儁ていしゅん梯俊ていしゅん)らを倭国わこくつかわして倭王わおうの位を仮授し、答礼品とうれいひん下賜かしした。
  • 女王じょおう卑弥呼ひみこがその使者を通じて感謝の気持ちを表す。
243年

斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし4年

  • 女王じょおう卑弥呼ひみこ大夫たいふ伊声耆いせいぎ掖邪狗ややこら8人を使者に立て、貢物みつぎものを献じる。
  • 掖邪狗ややこらがそろって率善中郎将りつぜんちゅうろうしょう印綬いんじゅたまわる。
245年

斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし6年

  • 難升米なしめ帯方郡たいほうぐんを通じて黄色のどうはたさしもの)を下賜かしするみことのりが下される。
247年

斉王せいおう曹芳そうほう)の正始せいし8年

  • 帯方太守たいほうたいしゅ弓遵きゅうじゅんが戦死する。
  • 後任の王頎おうき帯方郡たいほうぐんに赴任する。
  • 女王じょおう卑弥呼ひみこ狗奴国くなこく拘奴国くなこく)の男性のおう卑弥弓呼ひみここと争う。
  • 載斯そし烏越あお*7らを帯方郡たいほうぐんに派遣する。
  • 帯方郡たいほうぐん塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいらをつかわして、正始せいし6年(245年)に下された詔書しょうしょと黄色のどうはたさしもの)を難升米なしめに仮授する。
  • 塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいらが檄告ふれぶみによって両国が和解するように教えさとす。
不明
  • 卑弥呼ひみこが亡くなる。
  • 男性のおうが即位する。
  • 殺し合いが続いて1,000人以上の死者を出す。
  • 卑弥呼ひみこの親族の娘・壱与いよ壹與いよ)が13歳でおうに立てられ、国中がやっと安定する。
  • 張政ちょうせいらが檄告ふれぶみによって壱与いよに教えさとす。
  • 壱与いよ大夫たいふ率善中郎将りつぜんちゅうろうしょう掖邪狗ややこら20人をつかわして張政ちょうせいらの帰還を送らせる。
  • 掖邪狗ややこらがそのまま中国の朝廷におもむいて貢物みつぎものを献じる。
脚注

*7原文:遣倭載斯、烏越等詣郡說相攻擊狀。ちくま学芸文庫がくげいぶんこ正史せいし三国志さんごくしでは、載斯烏越そしあおと1人の名前としています。


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東鯷(夷洲・澶洲)

東鯷

夷洲と澶洲

夷洲いしゅう澶洲せんしゅう


揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんの海の外に東鯷とうていの人々がいて、20余りの国に分かれています。

夷洲・澶洲

また揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんの海の外に夷洲いしゅう澶洲せんしゅうがあります。

言い伝えによれば「しん始皇帝しこうてい方士ほうし徐福じょふくを派遣して童男・童女数千人をひきいて海に入らせ、蓬莱ほうらいの神仙を求めさせたが得られなかった」とあり、この時徐福じょふく誅殺ちゅうさつされることをおそれて帰還せずにそのしまとどまりました。その子孫が数万家になり、時々会稽郡かいけいぐんの市にやって来ます。

揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん東冶県とうやけんの人で、海に航海に出て風にい、澶洲せんしゅうに流れ着いた者がいましたが、その場所はあまりにも遠く、往来することはできません。

軍事

  • 鹿のかく(骨)をほこに加工し、青石せいせき研磨けんましてやじりを作ります。

風土

  • 夷洲いしゅう揚州ようしゅう臨海郡りんかいぐんの東南にあり、郡から2,000里(約860km)離れています。その土地は四方を山や渓谷けいこくかこまれており、霜雪そうせつがなく、草木は1年を通じてれません。
  • 土地は肥沃ひよく五穀ごこくが生育しており、魚が多くれます。
  • 犬が生息し、その犬の尾は短く、のろ(シカ科の哺乳類)の尾の形状に似ています。
  • 地中には銅や鉄の鉱脈があります。

風俗

  • 夷洲いしゅうの人々は誰もが頭髪をり上げて耳に穴を開けていますが、女性は耳に穴を開けていません。
  • しゅうとしゅうとめ、子や妻が1つの大きな寝床を共有し、ほとんど互いにけることはありません。
  • なまの魚肉をつまんで大きな瓦器がきの中で混ぜ合わせ、1ヶ月余り塩漬けにしてむさぼるように食べ、最高の珍味ちんみとしています。

【後漢・三国時代の異民族】目次