正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑫丹陽郡(たんよう)紀氏(きし)②紀瞻(きせん)です。

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凡例・関連記事

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き⑫

紀瞻

紀瞻(きせん)・思遠(しえん)

呉(ご)の孫亮(そんりょう)の建興(けんこう)2年(253年)〜東晋(とうしん)・明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))の太寧(たいねい)2年(324年)。揚州(ようしゅう)・丹陽郡(たんようぐん)・秣陵県(ばつりょうけん)の人。祖父は呉(ご)の尚書令(しょうしょれい)・紀亮(きりょう)。父は呉(ご)の光禄大夫(こうろくたいふ)・紀陟(きちょく)。子に紀景(きけい)、紀鑒(きかん)(紀鑑(きかん))。孫(紀景(きけい)の子)に紀友(きゆう)。


江南(こうなん)の名門の家柄に生まれ、東晋(とうしん)の元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))が江東(こうとう)の地において東晋(とうしん)政権を樹立するのを補佐し、その功績によって東晋(とうしん)の元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))および東晋(とうしん)の明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))から厚く信任された。

また紀瞻(きせん)は、徐州(じょしゅう)・広陵郡(こうりょうぐん)出身の閔鴻(びんこう)、揚州(ようしゅう)・呉郡(ごぐん)出身の顧栄(こえい)、揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)出身の賀循(がじゅん)、揚州(ようしゅう)・丹陽郡(たんようぐん)出身の薛兼(せつけん)と並び称されて、あわせて「五俊(ごしゅん)」と呼ばれた。

秀才の策問

紀瞻(きせん)は若い頃から、公正で真っ直ぐな人柄によって名声を得ていた。

やがて(西晋(せいしん)によって)呉(ご)が平定されると、一家は揚州(ようしゅう)・歴陽郡(れきようぐん)に移住し、孝廉(こうれん)に推挙されたが出仕しなかった。

その後、秀才(しゅうさい)に推挙された紀瞻(きせん)は、尚書郎(しょうしょろう)の陸機(りくき)から策問(さくもん)(試験のための質問)を受けた。

晋(しん)の取るべき制度について

陸機(りくき)「古(いにしえ)の夏(か)は『忠(忠義)』を重んじたが『朴(朴訥(ぼくとつ))』に陥(おちい)った。殷(いん)は『朴(朴訥(ぼくとつ))』を正して『敬(信心)』を重んじたが、今度は『鬼(迷信)』に陥(おちい)った。周(しゅう)は『鬼(迷信)』を正して『文(礼・制度)』を重んじたが『薄(不誠実)』に陥(おちい)った。そして、『薄(不誠実)』を正すために必要なのは『忠(忠義)』である。今、この『3代の制(制度)』のうち、どれに従うべきであろうか?」

紀瞻(きせん)「3代がこのように循環したのは、水が火を制するように、時代に応じて弊害(へいがい)を救った結果です。これは聖人たちの違いではなく、時代の変化によるものなのです。
今、大晋(だいしん)によって天下は統一されましたが、人々の心が(『薄(不誠実)』へと)変質してしまってから、長い年月が経(た)っています。
今は『文(礼・制度)』の過度な部分を取り除き、『樸(ぼく)(質朴)』を保(たも)って本源に立ち返るべきです。そうすれば、万民は次第に教化され、太平の世が実現できるでしょう」

明堂(めいどう)・清廟(せいびょう)・辟雍(へきよう)・太学(たいがく)について

陸機(りくき)「古(いにしえ)の哲王(てつおう)(賢明な王(おう))たちは、国を治める上で極めて重要な制度を定めた。それらは、上帝(天帝)を崇(あが)め祀(まつ)るための『明堂(めいどう)』、祖先の霊を安んじ祀(まつ)るための『清廟(せいびょう)』、礼による教化を天下に広めるための『辟雍(へきよう)』、そして学問や芸術を講じ研鑽(けんさん)するための『太学(たいがく)』であるが、秦(しん)が学問を破壊したことでこれらの制度は荒廃(こうはい)し、失われてしまった。
これについて、漢(かん)代の文献には『用途や役割が異なる』と記(しる)され、(後漢(ごかん)の)蔡邕(さいよう)はその著書(ちょしょ)『月令(げつれい)』(『月令章句(げつれいしょうく)』)の中で、これらを『同一の物である』と説(と)いている。このように諸説が入り乱れている現状において、どの説に従うべきであろうか?」

紀瞻(きせん)「周(しゅう)の制度における『明堂(めいどう)』とは、祖先を宗として上帝(天帝)と併(あわ)せて祀(まつ)り、 敬虔(けいけん)にして明らかな祭祀(さいし)を行って、孝道を永く輝かせるための施設です。
その主要な機能は6つあり、それぞれの機能の側面によって『太廟(たいびょう)』『清廟(せいびょう)』『太室(たいしつ)』『明堂(めいどう)』『太学(たいがく)』『辟雍(へきよう)』と呼び分けられているだけで、そこで行われる事柄は密接に関連しており、その実体は1つです。このことから(後漢(ごかん)の)蔡邕(さいよう)も、これらを指(さ)して『同一の物である』と述(の)べたのです」

人材登用について

陸機(りくき)「その時代にかかわらず、君主と賢人は互いを必要としているはずなのに、実際には千年もの間、その期待は常に裏切られ続けている。
古(いにしえ)の興王(こうおう)(国を興(おこ)した王者)は、どのような方法で人材を得ることができたのか。また、後(のち)の衰世(すいせい)(衰退(すいたい)した時代)には、何が欠けていたために(人材を失うという)惨状(さんじょう)を招(まね)いたのだろうか?」

紀瞻(きせん)「今、賢者を推挙する道は開かれましたが、教育と学問の務(つと)めは未(いま)だ広く行き届いておりません。そのため、功名を競って進み出ようとする志ばかりが鋭(するど)く、学問に励(はげ)もうとする心は修(おさ)まっていないのです。
もし四方の門を開いて広く人材を招(まね)き入れ、五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の5つの徳目)を宣揚(せんよう)して立派な徳を明らかにし、功績を厳格に評価して優劣を定め、彼らを百官や諸官庁の官職に配置したならば、物事は適切に整い、国家の法典も正しく運用されるようになります」

族誅(ぞくちゅう)の是非について

陸機(りくき)「暴虐(ぼうぎゃく)な秦(しん)の時代には族誅(ぞくちゅう)(罪人の一族まで処罰する刑罰)が加えられ、行き過ぎた重刑が連鎖的に広まって、残酷な刑罰が甚(はなは)だしく濫用(らんよう)されるようになったが、漢(かん)・魏(ぎ)の時代もこれを踏襲(とうしゅう)し、改めることはなかった。
とはいえ、世が安定している時と危険な時とでは同じではなく、寛大さと厳格さとの中間を取るとすれば、どのような制度を立てるのが適切であろうか。また、族誅(ぞくちゅう)の法は永く定めるべき制度たり得るのであろうか?」

紀瞻(きせん)「今や四海(天下)は統一され、人々が本来のあり方へ立ち返ろうとしています。質素・簡潔を尊(たっと)べば貪欲(どんよく)な者は争わなくなり、賢者を尊(たっと)び不適任者を退(しりぞ)ければ、不仁の者は遠ざかるようになります。
したがって、参夷(さんい)の刑(親族連座刑)を軽減し、族誅(ぞくちゅう)の律(法)を廃止するべきです。そうすれば、万物それぞれがその本来の生き方に従い、異なる時代の制度を調和させつつ、共に安定させることができるでしょう」

陰(いん)陽(よう)の不一致について

陸機(りくき)「五行(ごぎょう)は互いに交替しながら循環し、陰(いん)と陽(よう)は互いに補(おぎな)い合って存在している(陰陽五行説(いんようごぎょうせつ))。(陰(いん)と陽(よう)のどちらか)一方の気が偏(かたよ)って失われれば、万物は単独では成立することができないはずである。
ところが今、(冷たい泉に対して)『温かい泉』は存在するのに、(熱い火に対して)『冷たい火』というものが存在しないのは、いったいどういう理由によるものだろうか?」

紀瞻(きせん)「水は下に潤(うるお)い流れ、火は上に燃え上がるものであり、剛(ごう)と柔(じゅう)、乾燥(かんそう)と湿潤(しつじゅん)はいずれも自然本来の性質です。
陽(よう)は動いて外へ向かい、陰(いん)は静まって内に向かいます。内にあるものの性質は柔弱(じゅうじゃく)で、包(つつ)み込み受け入れることを本質としており、外に働くものは剛直(ごうちょく)で、外界に接して作用することを本質としています。
水が温かさを受け入れることができるのも、包(つつ)み込み受け入れることを本来の性質としているからなのです」

