正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑳。廬江郡ろこうぐん王氏おうし王蕃おうはん王著おうちょ王延おうえん)です。

スポンサーリンク

系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

廬江王氏系図

廬江郡王氏系図

廬江郡ろこうぐん王氏おうし系図


この記事では廬江郡ろこうぐん王氏おうしの人物、

についてまとめています。


スポンサーリンク


お⑳(廬江王氏)

第1世代(王蕃・王著・王延)

王蕃おうはん永元えいげん

黄武こうぶ7年(228年)〜甘露かんろ2年(266年)没。揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの人。弟に王著おうちょ王延おうえん

博学で方術にも通じており、1度は尚書郎しょうしょろうとなったが官をした。

孫休そんきゅうが即位すると、賀邵がしょう薛瑩せつえい虞汜ぐしらと共に散騎中常侍さんきちゅうじょうじに任命され、みな駙馬都尉ふばといを加官された。当時の人々はこの人選を称賛し、また、使者としてしょくに行った際には、しょくの人々も彼を高く評価した。しょくから帰ると夏口かこう監軍かんぐんに任命された。


孫晧そんこう孫皓そんこう)が即位すると、再び朝廷に戻って常侍じょうじ中常侍ちゅうじょうじ)となり、万彧ばんいくと官を並べた。

万彧ばんいくは以前から孫晧そんこう孫皓そんこう)と親密であり、また俗物ぞくぶつで自分の権勢をたのんで他人を軽蔑けいべつすることが多く、「王蕃おうはんもまた自分を軽蔑けいべつしているだろう」とかんぐっていた。

また、孫晧そんこう孫皓そんこう)にへつらって気に入られていた中書丞ちゅうしょじょう陳声ちんせいが、しばしば王蕃おうはんおとしめる讒言ざんげんを行った。

それでも王蕃おうはんほこり高い気質であったので、主君の顔色をうかがって言うなりになるようなことはなく、時には主君の意向に逆らうような意見もべたので、次第に孫晧そんこう孫皓そんこう)から厳しい処遇を受けるようになった。


甘露かんろ2年(266年)、しんへ使者に立った丁忠ていちゅうが帰還すると、孫晧そんこう孫皓そんこう)は群臣たちを集めて盛んな宴会をもよおしたが、その席上、王蕃おうはんは深く酔いつぶれてしまった。

これを見た孫晧そんこう孫皓そんこう)は「王蕃おうはんは酔いつぶれた振りをしているのではないか」と疑って機嫌を悪くし、彼を退出させた。

王蕃おうはんは酒席に戻りたいと申し出たが、王蕃おうはんには身に備わった威厳があり、そのたちふるいは極めて自然に見えた。

孫晧そんこう孫皓そんこう)は「やはり自分をあざむいて酔った振りをしていたのだ」と大いに腹を立て、側近の者に大声で命じて、正殿の前庭で斬りてさせた。

衛将軍えいしょうぐん滕牧とうぼく征西将軍せいせいしょうぐん留平りゅうへいが助命をうたが、聴き入れられなかった。

享年きょうねん39歳、丞相じょうしょう陸凱りくがいは、


常侍じょうじ中常侍ちゅうじょうじ)の王蕃おうはんは、内に美質を秘めつつ物事に通暁つうぎょう(精通)し、天を知り万物を知って、朝廷にあって忠義を尽くしました。彼こそは社稷しゃしょく(国家)の重鎮であり、大いなる国にとっての関龍逢かんりょうほう*1とも言うべき人物なのでございます。

かつて景皇帝けいこうてい孫休そんきゅう)さまにお仕えし、側近にあってお言葉を取り次ぐ役目をつとめましたが、景皇帝けいこうてい孫休そんきゅう)さまはその働きをよみせられ、彼を称賛されたのでございました。

しかるに陛下[孫晧そんこう孫皓そんこう)]は彼の苦言に腹を立てられ、彼の包み隠すところのない受け答えを憎まれて、殿上において斬首に処し、死体を山野に投げてられました。

国をげてこれに心をいため、心ある者たちは悲しみいたんでおるのでございます」

上疏じょうそし、王蕃おうはん哀悼あいとうした。


また、呉書ごしょ王蕃伝おうはんでんが注に引く江表伝こうひょうでんには、


巫史みこの言葉を信じて建業けんぎょうから武昌ぶしょうへの遷都せんとの意向を固めた孫晧そんこう孫皓そんこう)が、群臣を集めて宴会をもよおした時のこと。

孫晧そんこう孫皓そんこう)は王蕃おうはんに『射の礼でまとに当たることを重視しないのは、人それぞれの能力に差があるからだと言われるが、いかなることをいみしているのであろう』とたずねた。

王蕃おうはんが質問の意味を考えてすぐには返答をしないでいると、孫晧そんこう孫皓そんこう)はその場で殿上において王蕃おうはんを斬りてた。

その後孫晧そんこう孫皓そんこう)は、宮殿を出て来山らいざんに登ると、そばづかえの者たちに命じて王蕃おうはんの首を放り投げ、虎や狼に奪い合わせたので、王蕃おうはんの頭は完全にくだけてしまった。こんな風にして人々をおそれさせ、自分に逆らったりさせまいとしたのである」


と、王蕃おうはんの死についての異説がせられている。

脚注

*1王朝の賢臣。帝桀ていけつ桀王けつおう)のみだらな行いをいさめて殺害された。


王蕃おうはん」の関連記事

王著おうちょ

生年不詳〜天紀てんき3年(279年)没。揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの人。兄に王蕃おうはん、弟に王延おうえん

王著おうちょの兄・王蕃おうはんを斬りてた孫皓そんこうは、王蕃おうはんの身内の者たちを強制移住させて広州こうしゅうの役所の監視下に置いた。

王蕃おうはんの2人の弟・王著おうちょ王延おうえんは、それぞれに立派な才能を備えていたが、天紀てんき3年(279年)夏、広州こうしゅうで反乱を起こした郭馬かくばに従わなかったために殺害された。


王著おうちょ」の関連記事

王延おうえん

生年不詳〜天紀てんき3年(279年)没。揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんの人。兄に王蕃おうはん王著おうちょ

王延おうえんの兄・王蕃おうはんを斬りてた孫皓そんこうは、王蕃おうはんの身内の者たちを強制移住させて広州こうしゅうの役所の監視下に置いた。

王蕃おうはんの2人の弟・王著おうちょ王延おうえんは、それぞれに立派な才能を備えていたが、天紀てんき3年(279年)夏、広州こうしゅうで反乱を起こした郭馬かくばに従わなかったために殺害された。


王延おうえん」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引