正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑫丹陽郡たんよう紀氏きし紀瞻きせんです。

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凡例・関連記事

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き⑫

紀瞻

紀瞻きせん思遠しえん

孫亮そんりょう建興けんこう2年(253年)〜東晋とうしん明帝めいてい司馬紹しばしょう)の太寧たいねい2年(324年)。揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん秣陵県ばつりょうけんの人。祖父は尚書令しょうしょれい紀亮きりょう。父は光禄大夫こうろくたいふ紀陟きちょく。子に紀景きけい紀鑒きかん紀鑑きかん)。孫(紀景きけいの子)に紀友きゆう


江南こうなんの名門の家柄に生まれ、東晋とうしん元帝げんてい司馬睿しばえい)が江東こうとうの地において東晋とうしん政権を樹立するのを補佐し、その功績によって東晋とうしん元帝げんてい司馬睿しばえい)および東晋とうしん明帝めいてい司馬紹しばしょう)から厚く信任された。

また紀瞻きせんは、徐州じょしゅう広陵郡こうりょうぐん出身の閔鴻びんこう揚州ようしゅう呉郡ごぐん出身の顧栄こえい揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん出身の賀循がじゅん揚州ようしゅう丹陽郡たんようぐん出身の薛兼せつけんと並び称されて、あわせて「五俊ごしゅん」と呼ばれた。

秀才の策問

紀瞻きせんは若い頃から、公正で真っ直ぐな人柄によって名声を得ていた。

やがて(西晋せいしんによって)が平定されると、一家は揚州ようしゅう歴陽郡れきようぐんに移住し、孝廉こうれんに推挙されたが出仕しなかった。

その後、秀才しゅうさいに推挙された紀瞻きせんは、尚書郎しょうしょろう陸機りくきから策問さくもん(試験のための質問)を受けた。

しんの取るべき制度について

陸機りくきいにしえは『忠(忠義)』を重んじたが『朴(朴訥ぼくとつ)』におちいった。いんは『朴(朴訥ぼくとつ)』を正して『敬(信心)』を重んじたが、今度は『鬼(迷信)』におちいった。しゅうは『鬼(迷信)』を正して『文(礼・制度)』を重んじたが『薄(不誠実)』におちいった。そして、『薄(不誠実)』を正すために必要なのは『忠(忠義)』である。今、この『3代の制(制度)』のうち、どれに従うべきであろうか?」

紀瞻きせん「3代がこのように循環したのは、水が火を制するように、時代に応じて弊害へいがいを救った結果です。これは聖人たちの違いではなく、時代の変化によるものなのです。
今、大晋だいしんによって天下は統一されましたが、人々の心が(『薄(不誠実)』へと)変質してしまってから、長い年月がっています。
今は『文(礼・制度)』の過度な部分を取り除き、『ぼく(質朴)』をたもって本源に立ち返るべきです。そうすれば、万民は次第に教化され、太平の世が実現できるでしょう」

明堂めいどう清廟せいびょう辟雍へきよう太学たいがくについて

陸機りくきいにしえ哲王てつおう(賢明なおう)たちは、国を治める上で極めて重要な制度を定めた。それらは、上帝(天帝)をあがまつるための『明堂めいどう』、祖先の霊を安んじまつるための『清廟せいびょう』、礼による教化を天下に広めるための『辟雍へきよう』、そして学問や芸術を講じ研鑽けんさんするための『太学たいがく』であるが、しんが学問を破壊したことでこれらの制度は荒廃こうはいし、失われてしまった。
これについて、かん代の文献には『用途や役割が異なる』としるされ、(後漢ごかんの)蔡邕さいようはその著書ちょしょ月令げつれい月令章句げつれいしょうく)の中で、これらを『同一の物である』といている。このように諸説が入り乱れている現状において、どの説に従うべきであろうか?」

紀瞻きせんしゅうの制度における『明堂めいどう』とは、祖先を宗として上帝(天帝)とあわせてまつり、 敬虔けいけんにして明らかな祭祀さいしを行って、孝道を永く輝かせるための施設です。
その主要な機能は6つあり、それぞれの機能の側面によって『太廟たいびょう』『清廟せいびょう』『太室たいしつ』『明堂めいどう』『太学たいがく』『辟雍へきよう』と呼び分けられているだけで、そこで行われる事柄は密接に関連しており、その実体は1つです。このことから(後漢ごかんの)蔡邕さいようも、これらをして『同一の物である』とべたのです」

人材登用について

陸機りくき「その時代にかかわらず、君主と賢人は互いを必要としているはずなのに、実際には千年もの間、その期待は常に裏切られ続けている。
いにしえ興王こうおう(国をおこした王者)は、どのような方法で人材を得ることができたのか。また、のち衰世すいせい衰退すいたいした時代)には、何が欠けていたために(人材を失うという)惨状さんじょうまねいたのだろうか?」

紀瞻きせん「今、賢者を推挙する道は開かれましたが、教育と学問のつとめはいまだ広く行き届いておりません。そのため、功名を競って進み出ようとする志ばかりがするどく、学問にはげもうとする心はおさまっていないのです。
もし四方の門を開いて広く人材をまねき入れ、五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の5つの徳目)を宣揚せんようして立派な徳を明らかにし、功績を厳格に評価して優劣を定め、彼らを百官や諸官庁の官職に配置したならば、物事は適切に整い、国家の法典も正しく運用されるようになります」

族誅ぞくちゅうの是非について

陸機りくき暴虐ぼうぎゃくしんの時代には族誅ぞくちゅう(罪人の一族まで処罰する刑罰)が加えられ、行き過ぎた重刑が連鎖的に広まって、残酷な刑罰がはなはだしく濫用らんようされるようになったが、かんの時代もこれを踏襲とうしゅうし、改めることはなかった。
とはいえ、世が安定している時と危険な時とでは同じではなく、寛大さと厳格さとの中間を取るとすれば、どのような制度を立てるのが適切であろうか。また、族誅ぞくちゅうの法は永く定めるべき制度たり得るのであろうか?」

紀瞻きせん「今や四海(天下)は統一され、人々が本来のあり方へ立ち返ろうとしています。質素・簡潔をたっとべば貪欲どんよくな者は争わなくなり、賢者をたっとび不適任者を退しりぞければ、不仁の者は遠ざかるようになります。
したがって、参夷さんいの刑(親族連座刑)を軽減し、族誅ぞくちゅうの律(法)を廃止するべきです。そうすれば、万物それぞれがその本来の生き方に従い、異なる時代の制度を調和させつつ、共に安定させることができるでしょう」

いんようの不一致について

陸機りくき五行ごぎょうは互いに交替しながら循環し、いんようは互いにおぎない合って存在している(陰陽五行説いんようごぎょうせつ)。(いんようのどちらか)一方の気がかたよって失われれば、万物は単独では成立することができないはずである。
ところが今、(冷たい泉に対して)『温かい泉』は存在するのに、(熱い火に対して)『冷たい火』というものが存在しないのは、いったいどういう理由によるものだろうか?」

紀瞻きせん「水は下にうるおい流れ、火は上に燃え上がるものであり、ごうじゅう乾燥かんそう湿潤しつじゅんはいずれも自然本来の性質です。
ようは動いて外へ向かい、いんは静まって内に向かいます。内にあるものの性質は柔弱じゅうじゃくで、つつみ込み受け入れることを本質としており、外に働くものは剛直ごうちょくで、外界に接して作用することを本質としています。
水が温かさを受け入れることができるのも、つつみ込み受け入れることを本来の性質としているからなのです」

