正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉕(魏顆・魏絳)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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き㉕
魏顆
魏顆
生没年不詳。春秋時代の晋の臣下。父は魏武子(魏犨)。令狐氏の祖。
輔氏の戦い
晋の景公6年(魯の宣公15年・紀元前594年)秋7月、秦の桓公が晋を攻め、秦軍は(晋の)輔氏に駐屯した。
壬午の日、晋侯(晋の景公)は稷において軍隊を整え、狄(北方異民族)の領土を攻略すると、(その地の君主として)黎侯を立ててから帰還した。
[晋侯(晋の景公)の軍が](晋の)雒に至った時、(晋の)魏顆が輔氏において秦軍を打ち破り、秦将の中でも屈指の剛力の持ち主であった杜回を捕虜にした。
結草の恩
これより以前、(魏顆の父・)魏武子(魏犨)には嬖妾(寵愛している妾)がいたが、その婦人との間には子がなかった。
魏武子は病気になった時、魏顆に命じて「必ず(この嬖妾を)他家へ嫁がせよ」と言ったが、病状が重くなると、「必ず(この嬖妾を自分と一緒に)殉死させよ」と言った。
魏武子が亡くなると、魏顆はその嬖妾を他家へ嫁がせて言った。
「病が重くなった時の言葉は、意識が乱れていたから出た言葉だ。吾は正常な判断ができていた時の命令に従ったのである」
「輔氏の役」の際、魏顆は1人の老人が草を結んで杜回の進路を妨げるのを見たが、魏顆が杜回を捕らえることができたのは、杜回がその草につまずいて倒れたためであった。
その夜、魏顆が見た夢の中で、その老人は言った。
「余は爾が嫁がせてくれた婦人の父である。爾は先人(魏武子)が正気であった時の命令を用いてくれた。余はその行いに報いたのだ」
令狐に封ぜられる
魏顆は秦将の杜回を捕らえた功績によって、別に令狐の地に封ぜられた。
魏顆は文子・魏頡を生み、その子孫はこれによって令狐を氏とし、代々太原に居住するようになった。
備考
魏武子(魏犨)と魏顆の続柄について
- 『春秋経伝集解』伝15年の杜預注に「武子とは魏犨のことであり、魏顆の父である」とある。
- 『古今姓氏書辯證』巻29に「犨(魏犨)は悼子(魏悼子)と錡(魏錡)、および顆(魏顆)を生んだ」とある。
基維百科:魏顆 には「魏犨の庶長子」とあるが、出典は不明。
魏犨の後を継いだのは魏悼子だが、魏犨の死後、魏犨の嬖妾の処遇を魏顆が取り仕切っている。これを「幼い嫡子・魏悼子の代わりに、年長の庶長子である魏顆が取り仕切った」と考えれば自然である。
出典
- 『春秋左氏伝』宣公15年
- 『春秋経伝集解』伝15年
- 『古今姓氏書辯證』巻29
- 『新唐書』宰相世系5下
「魏顆」の関連記事
魏絳
魏絳
生没年不詳。春秋時代の晋の臣下。魏荘子(『春秋左氏伝』)、魏昭子(『史記』魏世家)とも言う。
父は魏悼子。祖父は魏武子(魏犨)。子に魏嬴。孫に魏舒(魏献子)。ただし、『春秋左氏伝』襄公23年・杜預注には「魏絳は魏献子の父」とある。
晋の悼公・平公の2代に仕え、戎狄を晋に帰服させた功績で知られる。中軍司馬、佐新軍、佐下軍を歴任した。
中軍司馬に任命される
魯の成公18年(紀元前573年)2月朔の乙酉の日、晋侯・悼公が即位し、初めて百官に対して諸官を任命した。
このとき悼公は、「魏絳が勇敢で軽率に乱れることがないこと」を知っていたので、彼を元司馬(中軍司馬)に任命した。
鶏沢の会盟
魯の襄公3年(晋の悼公3年・紀元前570年)6月己未の日、諸侯が会盟して、鶏沢(鶏丘)において盟約を結んだ。