聖人の道の衰退(すいたい)について

陸機(りくき)「伏羲(ふくぎ)・黄帝(こうてい)の時代の理想的な政治の規範を踏襲(とうしゅう)することができれば、玄古(げんこ)(太古)の純朴な風俗を再び継承することも可能である。しかしながら時代が下るにつれて、帝王の定めた簡明な法さえも次第に複雑化して、過ぎ去ってしまった素朴で純粋な徳は、もはや元に戻ることはなくなってしまった。
太樸(たいぼく)(太古の純朴な本来のあり方)がひとたび失われてしまうと、もはや正しい道理は再び立て直すことはできないのだろうか。やはり時代が下るにつれて、聖人の道は次第に衰(おとろ)えていくものなのだろうか?」

紀瞻(きせん)「政治とは時代に応じて行われるものであり、その施策も時代に応じて変化するものです。すべての制度の廃止や制定には理由があり、刑罰の軽重も節度に応じて定められた結果なのです。
法や制度の複雑化は、変化の法則を理解した結果であり、その時代に適応したものであって、決して時代が下るにつれて衰(おとろ)えたわけではありません」

陸機(りくき)の策問(さくもん)と紀瞻(きせん)の返答・全文
タップ(クリック)すると開きます。

晋(しん)の取るべき制度について

陸機(りくき)「昔の3代(夏(か)・殷(いん)・周(しゅう))の明王は大いなる事業を創始した。その制度の性格(文と質)は互いに異なってはいるものの、その立てた名声は一致して立派なものであった。

夏(か)の人々は『忠(忠義)』を重んじたが、『忠(忠義)』が行き過ぎれば『朴(朴訥(ぼくとつ))』に流れてしまう。その『朴(朴訥(ぼくとつ))』を正すには、『敬(信心)』をもってするのが最もよい。

そこで殷(いん)の人々は、それを改めて『敬(信心)』を整えたが、『敬(信心)』が行き過ぎれば『鬼(迷信)』への偏重(へんちょう)に陥(おちい)る。その『鬼(迷信)』への偏(かたよ)りを正すには、『文(礼・制度)』によるのが最もよい。

そこで周(しゅう)の人々は、さらにこれを矯正(きょうせい)して変革したが、『文(礼・制度)』が行き過ぎれば『薄(不誠実)』になってしまう。そしてその『薄(不誠実)』を正すには、再び『忠(忠義)』へと立ち返るのである。

王道というものは、このように反覆(はんぷく)して一定しないものなのだろうか。それとも拠(よ)りどころとした原理が異なるために、その功業もそれぞれ異なったのであろうか。

聖王がいなくなって以降、人々の心は長いあいだ離散(りさん)したままである。3代における制度の増減や、民の変遷(へんせん)について、その理由を聞くことはできるであろうか。

今、古(いにしえ)に立ち返ってその弊害(へいがい)を救い、良い風俗を明らかにしてその悪習を洗い清めようとするならば、三代の制度のうち、どれに従うべきであろうか。また、太古の教化には、どのような異なる道があったのであろうか」


紀瞻(きせん)「瞻(わたし)の聞くところでは『国家を治める者は皆、教化を進めて政治を盛んにし、業績を安定させて、その名声を永く後世に伝えようと望む』ものです。

ですが、世俗は変化し制度には弊害(へいがい)が生じるため、時代に応じて変えなければなりません。これは聖人の治世であっても例外ではありません。ゆえに、忠が行き過ぎれば素朴で粗野となり、敬が行き過ぎれば儀礼が過剰(かじょう)になります。

周(しゅう)は夏(か)・殷(いん)の2王(おう)の弊害(へいがい)を教訓として礼文を重んじ身分秩序を明確にしましたが、形式を重視することで誠意を失いました。誠意が薄(うす)れれば再び忠へ立ち返ることになります。

三代がこのように循環したのは、水が火を制するように、時代に応じて弊害(へいがい)を救うための方法だったのです。

伏羲(ふくぎ)の時代は簡素で飾り気がなく、何ら作為を加えなくとも自然に民が感化されて治まっていました。後(のち)の聖人たちは、時代に応じて異なる課題に取り組みましたが、これは聖人たちの違いではなく、時代の変化によるものです。

今や大晋(だいしん)は天の理(ことわり)を明らかにし、その聖なる功績は日に日に高まっています。天意を承(う)け、時の流れに従って、九有(天下)は統一され、辺境の地の君主たちも皆、帰順して集まってきていますが、(伏羲(ふくぎ)の時代のような)古(いにしえ)の大道はすでに遠ざかり、人々の心が変わってしまってから、長い年月が経(た)ってしまいました。

したがって、現在の政治は礼文の過度な部分を取り除き、質朴さを保(たも)って本源に立ち返るべきです。そうすれば、万民は次第に教化され、太平の世が実現できるでしょう」


明堂(めいどう)・清廟(せいびょう)・辟雍(へきよう)について

陸機(りくき)「かつて、哲王(てつおう)(古代の賢明なる王(おう))たちは、万物の秩序を明らかにして しかるべき形を整え、諸制度を確立した。

すなわち、上帝(天帝)を崇(あが)め祀(まつ)るための『明堂(めいどう)』、祖先の霊を安んじ祀(まつ)るための『清廟(せいびょう)』、礼による教化を天下に広めるための『辟雍(へきよう)』、そして学問や芸術を講じ研鑽(けんさん)するための『太学(たいがく)』である。

これらはいずれも国家にとっての重要な制度であり、国家統治の大きな根幹であったが、秦(しん)が学問を破壊したことでこれらの制度は荒廃(こうはい)し、失われてしまった。

その後の儒学者(じゅがくしゃ)たちの議論では、それぞれ制度の取捨や解釈が異なり、漢(かん)代に残された文献を見ても、それらは『異事(用途や役割が異なる)』と記(しる)されている。一方で(後漢(ごかん)の)蔡邕(さいよう)は、その著書(ちょしょ)『月令(げつれい)』(『月令章句(げつれいしょうく)』)において、これらを『同一の物である』と説(と)いており、諸説が入り乱れている。どの説に従うべきであろうか?」


紀瞻(きせん)「周(しゅう)の制度における『明堂(めいどう)』とは、祖先を宗として上帝(天帝)と併(あわ)せて祀(まつ)り、 敬虔(けいけん)にして明らかな祭祀(さいし)を行って、孝道を永く輝かせるための施設です。

その主要な機能は6つあり、古(いにしえ)の聖帝・明王が南面して政務を行う時、その6つの機能はいずれも『明堂(めいどう)』を中心として行われました。

また、その建物の中央はすべて『太廟(たいびょう)』と呼ばれます。ここでは天の時に順応し、法令を施行し、先祖を祀(まつ)って老人を養(やしな)い、学問を講義し、諸侯(しょこう)を朝見させて優秀な人材を選抜し、礼を整え物事を選別しますが、これらはすべて、教化の拠(よ)り所となるものです。

ゆえに、先祖を祀(まつ)るという側面を見れば『清廟(せいびょう)』と呼び、正室(本殿)としての外観を見れば『太廟(たいびょう)』と呼び、その部屋自体を見れば『太室(たいしつ)』と呼び、堂(広間)を取れば『明堂(めいどう)』と呼び、四方の門にある学舎としての側面を取れば『太学(たいがく)』と呼び、周囲をめぐる水が璧(へき)のように丸いことを取れば『辟雍(へきよう)』と呼びます。

これらは名前こそ異なりますが、行われる事柄は密接に関連しており、その実体は1つなのです。このことから(後漢(ごかん)の)蔡邕(さいよう)も、これらを指(さ)して『同一の物である』と述(の)べたのです」


人材登用について

陸機(りくき)「陶唐氏(とうとうし)(堯(ぎょう))の時代は賢明な人材が才能を発揮したため、世の中は和(やわ)らぎ睦(むつ)まじいものであった。また、周(しゅう)に天命が下ると多くの優(すぐ)れた人材が(周(しゅう)を)隆盛(りゅうせい)させた。

ゆえに『尚書(しょうしょ)』には(賢君と忠臣が互いを称(たた)え合う)『明良(めいりょう)の歌』が記(しる)され、『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)では(心を同じくする者同士の)『金蘭(きんらん)の美(固い絆(きずな))』が尊(とうと)ばれている。

これこそが、長い歴史において国家が興廃(こうはい)する理由であり、国を持つ者が尊(とうと)ばれるか廃(すた)れるかの分岐点でもある。ゆえに成功を収(おさ)める君主は人材を求めることに勤(つと)め、名を成そうとする士(賢人)は、世に用(もち)いられる機会を求めて急ぐのである。

その時代にかかわらず、君主と賢人は互いを必要としているはずなのに、実際には千年もの間、その期待は常に裏切られ続けている。

古(いにしえ)の興王(こうおう)(国を興(おこ)した王者)は、どのような方法で人材を得ることができたのか。また、後(のち)の衰世(すいせい)(衰退(すいたい)した時代)には、何が欠けていたために(人材を失うという)惨状(さんじょう)を招(まね)いたのだろうか?」


