日本における中国の歴史の中で、最も有名な時代と言っても良い三国時代。
正史『三国志』から、その人気の原点である『三国志演義』の成立までの経緯をご紹介します。

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『三国志』とは

ひと口に「三国志」と言っても、本場中国では歴史書の『三国志』と、歴史小説である『三国志演義』は明確に区別されています。

歴史書の『三国志』と『三国志演義』

歴史書の『三国志』

中国の西晋せいしんの時代に陳寿ちんじゅあざな承祚しょうそ)が編纂した、「二十四史」の一つに数えられる中国の歴史書。

『三国志演義』

中国の後漢末期の時代から魏・呉・蜀の3国に分かれて争い、やがて晋によって統一されるまでを描いた、中国の四大奇書の1つに挙げられる長編歴史小説。

清代中期の学者である章学誠しょうがくせいは、自著『丙辰札記』の中で、『三国志演義』の構成を「七分実事、三分虚構」つまり、7割が史実で3割が演出であると評しています。

四大奇書
  • 『三国志演義』
  • 『水滸伝』
  • 『西遊記』
  • 金瓶梅きんぺいばい

ちなみに、中国では『金瓶梅』の代わりに紅楼夢こうろうむを加えたものを四大名著と呼ぶ方が一般的なようです。

日本における「三国志」

ですが、私たち日本人が「三国志」と言うと、一般に『三国志演義』のことを指します。

これには、日本において発売された『三国志演義』の翻訳本や、『三国志演義』を題材とした歴史小説、漫画、映画、ドラマなどが「三国志」と題名されていたことにより、『三国志演義』『三国志』というイメージが日本人に定着した経緯があります。

日本で歴史書の『三国志』『三国志演義』を呼び分ける場合は、歴史書の『三国志』を「正史」、『三国志演義』を「演義」と言うのが一般的になっています。



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正史『三国志』の成立

正史『三国志』の成立時期

正史『三国志』の成立時期は、西晋による中国統一後の西暦280年以降とされています。

正史『三国志』の編者

陳寿ちんじゅあざな承祚しょうそ

陳寿ちんじゅ(233年-297年)は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた人物です。

正史『三国志』は、陳寿ちんじゅが仕えた西晋が、魏の元帝から禅譲ぜんじょう*を受けて成立していることから「魏を正統」として扱っていますが、敬称の使い方などで以前に仕えていた蜀漢にも配慮されていることが分かります。

* 天子(皇帝)が、その地位を血縁者ではない徳の高い人物に譲ること。権力を持った臣下によって強制的に行われることのほうが多い。禅譲 ↔ 放伐(ほうばつ)、簒奪(さんだつ)

正史『三国志』の構成

正史『三国志』は、各人物ごとの事績を中心に歴史記述を行う紀伝体きでんたいで書かれています。

紀伝体で編纂された歴史書は、本紀(皇帝の伝記)、列伝(臣下などの伝記)、志(地理・天文・礼楽など)、表(年表)からなりますが、正史『三国志』には志と表は存在していません。

中国の歴史記述の形式には紀伝体の他に、年代の順を追って記述する編年体へんねんたい、事件の一部始終を年次順にまとめ、一貫性をもたせて記述する紀事本末体きじほんまつたいがあります。

構成

正史『三国志』は、

  • 「魏書」30巻(「本紀」4巻、「列伝」26巻)
  • 「呉書」20巻
  • 「蜀書」15巻

の全65巻で構成されています。

「魏書」にのみ皇帝の伝記である「本紀」が立てられていることから、正史『三国志』が魏を正統としていることがうかがえます。

裴松之の注

正史『三国志』は、信憑性の乏しい史料を極力排除して作成されたために、非常に簡潔な内容になっていました。そのため、南北朝時代、そう文帝ぶんてい裴松之はいしょうしに命じて正史『三国志』に注をつけました。

裴松之はいしょうしの注は、主に陳寿ちんじゅが採用しなかった異説や、詳細な事実関係の補足などを収録しています。

現存していない書物からの引用も多いため貴重な史料である反面、信憑性の乏しい逸話も数多く収録されていることから、歴史資料としての扱いには注意が必要です。

正史『三国志』の評価

『魏書』を執筆・完成させていた夏侯湛かこうたん夏侯淵かこうえん曾孫ひまご)は、陳寿の『三国志』を見て自らが執筆した『魏書』を破り捨て、それきり筆を折ってしまったという話があります。

