正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉔騎劫(騎劫)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き㉓
騎劫
騎劫(騎劫)
生年不詳〜燕の昭王の33年(紀元前279年)没。戦国時代末期の燕の将軍。斉の70余りの城を攻略した楽毅に代わって、残る即墨と莒の攻略を命じられたが、斉の田単に敗れて敗死した。
※騎劫が登場するまでの流れを詳しく書いています。騎劫が登場するのは、楽毅の失脚 以降になります。
子之の乱
燕王噲は、鹿毛寿ら、宰相・子之の党派の者たちの進言に従って国政を子之に委ね、また言われるままに三百石以上の官吏の印綬をすべて取り上げ、それを子之に渡した。
これにより、実質的に政務を執っていた太子平の配下たちが国政から排除され、国の政事はすべて子之によって決裁されるようになった。
それから3年後の燕王噲の7年(紀元前314年)、斉の湣王は人を遣わして、燕の太子平に言った。
「寡人は『太子が大義を重んじ、私情を捨てて公を立て、君臣の義を正し、父子の秩序を明らかにしようとしている』と聞いている。寡人の国(斉)は小さく、(あなたの)前後に立って指導するほどではないが、寡人はただ太子の命令に従うのみである」
そこで、将軍の市被は、太子平と謀って子之を攻めたが、勝つことができなかった。すると市被は一転して太子平を攻撃したが、市被は戦死し、その遺体は見せしめとして晒された。
この争乱は数ヶ月にわたって続き、死者は数万人に達し、太子平は子之に殺害され、領民たちは恐怖と苦痛におののいた。
すると斉の湣王は、章子(匡章)に五都の兵を率いさせ、さらに斉の北方の国境地帯の兵を動員して燕を討たせた。
もはや燕の兵士たちに戦おうとする者はおらず、城門も閉ざされなかった。斉人は子之を捕らえて醢刑[罪人の体を刃物で細かく切り刻んだ上で、塩漬け(醢)にする処刑方法]に処し、そしてついに燕王噲を殺害した。
孟子は燕を兼併(併合)することを諌めたが、斉の湣王は聞き入れず、やがて燕人は反乱を起こした。
趙王は韓にいた燕の公子職を召し寄せて燕王に立て、楽池に命じて彼を送り届けさせた。これが燕の昭王である。
燕の昭王について
燕の昭王については、資料によって相違がある。
- 『史記』燕召公世家には、太子平は子之に殺害されることはなく、太子平が立って燕の昭王となっている。
- 『史記』趙世家には「趙の武霊王11年(紀元前315年)、趙王は韓にいた燕の公子職を召し寄せて燕王に立て、楽池に命じて彼を送り届けさせた」とある。
- 古本『竹書紀年』魏紀・今王には「燕の子之は公子平を殺害した」とある。
同じ『史記』の中でも、燕の昭王について『史記』燕召公世家では太子平、『史記』趙世家では公子職と、一致していない。
本記事では、郾王職戈(燕王職戈)が出土していることから、「太子平は子之によって殺害され、公子職が立って燕の昭王となった」と解釈した。
また、趙王が公子職を召し寄せたのは「趙の武霊王11年(紀元前315年)」と、「子之の乱」の前年であり、太子平が子之によって殺害される前であるが、これは、子之による燕の混乱を知った趙王が、もしもの時のために召し寄せたのではないだろうか。
『史記』燕召公世家には「子之が滅んでから2年後、燕人は共に太子平を立てた。これが燕の昭王である」とあり、実際に燕の昭王が立ったのは、紀元前312年〜紀元前311年頃である。
燕の昭王と楽毅
燕の昭王は斉を怨み、1日たりとも斉に報復することを忘れたことがなかったが、燕は国が小さく、辺境に位置して遠く隔たっていたため、その国力では斉を制することができなかった。
そこで燕の昭王は自ら身を低くして士を礼遇し、まず郭隗を手厚く礼遇して、これによって賢者たちを招こうとした。
この時、楽毅は魏の昭王の使者として燕に赴いていたが、燕王(燕の昭王)は賓客の礼をもって彼を待遇した。