聖人の道の衰退すいたいについて

陸機りくき伏羲ふくぎ黄帝こうていの時代の理想的な政治の規範を踏襲とうしゅうすることができれば、玄古げんこ(太古)の純朴な風俗を再び継承することも可能である。しかしながら時代が下るにつれて、帝王の定めた簡明な法さえも次第に複雑化して、過ぎ去ってしまった素朴で純粋な徳は、もはや元に戻ることはなくなってしまった。
太樸たいぼく(太古の純朴な本来のあり方)がひとたび失われてしまうと、もはや正しい道理は再び立て直すことはできないのだろうか。やはり時代が下るにつれて、聖人の道は次第におとろえていくものなのだろうか?」

紀瞻きせん「政治とは時代に応じて行われるものであり、その施策も時代に応じて変化するものです。すべての制度の廃止や制定には理由があり、刑罰の軽重も節度に応じて定められた結果なのです。
法や制度の複雑化は、変化の法則を理解した結果であり、その時代に適応したものであって、決して時代が下るにつれておとろえたわけではありません」

陸機りくき策問さくもん紀瞻きせんの返答・全文
タップ(クリック)すると開きます。

しんの取るべき制度について

陸機りくき「昔の3代(いんしゅう)の明王は大いなる事業を創始した。その制度の性格(文と質)は互いに異なってはいるものの、その立てた名声は一致して立派なものであった。

の人々は『忠(忠義)』を重んじたが、『忠(忠義)』が行き過ぎれば『朴(朴訥ぼくとつ)』に流れてしまう。その『朴(朴訥ぼくとつ)』を正すには、『敬(信心)』をもってするのが最もよい。

そこでいんの人々は、それを改めて『敬(信心)』を整えたが、『敬(信心)』が行き過ぎれば『鬼(迷信)』への偏重へんちょうおちいる。その『鬼(迷信)』へのかたよりを正すには、『文(礼・制度)』によるのが最もよい。

そこでしゅうの人々は、さらにこれを矯正きょうせいして変革したが、『文(礼・制度)』が行き過ぎれば『薄(不誠実)』になってしまう。そしてその『薄(不誠実)』を正すには、再び『忠(忠義)』へと立ち返るのである。

王道というものは、このように反覆はんぷくして一定しないものなのだろうか。それともりどころとした原理が異なるために、その功業もそれぞれ異なったのであろうか。

聖王がいなくなって以降、人々の心は長いあいだ離散りさんしたままである。3代における制度の増減や、民の変遷へんせんについて、その理由を聞くことはできるであろうか。

今、いにしえに立ち返ってその弊害へいがいを救い、良い風俗を明らかにしてその悪習を洗い清めようとするならば、三代の制度のうち、どれに従うべきであろうか。また、太古の教化には、どのような異なる道があったのであろうか」


紀瞻きせんわたしの聞くところでは『国家を治める者は皆、教化を進めて政治を盛んにし、業績を安定させて、その名声を永く後世に伝えようと望む』ものです。

ですが、世俗は変化し制度には弊害へいがいが生じるため、時代に応じて変えなければなりません。これは聖人の治世であっても例外ではありません。ゆえに、忠が行き過ぎれば素朴で粗野となり、敬が行き過ぎれば儀礼が過剰かじょうになります。

しゅういんの2おう弊害へいがいを教訓として礼文を重んじ身分秩序を明確にしましたが、形式を重視することで誠意を失いました。誠意がうすれれば再び忠へ立ち返ることになります。

三代がこのように循環したのは、水が火を制するように、時代に応じて弊害へいがいを救うための方法だったのです。

伏羲ふくぎの時代は簡素で飾り気がなく、何ら作為を加えなくとも自然に民が感化されて治まっていました。のちの聖人たちは、時代に応じて異なる課題に取り組みましたが、これは聖人たちの違いではなく、時代の変化によるものです。

今や大晋だいしんは天のことわりを明らかにし、その聖なる功績は日に日に高まっています。天意をけ、時の流れに従って、九有(天下)は統一され、辺境の地の君主たちも皆、帰順して集まってきていますが、(伏羲ふくぎの時代のような)いにしえの大道はすでに遠ざかり、人々の心が変わってしまってから、長い年月がってしまいました。

したがって、現在の政治は礼文の過度な部分を取り除き、質朴さをたもって本源に立ち返るべきです。そうすれば、万民は次第に教化され、太平の世が実現できるでしょう」


明堂めいどう清廟せいびょう辟雍へきようについて

陸機りくき「かつて、哲王てつおう(古代の賢明なるおう)たちは、万物の秩序を明らかにして しかるべき形を整え、諸制度を確立した。

すなわち、上帝(天帝)をあがまつるための『明堂めいどう』、祖先の霊を安んじまつるための『清廟せいびょう』、礼による教化を天下に広めるための『辟雍へきよう』、そして学問や芸術を講じ研鑽けんさんするための『太学たいがく』である。

これらはいずれも国家にとっての重要な制度であり、国家統治の大きな根幹であったが、しんが学問を破壊したことでこれらの制度は荒廃こうはいし、失われてしまった。

その後の儒学者じゅがくしゃたちの議論では、それぞれ制度の取捨や解釈が異なり、かん代に残された文献を見ても、それらは『異事(用途や役割が異なる)』としるされている。一方で(後漢ごかんの)蔡邕さいようは、その著書ちょしょ月令げつれい月令章句げつれいしょうく)において、これらを『同一の物である』といており、諸説が入り乱れている。どの説に従うべきであろうか?」


紀瞻きせんしゅうの制度における『明堂めいどう』とは、祖先を宗として上帝(天帝)とあわせてまつり、 敬虔けいけんにして明らかな祭祀さいしを行って、孝道を永く輝かせるための施設です。

その主要な機能は6つあり、いにしえの聖帝・明王が南面して政務を行う時、その6つの機能はいずれも『明堂めいどう』を中心として行われました。

また、その建物の中央はすべて『太廟たいびょう』と呼ばれます。ここでは天の時に順応し、法令を施行し、先祖をまつって老人をやしない、学問を講義し、諸侯しょこうを朝見させて優秀な人材を選抜し、礼を整え物事を選別しますが、これらはすべて、教化のり所となるものです。

ゆえに、先祖をまつるという側面を見れば『清廟せいびょう』と呼び、正室(本殿)としての外観を見れば『太廟たいびょう』と呼び、その部屋自体を見れば『太室たいしつ』と呼び、堂(広間)を取れば『明堂めいどう』と呼び、四方の門にある学舎としての側面を取れば『太学たいがく』と呼び、周囲をめぐる水がへきのように丸いことを取れば『辟雍へきよう』と呼びます。

これらは名前こそ異なりますが、行われる事柄は密接に関連しており、その実体は1つなのです。このことから(後漢ごかんの)蔡邕さいようも、これらをして『同一の物である』とべたのです」


人材登用について

陸機りくき陶唐氏とうとうしぎょう)の時代は賢明な人材が才能を発揮したため、世の中はやわらぎむつまじいものであった。また、しゅうに天命が下ると多くのすぐれた人材が(しゅうを)隆盛りゅうせいさせた。

ゆえに尚書しょうしょには(賢君と忠臣が互いをたたえ合う)『明良めいりょうの歌』がしるされ、易経えききょう繋辞上伝けいじじょうでんでは(心を同じくする者同士の)『金蘭きんらんの美(固いきずな)』がとうとばれている。

これこそが、長い歴史において国家が興廃こうはいする理由であり、国を持つ者がとうとばれるかすたれるかの分岐点でもある。ゆえに成功をおさめる君主は人材を求めることにつとめ、名を成そうとする士(賢人)は、世にもちいられる機会を求めて急ぐのである。

その時代にかかわらず、君主と賢人は互いを必要としているはずなのに、実際には千年もの間、その期待は常に裏切られ続けている。

いにしえ興王こうおう(国をおこした王者)は、どのような方法で人材を得ることができたのか。また、のち衰世すいせい衰退すいたいした時代)には、何が欠けていたために(人材を失うという)惨状さんじょうまねいたのだろうか?」