また、王沈おうしん韋昭いしょうらによって執筆された『魏書』『呉書』が散逸してしまっていることからも、正史『三国志』が同時代に書かれた歴史書の中で最も優れていたということが分かります。

正史『三国志』『史記』『漢書』『後漢書』と並んで「二十四史」の中でも評価が高い歴史書であると言われています。


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『三国志演義』が成立するまで

西暦280年頃陳寿によって成立した正史『三国志』は、講談などを通じて民間に広まっていき、やがて羅貫中らかんちゅうによって『三国志演義』としてまとめられました。

では、正史『三国志』が現在の『三国志演義』となるまでの変遷を見てみましょう。

【南北朝時代(429年)】裴松之注(裴注)

正史『三国志』が、信憑性の乏しい史料を極力排除して作成されたために、非常に簡潔な内容になっていたため、南北朝時代(429年)、そう文帝ぶんてい裴松之はいしょうしに命じて正史『三国志』に注をつけました。これを『裴松之注』(略称:裴注)と言います。

この裴松之注は、西晋に仕える陳寿が立場上取り上げることができなかった内容や、民間で語られている逸話まで幅広く引用されており『三国志演義』には『裴松之注』を元にしたエピソードがたくさんあります。

【唐(618~907年)】俗講による広まり

俗講ぞくこうとは、寺院で難しい仏教講話を行う際に、無学な民衆にも理解できるように簡単な言葉で説明することです。

唐代に入ると、俗講の前に民衆の興味を引くために「三国時代の英雄たちの物語」が語られるようになりました。

この頃からすでに、主要な登場人物の特徴や諸葛亮しょかつりょうの神がかった活躍が語られるようになっていたと言われています。

【宋(960~1279年)】講談の人気題材に

そう代に入ると、勾欄こうらんと呼ばれる劇場で「講談」が行われるようになります。

この講談で人気の題材が「説三分せつさんぶん」と呼ばれる三国時代を題材にしたお話でした。この頃から、劉備りゅうびを善玉、曹操そうそうを悪玉とする図式が完成されていました。

この講談における各回の最後に見える、次の回に興味を持たせるための「引き」の表現は、後述する毛宗崗もうそうこう本』にも受け継がれています。

蜀漢正統論の高まり

宋の時代は、960〜1127年の中国のほぼ全土を支配した北宋と、1127年〜1279年、女真族じょしんぞく(金)の侵略によって華北かほくを奪われて遷都せんとした南宋とに分けることができます。



異民族によって華北を奪われてしまった南宋にとって、華北の回復は大きな目標です。

華北を支配した曹操そうそうに対して、漢の再興を目標に掲げて北伐を続けたしょく(蜀漢)の劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょうの姿は、当時の南宋の人たちに大きな共感を持って受け止められました。

このことは「劉備りゅうびを主人公として悪の曹操そうそうに立ち向かう」という図式が確立されていく過程で大きな影響を与えたと言えるでしょう。

【元(1271~1368年)】雑劇と『三国志平話』の成立

雑劇による容姿のイメージ化

げん代に入ると、民衆の娯楽の中心が「講談」から大衆演劇である「雑劇」へと変化します。講談の言葉による表現から、演劇という表現方法が生まれたことによって、三国時代の英雄たちの容姿が視覚的なイメージとして形作られていくことになりました。

中でも張飛ちょうひを主人公とする話の人気が高く、三国雑劇23本全108幕中、27幕が張飛ちょうひにスポットライトを当てたお話になっています。

雑劇は三国時代の史実に基づいてはいるものの、演劇としての面白さを追求するために、時代考証も正確ではなく、荒唐無稽なお話も多くなっています。
そのため、現在トレードマークとなっている関羽かんう青龍偃月刀せいりゅうえんげつとう張飛ちょうひ蛇矛だぼう呂布りょふ方天画戟ほうてんがげきは、残念ながら三国時代には存在しない武器になります。

『三国志平話』の成立

また、元代には『三国志演義』の原型といえる『三国志平話』が成立します。

『三国志平話』は、講談を文章化して挿絵をつけたもので、現存している最古のものは、1321〜1323年に刊行された至治新刊全相平話三国志しじしんかんぜんそうへいわさんごくしと言われています。


