後漢・三国時代の異民族の内、東夷に分類される韓(三韓)[馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)]についてまとめています。
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目次
韓の三韓
馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)
馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)・州胡
韓は楽浪郡(帯方郡)*1の南にあり、その広さは4千里四方、東西には海が広がり、南は倭と境を接しています。
韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)*2の3つの種族があり、
- 馬韓・54ヶ国
- 辰韓・12ヶ国
- 弁韓(弁辰)*2・12ヶ国
の合わせて78ヶ国あります。辰韓は古の辰国です。
3国共同で立てられた辰王が、馬韓の月支国(目支国)*3に宮廷(都)を置いて三韓の地を支配しており、代々みな馬韓の人種の者が辰王に立てられてきました。
脚注
*1『後漢書』東夷伝では楽浪郡、『魏書』東夷伝では帯方郡。その違いは帯方郡の設置前か後かによる。
*2『後漢書』東夷伝では一貫して弁辰。『魏書』東夷伝では、初めは「弁韓」と記されるが、途中から「弁辰」に変わっている。
*3『魏書』東夷伝では月支国、『後漢書』東夷伝では目支国。
州胡国
馬韓の西方の海中の大きな島に「州胡」と呼ばれる民がおり、人々は身の丈がやや小さく、言葉は韓と異なっています。
みな頭髪を剃っているという点では鮮卑に似ていますが、鮮卑とは違って韋の衣を着ており、その衣は上だけで下はなく、ほとんど裸と変わりません。
州胡国では牛や豬を飼育し、船で韓にやって来て交易を行います。
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馬韓
馬韓の領域
馬韓
馬韓は三韓の中で西に位置し、北は楽浪郡、南は倭と境を接しています。
馬韓の54国
馬韓には、
爰襄国・牟水国・桑外国・小石索国・大石索国・優休牟涿国・臣濆沽国・伯済国(百済国)・速盧不斯国・日華国・古誕者国・古離国・怒藍国・月支国(目支国)*3・咨離牟盧国・素謂乾国・古爰国・莫盧国・卑離国・占離卑国*4・臣釁国・支侵国・狗盧国・卑弥国・監奚卑離国・古蒲国・致利鞠国・冉路国・児林国・駟盧国・内卑離国・感奚国・万盧国・辟卑離国・臼斯烏旦国・一離国・不弥国・支半国・狗素国・捷盧国・牟盧卑離国・臣蘇塗国・莫盧国*5・古臘国・臨素半国・臣雲新国・如来卑離国・楚山塗卑離国・一難国・狗奚国・不雲国・不斯濆邪国・爰池国・乾馬国・楚離国
の54ヶ国があります。
それぞれの国には各々もう1つの邑があります。
これらの国は、大きな国は1万余家、小さな国は数千家で、全部合わせると10余万戸になります。
脚注
*3『魏書』東夷伝では月支国、『後漢書』東夷伝では目支国。
*4原文ママ。占卑離国?
*5原文ママ。重複?この重複分を除くと54ヶ国となる。
統治・風土・風俗
統治
山や海の間に散らばって住み、城郭はありません。
それぞれに長帥(首長)がおり、大者は自らを臣智と称し、それに次ぐ者は邑借と称しています。その他に、
- 魏率善
- 邑君
- 帰義侯
- 中郎将
- 都尉
- 伯長
といった官が置かれており、臣智の位の者には「優呼臣雲遣支報安邪踧支濆臣離児不例拘邪秦支廉(?)」という称号が加えられることもあります。
その統治機構は未発達で、国々の邑に主帥(統率者)はいますが、地方の邑落は無秩序に散在し、それらを制御する者はいません。
風土
- 馬韓の民は定住して穀物を植え、蚕桑(養蚕)の技術を知っていて、真綿や布を作ります。
- 梨ほどの大きさの、大きな栗の実を産出します。
- 尾の長さが5尺(約115.5cm)以上もある細尾鶏(長尾鶏)を産出します。
- 珍宝は産出しません。
- 禽獣や草木はほぼ中国と同じです。
風俗
特徴