楽毅は辞退してへりくだったが、ついに身を委ねて臣下となり、燕の昭王は楽毅を亜卿[卿に次ぐ官位(破格の待遇)]に任命し、その状態が長く続いた。
当時、斉の湣王は強大で、領土を千里余りも拡大したが、自らを驕り高ぶって、領民は(その横暴さに)耐えられなくなっていた。
そこで燕の昭王が「斉を討伐すること」について尋ねると、楽毅は「単独で攻撃するのではなく、趙・楚・魏と共に戦うべきです」と言い、燕の昭王は彼の意見に従った。
楽毅が諸侯と合従の約束を取り付けて帰国すると、燕の昭王は楽毅を上将軍に任命し、趙の恵文王は相国の印授を楽毅に授けた。こうして楽毅は、趙・秦・韓・魏・燕の軍勢を統轄して斉を討伐し、済西においてこれを撃ち破った。
諸侯の軍はその後それぞれ解散して帰国したが、燕軍の楽毅だけは追撃を続け、ついに(斉の都である)臨菑を陥落させ、斉の湣王は莒に逃亡した。
すると、楚の頃襄王は斉の救援のために淖歯を派遣し、淖歯は斉の湣王によって相国に任命されたが、その後、淖歯は湣王を殺害した。
それから5年、楽毅は斉の70余りの城を攻略し、これらをすべて郡県として燕に属させたが、ただ(斉の湣王が逃げ込んだ)莒と即墨だけはまだ服従していなかった。
そしてちょうどこの時、燕の昭王が亡くなり、その子が即位して燕の恵王となった。
楽毅の失脚
燕の恵王は太子であった頃から、楽毅に対して不満を抱いていた。
燕の恵王が即位すると、斉の田単はそのことを聞き、そこで反間の計を燕に仕掛けて言った。
「斉の城でまだ陥落していないのは2城だけであるが、これらを早く攻略しないのは、楽毅が燕の新王(恵王)と不和であるためだと聞いている。
彼は軍を率いたまま斉に留まり、やがて南面して斉王になろうとしているが、まだ斉人は楽毅に心服していないため、即墨への攻撃をわざと緩めて、その計画が実現する時機を待っているのである。
斉が心配しているのは、ただ他の将軍が派遣されて来ることだけである」
燕の恵王は、もともと楽毅を疑っていた上に「斉の反間の計」を受け、ついに騎劫を派遣して将軍の任を代わらせて、楽毅を召還した。
楽毅は、燕の恵王が自分を善意で交代させたのではないことを知り、誅殺されることを恐れ、ついに西へ赴いて趙に降った。趙は楽毅を観津に封じて望諸君の号を与え、尊び厚く待遇して、燕と斉を警戒させた。
田単の策略
斉の田単は、兵の士気を高めるため「自分の命令は『神の師の教え』である」として兵を心服・盲従させ、また「燕兵が斉軍の捕虜や掘り返された祖先の遺体に対して残酷な行為を働く」ように仕向ける噂を流し、その非道な行いを見せつけることで、燕兵への怒りと怨みを激しく煽った。
田単の策略・詳細
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神の師の教え
田単が城中の人々に命じ、食事をする際には必ず庭で先祖の霊にお供え物をして祭るようにさせすと、空を飛ぶ鳥たちがみな城内へ舞い降りて、供えられた食べ物をついばんだ。
すると、(空を飛ぶ鳥たちがみな、即墨の城内へ舞い降りるのを見た)燕人はこれを不思議に思った。
そこで田単は、(燕人に向けて)「天から神が降りてきて、我に教えを授けている」と噂を広め、城中の人々には「やがて神人が現れて、我の師となるであろう」と言った。
その時、1人の兵士が「臣が師になることができるでしょうか?」と言ったが、すぐに(自分の発言を後悔し、)その場から逃げ去ろうとした。
すると田単は、立ち上がってその兵士を呼び戻し、彼を東向き(上座)に座らせ、自ら弟子として仕える礼をとった。
兵士が「臣は君を欺いてしまいました。本当にそのような能力はありません」と言うと、田単は「子は何も言わなくてよい」と言って、そのままその兵士を師とし、何か命令を出す時には必ず、「これは神の師の教えである」と言った。
城兵の怒りを煽る
さらに田単は、次のような噂を流した。
