正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑫丹陽郡紀氏②紀瞻です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き⑫
紀瞻
紀瞻・思遠
呉の孫亮の建興2年(253年)〜東晋・明帝(司馬紹)の太寧2年(324年)。揚州・丹陽郡・秣陵県の人。祖父は呉の尚書令・紀亮。父は呉の光禄大夫・紀陟。子に紀景、紀鑒(紀鑑)。孫(紀景の子)に紀友。
江南の名門の家柄に生まれ、東晋の元帝(司馬睿)が江東の地において東晋政権を樹立するのを補佐し、その功績によって東晋の元帝(司馬睿)および東晋の明帝(司馬紹)から厚く信任された。
また紀瞻は、徐州・広陵郡出身の閔鴻、揚州・呉郡出身の顧栄、揚州・会稽郡出身の賀循、揚州・丹陽郡出身の薛兼と並び称されて、あわせて「五俊」と呼ばれた。
秀才の策問
紀瞻は若い頃から、公正で真っ直ぐな人柄によって名声を得ていた。
やがて(西晋によって)呉が平定されると、一家は揚州・歴陽郡に移住し、孝廉に推挙されたが出仕しなかった。
その後、秀才に推挙された紀瞻は、尚書郎の陸機から策問(試験のための質問)を受けた。
晋の取るべき制度について
陸機「古の夏は『忠(忠義)』を重んじたが『朴(朴訥)』に陥った。殷は『朴(朴訥)』を正して『敬(信心)』を重んじたが、今度は『鬼(迷信)』に陥った。周は『鬼(迷信)』を正して『文(礼・制度)』を重んじたが『薄(不誠実)』に陥った。そして、『薄(不誠実)』を正すために必要なのは『忠(忠義)』である。今、この『3代の制(制度)』のうち、どれに従うべきであろうか?」
紀瞻「3代がこのように循環したのは、水が火を制するように、時代に応じて弊害を救った結果です。これは聖人たちの違いではなく、時代の変化によるものなのです。
今、大晋によって天下は統一されましたが、人々の心が(『薄(不誠実)』へと)変質してしまってから、長い年月が経っています。
今は『文(礼・制度)』の過度な部分を取り除き、『樸(質朴)』を保って本源に立ち返るべきです。そうすれば、万民は次第に教化され、太平の世が実現できるでしょう」
明堂・清廟・辟雍・太学について
陸機「古の哲王(賢明な王)たちは、国を治める上で極めて重要な制度を定めた。それらは、上帝(天帝)を崇め祀るための『明堂』、祖先の霊を安んじ祀るための『清廟』、礼による教化を天下に広めるための『辟雍』、そして学問や芸術を講じ研鑽するための『太学』であるが、秦が学問を破壊したことでこれらの制度は荒廃し、失われてしまった。
これについて、漢代の文献には『用途や役割が異なる』と記され、(後漢の)蔡邕はその著書『月令』(『月令章句』)の中で、これらを『同一の物である』と説いている。このように諸説が入り乱れている現状において、どの説に従うべきであろうか?」
紀瞻「周の制度における『明堂』とは、祖先を宗として上帝(天帝)と併せて祀り、 敬虔にして明らかな祭祀を行って、孝道を永く輝かせるための施設です。
その主要な機能は6つあり、それぞれの機能の側面によって『太廟』『清廟』『太室』『明堂』『太学』『辟雍』と呼び分けられているだけで、そこで行われる事柄は密接に関連しており、その実体は1つです。このことから(後漢の)蔡邕も、これらを指して『同一の物である』と述べたのです」
人材登用について
陸機「その時代にかかわらず、君主と賢人は互いを必要としているはずなのに、実際には千年もの間、その期待は常に裏切られ続けている。
古の興王(国を興した王者)は、どのような方法で人材を得ることができたのか。また、後の衰世(衰退した時代)には、何が欠けていたために(人材を失うという)惨状を招いたのだろうか?」
紀瞻「今、賢者を推挙する道は開かれましたが、教育と学問の務めは未だ広く行き届いておりません。そのため、功名を競って進み出ようとする志ばかりが鋭く、学問に励もうとする心は修まっていないのです。
もし四方の門を開いて広く人材を招き入れ、五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の5つの徳目)を宣揚して立派な徳を明らかにし、功績を厳格に評価して優劣を定め、彼らを百官や諸官庁の官職に配置したならば、物事は適切に整い、国家の法典も正しく運用されるようになります」
族誅の是非について
陸機「暴虐な秦の時代には族誅(罪人の一族まで処罰する刑罰)が加えられ、行き過ぎた重刑が連鎖的に広まって、残酷な刑罰が甚だしく濫用されるようになったが、漢・魏の時代もこれを踏襲し、改めることはなかった。
とはいえ、世が安定している時と危険な時とでは同じではなく、寛大さと厳格さとの中間を取るとすれば、どのような制度を立てるのが適切であろうか。また、族誅の法は永く定めるべき制度たり得るのであろうか?」
紀瞻「今や四海(天下)は統一され、人々が本来のあり方へ立ち返ろうとしています。質素・簡潔を尊べば貪欲な者は争わなくなり、賢者を尊び不適任者を退ければ、不仁の者は遠ざかるようになります。
したがって、参夷の刑(親族連座刑)を軽減し、族誅の律(法)を廃止するべきです。そうすれば、万物それぞれがその本来の生き方に従い、異なる時代の制度を調和させつつ、共に安定させることができるでしょう」
陰陽の不一致について
陸機「五行は互いに交替しながら循環し、陰と陽は互いに補い合って存在している(陰陽五行説)。(陰と陽のどちらか)一方の気が偏って失われれば、万物は単独では成立することができないはずである。
ところが今、(冷たい泉に対して)『温かい泉』は存在するのに、(熱い火に対して)『冷たい火』というものが存在しないのは、いったいどういう理由によるものだろうか?」
紀瞻「水は下に潤い流れ、火は上に燃え上がるものであり、剛と柔、乾燥と湿潤はいずれも自然本来の性質です。
陽は動いて外へ向かい、陰は静まって内に向かいます。内にあるものの性質は柔弱で、包み込み受け入れることを本質としており、外に働くものは剛直で、外界に接して作用することを本質としています。
水が温かさを受け入れることができるのも、包み込み受け入れることを本来の性質としているからなのです」
聖人の道の衰退について
陸機「伏羲・黄帝の時代の理想的な政治の規範を踏襲することができれば、玄古(太古)の純朴な風俗を再び継承することも可能である。しかしながら時代が下るにつれて、帝王の定めた簡明な法さえも次第に複雑化して、過ぎ去ってしまった素朴で純粋な徳は、もはや元に戻ることはなくなってしまった。