紀瞻きせん「国家を興隆させるためにつとめるべきは賢者を得ることであり、清らかで安定した教化をするために急がれるのは、才能ある者を抜擢ばってきすることです。ゆえに二八*1を登用すれば政務は安定し、10人の有乱(治臣)がいれば、天下は安泰となります。

かつていん武丁ぶてい傅岩ふがん傅険ふけん)で版築はんちく(土を突き固める土木工事)に従事していたえつ傅説ふえつ)を抜擢ばってきし、しゅう文王ぶんおうは、渭水いすいのほとりで釣りをしていた呂尚りょしょう太公望たいこうぼう)を連れ帰りました。彼らを上位の官職につけて国政をゆだねたからこそ、(いんしゅうは)龍が天に昇るがごとく勢いづき、百代ののちまで勲功を伝えることができたのです。

先王たちは、みずから質素な家に足を運び、もれた賢才を捜し求めました。その結果、山には『扶蘇ふそ*2の才』(を持つ賢者は登用されて)いなくなり、野では(賢者が不遇をなげく)詩経しきょう魏風ぎふう伐檀ばつだんのような詩がまれることもなくなりました。

こうして徳化が厚くなれば、万物もそれに感応して天地の神々が応じ、鳳凰ほうおうが舞い飛び、甘露かんろが豊かに降り、醴泉れいせん(甘い水のく泉)がき出し、瑞祥ずいしょうである朱草しゅそうが自生するようになり、万物が茂り、太陽も月もいっそう輝き、なごやかな気が天下に満ちて、大道が完成します。

そして、君臣の義を整え、父子の親愛を厚くし、夫婦の道を明らかにし、長幼の序をわきまえさせれば、九州(中国全土)から八荒はっこう(世界の果て)、海外の国々までもが心を寄せ、幾度いくども通訳を重ねて貢ぎ物を持って入朝するようになり、たたえる声は美しく響き渡って、『垂拱すいきょうの治*3』が実現されるのです。

今、賢者を推挙する道は開かれましたが、教育と学問のつとめはいまだ広く行き届いておりません。そのため、功名を競って進み出ようとする志ばかりがするどく、学問にはげもうとする心はおさまっていないのです。

もし四方の門を開いて広く人材をまねき入れ、五教*4宣揚せんようして立派な徳を明らかにし、功績を厳格に評価して優劣を定め、彼らを百官や諸官庁の官職に配置したならば、物事は適切に整い、国家の法典も正しく運用されるようになります。

そうなれば、必ずや国家の安寧を助けることができ、過去の盛世と合致して明君と良臣が互いに応じ合い、『金蘭きんらんの美(固いきずな)』が再びよみがえることになるでしょう」

脚注

*1古代中国の伝説に登場する16人の賢才。ぎょうに仕えた「八元はちげん」としゅんに仕えた「八凱はちがい」を合わせて八元八凱はちげんはちがい(二八)と言い、すぐれた才徳を持つ賢臣の総称としてもちいられる。

*2しん始皇帝しこうてい嬴政えいせい)の長子。始皇帝しこうてい嬴政えいせい)が巡幸じゅんこう中に亡くなると、弟の胡亥こがいを立てようとする趙高ちょうこうの陰謀によって自害した。

*3天子てんしの徳により民衆が感化されて、天子てんしが何かをすることなく天下が平穏に治まること。 「垂拱」は袖を垂れて手をこまねくという意味から、何もしないこと。

*4「父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝」の5つの徳目。儒教じゅきょうにおける家族倫理。


族誅ぞくちゅうの是非について

陸機りくき「昔、とうぎょう)・しゅん)の時代には五刑の教えが示され、また周公しゅうこう四罪しざいの制度を明確に定めた。ゆえに世の人々は公平な裁判を称賛し、当時の光り輝くような治世を歌ったのである。

ところがその後、姦悪かんあくな者どもが増えるにつれて法制度や刑罰の規定も次第に増加し、後世になると、三辟さんへき(重刑)に関する条文が重んじられるようになった。

暴虐ぼうぎゃくしんの時代には族誅ぞくちゅう(罪人の一族まで処罰する刑罰)が加えられ、行き過ぎた重刑が連鎖的に広まって、残酷な刑罰がはなはだしく濫用らんようされるようになったが、かんの時代もこれを踏襲とうしゅうし、改めることはなかった。

とはいえ、世が安定している時と危険な時とでは同じではなく、世を救う方法も状況に応じて異なるのだから、やむを得ずもちいられてきたのである。

では、寛大さと厳格さとの中間を取るとすれば、どのような制度を立てるのが適切であろうか。また、族誅ぞくちゅうの法は永く定めるべき制度たり得るのであろうか?」


紀瞻きせん「二儀(天地)が分かれて万民が生まれ、万民が生まれると、そこに利害が生じました。利害が生じるのには、それなりの理由があるのです。

太古の時代には、人々は道徳によって教化され、勇力は軽んじられ、仁義がとうとばれていました。仁義がとうとばれていたため強者が弱者をおかすことはなく、多数が少数をしいたげることもありませんでした。

三皇さんこうの時代には、結繩けつじょう*5による記録(文字以前の統治)だけで天下は安定していましたが、これは単に、明確な刑罰制度が整っていたというだけではありません。

そもそも太古の人々が法を知っていたのは、獄(刑罰)を遠ざけるためでした。ですが、時代が下って罪の取り締まりが強化されると、訴訟や刑罰はますます多くなりました。すると、人々はますます荒々しくなり、法令はますます増えて、盗賊も多く現れるようになったのです。

尚書しょうしょに『つつしんで五刑ごけいもちい、3つの徳を成就じょうじゅさせよ』とあります。

後世になって世の道がおとろえると、三辟さんへき(重罪に対する3種の極刑)が行われるようになり、さらに(春秋しゅんじゅう時代のしんの)文公ぶんこうの時代の弊害へいがいとして、族誅ぞくちゅう(親族まで連座して処罰する刑)が加えられました。行き過ぎた刑罰が広く行われ、天地の調和の気を傷つけ、その影響は後の世代まで汚染し、改めることができなくなってしまったのです。

ゆえにかん高祖こうそ劉邦りゅうほう)が号令すると天下は呼応して従い、もまたかん末の制度を受け継ぎ改めなかったのは、風俗の変化には長い時間がかかるためであり、その時々の事情に応じたやむを得ない措置そちだったのです。

今や四海(天下)は統一され、人々が本来のあり方へ立ち返ろうとしています。質素・簡潔をたっとべば貪欲どんよくな者は争わなくなり、賢者をたっとび不適任者を退しりぞければ、不仁の者は遠ざかるようになります。

したがって、参夷さんいの刑(親族連座刑)を軽減し、族誅ぞくちゅうの律(法)を廃止するべきです。そうすれば、万物それぞれがその本来の生き方に従い、異なる時代の制度を調和させつつ、共に安定させることができるでしょう」

脚注

*5昔は文字がなく、盟約や約束ごとがある場合には、その事柄が重大であれば縄を大きく結び、その事柄が小さければ縄を小さく結んだ。そして結び目の数の多少は、関係する物事や人数の多寡たかに応じて決められていた。


いんようの不一致について

陸機りくき五行ごぎょうは互いに交替しながら循環し、いんようは互いにおぎない合って存在している(陰陽五行説いんようごぎょうせつ)。二儀(天地=いんよう)は万物を育て生み出す根本であり、また四季がめぐることによって変化・生成してゆく。

易経えききょう繋辞上伝けいじじょうでんに『天にあってはかたち(現象)を成し、地にあってはかたち(実体)を成す』とある。

これは、天と地における『かたち』と『かたち』の成立は、互いに助け合って成り立っているということを言っており、もしいんようの調和が失われれば、天地の大きな運行の法則そのものがうまく働かなくなるということだ。

