正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧⑤河南尹尹氏(尹睦・尹頌・尹勲)です。
スポンサーリンク
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河南尹氏系図
河南尹尹氏系図
※『後漢書』尹勲伝より。尹睦と尹頌、尹勲の死期を比べて見ると、祖父と孫の世代の可能性もあります。
この記事では河南尹尹氏の人物、
についてまとめています。
スポンサーリンク
い③(河南尹氏)
第1世代(尹睦)
尹睦・伯師
生年不詳〜永元5年(93年)没。司隷・河南尹・鞏県の人。甥に尹頌、尹勲。
章帝の章和2年(88年)、北単于は耿夔に撃破されて烏孫に遁走し、塞北の土地は誰もいなくなり、残りの部族はどこに属すれば良いのか分からなかった。
外戚の竇憲は日に日に自分の功績を誇るようになり、北匈奴に恩を売ろうと考え、そこで「降伏して来た左鹿蠡王の阿佟を北単于に即位させ、使匈奴中郎将を置いて監督させる」ことを提案した。
この事案は公卿に下されて集議が行われ、太尉の宋由・太常の丁鴻・光禄勲の耿秉たち10人は許可すべきであると論じたが、司徒の袁安・司空の任隗らはこれに反対し、宗正の劉方と大司農の尹睦は袁安らの意見に賛同した。
和帝の永元4年(92年)6月、竇憲が大将軍の印綬を取り上げられて自害すると、7月には太尉の宋由も竇憲に連座して自害した。
8月、尹睦は太尉・録尚書事となったが、その翌年に亡くなった。
『後漢書』より。正史『三国志』に記載なし。
「尹睦」の関連記事
第2世代(尹頌・尹勲)
尹頌・公孫
生年不詳〜永寿3年(157年)冬11月没。司隷・河南尹・鞏県の人。弟は尹勲。伯父は尹睦。
太守や議郎を歴任し、光禄勲となった。
桓帝の永興2年(154年)9月、太尉の胡広が免職となり、司徒の黃瓊が太尉となると、その閏9月、尹頌が司徒に任命された。
泰山郡・琅邪郡の賊・東郭竇、公孫挙らが、3万の軍勢を集めて郡県を破壊した。朝廷は兵を派遣してこれを討伐させたが、連年勝つことができなかった。
桓帝の永寿2年(156年)、東郭竇、公孫挙らを討つため、桓帝は三公・九卿に詔を下して「文武を兼ね備えた将」を選出させた。この時、尹頌は段熲を推挙した。
段熲は中郎将を拝命し、東郭竇、公孫挙らを大いに破ってこれを斬り、首を獲ること1万級余り、残党は降伏・離散した。
桓帝の永寿3年(157年)冬11月に亡くなった。
『後漢書』より。正史『三国志』に記載なし。
「尹頌」の関連記事
尹勲・伯元
生年不詳〜建寧元年(168年)没。司隷・河南尹・鞏県の人。兄に尹頌。党人の1人。
家は代々高官を輩出した。
伯父の尹睦は太尉、兄の尹頌は司徒となるなど、一族には高位の者が多かったが、尹勲はただ1人清廉の志を保ち、門地の勢力によって人を尊敬したりはしなかった。
州郡は何度も尹勲を辟召し、孝廉に察挙(推挙)され、3度転任して邯鄲令*1となり、政務に優れた足跡を残した。後に高第に挙げられ、5度転任して尚書令となった。
桓帝が大将軍の梁冀を誅殺をした際には、尹勲は大謀の立案に参加し、都郷侯に封ぜられた。
その後汝南太守に転任し、上書して范滂・袁忠などの党人の禁錮を釈放した。
徴召されて将作大匠を拝命し、大司農に転任したが、建寧元年(168年)に竇武たちの事件(第2次党錮の禁)に連座して獄に下され自害した。
『後漢書』より。正史『三国志』に記載なし。
脚注
*1冀州・趙国・邯鄲県の県令。
「尹勲」の関連記事
スポンサーリンク