太樸(太古の純朴な本来のあり方)がひとたび失われてしまうと、もはや正しい道理は再び立て直すことはできないのだろうか。やはり時代が下るにつれて、聖人の道は次第に衰えていくものなのだろうか?」
紀瞻「政治とは時代に応じて行われるものであり、その施策も時代に応じて変化するものです。すべての制度の廃止や制定には理由があり、刑罰の軽重も節度に応じて定められた結果なのです。
法や制度の複雑化は、変化の法則を理解した結果であり、その時代に適応したものであって、決して時代が下るにつれて衰えたわけではありません」
陸機の策問と紀瞻の返答・全文
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晋の取るべき制度について
陸機「昔の3代(夏・殷・周)の明王は大いなる事業を創始した。その制度の性格(文と質)は互いに異なってはいるものの、その立てた名声は一致して立派なものであった。
夏の人々は『忠(忠義)』を重んじたが、『忠(忠義)』が行き過ぎれば『朴(朴訥)』に流れてしまう。その『朴(朴訥)』を正すには、『敬(信心)』をもってするのが最もよい。
そこで殷の人々は、それを改めて『敬(信心)』を整えたが、『敬(信心)』が行き過ぎれば『鬼(迷信)』への偏重に陥る。その『鬼(迷信)』への偏りを正すには、『文(礼・制度)』によるのが最もよい。
そこで周の人々は、さらにこれを矯正して変革したが、『文(礼・制度)』が行き過ぎれば『薄(不誠実)』になってしまう。そしてその『薄(不誠実)』を正すには、再び『忠(忠義)』へと立ち返るのである。
王道というものは、このように反覆して一定しないものなのだろうか。それとも拠りどころとした原理が異なるために、その功業もそれぞれ異なったのであろうか。
聖王がいなくなって以降、人々の心は長いあいだ離散したままである。3代における制度の増減や、民の変遷について、その理由を聞くことはできるであろうか。
今、古に立ち返ってその弊害を救い、良い風俗を明らかにしてその悪習を洗い清めようとするならば、三代の制度のうち、どれに従うべきであろうか。また、太古の教化には、どのような異なる道があったのであろうか」
紀瞻「瞻の聞くところでは『国家を治める者は皆、教化を進めて政治を盛んにし、業績を安定させて、その名声を永く後世に伝えようと望む』ものです。
ですが、世俗は変化し制度には弊害が生じるため、時代に応じて変えなければなりません。これは聖人の治世であっても例外ではありません。ゆえに、忠が行き過ぎれば素朴で粗野となり、敬が行き過ぎれば儀礼が過剰になります。
周は夏・殷の2王の弊害を教訓として礼文を重んじ身分秩序を明確にしましたが、形式を重視することで誠意を失いました。誠意が薄れれば再び忠へ立ち返ることになります。
三代がこのように循環したのは、水が火を制するように、時代に応じて弊害を救うための方法だったのです。
伏羲の時代は簡素で飾り気がなく、何ら作為を加えなくとも自然に民が感化されて治まっていました。後の聖人たちは、時代に応じて異なる課題に取り組みましたが、これは聖人たちの違いではなく、時代の変化によるものです。
今や大晋は天の理を明らかにし、その聖なる功績は日に日に高まっています。天意を承け、時の流れに従って、九有(天下)は統一され、辺境の地の君主たちも皆、帰順して集まってきていますが、(伏羲の時代のような)古の大道はすでに遠ざかり、人々の心が変わってしまってから、長い年月が経ってしまいました。
したがって、現在の政治は礼文の過度な部分を取り除き、質朴さを保って本源に立ち返るべきです。そうすれば、万民は次第に教化され、太平の世が実現できるでしょう」
明堂・清廟・辟雍について
陸機「かつて、哲王(古代の賢明なる王)たちは、万物の秩序を明らかにして しかるべき形を整え、諸制度を確立した。
すなわち、上帝(天帝)を崇め祀るための『明堂』、祖先の霊を安んじ祀るための『清廟』、礼による教化を天下に広めるための『辟雍』、そして学問や芸術を講じ研鑽するための『太学』である。
これらはいずれも国家にとっての重要な制度であり、国家統治の大きな根幹であったが、秦が学問を破壊したことでこれらの制度は荒廃し、失われてしまった。
その後の儒学者たちの議論では、それぞれ制度の取捨や解釈が異なり、漢代に残された文献を見ても、それらは『異事(用途や役割が異なる)』と記されている。一方で(後漢の)蔡邕は、その著書『月令』(『月令章句』)において、これらを『同一の物である』と説いており、諸説が入り乱れている。どの説に従うべきであろうか?」
紀瞻「周の制度における『明堂』とは、祖先を宗として上帝(天帝)と併せて祀り、 敬虔にして明らかな祭祀を行って、孝道を永く輝かせるための施設です。
その主要な機能は6つあり、古の聖帝・明王が南面して政務を行う時、その6つの機能はいずれも『明堂』を中心として行われました。
また、その建物の中央はすべて『太廟』と呼ばれます。ここでは天の時に順応し、法令を施行し、先祖を祀って老人を養い、学問を講義し、諸侯を朝見させて優秀な人材を選抜し、礼を整え物事を選別しますが、これらはすべて、教化の拠り所となるものです。
ゆえに、先祖を祀るという側面を見れば『清廟』と呼び、正室(本殿)としての外観を見れば『太廟』と呼び、その部屋自体を見れば『太室』と呼び、堂(広間)を取れば『明堂』と呼び、四方の門にある学舎としての側面を取れば『太学』と呼び、周囲をめぐる水が璧のように丸いことを取れば『辟雍』と呼びます。
これらは名前こそ異なりますが、行われる事柄は密接に関連しており、その実体は1つなのです。このことから(後漢の)蔡邕も、これらを指して『同一の物である』と述べたのです」
人材登用について
陸機「陶唐氏(堯)の時代は賢明な人材が才能を発揮したため、世の中は和らぎ睦まじいものであった。また、周に天命が下ると多くの優れた人材が(周を)隆盛させた。
ゆえに『尚書』には(賢君と忠臣が互いを称え合う)『明良の歌』が記され、『易経』繋辞上伝では(心を同じくする者同士の)『金蘭の美(固い絆)』が尊ばれている。
これこそが、長い歴史において国家が興廃する理由であり、国を持つ者が尊ばれるか廃れるかの分岐点でもある。ゆえに成功を収める君主は人材を求めることに勤め、名を成そうとする士(賢人)は、世に用いられる機会を求めて急ぐのである。