いんようのどちらか)一方の気がかたよって失われれば、万物は単独では成立することができない。これは、(いんようが)互いに対応し合っている証拠であり、かたよりなく成り立っていることの証拠でもある。

ところが今、(冷たい泉に対して)『温かい泉』は存在するのに、(熱い火に対して)『冷たい火』というものが存在しないのは、いったいどういう理由によるものだろうか。

この、『同じように対応しているはずなのに一致しない理由』を聞かせてほしい」


紀瞻きせん「『いんようは上昇と下降という働きをもち、また山と沢とは気を通じ合わせる関係にある』と聞いています。

易経えききょう乾卦けんけ初九しょく純陽じゅんようであり、『潜龍せんりゅうもちいるべきではない。(陽の気がまだ下にあるのだから)』とあります。(地下にひそむ龍とは、)泉のみなもとがそこに依拠いきょしていることを意味しており、その水が温かいのは当然のことなのです。

さてそもそも、水は下にうるおい流れ、火は上に燃え上がるものであり、ごうじゅう乾燥かんそう湿潤しつじゅんはいずれも自然本来の性質です。したがって、ようは動いて外へ向かい、いんは静まって内に向かうのです。

内にあるものの性質は柔弱じゅうじゃくで、つつみ込み受け入れることを本質としており、外に働くものは剛直ごうちょくで、外界に接して作用することを本質としています。そのため、金や水はその内に(つつみ込んで鏡のように)うつし、火や太陽の光は外にかがやいて外界をらすのです。

つまり、ごうは働きかける側となり、じゅうは受け入れる側となり、ようが勝ればいんは隠れることになります。

水が温かさを受け入れることができるのも、つつみ込み受け入れることを本来の性質としているからなのです」


聖人の道の衰退すいたいについて

陸機りくき「神妙(万物の根源的原理)をきわめ、その変化法則を理解することこそが、人の才能の極致きょくちであり、万物をそなととのえ、それらを十分に活用することこそが、功績の到達しる最高の境地である。

これらの道理をもって政治を行うならば、伏羲ふくぎ黄帝こうていの時代の理想的な政治の規範を踏襲とうしゅうすることができ、また、この道理によって乱れた世を改革するならば、玄古げんこ(太古)の純朴な風俗を再び継承することも可能である。

しかしながら、とうぎょう)・しゅん)の時代には、皇人こうじん(太古の聖王たち)の大らかな統治の大綱をいっそう細かく整備し、さらにいんの時代になると、帝王の定めた簡明な法さえも次第に複雑化して、過ぎ去ってしまった素朴で純粋な徳は、もはや元に戻ることはなくなってしまった。

太樸たいぼく(太古の純朴な本来のあり方)がひとたび失われてしまうと、もはや正しい道理は再び立て直すことはできないのだろうか。やはり時代が下るにつれて、聖人の道は次第におとろえていくものなのだろうか」


紀瞻きせん「政治とは時代に応じて行われるものであり、その施策も時代に応じて変化するものです。

ゆえに聖王は、窮通きゅうつうみなもと(物事がうまく通じるか行きまるかの根源)をきわめ、始まりから終わりまでの道理をよく見極みきわめて、その時代に最もふさわしい方法を選んで、世を救済することを目的としました。

太古の聖王の時代には、人々は素朴で災難や争乱は起こらず、結繩けつじょう*5による記録(文字以前の統治)だけで守るべきことを理解していました。

ところが、大道(根本の正しい道)が失われてからは、人為的な知恵が、かえって世の中を乱すようになったため、治世と乱世では同じ方法では治めることができず、政治のあり方もそれぞれ異なるものとなったのです。

そのため、とうぎょう)・しゅん)の時代には、統治の基本原則を緻密ちみつに整備し、いんの時代には、帝王の法制度をさらに詳しく作り上げました。すべての制度の廃止や制定には理由があり、刑罰の軽重も節度に応じて定められた結果なのです。

これは神の道(神妙な道理)をきわめ、変化の法則を理解した結果であり、その時代に適応したものであって、決して時代が下るにつれておとろえたわけではありません」

脚注

*5昔は文字がなく、盟約や約束ごとがある場合には、その事柄が重大であれば縄を大きく結び、その事柄が小さければ縄を小さく結んだ。そして結び目の数の多少は、関係する物事や人数の多寡たかに応じて決められていた。

晋に出仕する

西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の永康えいこう元年(300年)、州に対して「家柄がまずしく清廉せいれんな人物(寒素かんその士)」を推挙するようみことのりが下されると、紀瞻きせんはその推挙を受ける人物として選ばれた。

西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の永寧えいねい元年(301年)、大司馬だいしばであった司馬冏しばけいから東閣祭酒とうかくさいしゅ辟召へきしょう招聘しょうへい)された。また、その年のうちに、鄢陵公国えんりょうこうこくしょうに任命されたが赴任せず、翌年、左遷させんされて松滋侯国しょうじこうこくしょうに任命された。

西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の太安たいあん2年(303年)、紀瞻きせんは官職を捨てて帰郷した。


当時は西晋せいしんにおいて皇族(司馬氏しばし)同士が皇位と実権を争って、連続的な政変と内戦を繰り返した「八王の乱(291年〜306年)」の只中ただなかであった。

顧栄らと共に陳敏を討つ

西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の永興えいこう元年(305年)、右将軍ゆうしょうぐん前鋒都督ぜんぽうととくであった陳敏ちんびん歴陽れきようで反乱を起こして独立しようとした。

陳敏ちんびんは礼物や官職を与えて江東こうとうの豪族・名士を懐柔かいじゅうし、自分の勢力に取り込もうとしたが、陳敏ちんびんの政治や刑罰の運用にはまったく規律がなく、またその子弟たちは凶暴で、行く先々で問題を起こしていた。

西晋せいしん懐帝かいてい司馬熾しばし)の永嘉えいか元年(307年)、廬江内史ろこうないし華譚かたんが、陳敏ちんびんから官職を受けていた(丞相じょうしょう顧雍こようの孫、)顧栄こえいらに書簡を送って非難すると、もとより陳敏ちんびんちたいと考えていた顧栄こえい周玘しゅうきらは大いに恥じ入り、ひそかに使者を送って征東大将軍せいとうだいしょうぐん劉準りゅうじゅんに報告し、軍を発して長江ちょうこうのほとりに進出するように要請した。

顧栄こえいらの要請を受けた劉準りゅうじゅんは、揚州刺史ようしゅうしし劉機りゅうきらを派遣して歴陽れきようから出撃させ、陳敏ちんびんの討伐に向かわせた。


一方、顧栄こえいの説得を受けて陳敏ちんびんもとを離れた甘卓かんたくは、橋を断ち切り船を南岸に集めて、顧栄こえい周玘しゅうき紀瞻きせんらと共に陳敏ちんびんを攻撃した。

陳敏ちんびんみずから1万余の兵をひきいてこれをとうとしたが、陳敏ちんびんの兵たちは江東こうとうの名士である甘卓かんたく顧栄こえい周玘しゅうき紀瞻きせんらを相手に戦うことに戸惑とまどっていた。そこへ顧栄こえい白羽扇びゃくうせんを振って合図をすると、兵はみなくずれて逃げ去り、えられた陳敏ちんびん建業けんぎょうに送られて、三族にわたって誅殺ちゅうさつされた。

太極について議論する

戦いが終わると、紀瞻きせんされて尚書郎しょうしょろうに任命され、同じくされた顧栄こえいと共に洛陽らくようおもむいたが、その道中で2人は易経えききょうの「太極たいきょく」について議論した。

太極たいきょく」についての議論・全文
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顧栄こえい太極たいきょくとは『混沌の時代』のことを言い、まだ天地が分かれず、万物が曖昧あいまいで区別されていなかった状態をす。そこでは日月の光も内に含まれ、八卦はっけの神妙なことわりもまだ表に現れておらず、天地はざり合って一体となり、聖人の存在もまだその内にひそんでいた。