紀瞻(きせん)「国家を興隆させるために務(つと)めるべきは賢者を得ることであり、清らかで安定した教化をするために急がれるのは、才能ある者を抜擢(ばってき)することです。ゆえに二八*1を登用すれば政務は安定し、10人の有乱(治臣)がいれば、天下は安泰となります。

かつて殷(いん)の武丁(ぶてい)は傅岩(ふがん)(傅険(ふけん))で版築(はんちく)(土を突き固める土木工事)に従事していた説(えつ)(傅説(ふえつ))を抜擢(ばってき)し、周(しゅう)の文王(ぶんおう)は、渭水(いすい)のほとりで釣りをしていた呂尚(りょしょう)(太公望(たいこうぼう))を連れ帰りました。彼らを上位の官職につけて国政を委(ゆだ)ねたからこそ、(殷(いん)と周(しゅう)は)龍が天に昇るがごとく勢いづき、百代の後(のち)まで勲功を伝えることができたのです。

先王たちは、自(みずか)ら質素な家に足を運び、埋(う)もれた賢才を捜し求めました。その結果、山には『扶蘇(ふそ)*2の才』(を持つ賢者は登用されて)いなくなり、野では(賢者が不遇を嘆(なげ)く)『詩経(しきょう)』魏風(ぎふう)・伐檀(ばつだん)のような詩が詠(よ)まれることもなくなりました。

こうして徳化が厚くなれば、万物もそれに感応して天地の神々が応じ、鳳凰(ほうおう)が舞い飛び、甘露(かんろ)が豊かに降り、醴泉(れいせん)(甘い水の湧(わ)く泉)が噴(ふ)き出し、瑞祥(ずいしょう)である朱草(しゅそう)が自生するようになり、万物が茂り、太陽も月もいっそう輝き、和(なご)やかな気が天下に満ちて、大道が完成します。

そして、君臣の義を整え、父子の親愛を厚くし、夫婦の道を明らかにし、長幼の序をわきまえさせれば、九州(中国全土)から八荒(はっこう)(世界の果て)、海外の国々までもが心を寄せ、幾度(いくど)も通訳を重ねて貢ぎ物を持って入朝するようになり、称(たた)える声は美しく響き渡って、『垂拱(すいきょう)の治*3』が実現されるのです。

今、賢者を推挙する道は開かれましたが、教育と学問の務(つと)めは未(いま)だ広く行き届いておりません。そのため、功名を競って進み出ようとする志ばかりが鋭(するど)く、学問に励(はげ)もうとする心は修(おさ)まっていないのです。

もし四方の門を開いて広く人材を招(まね)き入れ、五教*4を宣揚(せんよう)して立派な徳を明らかにし、功績を厳格に評価して優劣を定め、彼らを百官や諸官庁の官職に配置したならば、物事は適切に整い、国家の法典も正しく運用されるようになります。

そうなれば、必ずや国家の安寧を助けることができ、過去の盛世と合致して明君と良臣が互いに応じ合い、『金蘭(きんらん)の美(固い絆(きずな))』が再び蘇(よみがえ)ることになるでしょう」

脚注

*1古代中国の伝説に登場する16人の賢才。堯(ぎょう)に仕えた「八元(はちげん)」と舜(しゅん)に仕えた「八凱(はちがい)」を合わせて八元八凱(はちげんはちがい)(二八)と言い、優(すぐ)れた才徳を持つ賢臣の総称として用(もち)いられる。

*2秦(しん)の始皇帝(しこうてい)(嬴政(えいせい))の長子。始皇帝(しこうてい)(嬴政(えいせい))が巡幸(じゅんこう)中に亡くなると、弟の胡亥(こがい)を立てようとする趙高(ちょうこう)の陰謀によって自害した。

*3天子(てんし)の徳により民衆が感化されて、天子(てんし)が何かをすることなく天下が平穏に治まること。 「垂拱」は袖を垂れて手をこまねくという意味から、何もしないこと。

*4「父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝」の5つの徳目。儒教(じゅきょう)における家族倫理。


族誅(ぞくちゅう)の是非について

陸機(りくき)「昔、唐(とう)(堯(ぎょう))・虞(ぐ)(舜(しゅん))の時代には五刑の教えが示され、また周公(しゅうこう)は四罪(しざい)の制度を明確に定めた。ゆえに世の人々は公平な裁判を称賛し、当時の光り輝くような治世を歌ったのである。

ところがその後、姦悪(かんあく)な者どもが増えるにつれて法制度や刑罰の規定も次第に増加し、後世になると、三辟(さんへき)(重刑)に関する条文が重んじられるようになった。

暴虐(ぼうぎゃく)な秦(しん)の時代には族誅(ぞくちゅう)(罪人の一族まで処罰する刑罰)が加えられ、行き過ぎた重刑が連鎖的に広まって、残酷な刑罰が甚(はなは)だしく濫用(らんよう)されるようになったが、漢(かん)・魏(ぎ)の時代もこれを踏襲(とうしゅう)し、改めることはなかった。

とはいえ、世が安定している時と危険な時とでは同じではなく、世を救う方法も状況に応じて異なるのだから、やむを得ず用(もち)いられてきたのである。

では、寛大さと厳格さとの中間を取るとすれば、どのような制度を立てるのが適切であろうか。また、族誅(ぞくちゅう)の法は永く定めるべき制度たり得るのであろうか?」


紀瞻(きせん)「二儀(天地)が分かれて万民が生まれ、万民が生まれると、そこに利害が生じました。利害が生じるのには、それなりの理由があるのです。

太古の時代には、人々は道徳によって教化され、勇力は軽んじられ、仁義が貴(とうと)ばれていました。仁義が貴(とうと)ばれていたため強者が弱者を侵(おか)すことはなく、多数が少数を虐(しいた)げることもありませんでした。

三皇(さんこう)の時代には、結繩(けつじょう)*5による記録(文字以前の統治)だけで天下は安定していましたが、これは単に、明確な刑罰制度が整っていたというだけではありません。

そもそも太古の人々が法を知っていたのは、獄(刑罰)を遠ざけるためでした。ですが、時代が下って罪の取り締まりが強化されると、訴訟や刑罰はますます多くなりました。すると、人々はますます荒々しくなり、法令はますます増えて、盗賊も多く現れるようになったのです。

『尚書(しょうしょ)』に『謹(つつし)んで五刑(ごけい)を用(もち)い、3つの徳を成就(じょうじゅ)させよ』とあります。

後世になって世の道が衰(おとろ)えると、三辟(さんへき)(重罪に対する3種の極刑)が行われるようになり、さらに(春秋(しゅんじゅう)時代の秦(しん)の)文公(ぶんこう)の時代の弊害(へいがい)として、族誅(ぞくちゅう)(親族まで連座して処罰する刑)が加えられました。行き過ぎた刑罰が広く行われ、天地の調和の気を傷つけ、その影響は後の世代まで汚染し、改めることができなくなってしまったのです。

ゆえに漢(かん)の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))が号令すると天下は呼応して従い、魏(ぎ)もまた漢(かん)末の制度を受け継ぎ改めなかったのは、風俗の変化には長い時間がかかるためであり、その時々の事情に応じたやむを得ない措置(そち)だったのです。

今や四海(天下)は統一され、人々が本来のあり方へ立ち返ろうとしています。質素・簡潔を尊(たっと)べば貪欲(どんよく)な者は争わなくなり、賢者を尊(たっと)び不適任者を退(しりぞ)ければ、不仁の者は遠ざかるようになります。

したがって、参夷(さんい)の刑(親族連座刑)を軽減し、族誅(ぞくちゅう)の律(法)を廃止するべきです。そうすれば、万物それぞれがその本来の生き方に従い、異なる時代の制度を調和させつつ、共に安定させることができるでしょう」

脚注

*5昔は文字がなく、盟約や約束ごとがある場合には、その事柄が重大であれば縄を大きく結び、その事柄が小さければ縄を小さく結んだ。そして結び目の数の多少は、関係する物事や人数の多寡(たか)に応じて決められていた。


陰(いん)陽(よう)の不一致について

陸機(りくき)「五行(ごぎょう)は互いに交替しながら循環し、陰(いん)と陽(よう)は互いに補(おぎな)い合って存在している(陰陽五行説(いんようごぎょうせつ))。二儀(天地=陰(いん)陽(よう))は万物を育て生み出す根本であり、また四季がめぐることによって変化・生成してゆく。

『易経(えききょう)』繋辞上伝(けいじじょうでん)に『天にあっては象(かたち)(現象)を成し、地にあっては形(かたち)(実体)を成す』とある。

これは、天と地における『象(かたち)』と『形(かたち)』の成立は、互いに助け合って成り立っているということを言っており、もし陰(いん)と陽(よう)の調和が失われれば、天地の大きな運行の法則そのものがうまく働かなくなるということだ。