その時代にかかわらず、君主と賢人は互いを必要としているはずなのに、実際には千年もの間、その期待は常に裏切られ続けている。
古の興王(国を興した王者)は、どのような方法で人材を得ることができたのか。また、後の衰世(衰退した時代)には、何が欠けていたために(人材を失うという)惨状を招いたのだろうか?」
紀瞻「国家を興隆させるために務めるべきは賢者を得ることであり、清らかで安定した教化をするために急がれるのは、才能ある者を抜擢することです。ゆえに二八*1を登用すれば政務は安定し、10人の有乱(治臣)がいれば、天下は安泰となります。
かつて殷の武丁は傅岩(傅険)で版築(土を突き固める土木工事)に従事していた説(傅説)を抜擢し、周の文王は、渭水のほとりで釣りをしていた呂尚(太公望)を連れ帰りました。彼らを上位の官職につけて国政を委ねたからこそ、(殷と周は)龍が天に昇るがごとく勢いづき、百代の後まで勲功を伝えることができたのです。
先王たちは、自ら質素な家に足を運び、埋もれた賢才を捜し求めました。その結果、山には『扶蘇*2の才』(を持つ賢者は登用されて)いなくなり、野では(賢者が不遇を嘆く)『詩経』魏風・伐檀のような詩が詠まれることもなくなりました。
こうして徳化が厚くなれば、万物もそれに感応して天地の神々が応じ、鳳凰が舞い飛び、甘露が豊かに降り、醴泉(甘い水の湧く泉)が噴き出し、瑞祥である朱草が自生するようになり、万物が茂り、太陽も月もいっそう輝き、和やかな気が天下に満ちて、大道が完成します。
そして、君臣の義を整え、父子の親愛を厚くし、夫婦の道を明らかにし、長幼の序をわきまえさせれば、九州(中国全土)から八荒(世界の果て)、海外の国々までもが心を寄せ、幾度も通訳を重ねて貢ぎ物を持って入朝するようになり、称える声は美しく響き渡って、『垂拱の治*3』が実現されるのです。
今、賢者を推挙する道は開かれましたが、教育と学問の務めは未だ広く行き届いておりません。そのため、功名を競って進み出ようとする志ばかりが鋭く、学問に励もうとする心は修まっていないのです。
もし四方の門を開いて広く人材を招き入れ、五教*4を宣揚して立派な徳を明らかにし、功績を厳格に評価して優劣を定め、彼らを百官や諸官庁の官職に配置したならば、物事は適切に整い、国家の法典も正しく運用されるようになります。
そうなれば、必ずや国家の安寧を助けることができ、過去の盛世と合致して明君と良臣が互いに応じ合い、『金蘭の美(固い絆)』が再び蘇ることになるでしょう」
脚注
*1古代中国の伝説に登場する16人の賢才。堯に仕えた「八元」と舜に仕えた「八凱」を合わせて八元八凱(二八)と言い、優れた才徳を持つ賢臣の総称として用いられる。
*2秦の始皇帝(嬴政)の長子。始皇帝(嬴政)が巡幸中に亡くなると、弟の胡亥を立てようとする趙高の陰謀によって自害した。
*3天子の徳により民衆が感化されて、天子が何かをすることなく天下が平穏に治まること。 「垂拱」は袖を垂れて手をこまねくという意味から、何もしないこと。
*4「父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝」の5つの徳目。儒教における家族倫理。
族誅の是非について
陸機「昔、唐(堯)・虞(舜)の時代には五刑の教えが示され、また周公は四罪の制度を明確に定めた。ゆえに世の人々は公平な裁判を称賛し、当時の光り輝くような治世を歌ったのである。
ところがその後、姦悪な者どもが増えるにつれて法制度や刑罰の規定も次第に増加し、後世になると、三辟(重刑)に関する条文が重んじられるようになった。
暴虐な秦の時代には族誅(罪人の一族まで処罰する刑罰)が加えられ、行き過ぎた重刑が連鎖的に広まって、残酷な刑罰が甚だしく濫用されるようになったが、漢・魏の時代もこれを踏襲し、改めることはなかった。
とはいえ、世が安定している時と危険な時とでは同じではなく、世を救う方法も状況に応じて異なるのだから、やむを得ず用いられてきたのである。
では、寛大さと厳格さとの中間を取るとすれば、どのような制度を立てるのが適切であろうか。また、族誅の法は永く定めるべき制度たり得るのであろうか?」
紀瞻「二儀(天地)が分かれて万民が生まれ、万民が生まれると、そこに利害が生じました。利害が生じるのには、それなりの理由があるのです。
太古の時代には、人々は道徳によって教化され、勇力は軽んじられ、仁義が貴ばれていました。仁義が貴ばれていたため強者が弱者を侵すことはなく、多数が少数を虐げることもありませんでした。
三皇の時代には、結繩*5による記録(文字以前の統治)だけで天下は安定していましたが、これは単に、明確な刑罰制度が整っていたというだけではありません。
そもそも太古の人々が法を知っていたのは、獄(刑罰)を遠ざけるためでした。ですが、時代が下って罪の取り締まりが強化されると、訴訟や刑罰はますます多くなりました。すると、人々はますます荒々しくなり、法令はますます増えて、盗賊も多く現れるようになったのです。
『尚書』に『謹んで五刑を用い、3つの徳を成就させよ』とあります。
後世になって世の道が衰えると、三辟(重罪に対する3種の極刑)が行われるようになり、さらに(春秋時代の秦の)文公の時代の弊害として、族誅(親族まで連座して処罰する刑)が加えられました。行き過ぎた刑罰が広く行われ、天地の調和の気を傷つけ、その影響は後の世代まで汚染し、改めることができなくなってしまったのです。
ゆえに漢の高祖(劉邦)が号令すると天下は呼応して従い、魏もまた漢末の制度を受け継ぎ改めなかったのは、風俗の変化には長い時間がかかるためであり、その時々の事情に応じたやむを得ない措置だったのです。
今や四海(天下)は統一され、人々が本来のあり方へ立ち返ろうとしています。質素・簡潔を尊べば貪欲な者は争わなくなり、賢者を尊び不適任者を退ければ、不仁の者は遠ざかるようになります。
したがって、参夷の刑(親族連座刑)を軽減し、族誅の律(法)を廃止するべきです。そうすれば、万物それぞれがその本来の生き方に従い、異なる時代の制度を調和させつつ、共に安定させることができるでしょう」
脚注
*5昔は文字がなく、盟約や約束ごとがある場合には、その事柄が重大であれば縄を大きく結び、その事柄が小さければ縄を小さく結んだ。そして結び目の数の多少は、関係する物事や人数の多寡に応じて決められていた。
