正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧④です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

いく

いつ

いつ


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い④(韋・倚・尉・猗・懿・育・乙・壱)

韋(韋休甫・韋晃)

韋休甫いきゅうほ

生没年不詳。司隷しれい京兆尹けいちょういんの人。

同郡出身の金元休きんげんきゅう金尚きんしょう)、第五文休だいごぶんきゅうと共に有名で、「三休さんきゅう」と呼ばれていた。


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韋晃いこう

生年不詳〜建安けんあん23年(218年)没。司直ししょく(諸官府の監察を行う丞相府じょうしょうふの属官)。

建安けんあん23年(218年)春正月、かん大医令たいいれい吉本きつほん少府しょうふ耿紀こうき、(吉本きつほんの子:吉邈きつばく吉穆きつぼく)らと共謀して魏王ぎおう曹操そうそうに反乱を起こす。

許県きょけん丞相じょうしょう長史ちょうし王必おうひつの陣営に火を放つが、王必おうひつ典農中郎将てんのうちゅうろうしょう厳匡げんきょうに討伐され、反乱は失敗に終わって処刑された。


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倚(倚相)

倚相いしょう

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代、左史さし右史ゆうしと共に天子てんしそばしてその言行を記録する官職)。左丘明さきゅうめいの祖父。霊王れいおうに仕えた。

三墳さんぷん五典ごてん八索はっさく九丘きゅうきゅうに精通する。


王孫圉おうそんぎょが使者としてしんおもむいた時のこと。

しん定公ていこうが開いた宴会の席上で、「白珩はくこう*2はまだありますかな?」と問われた王孫圉おうそんぎょは、「ございます」と答え、「その宝としての価値はいかほどか?」と問う趙簡子ちょうかんし趙鞅ちょうおう)に、次のように答えた。

「あれは宝とは申しません。が宝とするものは、まずは観射父かんえきほ。優れた訓辞を作って諸侯に行き渡らせていますので、寡君かくん*3がそしりを受けることはありません。

また、左史さし倚相いしょうがいます。彼は百の古典に精通し、一日中寡君かくん*3に過去の良い例と悪い例を示して先王せんおうの業績を忘れることがないようにし、また鬼神を喜ばせてその欲悪を正し、に神の怨痛えんつうが降りかかることを防いでいます。

(中略)

これらが楚国そこくの宝です。かの白珩はくこう*2のごとき物は、先王せんおう玩具なぐさみものに過ぎません。どうしてあんなものを宝と申しましょうか」

脚注

*2に伝わる宝物。こうとは横長の佩玉はいぎょく(大帯にかける玉製の飾り)のことで、白珩はくこうはその純白のもの。

*3他国の人に対して自分の主君をへりくだって使う言葉。


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尉(尉仇台・尉佗)

尉仇台いきゅうたい

生没年不詳。夫余王ふよおう

夫余ふよはもともと幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属していたが、後漢ごかん末に公孫度こうそんたく海東かいとうの地域に勢力を伸ばして異民族たちを威服させると、夫余王ふよおう尉仇台いきゅうたいは改めて遼東郡りょうとうぐん公孫度こうそんたく)の支配下に入った。

公孫度こうそんたくは、夫余ふよが当時勢いが強かった2つの異民族・句麗くり高句麗こうくり)と鮮卑せんぴの間に位置することから、両国への牽制けんせいのため自分の一族の娘を妻として尉仇台いきゅうたいに与え、結びつきを強めた。

尉仇台いきゅうたいが死ぬと簡位居かんいきょおうに立った。


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尉佗いた尉他いた趙佗ちょうた

生年不詳〜建元けんげん4年(紀元前137年)。冀州きしゅう真定国しんていこく常山国じょうざんこく)・真定県しんていけんの人。

前漢ぜんかん時代、嶺南れいなん広東省カントンしょう広西こうせいチワン自治区じちくベトナムの北部)に独立していた南越国なんえつこくの初代のおう[在位:高祖こうそ4年(紀元前203年)~建元けんげん4年(紀元前137年)]。南越王なんえつおう武帝ぶていを自称する。

しん時代に南海郡なんかいぐん竜川県りゅうせんけん県令けんれい南海都尉なんかいといとなり、しんかん交代期に独立して桂林郡けいりんぐん象郡しょうぐんを合わせて南越なんえつを建国した。

高祖こうそ11年(紀元前196年)、前漢ぜんかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)は陸賈りくかを派遣して独立を認め、正式に南越王なんえつおう印綬いんじゅを送ったが、高祖こうそ劉邦りゅうほう)が崩御ほうぎょすると、呂后りょこうは鉄製器具の交易廃止を要求。