やがてそこから広く開けて変化が起こり、清いものとにごったものが分かれ、二儀(天地)が姿を現し、いんようまじわって調和し、万物が初めて芽生めばえて、六合りくごう(天地と東西南北:宇宙全体)が開かれていったのである。

老子ろうし』第25章に『なにやらじり合った物があって、それは天地より先に生まれ出た』とあるが、これこそまさに易経えききょうにいう太極たいきょくのことである。

また、王氏おうし王弼おうひつ)は『太極たいきょくとは天地である』と言うが、わたしは適当ではないと思う。そもそも両儀(二儀)とは、形あるものとして見れば天地であり、気の側から見ればいんようである。もし今、太極たいきょくを天地そのものだとするならば、それは天地がみずから生じたことになり、天地を生じさせる根源がなくなってしまうのだ。

老子ろうしに『天地が長く存在できるのは、自分自身のために生きていないからである』(第7章)とあり、『一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず』(第42章)とあるが、これは、万物の始まりにおいて、沖気ちゅうき*6いんようの2つの気を和合させているという道理をべている。

万物の根源である『元気』の正体を探り、天地の根本を求めるならば、おそらくこの(老子ろうしの)教えを基準とするのが妥当だとうではないか」


紀瞻きせん「昔、皰犧ほうぎ伏羲ふくぎ)が八卦はっけえがいたが、いんようことわりは(その中に表現され)尽くされていた。

その後、しゅう文王ぶんおう仲尼ちゅうじ孔子こうし)がその遺業を継ぎ、この3代の聖人たちは相互に受け継ぎ合ったが、その理解は完全に一致しており、易経えききょうは天の法則に準拠する書であって、それ以上に付け加えるべきものはもはや存在しない。

そもそも、天は清らかに澄み渡り、地は平らかに広がり、いんようの2つの気(両儀)が調和してまじわり、四季は絶え間なく移り変わり、日と月はその狭間はざまで光り輝いている。

こうした自然界にそなわる数理(法則)は、たとえ多くの聖人たちが究明につとめてきたといえども、いったい誰がその根源的な始まりを知ることができるだろうか(いや、誰も知ることはできない)。

吾子あなたは『万物にはまだ混沌として分かれていない状態があった』と言うが、果たしてそのようなことがあるのだろうか。聖人といえども人である。どうしてそのような混沌の初めに、その身をそこにひそませて知ることができるのか。

老氏ろうし老子ろうし)が言うところの『天地に先立つものがある』という言葉は、荒唐無稽こうとうむけいな説であって、易経えききょうおさめる者が意図いとするところではない。吾子あなたほどの深い洞察力を持ち、真理を体得されている方であれば、疑いようのないことであろう。

(私が)思うに、『太極たいきょく』とは究極きゅうきょく極致きょくちす呼称であり、『そのことわりきわまり、もはやその外側に形が存在しない状態』を言うのであって、形あるものの外側がきわまり尽くしたところから、両儀(天地)が生じたのである。王氏おうし王弼おうひつ)がし示した方向性は、これに近いと言ってよい。

古人が『至極しごく』(太極たいきょく)という語を持ち出したのは、『二儀(天と地)はここから生じたのだ』と言うためであって、決して(太極たいきょくに)『父や母となる存在がある』と言ったのではない。もしどうしても(万物の生成に)父母となる存在があると言うのであれば、それは天地の他に何があるというのだろうか」


顧栄こえいはここで議論をやめた。

脚注

*6きょにしてかたよらず、万物を調和させる中和の気。

官を捨てて揚州へ引き返す

紀瞻きせんらが徐州じょしゅうに到着した時のこと。「北方の戦乱が日増しに激しくなっている」と聞いた紀瞻きせんらは、このまま洛陽らくようへ進むべきかを迷い、先へ進まず様子をうかがっていた。

ちょうどこの時、徐州刺史じょしゅうしし裴盾はいじゅん東海王とうかいおうえつ司馬越しばえつ)から、

「もし顧栄こえいらが進退を決めかねて逡巡しゅんじゅんしているようなら、軍礼をもって彼らを(洛陽らくようへ)送り出せ」

との書簡を受け取った。

この知らせを聞いた紀瞻きせんらは、顧栄こえい陸玩りくげんらと共に乗っていた船を離れ、車や牛を捨てて軽装となると、昼夜をわず1日で3百里(約129km)を進み、ようやく揚州ようしゅうへと帰り着くことができた。

琅邪王・司馬睿に仕える

琅邪王ろうやおう司馬睿しばえいのち東晋とうしん元帝げんてい)が安東将軍あんとうしょうぐんとなって建業けんぎょう移鎮いちんすると、紀瞻きせんまねいて軍諮祭酒ぐんしさいしゅに任命した。

西晋せいしん懐帝かいてい司馬熾しばし)の永嘉えいか5年(311年)、司馬睿しばえい鎮東大将軍ちんとうだいしょうぐんに進むと、紀瞻きせんはさらに鎮東長史ちんとうちょうしに転任された。

当時、司馬睿しばえいみずか紀瞻きせんの家をおとずれ、さらに紀瞻きせんと同じ車に乗って共に帰るなど、たいへん親しくぐうし、厚く信任していた。

同年、司馬睿しばえいは相次いで揚州都督ようしゅうととく周馥しゅうふくおよび江州刺史こうしゅうしし華軼かいつを討伐し、これを滅ぼした。紀瞻きせんはこれら2つの戦役における功績を改めて評価され、都郷侯ときょうこうに封ぜられた。

石勒の南侵を防ぐ

西晋せいしん懐帝かいてい司馬熾しばし)の永嘉えいか6年(312年)、石勒せきろく*7建業けんぎょうを攻撃しようとくわだてると、司馬睿しばえい江東こうとうの兵力を寿春じゅしゅんに集結させ、紀瞻きせん揚威将軍よういしょうぐんを加え、さらに京口けいこうの南から蕪湖ぶこに至る一帯の諸軍事を統括する都督ととくとし、石勒せきろくの南侵を防がせた。

同年、石勒せきろくが撤退すると、紀瞻きせん会稽内史かいけいないしに任命された。

その在任中、ある者がいつわって大将軍府だいしょうぐんふ(命令のあかし)を作り、諸曁県令しょきけんれいを捕らえさせるという事件が起きた。不正に気づいた紀瞻きせんただちにろうを破って県令けんれいを救い出し、さらに使者を取り調べたところ、やはりそれは詐欺さぎであることが明らかになった。

西晋せいしん愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)の建興けんこう3年(315年)、司馬睿しばえい丞相じょうしょうに進むと、紀瞻きせん丞相軍諮祭酒じょうしょうぐんしさいしゅに任命され、さらに「陳敏ちんびんち平らげた功績」によって臨湘県侯りんしょうけんこうに追封された。

また、西台せいだい長安ちょうあん愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)]が紀瞻きせん侍中じちゅうに任命したが、赴任しなかった。

脚注

*7河北かほくを拠点とするけつ族出身の軍事指導者。形式上は劉淵りゅうえん劉聡りゅうそうらが建国したかん前趙ぜんちょう)政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北かほく一帯を支配する半独立勢力であった。のちに自立して後趙こうちょうを建国し、皇帝に即位する。

司馬睿に帝位を勧める

西晋せいしん愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)の建興けんこう4年(316年)、かん前趙ぜんちょう)によって長安ちょうあん陥落かんらくされ、愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)は捕らえられた。

東晋とうしん建武けんぶ2年(318年)、愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)が殺害されたという知らせが建康けんこうに伝わると、紀瞻きせん王導おうどうら百官は共に司馬睿しばえい勧進かんじん(皇帝に即位するようにうこと)したが、司馬睿しばえいはこれを許さなかった。