陰陽の不一致について
陸機「五行は互いに交替しながら循環し、陰と陽は互いに補い合って存在している(陰陽五行説)。二儀(天地=陰陽)は万物を育て生み出す根本であり、また四季がめぐることによって変化・生成してゆく。
『易経』繋辞上伝に『天にあっては象(現象)を成し、地にあっては形(実体)を成す』とある。
これは、天と地における『象』と『形』の成立は、互いに助け合って成り立っているということを言っており、もし陰と陽の調和が失われれば、天地の大きな運行の法則そのものがうまく働かなくなるということだ。
(陰と陽のどちらか)一方の気が偏って失われれば、万物は単独では成立することができない。これは、(陰陽が)互いに対応し合っている証拠であり、偏りなく成り立っていることの証拠でもある。
ところが今、(冷たい泉に対して)『温かい泉』は存在するのに、(熱い火に対して)『冷たい火』というものが存在しないのは、いったいどういう理由によるものだろうか。
この、『同じように対応しているはずなのに一致しない理由』を聞かせてほしい」
紀瞻「『陰と陽は上昇と下降という働きをもち、また山と沢とは気を通じ合わせる関係にある』と聞いています。
『易経』乾卦の初九は純陽の卦であり、『潜龍は用いるべきではない。(陽の気がまだ下にあるのだから)』とあります。(地下に潜む龍とは、)泉の源がそこに依拠していることを意味しており、その水が温かいのは当然のことなのです。
さてそもそも、水は下に潤い流れ、火は上に燃え上がるものであり、剛と柔、乾燥と湿潤はいずれも自然本来の性質です。したがって、陽は動いて外へ向かい、陰は静まって内に向かうのです。
内にあるものの性質は柔弱で、包み込み受け入れることを本質としており、外に働くものは剛直で、外界に接して作用することを本質としています。そのため、金や水はその内に(包み込んで鏡のように)映し、火や太陽の光は外に輝いて外界を照らすのです。
つまり、剛は働きかける側となり、柔は受け入れる側となり、陽が勝れば陰は隠れることになります。
水が温かさを受け入れることができるのも、包み込み受け入れることを本来の性質としているからなのです」
聖人の道の衰退について
陸機「神妙(万物の根源的原理)を究め、その変化法則を理解することこそが、人の才能の極致であり、万物を備え整え、それらを十分に活用することこそが、功績の到達し得る最高の境地である。
これらの道理をもって政治を行うならば、伏羲・黄帝の時代の理想的な政治の規範を踏襲することができ、また、この道理によって乱れた世を改革するならば、玄古(太古)の純朴な風俗を再び継承することも可能である。
しかしながら、唐(堯)・虞(舜)の時代には、皇人(太古の聖王たち)の大らかな統治の大綱をいっそう細かく整備し、さらに夏・殷の時代になると、帝王の定めた簡明な法さえも次第に複雑化して、過ぎ去ってしまった素朴で純粋な徳は、もはや元に戻ることはなくなってしまった。
太樸(太古の純朴な本来のあり方)がひとたび失われてしまうと、もはや正しい道理は再び立て直すことはできないのだろうか。やはり時代が下るにつれて、聖人の道は次第に衰えていくものなのだろうか」
紀瞻「政治とは時代に応じて行われるものであり、その施策も時代に応じて変化するものです。
ゆえに聖王は、窮通の源(物事がうまく通じるか行き詰まるかの根源)を究め、始まりから終わりまでの道理をよく見極めて、その時代に最もふさわしい方法を選んで、世を救済することを目的としました。
太古の聖王の時代には、人々は素朴で災難や争乱は起こらず、結繩*5による記録(文字以前の統治)だけで守るべきことを理解していました。
ところが、大道(根本の正しい道)が失われてからは、人為的な知恵が、かえって世の中を乱すようになったため、治世と乱世では同じ方法では治めることができず、政治のあり方もそれぞれ異なるものとなったのです。
そのため、唐(堯)・虞(舜)の時代には、統治の基本原則を緻密に整備し、夏・殷の時代には、帝王の法制度をさらに詳しく作り上げました。すべての制度の廃止や制定には理由があり、刑罰の軽重も節度に応じて定められた結果なのです。
これは神の道(神妙な道理)を究め、変化の法則を理解した結果であり、その時代に適応したものであって、決して時代が下るにつれて衰えたわけではありません」
脚注
*5昔は文字がなく、盟約や約束ごとがある場合には、その事柄が重大であれば縄を大きく結び、その事柄が小さければ縄を小さく結んだ。そして結び目の数の多少は、関係する物事や人数の多寡に応じて決められていた。
晋に出仕する
西晋の恵帝(司馬衷)の永康元年(300年)、州に対して「家柄が貧しく清廉な人物(寒素の士)」を推挙するよう詔が下されると、紀瞻はその推挙を受ける人物として選ばれた。
西晋の恵帝(司馬衷)の永寧元年(301年)、大司馬であった司馬冏から東閣祭酒に辟召(招聘)された。また、その年のうちに、鄢陵公国の相に任命されたが赴任せず、翌年、左遷されて松滋侯国の相に任命された。
西晋の恵帝(司馬衷)の太安2年(303年)、紀瞻は官職を捨てて帰郷した。
当時は西晋において皇族(司馬氏)同士が皇位と実権を争って、連続的な政変と内戦を繰り返した「八王の乱(291年〜306年)」の只中であった。
顧栄らと共に陳敏を討つ
西晋の恵帝(司馬衷)の永興元年(305年)、右将軍・前鋒都督であった陳敏が歴陽で反乱を起こして独立しようとした。
陳敏は礼物や官職を与えて江東の豪族・名士を懐柔し、自分の勢力に取り込もうとしたが、陳敏の政治や刑罰の運用にはまったく規律がなく、またその子弟たちは凶暴で、行く先々で問題を起こしていた。
西晋の懐帝(司馬熾)の永嘉元年(307年)、廬江内史の華譚が、陳敏から官職を受けていた(呉の丞相・顧雍の孫、)顧栄らに書簡を送って非難すると、もとより陳敏を討ちたいと考えていた顧栄・周玘らは大いに恥じ入り、密かに使者を送って征東大将軍・劉準に報告し、軍を発して長江のほとりに進出するように要請した。
顧栄らの要請を受けた劉準は、揚州刺史・劉機らを派遣して歴陽から出撃させ、陳敏の討伐に向かわせた。
一方、顧栄の説得を受けて陳敏の下を離れた甘卓は、橋を断ち切り船を南岸に集めて、顧栄・周玘・紀瞻らと共に陳敏を攻撃した。