これに反発した尉佗いた趙佗ちょうた)は武帝ぶていを自称して長沙国ちょうさこくに侵入したが、文帝ぶんていが即位すると再び陸賈りくかが派遣され、「帝号をもちいないこと、毎年朝貢すること」などを約束して和睦わぼくする。景帝けいていの時代までこの状態は続いたが、南越なんえつ国内では帝号をもちい続けていた。


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猗(猗頓)

猗頓いとん

生没年不詳。の人。春秋しゅんじゅう時代末期の富豪。

猗頓いとん河東かとう山西省さんせいしょう)の塩池えんちで塩を製造して家を起こし、その富は王者に匹敵した。

後世、「陶朱とうしゅ猗頓いとん」と言えば、莫大な富・富豪を指す。陶朱とうしゅ陶県とうけん朱公しゅこう)とは、春秋しゅんじゅう時代末期に越王えつおう勾践こうせんに仕えた范蠡はんれいのこと。


韋曜いようあらわした賭博とばくを批判する文章・博奕論はくえきろんの中で、「もしそれ(博奕すごろくそそぐ労力)を財貨運用の面にもちいるならば、猗頓いとんとみたくわえられよう」と、賭博とばくの無益さの例の1つとしてげている。


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懿(懿公〔衛〕)

懿公いこうえい

春秋しゅんじゅう時代、えいの第19代君主(在位:紀元前668年~紀元前660年)。生年不詳〜紀元前660年没。いみな姫赤きせき。父はえいの第16代及び第18代君主・恵公けいこう

紀元前660年12月、えいが北方異民族のたくてき)に攻撃された際、懿公いこうたくてき)を迎撃しようとしたが、懿公いこうが異常なまでにつるを愛し、淫楽奢侈いんらくしゃしであったため、みな「つるたくてき)を討たせたらよろしい」と言って従わなかった。

そこで懿公いこうみずから出陣するも、敵の集中射撃を浴びて戦死。そのしかばね翟人たくじん狄人てきじん)に食われ、ただ肝臓だけが残ったと言う。

大切にすべきものを軽く扱い、くだらないものを大切にしたために身を滅ぼすことのたとえ、「懿公好鶴いこうこうかく」の語源となった。


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育(育延)

育延いくえん

生没年不詳。鮮卑せんぴの豪族。常に幷州へいしゅう并州へいしゅう)の人々に恐れはばかられていた。

ある朝、育延いくえんは部落民5千余騎を引き連れて幷州刺史へいしゅうしし梁習りょうしゅうに商取引を求めた。梁習りょうしゅうは「受けなければうらみを買い、受けても略奪をうけることになる」と思ったが、結局これを承諾する。

交易が始まると、市場管理の役人が1人の蛮人ばんじんを捕縛した。育延いくえんの騎兵はみな驚いて、梁習りょうしゅうを幾重にも包囲して弓を引きしぼったが、蛮人ばんじんを捕縛した理由を聞いてみると、蛮人ばんじんに非があったことが分かった。

そこで梁習りょうしゅう育延いくえんを呼び、「お前たち蛮人ばんじんが自分から法を犯したのだ。役人はお前に害を与えたわけではないのに、どうして騎兵たちを使って人を驚かせるのだ」と言って、彼を斬ってしまった。


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乙(乙修)

乙修いつしゅう

生没年不詳。正始せいし2年(241年)に朱然しゅぜん樊城はんじょうを包囲した際の守将しゅしょう

この時救援に駆けつけた夏侯儒かこうじゅは、樊城はんじょうの東の鄧塞とうさいに駐屯したものの、兵が少ないためにそれ以上進むことができず、ただ太鼓や笛を鳴らして気勢を上げることを繰り返すだけだった。

乙修いつしゅうらは城内からその様子を眺めるだけだったが、一月ひとつき余りして太傅たいふ司馬懿しばいが到着すると、朱然しゅぜんらは逃走した。


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壱(壱多雑)

壱多雑いつたぞう

生没年不詳。西域せいいき(東トルキスタン)にある車師後王国しゃしこうおうこく*4おう車師後部王しゃしこうぶおう

の王朝は壱多雑いつたぞう守魏侍中しゅぎじちゅうの官職を与え、大都尉だいといの称号を送り、「魏王ぎおう親魏王しんぎおう?)」の印章をさずけた。

脚注

*4シルクロード(北の新道)に点在する東且弥国とうしょびこく西且弥国せいしょびこく単桓国ぜんかんこく畢陸国ひつりくこく蒲陸国ほりくこく烏貪国うたんこくが服属し、宮廷は于頼城うらいじょうにある。


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【三国志人物伝】総索引