ところがこの時、晋侯(悼公)の弟・揚干が曲梁において軍列を乱したため、魏絳は(軍法の執行と処罰を司る中軍司馬として)その僕(従者)を処刑した。
これを知った晋侯(悼公)は怒り、羊舌赤に言った。
「諸侯を集めて会盟したのは、国の栄誉とするためである。ところが揚干がこのような辱めを受けた。これ以上の恥辱があろうか。必ず魏絳を殺せ。決して取り逃がしてはならぬ!」
すると羊舌赤は、答えて言った。
「絳(魏絳)に二心はございません。(彼は)君に仕えるにあたっては困難を避けず、罪があるならば刑罰から逃れようともいたしません。まもなく自ら弁明にやって来るでしょう。どうして君命を辱めるようなことがありましょうか」
そう言い終わった時、ちょうど魏絳がやって来た。
魏絳は僕人(召使い)に1通の書状を渡すと、自ら剣に伏して自害しようとしたので、士魴と張老がこれを制止した。
その魏絳の書状には、以下のように記されていた。
「先日、我が君は人材が不足していたため、臣のような者を司馬に任命なさいました。
臣は『師衆(軍隊)は、命令に従って秩序を保つことをもって武となし、軍事においては、死ぬことはあっても命令に背かないことを敬となす』と聞いております。
今、我が君は諸侯を糾合なさいました。臣がどうして、我が君の軍を敬わずにおれましょうか。
我が君の軍が秩序を失うことは武ではなく、職務を執る者が職責を果たさないことは敬ではなく、これほどの大罪は他にございません。
臣は(軍の秩序を失わせた)死罪に値する罪が、(我が君の弟君である)揚干様に及び、その罪から逃れる術がなくなってしまうことを恐れました。(臣には揚干様を)十分に訓戒することができず、[その僕(従者)に対して]斧鉞(軍法による処刑)を用いるに至りました。
臣の罪は誠に重いものでございます。どうして君命に従わぬことがありましょうか。我が君のお怒りを招きましたうえは、司寇(司法長官)の元へ参り、死刑に処されることを願い出ます」
この書状を読んだ晋侯(悼公)は、裸足のまま外へ出て言った。
「先ほどの(『必ず魏絳を殺せ』との)寡人の言葉は、弟への親愛の情から出たものであった。
吾子が揚干を処罰したのは、軍法・軍礼に基づくものである。
寡人には弟がありながら、これをよく教え導くことができず、そのために揚干に大命(国家の根本をなす最高法規)を犯させてしまった。
これは寡人の過ちである。どうか、(あなたが命を絶って)寡人の過ちをこれ以上重くしないで欲しいと、心から願う」
晋侯(悼公)は「魏絳が(私情に流されずに法を執行できる)有能な人物であり、刑罰をもって領民を正しく導くことができる者である」と認めた。
鶏沢(鶏丘)の会盟から帰還すると、晋侯(悼公)は魏絳に礼を尽くした食事を賜り、また、佐新軍[新軍の佐(副司令官)]であった令狐文子(魏頡)が亡くなったことから、魏絳が不法を犯さなかったことを評価し、彼を佐新軍に任命した。
張老の評価
悼公は張老を卿に任命しようとしたが、張老は辞退して言った。
「臣は魏絳には及びません。
絳(魏絳)の知恵は大官の職務をこなすことができ、その仁徳は公室(晋の王室)に利益をもたらすことを忘れず、勇気は刑罰を恐れて怯むことがなく、その学識は先祖の職務を廃れさせることがありません。
もし彼を卿の位に就ければ、朝廷の内外は必ずや平穏に治まるでしょう。
さらに、先の『鶏丘(鶏沢)の会盟』ではその職責を犯すことなく、弁明の言葉も道理にかなっていました。このことも、賞さないわけにはまいりません」
悼公は5度にわたって張老に卿への就任を命じたが、張老は固く辞退した。
そこで悼公は、張老を司馬に任命し、魏絳を佐新軍[新軍の佐(副司令官)]に任命した。
晋と戎狄を講和させる