陳敏は自ら1万余の兵を率いてこれを討とうとしたが、陳敏の兵たちは江東の名士である甘卓・顧栄・周玘・紀瞻らを相手に戦うことに戸惑っていた。そこへ顧栄が白羽扇を振って合図をすると、兵はみな崩れて逃げ去り、捕えられた陳敏は建業に送られて、三族にわたって誅殺された。
太極について議論する
戦いが終わると、紀瞻は召されて尚書郎に任命され、同じく召された顧栄と共に洛陽へ赴いたが、その道中で2人は『易経』の「太極」について議論した。
「太極」についての議論・全文
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顧栄「太極とは『混沌の時代』のことを言い、まだ天地が分かれず、万物が曖昧で区別されていなかった状態を指す。そこでは日月の光も内に含まれ、八卦の神妙な理もまだ表に現れておらず、天地は混ざり合って一体となり、聖人の存在もまだその内に潜んでいた。
やがてそこから広く開けて変化が起こり、清いものと濁ったものが分かれ、二儀(天地)が姿を現し、陰陽が交わって調和し、万物が初めて芽生えて、六合(天地と東西南北:宇宙全体)が開かれていったのである。
『老子』第25章に『なにやら混じり合った物があって、それは天地より先に生まれ出た』とあるが、これこそまさに『易経』にいう太極のことである。
また、王氏(王弼)は『太極とは天地である』と言うが、愚は適当ではないと思う。そもそも両儀(二儀)とは、形あるものとして見れば天地であり、気の側から見れば陰陽である。もし今、太極を天地そのものだとするならば、それは天地が自ら生じたことになり、天地を生じさせる根源がなくなってしまうのだ。
『老子』に『天地が長く存在できるのは、自分自身のために生きていないからである』(第7章)とあり、『一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず』(第42章)とあるが、これは、万物の始まりにおいて、沖気*6が陰陽の2つの気を和合させているという道理を述べている。
万物の根源である『元気』の正体を探り、天地の根本を求めるならば、おそらくこの(『老子』の)教えを基準とするのが妥当ではないか」
紀瞻「昔、皰犧(伏羲)が八卦を描いたが、陰陽の理は(その中に表現され)尽くされていた。
その後、周の文王と仲尼(孔子)がその遺業を継ぎ、この3代の聖人たちは相互に受け継ぎ合ったが、その理解は完全に一致しており、『易経』は天の法則に準拠する書であって、それ以上に付け加えるべきものはもはや存在しない。
そもそも、天は清らかに澄み渡り、地は平らかに広がり、陰と陽の2つの気(両儀)が調和して交わり、四季は絶え間なく移り変わり、日と月はその狭間で光り輝いている。
こうした自然界に備わる数理(法則)は、たとえ多くの聖人たちが究明に努めてきたといえども、いったい誰がその根源的な始まりを知ることができるだろうか(いや、誰も知ることはできない)。
吾子は『万物にはまだ混沌として分かれていない状態があった』と言うが、果たしてそのようなことがあるのだろうか。聖人といえども人である。どうしてそのような混沌の初めに、その身をそこに潜ませて知ることができるのか。
老氏(老子)が言うところの『天地に先立つものがある』という言葉は、荒唐無稽な説であって、『易経』を修める者が意図するところではない。吾子ほどの深い洞察力を持ち、真理を体得されている方であれば、疑いようのないことであろう。
(私が)思うに、『太極』とは究極の極致を指す呼称であり、『その理が極まり、もはやその外側に形が存在しない状態』を言うのであって、形あるものの外側が極まり尽くしたところから、両儀(天地)が生じたのである。王氏(王弼)が指し示した方向性は、これに近いと言ってよい。
古人が『至極』(太極)という語を持ち出したのは、『二儀(天と地)はここから生じたのだ』と言うためであって、決して(太極に)『父や母となる存在がある』と言ったのではない。もしどうしても(万物の生成に)父母となる存在があると言うのであれば、それは天地の他に何があるというのだろうか」
顧栄はここで議論をやめた。
脚注
*6虚にして偏らず、万物を調和させる中和の気。
官を捨てて揚州へ引き返す
紀瞻らが徐州に到着した時のこと。「北方の戦乱が日増しに激しくなっている」と聞いた紀瞻らは、このまま洛陽へ進むべきかを迷い、先へ進まず様子をうかがっていた。
ちょうどこの時、徐州刺史の裴盾が東海王越(司馬越)から、
「もし顧栄らが進退を決めかねて逡巡しているようなら、軍礼をもって彼らを(洛陽へ)送り出せ」
との書簡を受け取った。
この知らせを聞いた紀瞻らは、顧栄や陸玩らと共に乗っていた船を離れ、車や牛を捨てて軽装となると、昼夜を問わず1日で3百里(約129km)を進み、ようやく揚州へと帰り着くことができた。
琅邪王・司馬睿に仕える
琅邪王・司馬睿(後の東晋の元帝)が安東将軍となって建業へ移鎮すると、紀瞻を招いて軍諮祭酒に任命した。
西晋の懐帝(司馬熾)の永嘉5年(311年)、司馬睿が鎮東大将軍に進むと、紀瞻はさらに鎮東長史に転任された。
当時、司馬睿は自ら紀瞻の家を訪れ、さらに紀瞻と同じ車に乗って共に帰るなど、たいへん親しく遇し、厚く信任していた。
同年、司馬睿は相次いで揚州都督の周馥および江州刺史の華軼を討伐し、これを滅ぼした。紀瞻はこれら2つの戦役における功績を改めて評価され、都郷侯に封ぜられた。
石勒の南侵を防ぐ
西晋の懐帝(司馬熾)の永嘉6年(312年)、石勒*7が建業を攻撃しようと企てると、司馬睿は江東の兵力を寿春に集結させ、紀瞻に揚威将軍を加え、さらに京口の南から蕪湖に至る一帯の諸軍事を統括する都督とし、石勒の南侵を防がせた。
同年、石勒が撤退すると、紀瞻は会稽内史に任命された。
その在任中、ある者が偽って大将軍府の符(命令の証)を作り、諸曁県令を捕らえさせるという事件が起きた。不正に気づいた紀瞻は直ちに牢を破って県令を救い出し、さらに使者を取り調べたところ、やはりそれは詐欺であることが明らかになった。
西晋の愍帝(司馬鄴)の建興3年(315年)、司馬睿が丞相に進むと、紀瞻は丞相軍諮祭酒に任命され、さらに「陳敏を討ち平らげた功績」によって臨湘県侯に追封された。
また、西台[長安の愍帝(司馬鄴)]が紀瞻を侍中に任命したが、赴任しなかった。
脚注
*7河北を拠点とする羯族出身の軍事指導者。形式上は劉淵・劉聡らが建国した漢(前趙)政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北一帯を支配する半独立勢力であった。後に自立して後趙を建国し、皇帝に即位する。