(陰(いん)と陽(よう)のどちらか)一方の気が偏(かたよ)って失われれば、万物は単独では成立することができない。これは、(陰(いん)陽(よう)が)互いに対応し合っている証拠であり、偏(かたよ)りなく成り立っていることの証拠でもある。

ところが今、(冷たい泉に対して)『温かい泉』は存在するのに、(熱い火に対して)『冷たい火』というものが存在しないのは、いったいどういう理由によるものだろうか。

この、『同じように対応しているはずなのに一致しない理由』を聞かせてほしい」


紀瞻(きせん)「『陰(いん)と陽(よう)は上昇と下降という働きをもち、また山と沢とは気を通じ合わせる関係にある』と聞いています。

『易経(えききょう)』乾卦(けんけ)の初九(しょく)は純陽(じゅんよう)の卦(け)であり、『潜龍(せんりゅう)は用(もち)いるべきではない。(陽の気がまだ下にあるのだから)』とあります。(地下に潜(ひそ)む龍とは、)泉の源(みなもと)がそこに依拠(いきょ)していることを意味しており、その水が温かいのは当然のことなのです。

さてそもそも、水は下に潤(うるお)い流れ、火は上に燃え上がるものであり、剛(ごう)と柔(じゅう)、乾燥(かんそう)と湿潤(しつじゅん)はいずれも自然本来の性質です。したがって、陽(よう)は動いて外へ向かい、陰(いん)は静まって内に向かうのです。

内にあるものの性質は柔弱(じゅうじゃく)で、包(つつ)み込み受け入れることを本質としており、外に働くものは剛直(ごうちょく)で、外界に接して作用することを本質としています。そのため、金や水はその内に(包(つつ)み込んで鏡のように)映(うつ)し、火や太陽の光は外に輝(かがや)いて外界を照(て)らすのです。

つまり、剛(ごう)は働きかける側となり、柔(じゅう)は受け入れる側となり、陽(よう)が勝れば陰(いん)は隠れることになります。

水が温かさを受け入れることができるのも、包(つつ)み込み受け入れることを本来の性質としているからなのです」


聖人の道の衰退(すいたい)について

陸機(りくき)「神妙(万物の根源的原理)を究(きわ)め、その変化法則を理解することこそが、人の才能の極致(きょくち)であり、万物を備(そな)え整(ととの)え、それらを十分に活用することこそが、功績の到達し得(う)る最高の境地である。

これらの道理をもって政治を行うならば、伏羲(ふくぎ)・黄帝(こうてい)の時代の理想的な政治の規範を踏襲(とうしゅう)することができ、また、この道理によって乱れた世を改革するならば、玄古(げんこ)(太古)の純朴な風俗を再び継承することも可能である。

しかしながら、唐(とう)(堯(ぎょう))・虞(ぐ)(舜(しゅん))の時代には、皇人(こうじん)(太古の聖王たち)の大らかな統治の大綱をいっそう細かく整備し、さらに夏(か)・殷(いん)の時代になると、帝王の定めた簡明な法さえも次第に複雑化して、過ぎ去ってしまった素朴で純粋な徳は、もはや元に戻ることはなくなってしまった。

太樸(たいぼく)(太古の純朴な本来のあり方)がひとたび失われてしまうと、もはや正しい道理は再び立て直すことはできないのだろうか。やはり時代が下るにつれて、聖人の道は次第に衰(おとろ)えていくものなのだろうか」


紀瞻(きせん)「政治とは時代に応じて行われるものであり、その施策も時代に応じて変化するものです。

ゆえに聖王は、窮通(きゅうつう)の源(みなもと)(物事がうまく通じるか行き詰(づ)まるかの根源)を究(きわ)め、始まりから終わりまでの道理をよく見極(みきわ)めて、その時代に最もふさわしい方法を選んで、世を救済することを目的としました。

太古の聖王の時代には、人々は素朴で災難や争乱は起こらず、結繩(けつじょう)*5による記録(文字以前の統治)だけで守るべきことを理解していました。

ところが、大道(根本の正しい道)が失われてからは、人為的な知恵が、かえって世の中を乱すようになったため、治世と乱世では同じ方法では治めることができず、政治のあり方もそれぞれ異なるものとなったのです。

そのため、唐(とう)(堯(ぎょう))・虞(ぐ)(舜(しゅん))の時代には、統治の基本原則を緻密(ちみつ)に整備し、夏(か)・殷(いん)の時代には、帝王の法制度をさらに詳しく作り上げました。すべての制度の廃止や制定には理由があり、刑罰の軽重も節度に応じて定められた結果なのです。

これは神の道(神妙な道理)を究(きわ)め、変化の法則を理解した結果であり、その時代に適応したものであって、決して時代が下るにつれて衰(おとろ)えたわけではありません」

脚注

*5昔は文字がなく、盟約や約束ごとがある場合には、その事柄が重大であれば縄を大きく結び、その事柄が小さければ縄を小さく結んだ。そして結び目の数の多少は、関係する物事や人数の多寡(たか)に応じて決められていた。

晋に出仕する

西晋(せいしん)の恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の永康(えいこう)元年(300年)、州に対して「家柄が貧(まず)しく清廉(せいれん)な人物(寒素(かんそ)の士)」を推挙するよう詔(みことのり)が下されると、紀瞻(きせん)はその推挙を受ける人物として選ばれた。

西晋(せいしん)の恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の永寧(えいねい)元年(301年)、大司馬(だいしば)であった司馬冏(しばけい)から東閣祭酒(とうかくさいしゅ)に辟召(へきしょう)(招聘(しょうへい))された。また、その年のうちに、鄢陵公国(えんりょうこうこく)の相(しょう)に任命されたが赴任せず、翌年、左遷(させん)されて松滋侯国(しょうじこうこく)の相(しょう)に任命された。

西晋(せいしん)の恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の太安(たいあん)2年(303年)、紀瞻(きせん)は官職を捨てて帰郷した。


当時は西晋(せいしん)において皇族(司馬氏(しばし))同士が皇位と実権を争って、連続的な政変と内戦を繰り返した「八王の乱(291年〜306年)」の只中(ただなか)であった。

顧栄らと共に陳敏を討つ

西晋(せいしん)の恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の永興(えいこう)元年(305年)、右将軍(ゆうしょうぐん)・前鋒都督(ぜんぽうととく)であった陳敏(ちんびん)が歴陽(れきよう)で反乱を起こして独立しようとした。

陳敏(ちんびん)は礼物や官職を与えて江東(こうとう)の豪族・名士を懐柔(かいじゅう)し、自分の勢力に取り込もうとしたが、陳敏(ちんびん)の政治や刑罰の運用にはまったく規律がなく、またその子弟たちは凶暴で、行く先々で問題を起こしていた。

西晋(せいしん)の懐帝(かいてい)(司馬熾(しばし))の永嘉(えいか)元年(307年)、廬江内史(ろこうないし)の華譚(かたん)が、陳敏(ちんびん)から官職を受けていた(呉(ご)の丞相(じょうしょう)・顧雍(こよう)の孫、)顧栄(こえい)らに書簡を送って非難すると、もとより陳敏(ちんびん)を討(う)ちたいと考えていた顧栄(こえい)・周玘(しゅうき)らは大いに恥じ入り、密(ひそ)かに使者を送って征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)・劉準(りゅうじゅん)に報告し、軍を発して長江(ちょうこう)のほとりに進出するように要請した。

顧栄(こえい)らの要請を受けた劉準(りゅうじゅん)は、揚州刺史(ようしゅうしし)・劉機(りゅうき)らを派遣して歴陽(れきよう)から出撃させ、陳敏(ちんびん)の討伐に向かわせた。


一方、顧栄(こえい)の説得を受けて陳敏(ちんびん)の下(もと)を離れた甘卓(かんたく)は、橋を断ち切り船を南岸に集めて、顧栄(こえい)・周玘(しゅうき)・紀瞻(きせん)らと共に陳敏(ちんびん)を攻撃した。

陳敏(ちんびん)は自(みずか)ら1万余の兵を率(ひき)いてこれを討(う)とうとしたが、陳敏(ちんびん)の兵たちは江東(こうとう)の名士である甘卓(かんたく)・顧栄(こえい)・周玘(しゅうき)・紀瞻(きせん)らを相手に戦うことに戸惑(とまど)っていた。そこへ顧栄(こえい)が白羽扇(びゃくうせん)を振って合図をすると、兵はみな崩(くず)れて逃げ去り、捕(と)えられた陳敏(ちんびん)は建業(けんぎょう)に送られて、三族にわたって誅殺(ちゅうさつ)された。

太極について議論する

戦いが終わると、紀瞻(きせん)は召(め)されて尚書郎(しょうしょろう)に任命され、同じく召(め)された顧栄(こえい)と共に洛陽(らくよう)へ赴(おもむ)いたが、その道中で2人は『易経(えききょう)』の「太極(たいきょく)」について議論した。