「吾にはただ1つ、恐れていることがある。それは燕軍が捕虜にした斉兵たちの鼻を削ぎ落とし、その者たちを軍の先頭に立たせて我々と戦わせることである。もしそうなれば、即墨は敗れてしまうだろう」
燕人はこの噂を聞くと、田単の言葉どおりに行動した。(即墨の)城中の人々は、斉の降伏者たちが鼻を削がれているのを見てみな激しく怒り、固く守って、ただ(燕軍に)捕らえられることだけを恐れた。
田単はさらに「反間の計」を用いて、次のような噂を流した。
「吾は燕人が城外の我々の冢墓を掘り返し、亡き先人たちの遺体を辱めることを恐れている。それだけは本当に身の毛がよだつ思いである」
燕人はこの噂を聞くと、城外の壟墓をことごとく掘り返し、死者の遺体を焼いた。
即墨の城中の人々は、城壁の上からその光景を見てみな涙を流して泣き、誰もが「城から打って出て戦いたい!」と思うようになり、その怒りは以前の10倍にも達した。
偽りの乞降
田単は「兵士たちがすでに十分な気力を備え、戦うことができる状態になっている」と判断した。
そこで自ら版插[土を突き固めるための型枠と土を掘る道具(鋤)]を手に取って兵士たちと一緒に作業を分担し、また(自分の)妻妾たちを部隊の列に入らせて、手元にある飲食料をすべて分け与えて兵士たちをねぎらった。
そして田単は、精鋭の兵士たちには身を隠して待機するよう命じ、老人や体の弱い者、女性たちを城壁に上らせて守備をしているように見せた。
そこで使者を派遣して燕軍に降伏を申し入れると、燕軍の兵士たちは皆、「万歳! 万歳!」と歓声を上げて喜んだ。
さらに田単は、領民から金を集めて千溢(非常に多額の黄金)を得ると、即墨の富豪たちに命じて、その黄金を燕将(騎劫)へ贈らせ、
「即墨は間もなく降伏いたします。どうか降伏の後には、吾どもの一族や家族、妻妾たちを捕虜にしたり略奪したりせず、安心して暮らせるようにお取り計らいください」
と伝えさせた。
これを聞いた燕将(騎劫)は大いに喜んで「願いを聞き入れる」ことを約束し、燕軍はますます警戒心を失って、気の緩んだ状態になっていった。
火牛の計
その後、田単は城内にいる牛を集め、千頭あまりを確保した。
それらの牛に絳繒衣(深紅の絹の衣)を着せ、五色の彩色を施して龍の模様を描くと、それぞれの牛の角には武器や刃物をしっかりと結び付け、牛の尾には脂を染み込ませた葦の束をくくりつけて、その先端に火をつけた。
そして、城壁に数10ヶ所の穴を開けさせ、その穴から夜の闇に紛れて牛の群れを放ち、その後ろに5千人の壮士(精鋭兵)たちが続いた。
尾に点けられた火の熱さに怒り狂った牛たちは、凄まじい勢いで燕軍の陣営へと突進し、不意を突かれた燕軍は、夜中に大混乱に陥った。牛の尾で燃え盛る炎が照らし出す「龍の模様」は、燕の兵士たちの目には、まるで闇を駆ける龍のように映り、牛たちの猛進に巻き込まれた者たちは、ことごとく死傷していった。
5千人の壮士(精鋭兵)は、口に枚(声を出さないための木片)をくわえて敵を攻撃し、城内の兵たちは太鼓を打ち鳴らし大声をあげてこれに呼応し、老人や子供、女性たちもみな銅器を叩いたので、それらの音きは天と地を震わせるほどであった。
燕軍は大いに恐れおののいて敗走し、斉人はついに燕将の騎劫を討ち殺した。
斉人は混乱して逃げ惑う敵を追撃し、斉軍が通過した城邑はことごとく燕に背いて田単に帰順し、斉の兵力は日ごとに増大した。勝利の勢いに乗る斉に対して燕は連日敗北して敗走し、ついに(国境の)黄河のほとりまで追い詰められた。
こうして燕に奪われていた70余りの城は、そのすべてが斉の領土に回復した。
そこで(田単は)莒に避難していた襄王を迎えて首都の臨淄に入城し、襄王はそこで政務を執るようになった。
出典
- 『史記』楽毅列伝
- 『史記』田単列伝
- 『史記』燕召公世家
- 『史記』趙世家
- 『資治通鑑』巻3(周紀3)
- 『資治通鑑』巻4(周紀4)
- 古本『竹書紀年』魏紀・今王
- 郾王職戈(燕王職戈)
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