三国志平話

『至治新刊全相平話三国志』の一部


『三国志演義』の原型といえる『三国志平話』

『三国志演義』は、おおむね史実に沿った現実的な世界観の中で物語が繰り広げられます。

ですが、この『三国志平話』の段階では、妖術や超人的な能力を発揮する人物が数多く登場し、また、歴史的な出来事の時系列も前後するなど、歴史物語としては荒削りな印象を受けます。

『三国志平話』の最も特徴的なところは、物語の根底にある「冥界裁判」による因果応報の思想によって物語が進められているところです。

『三国志平話』のプロローグ「冥界裁判」
後漢の光武帝の時代、書生であった司馬仲相しばちゅうそう司馬しばが姓で、仲相ちゅうそうあざな)が冥界に連れ去られ、天帝に裁判を行うように命じられます。

天帝とは、古代中国の思想で天地・万物を支配する天上の最高神のことです。

『三国志平話』では、物語の冒頭から登場人物が冥界(あの世)へ連れ去られ、天帝が登場するという現実離れした世界観の中で始まります。

司馬仲相しばちゅうそうが任された裁判は、前漢建国の功臣でありながら誅殺された韓信かんしん彭越ほうえつ英布えいふの3人が、高祖劉邦りゅうほうとその妻の呂后りょこうを訴えた事件です。
司馬仲相しばちゅうそうは、同時代の論客であった蒯徹かいてつの証言を元に、この事件が冤罪であったという判決を下します。

韓信かんしん彭越ほうえつ英布えいふの3人は元々劉邦りゅうほうの完全な臣下ではなく、劉邦りゅうほうに協力する同盟関係のようなものでした。

劉邦りゅうほうは古参の臣下ではない3人に「王」の位を与えて味方に引き入れましたが、それは同時に自分の地位を脅かす大きな力を与えたことになります。

そのため劉邦りゅうほうは、韓信かんしん彭越ほうえつ英布えいふの3人を「反乱を企てた」として誅殺してしまったのです。

天帝はこの判決をもとに、関係者を次のように転生させることを決定しました。

韓信 → 曹操そうそう
彭越 → 劉備りゅうび
英布 → 孫権そんけん
劉邦 → 献帝けんてい
呂后 → 伏皇后ふくこうごう献帝けんていの皇后)
蒯徹 → 諸葛亮しょかつりょう
司馬仲相 → 司馬懿しばい

に転生させることを決定しました。


このように『三国志平話』の物語は、前漢建国に関わった人物たちの、因果応報の物語として語られているのです。

【明(1368~1644年)】『三国志演義』の成立

明代に入ると、いよいよ『三国志演義』が成立します。

作者の羅貫中について

現存する各種刊本には「羅貫中編」と記載されていることが多いことから、一般的に『三国志演義』の作者は羅貫中らかんちゅうとされています。

ですが、羅貫中らかんちゅうという人物の経歴はほとんど解明されておらず、複数人のペンネームであるという説もあります。

また「編」とされていることからも分かるように、『三国志演義』は、羅貫中らかんちゅうが一から書き上げた作品というよりも、『三国志平話』の物語をベースに、史書などを参照して歴史的事実を修正・補完し、より歴史小説として完成度の高い作品として完成させたものと言えるでしょう。

羅貫中らかんちゅう『三国志演義』の原本は現存していませんが、印刷技術が確立されるまで写本によって普及していきました。

『三国志演義』の系譜

嘉靖本(弘治本)

現存する『三国志演義』最古の刊本は、1522年(嘉靖かせい元年)に木版印刷された『三国志通俗演義(嘉靖本)』であると言われています。また、この嘉靖本は1494年(弘治7年)頃に成立したとされる弘治本が元になっています。