「太極(たいきょく)」についての議論・全文
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顧栄(こえい)「太極(たいきょく)とは『混沌の時代』のことを言い、まだ天地が分かれず、万物が曖昧(あいまい)で区別されていなかった状態を指(さ)す。そこでは日月の光も内に含まれ、八卦(はっけ)の神妙な理(ことわり)もまだ表に現れておらず、天地は混(ま)ざり合って一体となり、聖人の存在もまだその内に潜(ひそ)んでいた。

やがてそこから広く開けて変化が起こり、清いものと濁(にご)ったものが分かれ、二儀(天地)が姿を現し、陰(いん)陽(よう)が交(まじ)わって調和し、万物が初めて芽生(めば)えて、六合(りくごう)(天地と東西南北:宇宙全体)が開かれていったのである。

『老子(ろうし)』第25章に『なにやら混(ま)じり合った物があって、それは天地より先に生まれ出た』とあるが、これこそまさに『易経(えききょう)』にいう太極(たいきょく)のことである。

また、王氏(おうし)(王弼(おうひつ))は『太極(たいきょく)とは天地である』と言うが、愚(わたし)は適当ではないと思う。そもそも両儀(二儀)とは、形あるものとして見れば天地であり、気の側から見れば陰(いん)陽(よう)である。もし今、太極(たいきょく)を天地そのものだとするならば、それは天地が自(みずか)ら生じたことになり、天地を生じさせる根源がなくなってしまうのだ。

『老子(ろうし)』に『天地が長く存在できるのは、自分自身のために生きていないからである』(第7章)とあり、『一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず』(第42章)とあるが、これは、万物の始まりにおいて、沖気(ちゅうき)*6が陰(いん)陽(よう)の2つの気を和合させているという道理を述(の)べている。

万物の根源である『元気』の正体を探り、天地の根本を求めるならば、おそらくこの(『老子(ろうし)』の)教えを基準とするのが妥当(だとう)ではないか」


紀瞻(きせん)「昔、皰犧(ほうぎ)(伏羲(ふくぎ))が八卦(はっけ)を描(えが)いたが、陰(いん)陽(よう)の理(ことわり)は(その中に表現され)尽くされていた。

その後、周(しゅう)の文王(ぶんおう)と仲尼(ちゅうじ)(孔子(こうし))がその遺業を継ぎ、この3代の聖人たちは相互に受け継ぎ合ったが、その理解は完全に一致しており、『易経(えききょう)』は天の法則に準拠する書であって、それ以上に付け加えるべきものはもはや存在しない。

そもそも、天は清らかに澄み渡り、地は平らかに広がり、陰(いん)と陽(よう)の2つの気(両儀)が調和して交(まじ)わり、四季は絶え間なく移り変わり、日と月はその狭間(はざま)で光り輝いている。

こうした自然界に備(そな)わる数理(法則)は、たとえ多くの聖人たちが究明に努(つと)めてきたといえども、いったい誰がその根源的な始まりを知ることができるだろうか(いや、誰も知ることはできない)。

吾子(あなた)は『万物にはまだ混沌として分かれていない状態があった』と言うが、果たしてそのようなことがあるのだろうか。聖人といえども人である。どうしてそのような混沌の初めに、その身をそこに潜(ひそ)ませて知ることができるのか。

老氏(ろうし)(老子(ろうし))が言うところの『天地に先立つものがある』という言葉は、荒唐無稽(こうとうむけい)な説であって、『易経(えききょう)』を修(おさ)める者が意図(いと)するところではない。吾子(あなた)ほどの深い洞察力を持ち、真理を体得されている方であれば、疑いようのないことであろう。

(私が)思うに、『太極(たいきょく)』とは究極(きゅうきょく)の極致(きょくち)を指(さ)す呼称であり、『その理(ことわり)が極(きわ)まり、もはやその外側に形が存在しない状態』を言うのであって、形あるものの外側が極(きわ)まり尽くしたところから、両儀(天地)が生じたのである。王氏(おうし)(王弼(おうひつ))が指(さ)し示した方向性は、これに近いと言ってよい。

古人が『至極(しごく)』(太極(たいきょく))という語を持ち出したのは、『二儀(天と地)はここから生じたのだ』と言うためであって、決して(太極(たいきょく)に)『父や母となる存在がある』と言ったのではない。もしどうしても(万物の生成に)父母となる存在があると言うのであれば、それは天地の他に何があるというのだろうか」


顧栄(こえい)はここで議論をやめた。

脚注

*6虚(きょ)にして偏(かたよ)らず、万物を調和させる中和の気。

官を捨てて揚州へ引き返す

紀瞻(きせん)らが徐州(じょしゅう)に到着した時のこと。「北方の戦乱が日増しに激しくなっている」と聞いた紀瞻(きせん)らは、このまま洛陽(らくよう)へ進むべきかを迷い、先へ進まず様子をうかがっていた。

ちょうどこの時、徐州刺史(じょしゅうしし)の裴盾(はいじゅん)が東海王(とうかいおう)越(えつ)(司馬越(しばえつ))から、

「もし顧栄(こえい)らが進退を決めかねて逡巡(しゅんじゅん)しているようなら、軍礼をもって彼らを(洛陽(らくよう)へ)送り出せ」

との書簡を受け取った。

この知らせを聞いた紀瞻(きせん)らは、顧栄(こえい)や陸玩(りくげん)らと共に乗っていた船を離れ、車や牛を捨てて軽装となると、昼夜を問(と)わず1日で3百里(約129km)を進み、ようやく揚州(ようしゅう)へと帰り着くことができた。

琅邪王・司馬睿に仕える

琅邪王(ろうやおう)・司馬睿(しばえい)(後(のち)の東晋(とうしん)の元帝(げんてい))が安東将軍(あんとうしょうぐん)となって建業(けんぎょう)へ移鎮(いちん)すると、紀瞻(きせん)を招(まね)いて軍諮祭酒(ぐんしさいしゅ)に任命した。

西晋(せいしん)の懐帝(かいてい)(司馬熾(しばし))の永嘉(えいか)5年(311年)、司馬睿(しばえい)が鎮東大将軍(ちんとうだいしょうぐん)に進むと、紀瞻(きせん)はさらに鎮東長史(ちんとうちょうし)に転任された。

当時、司馬睿(しばえい)は自(みずか)ら紀瞻(きせん)の家を訪(おとず)れ、さらに紀瞻(きせん)と同じ車に乗って共に帰るなど、たいへん親しく遇(ぐう)し、厚く信任していた。

同年、司馬睿(しばえい)は相次いで揚州都督(ようしゅうととく)の周馥(しゅうふく)および江州刺史(こうしゅうしし)の華軼(かいつ)を討伐し、これを滅ぼした。紀瞻(きせん)はこれら2つの戦役における功績を改めて評価され、都郷侯(ときょうこう)に封ぜられた。

石勒の南侵を防ぐ

西晋(せいしん)の懐帝(かいてい)(司馬熾(しばし))の永嘉(えいか)6年(312年)、石勒(せきろく)*7が建業(けんぎょう)を攻撃しようと企(くわだ)てると、司馬睿(しばえい)は江東(こうとう)の兵力を寿春(じゅしゅん)に集結させ、紀瞻(きせん)に揚威将軍(よういしょうぐん)を加え、さらに京口(けいこう)の南から蕪湖(ぶこ)に至る一帯の諸軍事を統括する都督(ととく)とし、石勒(せきろく)の南侵を防がせた。

同年、石勒(せきろく)が撤退すると、紀瞻(きせん)は会稽内史(かいけいないし)に任命された。

その在任中、ある者が偽(いつわ)って大将軍府(だいしょうぐんふ)の符(ふ)(命令の証(あかし))を作り、諸曁県令(しょきけんれい)を捕らえさせるという事件が起きた。不正に気づいた紀瞻(きせん)は直(ただ)ちに牢(ろう)を破って県令(けんれい)を救い出し、さらに使者を取り調べたところ、やはりそれは詐欺(さぎ)であることが明らかになった。

西晋(せいしん)の愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))の建興(けんこう)3年(315年)、司馬睿(しばえい)が丞相(じょうしょう)に進むと、紀瞻(きせん)は丞相軍諮祭酒(じょうしょうぐんしさいしゅ)に任命され、さらに「陳敏(ちんびん)を討(う)ち平らげた功績」によって臨湘県侯(りんしょうけんこう)に追封された。

また、西台(せいだい)[長安(ちょうあん)の愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))]が紀瞻(きせん)を侍中(じちゅう)に任命したが、赴任しなかった。

脚注

*7河北(かほく)を拠点とする羯(けつ)族出身の軍事指導者。形式上は劉淵(りゅうえん)・劉聡(りゅうそう)らが建国した漢(かん)(前趙(ぜんちょう))政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北(かほく)一帯を支配する半独立勢力であった。後(のち)に自立して後趙(こうちょう)を建国し、皇帝に即位する。