- 人々の性格は気が強く勇敢で、頭には何もかぶらず髻(髪を頭上に束ねたもの)を露わにしており*6、その姿は炅兵(?)のようです。
- 布製の袍を着て足には革の蹻蹋(くつの一種)をはいています。
- 国家の事業で建物(官家)や城郭を建設する時には、若く勇健な者たちが背中の皮に縄を貫いて大木をくくりつけ、1日中”かけ声”を出しながら作業をし、傷みに耐えて勧んで作業する者が「逞しい」と称えられます。
- 彼らの中でも北部の楽浪郡(帯方郡)に近い国々の者たちは、少しは礼儀をわきまえていますが、楽浪郡(帯方郡)から遠く離れたところに住む者たちは、まるで囚徒や奴婢が集まっているような有り様でした。
- 馬韓の南の境は倭に近く、男たちの中には入れ墨をする者がいます。
脚注
*6原文「魁頭露紒」。魁頭は、2つに束ねた髪をぐるぐる巻いてまとめたもの。
祭祀
- 毎年5月に種まきが終わると鬼神を祭り、人々が群れ集まって歌い舞い、昼夜を問わず酒を飲み続けます。その舞いは数十人が立ち上がって地面を踏み鳴らし、手足を上げて鐸舞(鐸を持ってまう舞い)のようなリズムをとります。
- 10月に農作業が終わった後にも、同様の行事があります。
- 鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ1人を選んで「天君」と呼び、天神の祭りを取り仕切らせます。
- 国々には「蘇塗」と呼ばれる別邑があり、そこには大きな木が立てられ、それに鈴と太鼓をぶら下げて鬼神の祭祀を行いますが、逃亡者たちがそこへ逃げ込むと連れ戻されることがないため、賊の温床となっています。蘇塗を立てることの意味は、仏教との浮屠(仏塔)と似たところがありますが、浮屠は善行、蘇塗は悪行と、そこで行われることは真逆です。
風習
- この地の人々は礼服や幘(頭巾)を好み、下戸(平民)の者たちが郡の役所に目通りをすると、みな礼服や幘(頭巾)を貸与され、自分で勝手に印綬や礼服、幘(頭巾)をあつらえて身につける者が千人以上もいます。
- この地の人々には跪いて拝する礼(跪拝)はありません。
- その住居は、草屋根に土壁をめぐらせた建物で、形は塚のようで、入り口はその上部にあり、長幼男女の別なく一家の全員がその中で暮らします。
- 牛や馬に乗る風習はありません。
- 瓔(玉に似た美しい石)や珠(真珠)を財宝とし、上着に縫いつけて飾りとしたり、首や耳にぶら下げたりします。
- 金や銀、錦や毛織物は珍重されません。
葬礼
- 椁(棺を覆う外囲い・墓室)を作りますが、棺はありません。
- 牛や馬はすべて副葬品とします。
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辰韓
辰韓の領域
辰韓
辰韓は馬韓の東方に位置し、北は濊貊と接しています。
元は6ヶ国でしたが、次第に分かれて12ヶ国となりました。
辰韓の12ヶ国
已柢国・不斯国・勤耆国・難弥離弥凍国・冉奚国・軍弥国(弁軍弥国)・如湛国・戸路国・州鮮国(馬延国)・斯盧国・優由国・他1ヶ国。*7
弁韓(弁辰)の人々は、辰韓の人々と住む場所が入り組んでおり、辰韓と弁韓(弁辰)合わせて24ヶ国、大きな国は4〜5千家、小さな国は6〜7百家からなって、合わせて4〜5万戸があります。
辰韓・弁韓(弁辰)24ヶ国のうち、12ヶ国は馬韓の辰王に属しています。
脚注
*7『魏書』東夷伝では辰韓と弁韓(弁辰)の国がまとめて記されていて区別できません。ここでは、その中から頭に「弁辰」とつく国を除いたものを「辰韓の12ヶ国」としています。
統治・風土・風俗
統治
統治制度
居住地の周りには城壁や柵がめぐらされています。
それぞれの邑に渠帥(首長)がおり、大者は自らを臣智と称し、以下地位が高い順に、
- 倹側
- 樊秖(樊濊)
- 殺奚
- 邑借
といった官が置かれています。
軍事
歩兵線に巧みで、使用する兵器は馬韓と同じです。(馬韓の兵器に関する記述はありません)
風土
- 辰韓は土地が肥えていて、五穀や稲の栽培に適しており、人々は蚕桑(養蚕)の技術を知っていて、縑布(固織り)を織ります。
- 牛や馬に乗ったり車を引かせたりします。
- 鉄を産出し、韓・濊・倭はそれぞれここ(辰韓)から鉄を入手します。