司馬睿に帝位を勧める
西晋の愍帝(司馬鄴)の建興4年(316年)、漢(前趙)によって長安が陥落され、愍帝(司馬鄴)は捕らえられた。
東晋の建武2年(318年)、愍帝(司馬鄴)が殺害されたという知らせが建康に伝わると、紀瞻・王導ら百官は共に司馬睿に勧進(皇帝に即位するように請うこと)したが、司馬睿はこれを許さなかった。
そこで紀瞻は「司馬睿が即位しなければ、晋が途絶えてしまう危機が迫っている今、悠長に辞退している場合ではないこと」を切々と説いてさらに勧進したが、司馬睿はなおも承諾せず、殿中将軍・韓績に命じて(紀瞻たちが用意した皇帝の)御座を撤去させようとした。
これを見た紀瞻が「帝座(天子の御座)は天の星宿(天の秩序)に応じたものだ。これを動かそうとする者があれば、斬るっ!」と叱りつけると、ついに司馬睿は顔つきを改めた(即位を決意した表情になった)。
紀瞻の2度目の勧進・全文
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「陛下は天の道に通じる資質をお持ちでありながら、なおもその優れた機知・精神を史籍(史書の記録)に向け、古代の人々の成功と失敗を観察しておられますが、今の世の出来事は目に見える形で明らかであり、(即位すべきことを)見抜くことは難しくありません。
[懐帝(司馬熾)・愍帝(司馬鄴)の]2人の皇帝は国の統治に失敗し、宗廟は荒廃し、(帝位の象徴である)神器は晋の手を離れて2年の月日が経ちました。亡き皇帝の梓宮(棺)もまだ葬られておらず、人も神も混乱の中にあります。
陛下に表れた膺録*8や受図*9は、特別に天が授けられたものです。六合(天地と東西南北:宇宙全体)は一新され、遠方の辺境の地に至るまでが来朝し、宗廟は再建されて神主(祖先の霊が降臨する場所)も再び安置されました。
すべての民は陛下の徳を慕って従い、異なる風俗の者(異民族)までもがことごとく来朝しております。それはちょうど、星々が北極星を中心に秩序立って運行し*10、多くの川が大海へと流れ帰るようなものです。
それでもなお、匹夫の謙(一個人の小さな節義)を守って辞退し続けようとされるのは、(祖宗の事業を継承して)七廟*11を闡き、国家の中興を成し遂げるための道ではありません。
国賊は必ずや討伐しなければなりません。そのためには、ご自身の(謙譲という)志を曲げて、天下の人々の期待に応えるべきなのです。
(今、陛下は)天の時に逆らい、人事に背き、地の利を失おうとしておられます。この3つのうち1つでも欠けば、たとえ後にどれほど力を尽くしても、祖宗の危急を救うことはかないませんぞ!
時に応じた適切な判断は多岐にわたりますが、大業(国家の再興)を維持し、支え続けることができるのは、『理(道理)』と『当(妥当)』だけです。
晋の国運は行き詰まり、今この時をもって限界に達しております。今すぐ(即位を)決断なされば、(晋を)中興して再び盛んにさせることができますが、もしこれをためらい放置すれば、奸賊に権力を与えることになります。これこそが、先ほど申しました『理(道理)』でございます。
陛下は今、国難の真っ只中に身を置きながらも、帝統を継承されるお立場にあられます。宗室を見渡してみましても、帝位をお譲りできるお方は、他に誰がいらっしゃるというのでしょうか。当然、(陛下が)この大位を継ぐべきなのです。これこそが、先ほど申しました『当(妥当)』でございます。
(晋の)四祖*12は宇宙を切り開き、これほどまでの偉大な事業を残されました。ですが今、五都(主要な都市)は焼き払われ、宗廟を祀る者もいない有様で、劉載[漢(前趙)の劉聡]らが西北で神器(帝位)を盗み弄んでおります。
それなのに陛下は、東南の地で高潔に譲り合いを演じようとなさっています。これは例えるなら、『揖礼(礼儀正しくお辞儀)をして譲り合いながら、目の前の火事を消そうとしている』ようなものです。
臣たちのような取るに足らない者でさえ、[漢(前趙)が西晋を降伏させ、愍帝(司馬鄴)を殺害したことを]許しがたいと思っておりますのに、天地と徳を合わせ、太陽や月のように明るく世界を照らす偉大なお方が、どうして好機を逸し、時に遅れて良いものでしょうか!」
脚注
*8帝王が天命を受けたことを示す符瑞(めでたい瑞)。膺籙。瑞祥。吉兆。
*9帝王が天命を受けて即位することを指す。『尚書中候』に記されている「河伯が大禹に河図を授けたという故事に由来する。『尚書中候』とは、『尚書』をもとにして、天命・瑞兆・帝王の正統性を説明するために作られた予言書。
*10原文:若列宿之綰北極。
列宿は多くの星々。綰には、①曲げて輪にする。 ②たくる。たぐる。 ③結ぶ。繋ぐ。 ④統べる。治める。の意味がある。
*11皇帝の祖先を祀る宗廟。天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟、士は一廟。
*12景帝(司馬師)・文帝(司馬昭)・武帝(司馬炎)・恵帝(司馬衷)の4人。この中で皇帝に即位したのは武帝(司馬炎)・恵帝(司馬衷)の2人。
辞職を願い出る
東晋の元帝(司馬睿)が践位(即位)すると、紀瞻は侍中に任命され、その後さらに尚書へと転任した。
紀瞻はたびたび上疏して諫言したが、その多くが政治の誤りを正し、国家に大いに利益をもたらすものであったので、元帝(司馬睿)はその忠烈(忠義と剛直さ)をたいへん高く評価した。
その後、紀瞻は長く病を患って、もはや朝廷に出仕して政務に参与することができない状態となった。そこで上疏して、病の長期化により職務を果たせない現状と、そのまま在職することが国政の停滞を招くことへの憂慮を述べ、辞任と賢者の登用を願い出た。
こうして病を理由に免官されたが、ほどなくして、また尚書右僕射に任命された。紀瞻は何度も辞退したものの許されず、ついには病が重いと称して帰宅しようとしたが、それすら許されなかった。
紀瞻の辞職を求める上疏・全文
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「臣は病が癒えず、職務を長く放棄することになってしまいました。これまでたびたび真心を尽くして事情を申し上げてきましたが、いまだにお情けをもって(辞職の願いを)お聞き届けいただけておりません。