そこで紀瞻きせんは「司馬睿しばえいが即位しなければ、しんが途絶えてしまう危機がせまっている今、悠長ゆうちょうに辞退している場合ではないこと」を切々といてさらに勧進かんじんしたが、司馬睿しばえいはなおも承諾せず、殿中将軍でんちゅうしょうぐん韓績かんせきに命じて(紀瞻きせんたちが用意した皇帝の)御座ぎょざを撤去させようとした。

これを見た紀瞻きせんが「帝座(天子てんし御座ぎょざ)は天の星宿せいしゅく(天の秩序)に応じたものだ。これを動かそうとする者があれば、斬るっ!」としかりつけると、ついに司馬睿しばえいは顔つきを改めた(即位を決意した表情になった)。

紀瞻きせんの2度目の勧進かんじん・全文
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「陛下は天の道に通じる資質をお持ちでありながら、なおもそのすぐれた機知・精神を史籍(史書の記録)に向け、古代の人々の成功と失敗を観察しておられますが、今の世の出来事は目に見える形で明らかであり、(即位すべきことを)見抜くことは難しくありません。

懐帝かいてい司馬熾しばし)・愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)の]2人の皇帝は国の統治に失敗し、宗廟そうびょう荒廃こうはいし、(帝位の象徴である)神器はしんの手を離れて2年の月日がちました。亡き皇帝の梓宮しきゅうひつぎ)もまだほうむられておらず、人も神も混乱の中にあります。

陛下に表れた膺録ようろく*8受図じゅと*9は、特別に天がさずけられたものです。六合りくごう(天地と東西南北:宇宙全体)は一新され、遠方の辺境の地に至るまでが来朝し、宗廟そうびょうは再建されて神主しんしゅ(祖先の霊が降臨する場所)も再び安置されました。

すべての民は陛下の徳をしたって従い、ことなる風俗の者(異民族)までもがことごとく来朝しております。それはちょうど、星々が北極星を中心に秩序立って運行し*10、多くの川が大海へと流れ帰るようなものです。

それでもなお、匹夫ひっぷの謙(一個人の小さな節義)を守って辞退し続けようとされるのは、(祖宗の事業を継承して)七廟しちびょう*11ひらき、国家の中興ちゅうこうを成しげるための道ではありません。

国賊こくぞくは必ずや討伐しなければなりません。そのためには、ご自身の(謙譲けんじょうという)志を曲げて、天下の人々の期待に応えるべきなのです。

(今、陛下は)天の時に逆らい、人事にそむき、地の利を失おうとしておられます。この3つのうち1つでも欠けば、たとえ後にどれほど力を尽くしても、祖宗の危急を救うことはかないませんぞ!

時に応じた適切な判断は多岐にわたりますが、大業(国家の再興)を維持し、支え続けることができるのは、『理(道理)』と『当(妥当)』だけです。

しんの国運は行きまり、今この時をもって限界に達しております。今すぐ(即位を)決断なされば、(しんを)中興ちゅうこうして再び盛んにさせることができますが、もしこれをためらい放置すれば、奸賊かんぞくに権力を与えることになります。これこそが、先ほど申しました『理(道理)』でございます。

陛下は今、国難の真っ只中ただなかに身を置きながらも、帝統を継承されるお立場にあられます。宗室を見渡してみましても、帝位をおゆずりできるお方は、他に誰がいらっしゃるというのでしょうか。当然、(陛下が)この大位を継ぐべきなのです。これこそが、先ほど申しました『当(妥当)』でございます。

しんの)四祖*12は宇宙を切り開き、これほどまでの偉大な事業を残されました。ですが今、五都(主要な都市)は焼き払われ、宗廟そうびょうまつる者もいない有様で、劉載りゅうさいかん前趙ぜんちょう)の劉聡りゅうそう]らが西北で神器(帝位)を盗みもてあそんでおります。

それなのに陛下は、東南の地で高潔にゆずり合いを演じようとなさっています。これは例えるなら、『揖礼ゆうれい(礼儀正しくお辞儀)をしてゆずり合いながら、目の前の火事を消そうとしている』ようなものです。

わたくしたちのような取るに足らない者でさえ、[かん前趙ぜんちょう)が西晋せいしんを降伏させ、愍帝びんてい司馬鄴しばぎょう)を殺害したことを]許しがたいと思っておりますのに、天地と徳を合わせ、太陽や月のように明るく世界をらす偉大なお方が、どうして好機をいっし、時に遅れて良いものでしょうか!」

脚注

*8帝王が天命を受けたことを示す符瑞ふずい(めでたいしるし)。膺籙ようろく瑞祥ずいしょう吉兆きっちょう

*9帝王が天命を受けて即位することをす。尚書中候しょうしょちゅうこうしるされている「河伯かはく大禹だいう河図かとさずけたという故事に由来する。尚書中候しょうしょちゅうこうとは、尚書しょうしょをもとにして、天命・瑞兆ずいちょう・帝王の正統性を説明するために作られた予言書。

*10原文:若列宿之綰北極。
列宿は多くの星々。わんには、①曲げて輪にする。 ②たくる。たぐる。 ③むすぶ。つなぐ。 ④べる。おさめる。の意味がある。

*11皇帝の祖先をまつ宗廟そうびょう天子てんし七廟しちびょう諸侯しょこう五廟ごびょう大夫たいふ三廟さんびょう一廟いちびょう

*12景帝けいてい司馬師しばし)・文帝ぶんてい司馬昭しばしょう)・武帝ぶてい司馬炎しばえん)・恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の4人。この中で皇帝に即位したのは武帝ぶてい司馬炎しばえん)・恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の2人。

辞職を願い出る

東晋とうしん元帝げんてい司馬睿しばえい)が践位せんい(即位)すると、紀瞻きせん侍中じちゅうに任命され、その後さらに尚書しょうしょへと転任した。

紀瞻きせんはたびたび上疏じょうそして諫言かんげんしたが、その多くが政治のあやまりを正し、国家に大いに利益をもたらすものであったので、元帝げんてい司馬睿しばえい)はその忠烈(忠義と剛直さ)をたいへん高く評価した。

その後、紀瞻きせんは長くやまいわずらって、もはや朝廷に出仕して政務に参与することができない状態となった。そこで上疏じょうそして、やまいの長期化により職務を果たせない現状と、そのまま在職することが国政の停滞ていたいまねくことへの憂慮ゆうりょべ、辞任と賢者の登用を願い出た。

こうしてやまいを理由に免官されたが、ほどなくして、また尚書右僕射しょうしょゆうぼくやに任命された。紀瞻きせんは何度も辞退したものの許されず、ついにはやまいが重いと称して帰宅しようとしたが、それすら許されなかった。

紀瞻きせんの辞職を求める上疏・全文
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わたくしやまいえず、職務を長く放棄ほうきすることになってしまいました。これまでたびたび真心を尽くして事情を申し上げてきましたが、いまだにお情けをもって(辞職の願いを)お聞き届けいただけておりません。

無為むいに俸禄を受けるばかりで、罪をかかえたまま病床にしており、責任の重さに心を悩ませております。死がせまるこの身において、いったいどのように身を処すべきか分かりません。

わたくしは『失いやすいのは「時(時機)」であり、二度と戻らないのは「年(歳月)」である』と聞きいております。だからこそ、いにしえの志士や義に厚い人々は、(登用されるために)かなえを背負って走り*13、市場で商歌しょうかをうたって*14時機をのがさず忠義を尽くし、その名を不朽ふきゅうのものにしたのです。

ですが実際には、それを成しげられずに機会を失う者がほとんどであり、成功する者はごくわずかにすぎません。

世の常の人の心というものは、栄誉や利益を求めてやまないものです。

わたくし凡庸ぼんようながら、思いがけず(陛下にお仕えするという)幸運に恵まれました。かなえを背負ったり、商歌しょうかをうたってみずからを売り込んだわけでもないのに、身のたけに合わない官位をむさぼり盗んでおりました。