- 中国で銭を用いるように、交易にはすべて鉄を使います。
- 楽浪郡と帯方郡の2郡にも鉄を供給しています。
風俗
言語
その言語は馬韓とは異なり、燕や斉の地における物の呼び名と共通点があるだけに留まらず、
- 国のことを「邦」と言い、
- 弓のことを「弧」と言い、
- 賊のことを「寇」と言い、
- 行酒(杯を回して順々に酒を飲むこと)のことを「行觴」と言い、
- お互いに自分たちのことを「徒」と呼び合う
など、秦人の言葉と似た点があり、辰韓の古老たちが代々言い伝えるところでは、
「自分たちは古の逃亡者の子孫で、秦の労役を逃れて韓の国へやって来た時、馬韓がその東部の土地を割いて与えてくれた」
のだとされています。このことから、彼らのことを「秦韓」と呼ぶ者もいます。
また、楽浪郡(帯方郡)の人のことを「阿残」と呼びますが、これは自分のことを「阿」と呼ぶ辰韓の人々が、「楽浪郡(帯方郡)の人は『自分たちの残り』である」ことから、そう呼ぶようになりました。
風習
- 建物を建てる際には木材を横に積み重ねて作り、その外観は牢獄のようです。
- 人々は歌舞や飲酒が好きです。
- 瑟(大琴)があり、その形は筑(琴に似た、棒で弦を叩いて音を出す楽器)に似ており、演奏すればちゃんとした音曲を奏でます。
- 子供が生まれると、その頭を扁平にしようとして、子供の頭に石を押しつけます。
- 男も女も見た目は倭人たちに近く、入れ墨をしています。
- 道で人に会うと、みな足を止めて道を譲り合います。
婚礼
- 嫁娶(嫁入りと嫁取り)の礼には、男女に違いがあります。
葬礼
- 死者が天高く飛んで行くようにと、大きな鳥の羽根を副葬します。
弁韓(弁辰)
弁韓(弁辰)の領域
弁韓(弁辰)
弁韓(弁辰)は辰韓の南に位置し、南は倭と境を接しています。
弁韓(弁辰)も辰韓と同じく12ヶ国あります。
弁韓(弁辰)の12ヶ国
弁辰弥離弥凍国・弁辰接塗国・弁辰古資弥凍国・弁辰古淳是国・弁辰半路国・弁辰楽奴国・弁辰弥烏邪馬国・弁辰甘路国・弁辰狗邪国・弁辰走漕馬国・弁辰安邪国(馬延国)・弁辰瀆盧国。*8
弁辰瀆盧国は、倭と境界を接しています。
弁韓(弁辰)の人々は、辰韓の人々と住む場所が入り組んでおり、辰韓と弁韓(弁辰)合わせて24ヶ国、大きな国は4〜5千家、小さな国は6〜7百家からなって、合わせて4〜5万戸があります。
辰韓・弁韓(弁辰)24ヶ国のうち、12ヶ国は馬韓の辰王に属しています。
また、弁韓(弁辰)の12ヶ国には、それぞれに王がいます。
脚注
*8『魏書』東夷伝では辰韓と弁韓(弁辰)の国がまとめて記されていて区別できません。ここでは、その中から頭に「弁辰」とつく国を抜粋して「弁韓(弁辰)の12ヶ国」としています。
統治・風土・風俗
統治
- 弁韓(弁辰)の人々は、辰韓の人々と住む場所が入り組んでおり、彼らも居住地の周りに城壁や柵をめぐらせます。
- 弁韓(弁辰)の統治方法については明記されていませんが、おそらく辰韓と同様だと思われます。
風土
- 幅が広くきめが細かい布を織ります。
風俗
- 衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗(生活の掟)も似ていますが、鬼神の祭祀に違いがあり、灶(竈)はみな家の西側に置かれています。
- 弁韓(弁辰)の人々の体つきは大柄で、衣服はいつも清潔にしており、髪を長く伸ばしています。
- 弁韓(弁辰)には、特に厳しい法俗(生活の掟)があります。
韓(三韓)の歴史
韓(三韓)と中国の関係
【秦】二世皇帝期
秦の二世皇帝元年(紀元前209年)7月、陳勝らが兵を起こし、天下が秦の支配に反抗した時、燕や斉、趙の民衆は戦乱を避けて朝鮮に移住し、その数は1万人にのぼりました。
この時、朝鮮侯・準(箕準)は朝鮮王を僭称していましたが、燕から逃亡して来た衛満の攻撃を受けて国を奪われ、その側近と宮女、残党・数千人を引き連れて海に逃れました。
その後、馬韓を攻撃して撃ち破った準(箕準)は、韓の地に住み着いて勝手に韓王を名乗りました。その後裔は絶えましたが、現在*9も韓の国にはその祭祀を続けている者がいます。
脚注
*9正史『三国志』が編纂された晋の初め[太康元年(280年)]以降?