司馬睿に帝位を勧める

西晋(せいしん)の愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))の建興(けんこう)4年(316年)、漢(かん)(前趙(ぜんちょう))によって長安(ちょうあん)が陥落(かんらく)され、愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))は捕らえられた。

東晋(とうしん)の建武(けんぶ)2年(318年)、愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))が殺害されたという知らせが建康(けんこう)に伝わると、紀瞻(きせん)・王導(おうどう)ら百官は共に司馬睿(しばえい)に勧進(かんじん)(皇帝に即位するように請(こ)うこと)したが、司馬睿(しばえい)はこれを許さなかった。

そこで紀瞻(きせん)は「司馬睿(しばえい)が即位しなければ、晋(しん)が途絶えてしまう危機が迫(せま)っている今、悠長(ゆうちょう)に辞退している場合ではないこと」を切々と説(と)いてさらに勧進(かんじん)したが、司馬睿(しばえい)はなおも承諾せず、殿中将軍(でんちゅうしょうぐん)・韓績(かんせき)に命じて(紀瞻(きせん)たちが用意した皇帝の)御座(ぎょざ)を撤去させようとした。

これを見た紀瞻(きせん)が「帝座(天子(てんし)の御座(ぎょざ))は天の星宿(せいしゅく)(天の秩序)に応じたものだ。これを動かそうとする者があれば、斬るっ!」と叱(しか)りつけると、ついに司馬睿(しばえい)は顔つきを改めた(即位を決意した表情になった)。

紀瞻(きせん)の2度目の勧進(かんじん)・全文
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「陛下は天の道に通じる資質をお持ちでありながら、なおもその優(すぐ)れた機知・精神を史籍(史書の記録)に向け、古代の人々の成功と失敗を観察しておられますが、今の世の出来事は目に見える形で明らかであり、(即位すべきことを)見抜くことは難しくありません。

[懐帝(かいてい)(司馬熾(しばし))・愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))の]2人の皇帝は国の統治に失敗し、宗廟(そうびょう)は荒廃(こうはい)し、(帝位の象徴である)神器は晋(しん)の手を離れて2年の月日が経(た)ちました。亡き皇帝の梓宮(しきゅう)(棺(ひつぎ))もまだ葬(ほうむ)られておらず、人も神も混乱の中にあります。

陛下に表れた膺録(ようろく)*8や受図(じゅと)*9は、特別に天が授(さず)けられたものです。六合(りくごう)(天地と東西南北:宇宙全体)は一新され、遠方の辺境の地に至るまでが来朝し、宗廟(そうびょう)は再建されて神主(しんしゅ)(祖先の霊が降臨する場所)も再び安置されました。

すべての民は陛下の徳を慕(した)って従い、異(こと)なる風俗の者(異民族)までもがことごとく来朝しております。それはちょうど、星々が北極星を中心に秩序立って運行し*10、多くの川が大海へと流れ帰るようなものです。

それでもなお、匹夫(ひっぷ)の謙(一個人の小さな節義)を守って辞退し続けようとされるのは、(祖宗の事業を継承して)七廟(しちびょう)*11を闡(ひら)き、国家の中興(ちゅうこう)を成し遂(と)げるための道ではありません。

国賊(こくぞく)は必ずや討伐しなければなりません。そのためには、ご自身の(謙譲(けんじょう)という)志を曲げて、天下の人々の期待に応えるべきなのです。

(今、陛下は)天の時に逆らい、人事に背(そむ)き、地の利を失おうとしておられます。この3つのうち1つでも欠けば、たとえ後にどれほど力を尽くしても、祖宗の危急を救うことはかないませんぞ!

時に応じた適切な判断は多岐にわたりますが、大業(国家の再興)を維持し、支え続けることができるのは、『理(道理)』と『当(妥当)』だけです。

晋(しん)の国運は行き詰(づ)まり、今この時をもって限界に達しております。今すぐ(即位を)決断なされば、(晋(しん)を)中興(ちゅうこう)して再び盛んにさせることができますが、もしこれをためらい放置すれば、奸賊(かんぞく)に権力を与えることになります。これこそが、先ほど申しました『理(道理)』でございます。

陛下は今、国難の真っ只中(ただなか)に身を置きながらも、帝統を継承されるお立場にあられます。宗室を見渡してみましても、帝位をお譲(ゆず)りできるお方は、他に誰がいらっしゃるというのでしょうか。当然、(陛下が)この大位を継ぐべきなのです。これこそが、先ほど申しました『当(妥当)』でございます。

(晋(しん)の)四祖*12は宇宙を切り開き、これほどまでの偉大な事業を残されました。ですが今、五都(主要な都市)は焼き払われ、宗廟(そうびょう)を祀(まつ)る者もいない有様で、劉載(りゅうさい)[漢(かん)(前趙(ぜんちょう))の劉聡(りゅうそう)]らが西北で神器(帝位)を盗み弄(もてあそ)んでおります。

それなのに陛下は、東南の地で高潔に譲(ゆず)り合いを演じようとなさっています。これは例えるなら、『揖礼(ゆうれい)(礼儀正しくお辞儀)をして譲(ゆず)り合いながら、目の前の火事を消そうとしている』ようなものです。

臣(わたくし)たちのような取るに足らない者でさえ、[漢(かん)(前趙(ぜんちょう))が西晋(せいしん)を降伏させ、愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))を殺害したことを]許しがたいと思っておりますのに、天地と徳を合わせ、太陽や月のように明るく世界を照(て)らす偉大なお方が、どうして好機を逸(いっ)し、時に遅れて良いものでしょうか!」

脚注

*8帝王が天命を受けたことを示す符瑞(ふずい)(めでたい瑞(しるし))。膺籙(ようろく)。瑞祥(ずいしょう)。吉兆(きっちょう)。

*9帝王が天命を受けて即位することを指(さ)す。『尚書中候(しょうしょちゅうこう)』に記(しる)されている「河伯(かはく)が大禹(だいう)に河図(かと)を授(さず)けたという故事に由来する。『尚書中候(しょうしょちゅうこう)』とは、『尚書(しょうしょ)』をもとにして、天命・瑞兆(ずいちょう)・帝王の正統性を説明するために作られた予言書。

*10原文:若列宿之綰北極。
列宿は多くの星々。綰(わん)には、①曲げて輪にする。 ②たくる。たぐる。 ③結(むす)ぶ。繋(つな)ぐ。 ④統(す)べる。治(おさ)める。の意味がある。

*11皇帝の祖先を祀(まつ)る宗廟(そうびょう)。天子(てんし)は七廟(しちびょう)、諸侯(しょこう)は五廟(ごびょう)、大夫(たいふ)は三廟(さんびょう)、士(し)は一廟(いちびょう)。

*12景帝(けいてい)(司馬師(しばし))・文帝(ぶんてい)(司馬昭(しばしょう))・武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))・恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の4人。この中で皇帝に即位したのは武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))・恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の2人。

辞職を願い出る

東晋(とうしん)の元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))が践位(せんい)(即位)すると、紀瞻(きせん)は侍中(じちゅう)に任命され、その後さらに尚書(しょうしょ)へと転任した。

紀瞻(きせん)はたびたび上疏(じょうそ)して諫言(かんげん)したが、その多くが政治の誤(あやま)りを正し、国家に大いに利益をもたらすものであったので、元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))はその忠烈(忠義と剛直さ)をたいへん高く評価した。

その後、紀瞻(きせん)は長く病(やまい)を患(わずら)って、もはや朝廷に出仕して政務に参与することができない状態となった。そこで上疏(じょうそ)して、病(やまい)の長期化により職務を果たせない現状と、そのまま在職することが国政の停滞(ていたい)を招(まね)くことへの憂慮(ゆうりょ)を述(の)べ、辞任と賢者の登用を願い出た。

こうして病(やまい)を理由に免官されたが、ほどなくして、また尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)に任命された。紀瞻(きせん)は何度も辞退したものの許されず、ついには病(やまい)が重いと称して帰宅しようとしたが、それすら許されなかった。

紀瞻(きせん)の辞職を求める上疏・全文
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「臣(わたくし)は病(やまい)が癒(い)えず、職務を長く放棄(ほうき)することになってしまいました。これまでたびたび真心を尽くして事情を申し上げてきましたが、いまだにお情けをもって(辞職の願いを)お聞き届けいただけておりません。

無為(むい)に俸禄を受けるばかりで、罪を抱(かか)えたまま病床に伏(ふ)しており、責任の重さに心を悩ませております。死が迫(せま)るこの身において、いったいどのように身を処すべきか分かりません。

臣(わたくし)は『失いやすいのは「時(時機)」であり、二度と戻らないのは「年(歳月)」である』と聞きいております。だからこそ、古(いにしえ)の志士や義に厚い人々は、(登用されるために)鼎(かなえ)を背負って走り*13、市場で商歌(しょうか)をうたって*14時機を逃(のが)さず忠義を尽くし、その名を不朽(ふきゅう)のものにしたのです。