著作権という概念がなかった当時、人気となった作品は複数の書店から出版され、独自のエピソードを盛り込むことによって他と差別化することが行われました。

その際に注目されるのが、関羽かんうの息子とする架空の人物「関索かんさく」についての記述の有無、扱われ方の違いです。

関索の伝説『花関索伝かかんさくでん』とは

明代には『三国志演義』とは別に『花関索伝』という書物が存在していたことが知られています。

関羽かんうの息子とする架空の人物「関索かんさく」が大活躍する物語で、史実とはかけ離れており『西遊記』のような妖怪まで登場する奇想天外なストーリーになっています。

また、嘉靖本に関索かんさくは登場していません。

李卓吾本

嘉靖本の後、いくつかの版が出版されましたが、その中でも有名なのが『李卓吾先生批評三国志(李卓吾りたくご本)』です。

李卓吾本は、嘉靖本の2話を合わせて1話とし、嘉靖本の全240話を全120話にまとめ、批評を加えたものになっています。

毛宗崗本

毛宗崗もうそうこう本は、李卓吾本を元にして荒唐無稽な記述をなくし、より簡略化された内容になっています。

もともと劉備りゅうびを善、曹操そうそうを悪とする傾向がある『三国志演義』ですが、毛宗崗本では、なるべく史実を重視した上で、その傾向がさらに強くなっています。

1666年頃に成立した毛宗崗本は、清の末期までにたくさんの人に親しまれ、逆にその他の版は廃れてしまったため、現在では『三国志演義』と言えばこの毛宗崗本を指すようになりました。

『三国志演義』成立年表

西暦 王朝 変遷
280年頃 西晋せいしん 正史『三国志』の成立。
429年 南朝 そう 裴松之が注釈を挿入する。
618~907年 とう 寺院の仏教講話で三国物語が語られるようになる。
960~1279年 そう 講談で「説三分」と呼ばれる三国ものが流行する。
1271〜1368年 げん 雑劇の流行と『三国志平話』の成立。
1368~1644年  みん 1494年『三国志演義(弘治本)』の成立。
1522年『三国志通俗演義(嘉靖本)』の成立。
不明「李卓吾りたくご本」の成立。
1616~1912年 しん 1666年「毛宗崗もうそうこう本」の成立。


日本における「三国志演義」

『三国志演義』の日本伝来

『三国志演義』が日本に伝来した時期ははっきりしていません。

最も古い記録は、1604年までの林羅山の既読の書の目録(『羅山林先生集』付録巻一)に『三国志通俗演義』の書名を見ることができます。

おそらくその少し前の、戦国時代の大名や武将たちも『三国志演義』を呼んでいたのかもしれませんね。

『三国志演義』の翻訳

漢文で書かれた『三国志通俗演義』が始めて日本語に翻訳されるのは、1689年(元禄2年)の湖南文山による『通俗三国志』になります。

また、この『通俗三国志』は「李卓吾本」の翻訳になります。

『通俗三国志』は、中国小説の初の日本語訳であり、『通俗三国志』が大人気となると、『西漢演義伝』の翻訳本である『通俗漢楚軍談』『春秋列国志伝』の翻訳本である『通俗列国志呉越軍談』などの歴史物が相次いで出版されました。

ちなみに、現在でも有名な『水滸伝』の翻訳本である『忠義水滸伝』は1728年に、『西遊記』の翻訳本である『通俗西遊記』は1758年に出版されています。

そして1836年(天保7年)には『通俗三国志』葛飾北斎の弟子である葛飾戴斗による挿絵をつけた『絵本通俗三国志』が出版されます。


絵本通俗三国志

『絵本通俗三国志』の一部


『絵本通俗三国志』の挿絵は『完訳 三国志(全8巻)』小川環樹・金田純一郎訳(岩波文庫)で見ることができます。

現在の翻訳本

現在、文庫で入手可能な『三国志演義』の翻訳本は、次の4種類です。


  • 『完訳 三国志(全8巻)』小川環樹・金田純一郎訳(岩波文庫)
  • 『完訳 三国志(全5巻)』村上知行訳(光文社文庫)
  • 『三国志演義 改訂新版(全4巻)』立間祥介訳(徳間文庫)
  • 『三国志演義(全7巻)』井波律子訳(ちくま文庫)

となっています。

これらの翻訳本は、すべて「毛宗崗本」の翻訳になります。

日本では「李卓吾本」の方が有名?

戦後日本で最も広く親しまれた「三国志の物語」は、おそらく上記の翻訳本ではなく、吉川英治さんの小説『三国志』、または横山光輝さんの漫画『三国志』ではないでしょうか。

吉川英治さんの小説『三国志』は「李卓吾本」を翻訳した『通俗三国志』を元に執筆されています。そして、横山光輝さんの漫画『三国志』は、吉川英治さんの小説『三国志』を元に描かれています。


三国志演義の系譜

三国志演義の系譜


諸葛亮諸葛亮

ということは江戸時代から現在まで、日本人にとっては「李卓吾本」の方が馴染みが深いのかもしれませんね。