【前漢】武帝期
元封3年(紀元前108年)夏、前漢の武帝に衛氏朝鮮が滅ぼされると、馬韓人が自立して辰王となりました。
【新】王莽期
地皇年間(20年〜23年)、辰韓の右渠帥・廉斯鑡が楽浪郡に投降しようとし、途中で出会った漢人の戸来と共に楽浪郡・含資県の役所に出頭しました。
郡ではすぐさま廉斯鑡を通訳の任に当て、辰韓に侵入して、捕虜になっている戸来の仲間たちを迎え取らせます。この時、捕虜・1,500人のうち1,000人を収容することができましたが、5百人はすでに亡くなっていました。
そこで廉斯鑡は、辰韓から1万5千人を出させ、弁韓(弁辰)からは1万5千匹の布を出させて帰還しました。
【後漢】光武帝期
建武20年(44年)、韓人で廉斯の人・蘇馬諟らが楽浪郡に詣でて貢ぎ物を献じてくると、光武帝は蘇馬諟を後漢の廉斯邑君に封じ、楽浪郡に属させて、季節ごとに朝謁させました。
【後漢】桓帝・霊帝期
後漢の桓帝から霊帝の末年(147年〜189年)の頃になると、韓・濊が強盛となって楽浪郡やその配下の県の力ではそれを制御することができず、乱に苦しむ民衆の多くが韓国に流入しました。
【後漢】献帝期
建安年間(196年〜220年)、(自称)遼東王の公孫康は屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作ると、公孫模や張敞を派遣して「これまで取り遺されていたその地の中国の移住民たち」を結集し、韓・濊を討伐させました。
その結果、韓国に流入していた中国の移住民たちも少しずつ戻って来るようになり、倭と韓は帯方郡の支配を受けることになります。
【魏】明帝(曹叡)期
景初年間(237年〜239年)、明帝(曹叡)は、秘密裏に帯方太守・劉昕と楽浪太守・鮮于嗣を海からそれぞれの郡に侵攻させました。
帯方郡と楽浪郡を平定した明帝(曹叡)は、韓の諸国の臣智たちには邑君の印綬を授け、それに次ぐ実力者たちには邑長とします。
部従事の呉林は、楽浪郡が元々韓を統治していたことから、辰韓の8国を分割して楽浪郡に併合しようとしましたが、役人や通訳たちが様々な意見を煽り立てて、帯方郡の崎離営(兵営の名前?)に攻撃をかけました。
これに帯方太守・弓遵と楽浪太守・劉茂は征討を軍を起こし、弓遵は戦死したものの、韓を滅ぼしました。
韓(三韓)と中国の関係年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
|
B.C.209年 |
■秦の二世皇帝元年
|
不明 |
|
B.C.108年 |
■前漢・武帝の元封3年
|
20年〜23年 |
■新・王莽の地皇年間
|
44年 |
■後漢・光武帝の建武20年
|
147年〜189年 |
■後漢・桓帝・霊帝期
|
196年〜220年 |
■後漢・献帝の建安年間
|
237年〜239年 |
■魏・明帝(曹叡)の景初年間
|