ですが実際には、それを成し遂(と)げられずに機会を失う者がほとんどであり、成功する者はごくわずかにすぎません。

世の常の人の心というものは、栄誉や利益を求めてやまないものです。

臣(わたくし)は凡庸(ぼんよう)ながら、思いがけず(陛下にお仕えするという)幸運に恵まれました。鼎(かなえ)を背負ったり、商歌(しょうか)をうたって自(みずか)らを売り込んだわけでもないのに、身の丈(たけ)に合わない官位を貪(むさぼ)り盗んでおりました。

古人(こじん)を慕(した)って力を尽(つ)くしてまいりましたが、毛ほども報(むく)いることができないまま、犬馬のように歯が衰(おとろ)え、様々な病(やまい)に蝕(むしば)まれてしまいました。床に伏(ふ)して命を繋(つな)ぐこと百日余り、棺(ひつぎ)を叩いて死を覚悟したかと思えば、布団を引き寄せて生にしがみつき、1日また1日と、ただ衰(おとろ)えゆくばかりです。

もし天がなお幾(いく)ばくかの寿命を与え、陛下の広大なご恩にあずかることができたとしても、せいぜい命をわずかに保ち、陋巷(ろうこう)(貧しい家)で静かに横になるだけのこと。もはや再び八座(はちざ)(尚書(しょうしょ))の列に加わり、台閣(たいかく)(朝廷)に出入りすることなど到底かないません。

臣(わたくし)は目はかすみ、歯は抜け落ち、胸や腹は冷え切って傷も癒(い)えず、そのうえ足まで不自由になりました。病(やまい)の苦しみは、まさに耐えがたいものとなっております。

70という年齢は、礼典(礼の規定)でも第一線から退(しりぞ)くべきとされる年齢であり、老衰(ろうすい)の徵(しるし)は明らかに現れております。身を慎(つつし)んで退(しりぞ)き、静かに暮らしたいと思うなら、臣(わたくし)はいったいどこに身を隠せばよいのでしょうか。


臣(わたくし)の職務は、戸籍や人口を管理し、租税を徴収することであり、これは国家にとって極めて重要な職務です。

今、六合(りくごう)(天地と東西南北:宇宙全体)は大きく動揺しており、人々の生活もまだ安定しておりません。[元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))が即位なされてから]ようやく教化が行き渡り始め、あらゆる制度もまだ創設されたばかりであり、兵の徴発(ちょうはつ)や物資の輸送など、すべてに人手が必要な状況です。

臣(わたくし)がかつて健強であった時でさえ、昼夜を問わず働いても、間に合わなかったほどの激務でございます。まして今は、死が刻一刻と迫(せま)っている身上でございますれば、このまま長く重要な職務に留(とど)まり続けていては、王事(国家の大事)を停滞させ、台無しにしてしまうでしょう。

もし朝廷が広い恩徳をもって(静養の)猶予(ゆうよ)を与え続けるならば、臣(わたくし)の負(お)うべき責任と不安は日ごとに重くなります。それに臣(わたくし)を官職から外さなければ、官制は廃(すた)れて意味がなくなり、事業は滞(とどこお)ってしまうでしょう。臣(わたくし)の回復を待っていただいたとしても、臣(わたくし)は日ごとに衰(おとろ)えていくばかりです。

今、天慈(てんじ)(陛下からの特別なご慈悲(じひ))によって『臣(わたくし)が病床(びょうしょう)にいながら官職についていること』が許されておりますが、そのために官職は空席同然となり、公務は滞(とどこお)っております。臣(わたくし)1人が特別に寛大な扱いを受け続けることは公平性を欠(か)き、大望(国家への公正な期待)を損(そこ)なうことになってしまいます。

今や万国(天下)は改心して帰順し、賢俊(けんしゅん)な者たちが列をなして現れております。(臣(わたくし)のために)立派な官爵(かんしゃく)を空(あ)けたままにせず、賢才を繋(つな)ぎ止める(登用する)ために使うべきです。

臣(わたくし)のような穢(けが)れ病(や)んだ身が、官職に固執して(有能な者の)妨(さまた)げとなっていることは、古今の官吏(かんり)の進退の理(ことわり)に照らしても、決して正しいあり方ではございません。

陛下の広大な慈悲(じひ)の心を少しだけお分けいただき、臣(わたくし)に敝帷(へいい)[破れた帳(とばり)(幕)]を賜(たまわ)りますようお願い申し上げます。そうしていただければ、臣(わたくし)の命が尽きて倒れた際にも、その幕を屍(しかばね)に敷いて(野ざらしにすることなく)葬(ほうむ)られることができます。

時に応じて優(すぐ)れた人材を選んで登用し、官職を整え政務を遂行(すいこう)させてください。そうすれば、臣(わたくし)は(職務を全(まっと)うできないという)罪に問(と)われることもなくなり、死んでも生きてもこの上ない幸せでございます」

脚注

*13阿衡(あこう)(伊尹(いいん))は、殷(いん)の湯王(とうおう)に取り入ろうとしたが、その手段がなかった。そこで有莘氏(ゆうしんし)の娘の媵臣(ようしん)(付き人)となり、料理人として鼎(かなえ)(食べ物を煮る3本脚の器(うつわ))や俎(そ)(まな板)を担(かつ)いで従った。こうして阿衡(あこう)(伊尹(いいん))は、料理の味の話を通じて湯王(とうおう)を説(と)き、ついには王道へと導いた。『史記(しき)』殷本紀(いんほんぎ)

*14衛(えい)人(ひと)の寧戚(ねいせき)(寧越(ねいえつ))は貧(まず)しい身の上であったが、「斉(せい)の桓公(かんこう)に仕えて才能を発揮したい」と望み、商隊に従って斉(せい)国へ向かった。都(臨淄(りんし))の城外で斉(せい)の桓公(かんこう)の姿を見た寧戚(ねいせき)(寧越(ねいえつ))は、牛の角を叩きながら商歌(しょうか)(困窮(こんきゅう)した境遇と自分の才能を理解してくれる者に出会いたいと強く願う歌)を歌い、この歌を非凡だと感じた桓公(かんこう)に招(まね)かれて、主に農政においてその才能を発揮した。『淮南子(えなんじ)』道応訓(どうおうくん)

郗鑒の才能を上疏する

当時、郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))が守っていた鄒山(すうざん)は、たびたび石勒(せきろく)*7らによって脅(おびや)かされていた。紀瞻(きせん)は「郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))には将軍(しょうぐん)や宰相(さいしょう)としての器量がある」と考え、朝廷が彼を見捨てて顧(かえり)みなくなることを恐れて、上疏(じょうそ)して「彼を召(め)し出して用(もち)いる」ように願い出た。

その結果、朝廷はこの意見を受け入れ、郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))を徴召(まね)いて領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)に任命した。都(建康(けんこう))に到着すると、さらに尚書(しょうしょ)に転任するように命じたが、郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))は病(やまい)を理由にこれを拝命しなかった。

東晋(とうしん)の元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))の永昌(えいしょう)元年(322年)のことである。

紀瞻(きせん)の上疏(じょうそ)・全文
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「臣(わたくし)は『皇代(王朝)が興隆(こうりゅう)する際には、必ずや“爪牙(そうが)となる補佐”と“国家の城壁となる者”がおり、これらこそが、“帝王が天下を治め守り抜くための利器(優(すぐ)れた武器・道具)”なのである』と聞いております。ゆえに虞舜(ぐしゅん)は16人の賢相(けんしょう)を登用し、自(みずか)らは南面して政務を統(す)べ、安(やす)んじて治めることができたのであります。

伏して拝見いたしますに、前の輔国将軍(ほこくしょうぐん)・郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))は若い頃より高い節操を立て、人格は清廉にして名望は高く、文武両面の才略を備(そな)えた当代きっての良幹(りょうかん)(優(すぐ)れた頼りになる人物)です。

昔、戴若思(たいじゃくし)(戴淵(たいえん))と共に辟召(まね)かれながら辟地(へきち)に追いやられ、任地では孤立無援で、配下の兵も1旅(りょ)(500人)すらなく、援軍も届きませんでした。それでもなお、残された兵をよくまとめて安(やす)んじ、険(けわ)しい地形を頼みに長年持ちこたえ、ついには凶悪な賊(ぞく)どもに南侵を思い止(とど)まらせたのです。

ですが、彼が率(ひき)いる兵はあまりに少なく、大きな手柄を立てる術(すべ)がありません。すでに名州(兗州(えんしゅう))を統治し、また常伯(じょうはく)*18にもなっておりますが、もし郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))を台闥(だいたつ)(朝廷の中枢)でゆったりと政務に当たらせ、天子(てんし)の命令をしかるべく伝達・管理させたなら、必ずや彼は、相手が誰であれ恐れずに直言するという規範を全(まっと)うし、袞職(こんしょく)*19の過(あやま)ちを補(おぎな)い正してくれることでしょう。」