古人こじんしたって力をくしてまいりましたが、毛ほどもむくいることができないまま、犬馬のように歯がおとろえ、様々なやまいむしばまれてしまいました。床にして命をつなぐこと百日余り、ひつぎを叩いて死を覚悟したかと思えば、布団を引き寄せて生にしがみつき、1日また1日と、ただおとろえゆくばかりです。

もし天がなおいくばくかの寿命を与え、陛下の広大なご恩にあずかることができたとしても、せいぜい命をわずかに保ち、陋巷ろうこう(貧しい家)で静かに横になるだけのこと。もはや再び八座はちざ尚書しょうしょ)の列に加わり、台閣たいかく(朝廷)に出入りすることなど到底かないません。

わたくしは目はかすみ、歯は抜け落ち、胸や腹は冷え切って傷もえず、そのうえ足まで不自由になりました。やまいの苦しみは、まさに耐えがたいものとなっております。

70という年齢は、礼典(礼の規定)でも第一線から退しりぞくべきとされる年齢であり、老衰ろうすいしるしは明らかに現れております。身をつつしんで退しりぞき、静かに暮らしたいと思うなら、わたくしはいったいどこに身を隠せばよいのでしょうか。


わたくしの職務は、戸籍や人口を管理し、租税を徴収することであり、これは国家にとって極めて重要な職務です。

今、六合りくごう(天地と東西南北:宇宙全体)は大きく動揺しており、人々の生活もまだ安定しておりません。[元帝げんてい司馬睿しばえい)が即位なされてから]ようやく教化が行き渡り始め、あらゆる制度もまだ創設されたばかりであり、兵の徴発ちょうはつや物資の輸送など、すべてに人手が必要な状況です。

わたくしがかつて健強であった時でさえ、昼夜を問わず働いても、間に合わなかったほどの激務でございます。まして今は、死が刻一刻とせまっている身上でございますれば、このまま長く重要な職務にとどまり続けていては、王事(国家の大事)を停滞させ、台無しにしてしまうでしょう。

もし朝廷が広い恩徳をもって(静養の)猶予ゆうよを与え続けるならば、わたくしうべき責任と不安は日ごとに重くなります。それにわたくしを官職から外さなければ、官制はすたれて意味がなくなり、事業はとどこおってしまうでしょう。わたくしの回復を待っていただいたとしても、わたくしは日ごとにおとろえていくばかりです。

今、天慈てんじ(陛下からの特別なご慈悲じひ)によって『わたくし病床びょうしょうにいながら官職についていること』が許されておりますが、そのために官職は空席同然となり、公務はとどこおっております。わたくし1人が特別に寛大な扱いを受け続けることは公平性をき、大望(国家への公正な期待)をそこなうことになってしまいます。

今や万国(天下)は改心して帰順し、賢俊けんしゅんな者たちが列をなして現れております。(わたくしのために)立派な官爵かんしゃくけたままにせず、賢才をつなぎ止める(登用する)ために使うべきです。

わたくしのようなけがんだ身が、官職に固執して(有能な者の)さまたげとなっていることは、古今の官吏かんりの進退のことわりに照らしても、決して正しいあり方ではございません。

陛下の広大な慈悲じひの心を少しだけお分けいただき、わたくし敝帷へいい[破れたとばり(幕)]をたまわりますようお願い申し上げます。そうしていただければ、わたくしの命が尽きて倒れた際にも、その幕をしかばねに敷いて(野ざらしにすることなく)ほうむられることができます。

時に応じてすぐれた人材を選んで登用し、官職を整え政務を遂行すいこうさせてください。そうすれば、わたくしは(職務をまっとうできないという)罪にわれることもなくなり、死んでも生きてもこの上ない幸せでございます」

脚注

*13阿衡あこう伊尹いいん)は、いん湯王とうおうに取り入ろうとしたが、その手段がなかった。そこで有莘氏ゆうしんしの娘の媵臣ようしん(付き人)となり、料理人としてかなえ(食べ物を煮る3本脚のうつわ)や(まな板)をかついで従った。こうして阿衡あこう伊尹いいん)は、料理の味の話を通じて湯王とうおうき、ついには王道へと導いた。史記しき殷本紀いんほんぎ

*14えいひと寧戚ねいせき寧越ねいえつ)はまずしい身の上であったが、「せい桓公かんこうに仕えて才能を発揮したい」と望み、商隊に従ってせい国へ向かった。都(臨淄りんし)の城外でせい桓公かんこうの姿を見た寧戚ねいせき寧越ねいえつ)は、牛の角を叩きながら商歌しょうか困窮こんきゅうした境遇と自分の才能を理解してくれる者に出会いたいと強く願う歌)を歌い、この歌を非凡だと感じた桓公かんこうまねかれて、主に農政においてその才能を発揮した。淮南子えなんじ道応訓どうおうくん

郗鑒の才能を上疏する

当時、郗鑒ちかん郗鑑ちかん)が守っていた鄒山すうざんは、たびたび石勒せきろく*7らによっておびやかされていた。紀瞻きせんは「郗鑒ちかん郗鑑ちかん)には将軍しょうぐん宰相さいしょうとしての器量がある」と考え、朝廷が彼を見捨ててかえりみなくなることを恐れて、上疏じょうそして「彼をし出してもちいる」ように願い出た。

その結果、朝廷はこの意見を受け入れ、郗鑒ちかん郗鑑ちかん)を徴召まねいて領軍将軍りょうぐんしょうぐんに任命した。都(建康けんこう)に到着すると、さらに尚書しょうしょに転任するように命じたが、郗鑒ちかん郗鑑ちかん)はやまいを理由にこれを拝命しなかった。

東晋とうしん元帝げんてい司馬睿しばえい)の永昌えいしょう元年(322年)のことである。

紀瞻きせん上疏じょうそ・全文
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わたくしは『皇代(王朝)が興隆こうりゅうする際には、必ずや“爪牙そうがとなる補佐”と“国家の城壁となる者”がおり、これらこそが、“帝王が天下を治め守り抜くための利器(すぐれた武器・道具)”なのである』と聞いております。ゆえに虞舜ぐしゅんは16人の賢相けんしょうを登用し、みずからは南面して政務をべ、やすんじて治めることができたのであります。

伏して拝見いたしますに、前の輔国将軍ほこくしょうぐん郗鑒ちかん郗鑑ちかん)は若い頃より高い節操を立て、人格は清廉にして名望は高く、文武両面の才略をそなえた当代きっての良幹りょうかんすぐれた頼りになる人物)です。

昔、戴若思たいじゃくし戴淵たいえん)と共に辟召まねかれながら辟地へきちに追いやられ、任地では孤立無援で、配下の兵も1りょ(500人)すらなく、援軍も届きませんでした。それでもなお、残された兵をよくまとめてやすんじ、けわしい地形を頼みに長年持ちこたえ、ついには凶悪なぞくどもに南侵を思いとどまらせたのです。

ですが、彼がひきいる兵はあまりに少なく、大きな手柄を立てるすべがありません。すでに名州(兗州えんしゅう)を統治し、また常伯じょうはく*18にもなっておりますが、もし郗鑒ちかん郗鑑ちかん)を台闥だいたつ(朝廷の中枢)でゆったりと政務に当たらせ、天子てんしの命令をしかるべく伝達・管理させたなら、必ずや彼は、相手が誰であれ恐れずに直言するという規範をまっとうし、袞職こんしょく*19あやまちをおぎない正してくれることでしょう。」