無為に俸禄を受けるばかりで、罪を抱えたまま病床に伏しており、責任の重さに心を悩ませております。死が迫るこの身において、いったいどのように身を処すべきか分かりません。
臣は『失いやすいのは「時(時機)」であり、二度と戻らないのは「年(歳月)」である』と聞きいております。だからこそ、古の志士や義に厚い人々は、(登用されるために)鼎を背負って走り*13、市場で商歌をうたって*14時機を逃さず忠義を尽くし、その名を不朽のものにしたのです。
ですが実際には、それを成し遂げられずに機会を失う者がほとんどであり、成功する者はごくわずかにすぎません。
世の常の人の心というものは、栄誉や利益を求めてやまないものです。
臣は凡庸ながら、思いがけず(陛下にお仕えするという)幸運に恵まれました。鼎を背負ったり、商歌をうたって自らを売り込んだわけでもないのに、身の丈に合わない官位を貪り盗んでおりました。
古人を慕って力を尽くしてまいりましたが、毛ほども報いることができないまま、犬馬のように歯が衰え、様々な病に蝕まれてしまいました。床に伏して命を繋ぐこと百日余り、棺を叩いて死を覚悟したかと思えば、布団を引き寄せて生にしがみつき、1日また1日と、ただ衰えゆくばかりです。
もし天がなお幾ばくかの寿命を与え、陛下の広大なご恩にあずかることができたとしても、せいぜい命をわずかに保ち、陋巷(貧しい家)で静かに横になるだけのこと。もはや再び八座(尚書)の列に加わり、台閣(朝廷)に出入りすることなど到底かないません。
臣は目はかすみ、歯は抜け落ち、胸や腹は冷え切って傷も癒えず、そのうえ足まで不自由になりました。病の苦しみは、まさに耐えがたいものとなっております。
70という年齢は、礼典(礼の規定)でも第一線から退くべきとされる年齢であり、老衰の徵は明らかに現れております。身を慎んで退き、静かに暮らしたいと思うなら、臣はいったいどこに身を隠せばよいのでしょうか。
臣の職務は、戸籍や人口を管理し、租税を徴収することであり、これは国家にとって極めて重要な職務です。
今、六合(天地と東西南北:宇宙全体)は大きく動揺しており、人々の生活もまだ安定しておりません。[元帝(司馬睿)が即位なされてから]ようやく教化が行き渡り始め、あらゆる制度もまだ創設されたばかりであり、兵の徴発や物資の輸送など、すべてに人手が必要な状況です。
臣がかつて健強であった時でさえ、昼夜を問わず働いても、間に合わなかったほどの激務でございます。まして今は、死が刻一刻と迫っている身上でございますれば、このまま長く重要な職務に留まり続けていては、王事(国家の大事)を停滞させ、台無しにしてしまうでしょう。
もし朝廷が広い恩徳をもって(静養の)猶予を与え続けるならば、臣の負うべき責任と不安は日ごとに重くなります。それに臣を官職から外さなければ、官制は廃れて意味がなくなり、事業は滞ってしまうでしょう。臣の回復を待っていただいたとしても、臣は日ごとに衰えていくばかりです。
今、天慈(陛下からの特別なご慈悲)によって『臣が病床にいながら官職についていること』が許されておりますが、そのために官職は空席同然となり、公務は滞っております。臣1人が特別に寛大な扱いを受け続けることは公平性を欠き、大望(国家への公正な期待)を損なうことになってしまいます。
今や万国(天下)は改心して帰順し、賢俊な者たちが列をなして現れております。(臣のために)立派な官爵を空けたままにせず、賢才を繋ぎ止める(登用する)ために使うべきです。
臣のような穢れ病んだ身が、官職に固執して(有能な者の)妨げとなっていることは、古今の官吏の進退の理に照らしても、決して正しいあり方ではございません。
陛下の広大な慈悲の心を少しだけお分けいただき、臣に敝帷[破れた帳(幕)]を賜りますようお願い申し上げます。そうしていただければ、臣の命が尽きて倒れた際にも、その幕を屍に敷いて(野ざらしにすることなく)葬られることができます。
時に応じて優れた人材を選んで登用し、官職を整え政務を遂行させてください。そうすれば、臣は(職務を全うできないという)罪に問われることもなくなり、死んでも生きてもこの上ない幸せでございます」
脚注
*13阿衡(伊尹)は、殷の湯王に取り入ろうとしたが、その手段がなかった。そこで有莘氏の娘の媵臣(付き人)となり、料理人として鼎(食べ物を煮る3本脚の器)や俎(まな板)を担いで従った。こうして阿衡(伊尹)は、料理の味の話を通じて湯王を説き、ついには王道へと導いた。『史記』殷本紀
*14衛人の寧戚(寧越)は貧しい身の上であったが、「斉の桓公に仕えて才能を発揮したい」と望み、商隊に従って斉国へ向かった。都(臨淄)の城外で斉の桓公の姿を見た寧戚(寧越)は、牛の角を叩きながら商歌(困窮した境遇と自分の才能を理解してくれる者に出会いたいと強く願う歌)を歌い、この歌を非凡だと感じた桓公に招かれて、主に農政においてその才能を発揮した。『淮南子』道応訓
郗鑒の才能を上疏する
当時、郗鑒(郗鑑)が守っていた鄒山は、たびたび石勒*7らによって脅かされていた。紀瞻は「郗鑒(郗鑑)には将軍や宰相としての器量がある」と考え、朝廷が彼を見捨てて顧みなくなることを恐れて、上疏して「彼を召し出して用いる」ように願い出た。
その結果、朝廷はこの意見を受け入れ、郗鑒(郗鑑)を徴召いて領軍将軍に任命した。都(建康)に到着すると、さらに尚書に転任するように命じたが、郗鑒(郗鑑)は病を理由にこれを拝命しなかった。
東晋の元帝(司馬睿)の永昌元年(322年)のことである。
紀瞻の上疏・全文
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「臣は『皇代(王朝)が興隆する際には、必ずや“爪牙となる補佐”と“国家の城壁となる者”がおり、これらこそが、“帝王が天下を治め守り抜くための利器(優れた武器・道具)”なのである』と聞いております。ゆえに虞舜は16人の賢相を登用し、自らは南面して政務を統べ、安んじて治めることができたのであります。
伏して拝見いたしますに、前の輔国将軍・郗鑒(郗鑑)は若い頃より高い節操を立て、人格は清廉にして名望は高く、文武両面の才略を備えた当代きっての良幹(優れた頼りになる人物)です。
昔、戴若思(戴淵)と共に辟召かれながら辟地に追いやられ、任地では孤立無援で、配下の兵も1旅(500人)すらなく、援軍も届きませんでした。それでもなお、残された兵をよくまとめて安んじ、険しい地形を頼みに長年持ちこたえ、ついには凶悪な賊どもに南侵を思い止まらせたのです。