先朝(西晋(せいしん))以来、人材の任用にはすでに一定の前例がございます。戴若思(たいじゃくし)(戴淵(たいえん))は尚書(しょうしょ)の身分で六州都督(りくしゅうととく)・征西将軍(せいせいしょうぐん)となり、さらに常侍(じょうじ)の位を加えられました。劉隗(りゅうかい)は鎮北将軍(ちんほくしょうぐん)として北方を守り、陳眕(ちんしん)は鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)として東方を鎮(しず)めております。

郗鑒(ちかん)(郗鑑(ちかん))は年次においては戴若思(たいじゃくし)(戴淵(たいえん))と同じであり、資質においても同じく八座(はちざ)(尚書(しょうしょ))に列しております。しかもその清らかな名望と重みは、当代随一の人物です。

聖朝(陛下)はこの上ない公平さをもって天下に臨(のぞ)まれ、ただ公平であることだけを良しとされておられます。それゆえ臣(わたくし)は、陋巷(ろうこう)(貧しい家)で病(やまい)に伏(ふ)せっている身でありながら、日頃の見聞をすべて(この上疏(じょうそ)にて)お伝えし尽くした次第です。

陛下におかれましては、どうかその寛大な御心をお開きになって、臣(わたくし)の言葉をお聞き届けください。国家のために、万分の一でもお役に立てることを願っております」

脚注

*1古代中国の伝説に登場する16人の賢才。堯(ぎょう)に仕えた「八元(はちげん)」と舜(しゅん)に仕えた「八凱(はちがい)」を合わせて八元八凱(はちげんはちがい)(二八)と言い、優(すぐ)れた才徳を持つ賢臣の総称として用(もち)いられる。

*7河北(かほく)を拠点とする羯(けつ)族出身の軍事指導者。形式上は劉淵(りゅうえん)・劉聡(りゅうそう)らが建国した漢(かん)(前趙(ぜんちょう))政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北(かほく)一帯を支配する半独立勢力であった。後(のち)に自立して後趙(こうちょう)を建国し、皇帝に即位する。

*18漢(かん)代以後では皇帝の近臣を意味し、侍中(じちゅう)や散騎常侍(さんきじょうじ)を指(さ)す。

*19袞衣(こんい)(天子(てんし)が着る儀礼服)をまとう者の職務。

脚注

*7河北(かほく)を拠点とする羯(けつ)族出身の軍事指導者。形式上は劉淵(りゅうえん)・劉聡(りゅうそう)らが建国した漢(かん)(前趙(ぜんちょう))政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北(かほく)一帯を支配する半独立勢力であった。後(のち)に自立して後趙(こうちょう)を建国し、皇帝に即位する。

明帝の信任

ある日のこと。明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))はただ1人 紀瞻(きせん)だけを広間に呼び寄せて、 天下の行く末を憂(うれ)えて深く嘆(なげ)きながら、「社稷(しゃしょく)の臣(国家を支える重臣)はもはや10人もいない。どうしたら良いだろうか」と言い、指を折って数えながら、「君(あなた)はそのうちの1人だ」と言った。

これに紀瞻(きせん)が謙遜(けんそん)して譲(へりくだ)ると、明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))は「今まさに君(あなた)と率直(そっちょく)に語ろうとしているのに、どうしてそこまで謙遜(けんそん)するのか!」と言った。


紀瞻(きせん)は文武両面の才能を兼ね備(そな)え、朝廷ではその忠(忠誠)・亮(明朗さ)・雅(気品)・正(正しさ)が称賛されていた。

まもなく領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)に転任した。

当時、紀瞻(きせん)は常に病(やまい)を患(わずら)っていたが、人々はその厳格で毅然(きぜん)とした態度に心服し、六軍(全軍)は彼を敬(うやま)い憚(おそ)れていた。

その後 紀瞻(きせん)は、長年の病(やまい)を理由に辞職を願い出たが許されず、 さらに散騎常侍(さんきじょうじ)の官まで加えられた。

王敦の乱

東晋(とうしん)の明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))の太寧(たいねい)2年(324年)、王敦(おうとん)が帝位の簒奪(さんだつ)を企(くわだ)てて、再び建康(けんこう)へ攻め寄せた。この時 明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))はすでに王敦(おうとん)に備(そな)えて準備を整えており、あわせて紀瞻(きせん)に人を遣(つか)わして、

「卿(あなた)は病身ではあるが、横になったままでよいから朕(ちん)のために六軍(全軍)を統率してくれ。それだけでも大いに助けになる」

と言い、布千匹を下賜(かし)したが、紀瞻(きせん)はそれを自分の家には持ち帰らず、将兵たちに分け与えた。

紀瞻の死

同年、王敦(おうとん)の乱が平定されると、紀瞻(きせん)は再び上表して帰郷を願い出た。明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))はそれを許さなかったが、それでも紀瞻(きせん)は固辞(こじ)して出仕しなかった。

そこで明帝(めいてい)(司馬紹(しばしょう))は詔(みことのり)を下して、

「紀瞻(きせん)は忠誠にして明朗、気品正しく、大局を見通し国家を治める識見を備(そな)えている。しかもたびたび高齢と病(やまい)を理由に、慎重に退職を願い出てきた。朕(ちん)はその志を深く理解しており、これ以上その高い志に逆らうのは忍(しの)びない。よってその願いを許して驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)とし、散騎常侍(さんきじょうじ)はこれまで通りとする。衣服や待遇の制度はすべて旧典に従うように」

と言い、使者を派遣してその任命を自宅で行わせ、そのまま自宅を官府(驃騎将軍府(ひょうきしょうぐんふ))とした。

それからまもなくして、紀瞻(きせん)は72歳で亡くなった。


死後、正式に本来の官位を贈(おく)られ、さらに開府(かいふ)・儀同三司(ぎどうさんし)の位を加えられて「穆(ぼく)」と諡(おくりな)され、節(せつ)を持った御史(ぎょし)を派遣して葬儀を監督させた。

王含(おうがん)討伐の功績が論じられ、死後に華容子(かようし)に追封されて、元の爵位は2等下げる形で調整された。また、次子の紀鑒(きかん)(紀鑑(きかん))が亭侯(ていこう)に封ぜられた。

紀瞻の人柄

紀瞻(きせん)は性格が物静かで口数が少なく、若い頃から人付き合いはあまり広くなかったが、読書を好んだ。時には自(みずか)らの手で書物を書き写し、その著作(ちょさく)として詩・賦(ふ)(長文詩)・箋(せん)(手紙)・上表文など数十篇を残している。また、音楽にも通じており、その妙をほとんど極めていた。

生活においては自らを手厚く養(やしな)い、烏衣巷(ういこう)に邸宅を構えたが、その館(やかた)や建物は高大で華麗であり、庭園や池、竹林や樹木も整えられていて、十分に観賞に値するものであった。

行いは慎(つつし)み深く、人材を愛し、年を取るにつれてその傾向はいっそう深まった。


尚書(しょうしょ)の閔鴻(びんこう)、太常(たいじょう)の薛兼(せつけん)、広川太守(こうせんたいしゅ)で河南(かなん)出身の褚沈(ちょしん)、給事中(きゅうじちゅう)で宣城(せんじょう)出身の章遼(しょうりょう)、歴陽太守(れきようたいしゅ)で沛国(はいこく)出身の武嘏(ぶか)らは、いずれも元々紀瞻(きせん)とは親しくはなかったが、皆その高い人格に感じ入り、臨終(りんじゅう)にあたっては後事を紀瞻(きせん)に託(たく)した。

紀瞻(きせん)は彼らの家のことをすべて世話し、住まいや生活の面倒を整え、その関係はまるで肉親同然であった。


若い頃には陸機(りくき)・陸雲(りくうん)兄弟と親しくしていたが、陸機(りくき)が誅殺(ちゅうさつ)されると、その家族を手厚く救済して行き届いた援助を与えた。さらに陸機(りくき)の娘を嫁(とつ)がせる際には、実の娘を嫁(とつ)がせるのと同じように持参金や支度を整えてやった。


長子の紀景(きけい)は早くに亡くなり、紀景(きけい)の子・紀友(きゆう)がその後を継いで、官は廷尉(ていい)にまで昇った。

紀景(きけい)の弟である紀鑒(きかん)(紀鑑(きかん))は、太子庶子(たいししょし)・大将軍(だいしょうぐん)従事中郎(じゅうじちゅうろう)を歴任したが、紀瞻(きせん)よりも先に亡くなった。

出典
  • 『晋書(しんじょ)』巻68・列伝(れつでん)第38(紀瞻伝(きせんでん))
  • 『晋書(しんじょ)』巻68・列伝(れつでん)第38(薛兼伝(せつけんでん))
  • 『晋書(しんじょ)』巻67・列伝(れつでん)第37(郗鑒伝(ちかんでん))
  • 『資治通鑑(しじつがん)』巻86

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