先朝(西晋せいしん)以来、人材の任用にはすでに一定の前例がございます。戴若思たいじゃくし戴淵たいえん)は尚書しょうしょの身分で六州都督りくしゅうととく征西将軍せいせいしょうぐんとなり、さらに常侍じょうじの位を加えられました。劉隗りゅうかい鎮北将軍ちんほくしょうぐんとして北方を守り、陳眕ちんしん鎮東将軍ちんとうしょうぐんとして東方をしずめております。

郗鑒ちかん郗鑑ちかん)は年次においては戴若思たいじゃくし戴淵たいえん)と同じであり、資質においても同じく八座はちざ尚書しょうしょ)に列しております。しかもその清らかな名望と重みは、当代随一の人物です。

聖朝(陛下)はこの上ない公平さをもって天下にのぞまれ、ただ公平であることだけを良しとされておられます。それゆえわたくしは、陋巷ろうこう(貧しい家)でやまいせっている身でありながら、日頃の見聞をすべて(この上疏じょうそにて)お伝えし尽くした次第です。

陛下におかれましては、どうかその寛大な御心をお開きになって、わたくしの言葉をお聞き届けください。国家のために、万分の一でもお役に立てることを願っております」

脚注

*1古代中国の伝説に登場する16人の賢才。ぎょうに仕えた「八元はちげん」としゅんに仕えた「八凱はちがい」を合わせて八元八凱はちげんはちがい(二八)と言い、すぐれた才徳を持つ賢臣の総称としてもちいられる。

*7河北かほくを拠点とするけつ族出身の軍事指導者。形式上は劉淵りゅうえん劉聡りゅうそうらが建国したかん前趙ぜんちょう)政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北かほく一帯を支配する半独立勢力であった。のちに自立して後趙こうちょうを建国し、皇帝に即位する。

*18かん代以後では皇帝の近臣を意味し、侍中じちゅう散騎常侍さんきじょうじす。

*19袞衣こんい天子てんしが着る儀礼服)をまとう者の職務。

脚注

*7河北かほくを拠点とするけつ族出身の軍事指導者。形式上は劉淵りゅうえん劉聡りゅうそうらが建国したかん前趙ぜんちょう)政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北かほく一帯を支配する半独立勢力であった。のちに自立して後趙こうちょうを建国し、皇帝に即位する。

明帝の信任

ある日のこと。明帝めいてい司馬紹しばしょう)はただ1人 紀瞻きせんだけを広間に呼び寄せて、 天下の行く末をうれえて深くなげきながら、「社稷しゃしょくの臣(国家を支える重臣)はもはや10人もいない。どうしたら良いだろうか」と言い、指を折って数えながら、「あなたはそのうちの1人だ」と言った。

これに紀瞻きせん謙遜けんそんしてへりくだると、明帝めいてい司馬紹しばしょう)は「今まさにあなた率直そっちょくに語ろうとしているのに、どうしてそこまで謙遜けんそんするのか!」と言った。


紀瞻きせんは文武両面の才能を兼ねそなえ、朝廷ではその忠(忠誠)・亮(明朗さ)・雅(気品)・正(正しさ)が称賛されていた。

まもなく領軍将軍りょうぐんしょうぐんに転任した。

当時、紀瞻きせんは常にやまいわずらっていたが、人々はその厳格で毅然きぜんとした態度に心服し、六軍(全軍)は彼をうやまおそれていた。

その後 紀瞻きせんは、長年のやまいを理由に辞職を願い出たが許されず、 さらに散騎常侍さんきじょうじの官まで加えられた。

王敦の乱

東晋とうしん明帝めいてい司馬紹しばしょう)の太寧たいねい2年(324年)、王敦おうとんが帝位の簒奪さんだつくわだてて、再び建康けんこうへ攻め寄せた。この時 明帝めいてい司馬紹しばしょう)はすでに王敦おうとんそなえて準備を整えており、あわせて紀瞻きせんに人をつかわして、

あなたは病身ではあるが、横になったままでよいからちんのために六軍(全軍)を統率してくれ。それだけでも大いに助けになる」

と言い、布千匹を下賜かししたが、紀瞻きせんはそれを自分の家には持ち帰らず、将兵たちに分け与えた。

紀瞻の死

同年、王敦おうとんの乱が平定されると、紀瞻きせんは再び上表して帰郷を願い出た。明帝めいてい司馬紹しばしょう)はそれを許さなかったが、それでも紀瞻きせん固辞こじして出仕しなかった。

そこで明帝めいてい司馬紹しばしょう)はみことのりを下して、

紀瞻きせんは忠誠にして明朗、気品正しく、大局を見通し国家を治める識見をそなえている。しかもたびたび高齢とやまいを理由に、慎重に退職を願い出てきた。ちんはその志を深く理解しており、これ以上その高い志に逆らうのはしのびない。よってその願いを許して驃騎将軍ひょうきしょうぐんとし、散騎常侍さんきじょうじはこれまで通りとする。衣服や待遇の制度はすべて旧典に従うように」

と言い、使者を派遣してその任命を自宅で行わせ、そのまま自宅を官府(驃騎将軍府ひょうきしょうぐんふ)とした。

それからまもなくして、紀瞻きせんは72歳で亡くなった。


死後、正式に本来の官位をおくられ、さらに開府かいふ儀同三司ぎどうさんしの位を加えられて「ぼく」とおくりなされ、せつを持った御史ぎょしを派遣して葬儀を監督させた。

王含おうがん討伐の功績が論じられ、死後に華容子かようしに追封されて、元の爵位は2等下げる形で調整された。また、次子の紀鑒きかん紀鑑きかん)が亭侯ていこうに封ぜられた。

紀瞻の人柄

紀瞻きせんは性格が物静かで口数が少なく、若い頃から人付き合いはあまり広くなかったが、読書を好んだ。時にはみずからの手で書物を書き写し、その著作ちょさくとして詩・(長文詩)・せん(手紙)・上表文など数十篇を残している。また、音楽にも通じており、その妙をほとんど極めていた。

生活においては自らを手厚くやしない、烏衣巷ういこうに邸宅を構えたが、そのやかたや建物は高大で華麗であり、庭園や池、竹林や樹木も整えられていて、十分に観賞に値するものであった。

行いはつつしみ深く、人材を愛し、年を取るにつれてその傾向はいっそう深まった。


尚書しょうしょ閔鴻びんこう太常たいじょう薛兼せつけん広川太守こうせんたいしゅ河南かなん出身の褚沈ちょしん給事中きゅうじちゅう宣城せんじょう出身の章遼しょうりょう歴陽太守れきようたいしゅ沛国はいこく出身の武嘏ぶからは、いずれも元々紀瞻きせんとは親しくはなかったが、皆その高い人格に感じ入り、臨終りんじゅうにあたっては後事を紀瞻きせんたくした。

紀瞻きせんは彼らの家のことをすべて世話し、住まいや生活の面倒を整え、その関係はまるで肉親同然であった。


若い頃には陸機りくき陸雲りくうん兄弟と親しくしていたが、陸機りくき誅殺ちゅうさつされると、その家族を手厚く救済して行き届いた援助を与えた。さらに陸機りくきの娘をとつがせる際には、実の娘をとつがせるのと同じように持参金や支度を整えてやった。


長子の紀景きけいは早くに亡くなり、紀景きけいの子・紀友きゆうがその後を継いで、官は廷尉ていいにまで昇った。

紀景きけいの弟である紀鑒きかん紀鑑きかん)は、太子庶子たいししょし大将軍だいしょうぐん従事中郎じゅうじちゅうろうを歴任したが、紀瞻きせんよりも先に亡くなった。

出典
  • 晋書しんじょ』巻68列伝れつでん第38紀瞻伝きせんでん
  • 晋書しんじょ』巻68列伝れつでん第38薛兼伝せつけんでん
  • 晋書しんじょ』巻67列伝れつでん第37郗鑒伝ちかんでん
  • 資治通鑑しじつがん』巻86

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