ですが、彼が率いる兵はあまりに少なく、大きな手柄を立てる術がありません。すでに名州(兗州)を統治し、また常伯*18にもなっておりますが、もし郗鑒(郗鑑)を台闥(朝廷の中枢)でゆったりと政務に当たらせ、天子の命令をしかるべく伝達・管理させたなら、必ずや彼は、相手が誰であれ恐れずに直言するという規範を全うし、袞職*19の過ちを補い正してくれることでしょう。」
先朝(西晋)以来、人材の任用にはすでに一定の前例がございます。戴若思(戴淵)は尚書の身分で六州都督・征西将軍となり、さらに常侍の位を加えられました。劉隗は鎮北将軍として北方を守り、陳眕は鎮東将軍として東方を鎮めております。
郗鑒(郗鑑)は年次においては戴若思(戴淵)と同じであり、資質においても同じく八座(尚書)に列しております。しかもその清らかな名望と重みは、当代随一の人物です。
聖朝(陛下)はこの上ない公平さをもって天下に臨まれ、ただ公平であることだけを良しとされておられます。それゆえ臣は、陋巷(貧しい家)で病に伏せっている身でありながら、日頃の見聞をすべて(この上疏にて)お伝えし尽くした次第です。
陛下におかれましては、どうかその寛大な御心をお開きになって、臣の言葉をお聞き届けください。国家のために、万分の一でもお役に立てることを願っております」
脚注
*1古代中国の伝説に登場する16人の賢才。堯に仕えた「八元」と舜に仕えた「八凱」を合わせて八元八凱(二八)と言い、優れた才徳を持つ賢臣の総称として用いられる。
*7河北を拠点とする羯族出身の軍事指導者。形式上は劉淵・劉聡らが建国した漢(前趙)政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北一帯を支配する半独立勢力であった。後に自立して後趙を建国し、皇帝に即位する。
*18漢代以後では皇帝の近臣を意味し、侍中や散騎常侍を指す。
*19袞衣(天子が着る儀礼服)をまとう者の職務。
脚注
*7河北を拠点とする羯族出身の軍事指導者。形式上は劉淵・劉聡らが建国した漢(前趙)政権の配下として扱われることもあったが、実態としては河北一帯を支配する半独立勢力であった。後に自立して後趙を建国し、皇帝に即位する。
明帝の信任
ある日のこと。明帝(司馬紹)はただ1人 紀瞻だけを広間に呼び寄せて、 天下の行く末を憂えて深く嘆きながら、「社稷の臣(国家を支える重臣)はもはや10人もいない。どうしたら良いだろうか」と言い、指を折って数えながら、「君はそのうちの1人だ」と言った。
これに紀瞻が謙遜して譲ると、明帝(司馬紹)は「今まさに君と率直に語ろうとしているのに、どうしてそこまで謙遜するのか!」と言った。
紀瞻は文武両面の才能を兼ね備え、朝廷ではその忠(忠誠)・亮(明朗さ)・雅(気品)・正(正しさ)が称賛されていた。
まもなく領軍将軍に転任した。
当時、紀瞻は常に病を患っていたが、人々はその厳格で毅然とした態度に心服し、六軍(全軍)は彼を敬い憚れていた。
その後 紀瞻は、長年の病を理由に辞職を願い出たが許されず、 さらに散騎常侍の官まで加えられた。
王敦の乱
東晋の明帝(司馬紹)の太寧2年(324年)、王敦が帝位の簒奪を企てて、再び建康へ攻め寄せた。この時 明帝(司馬紹)はすでに王敦に備えて準備を整えており、あわせて紀瞻に人を遣わして、
「卿は病身ではあるが、横になったままでよいから朕のために六軍(全軍)を統率してくれ。それだけでも大いに助けになる」
と言い、布千匹を下賜したが、紀瞻はそれを自分の家には持ち帰らず、将兵たちに分け与えた。
紀瞻の死
同年、王敦の乱が平定されると、紀瞻は再び上表して帰郷を願い出た。明帝(司馬紹)はそれを許さなかったが、それでも紀瞻は固辞して出仕しなかった。
そこで明帝(司馬紹)は詔を下して、
「紀瞻は忠誠にして明朗、気品正しく、大局を見通し国家を治める識見を備えている。しかもたびたび高齢と病を理由に、慎重に退職を願い出てきた。朕はその志を深く理解しており、これ以上その高い志に逆らうのは忍びない。よってその願いを許して驃騎将軍とし、散騎常侍はこれまで通りとする。衣服や待遇の制度はすべて旧典に従うように」
と言い、使者を派遣してその任命を自宅で行わせ、そのまま自宅を官府(驃騎将軍府)とした。
それからまもなくして、紀瞻は72歳で亡くなった。
死後、正式に本来の官位を贈られ、さらに開府・儀同三司の位を加えられて「穆」と諡され、節を持った御史を派遣して葬儀を監督させた。
王含討伐の功績が論じられ、死後に華容子に追封されて、元の爵位は2等下げる形で調整された。また、次子の紀鑒(紀鑑)が亭侯に封ぜられた。
紀瞻の人柄
紀瞻は性格が物静かで口数が少なく、若い頃から人付き合いはあまり広くなかったが、読書を好んだ。時には自らの手で書物を書き写し、その著作として詩・賦(長文詩)・箋(手紙)・上表文など数十篇を残している。また、音楽にも通じており、その妙をほとんど極めていた。
生活においては自らを手厚く養い、烏衣巷に邸宅を構えたが、その館や建物は高大で華麗であり、庭園や池、竹林や樹木も整えられていて、十分に観賞に値するものであった。
行いは慎み深く、人材を愛し、年を取るにつれてその傾向はいっそう深まった。
尚書の閔鴻、太常の薛兼、広川太守で河南出身の褚沈、給事中で宣城出身の章遼、歴陽太守で沛国出身の武嘏らは、いずれも元々紀瞻とは親しくはなかったが、皆その高い人格に感じ入り、臨終にあたっては後事を紀瞻に託した。
紀瞻は彼らの家のことをすべて世話し、住まいや生活の面倒を整え、その関係はまるで肉親同然であった。
若い頃には陸機・陸雲兄弟と親しくしていたが、陸機が誅殺されると、その家族を手厚く救済して行き届いた援助を与えた。さらに陸機の娘を嫁がせる際には、実の娘を嫁がせるのと同じように持参金や支度を整えてやった。
長子の紀景は早くに亡くなり、紀景の子・紀友がその後を継いで、官は廷尉にまで昇った。
紀景の弟である紀鑒(紀鑑)は、太子庶子・大将軍従事中郎を歴任したが、紀瞻よりも先に亡くなった。
出典
- 『晋書』巻68・列伝第38(紀瞻伝)
- 『晋書』巻68・列伝第38(薛兼伝)
- 『晋書』巻67・列伝第37(郗鑒伝)
- 『資治通鑑』巻86
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