魯の襄公4年(晋の悼公4年・紀元前569年)冬、無終子・嘉父*1が、孟楽を晋へ使者として派遣し、あわせて魏荘子(魏絳)に虎や豹の毛皮を贈り、それによって諸戎(異民族たち)との講和を取り持ってくれるよう願った。
晋侯(悼公)は、
「戎狄(異民族)には親しみというものがなく、しかも貪欲である。講和するより討伐したほうがよい」
と言ったが、魏絳は、
「戎を討伐するために軍を疲弊させ、(その結果として諸侯の危機を救うことができず、)中華の諸侯の信頼を失うならば、たとえ功績があったとしても、それは獣を得て人を失うようなものです」
と言い、加えて「民を顧みず、田猟(野に出て狩りをすること)に夢中になって滅んだ有窮后羿*2の故事を例に出し、また、戎狄と和親することによる5つの利益」を提示した。
晋侯(悼公)はこれを喜び、魏絳に命じて諸戎と盟約を結ばせすと、民のための政治を整え、(自身も熱中していた)田猟も、時節にかなって行うようになった。
こうして晋は、ついに覇権となったのである。
晋侯(悼公)と魏絳の会話・全文
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悼公「戎狄(異民族)には親しみというものがなく、しかも貪欲である。講和するより討伐したほうがよい」
魏絳「諸侯は新たにわが国に服従し、陳もまた新たに和親を求めてまいりました。
彼らは我が国の行いを注視しております。もし我が国に徳があれば、彼らは親しみ結束しますが、そうでなければ、離反して二心を抱くようになるでしょう。
軍を戎の討伐に疲弊させている間に楚が陳を攻めれば、陳を救援することはできません。つまりそれは、結果として陳を見捨てることになるのです。それを見た中華の諸侯は、必ずや晋に背くでしょう。
戎は禽獣(鳥獣)のような者どもです。戎を得て、中華の諸侯を失うようなことがあって良いものでしょうか。
『夏訓』に『有窮后羿*2』の話があります」
悼公「后羿とはどのような人物であったのか?」
魏絳「昔、夏王朝がまさに衰え始めたころ、后羿は鉏の地から窮石へ移り住み、夏の民を利用して夏の政治を奪い、自らこれに代わって政治を行いました。
ですが后羿は、自分の弓術を頼みとして民のための政治を修めようとはせず、野原で鳥獣を狩ることにふけり、武羅・伯困・熊髡・尨圉を退け、寒浞を用いました。
寒浞は伯明氏の子弟でしたが、他人を中傷する性格であったので、伯明氏の后(長)である寒は寒浞を見捨てました。これを夷羿(后羿)が受け入れ、信用して自らの宰相としたのです。
寒浞は宮中では人に媚びへつらい、外では賄賂を施し、民を愚かに欺きました。さらに后羿が田猟(野に出て狩りをすること)に出ている隙をうかがって様々な奸計や悪事を積み重ね、それによってその国家を奪い取りました。
ですが、国の内外の人々がみな寒浞に服従してもなお、后羿は自らの行いを改めようとせず、田猟から帰ろうとしたところを、家衆(裏切った后羿の召使いたち)によって殺されてしまいました。
家衆たちはその肉を煮て后羿の息子に食べさせようとしましたが、どうしてもその肉を食べることができずに窮門(有窮国の都の城門)のところで殺され、(夏王朝の旧臣・)靡は有鬲氏(有鬲氏)のもとへ逃れました。
寒浞はそのまま后羿の妻を自分のものとし、澆と豷を生みましたが、2人は父の奸悪・邪悪・欺瞞・偽りを頼みとして、民に徳を施すことはありませんでした。
そして寒浞は澆に軍を率いさせ、斟灌氏と斟尋氏を滅ぼすと、澆を過に住まわせ、豷を戈に住まわせました。
その後、靡は有鬲氏(有鬲氏)から出て滅ぼされた2国の生き残りを集め、寒浞を滅ぼして少康を王位に立て、少康は過で澆を滅ぼし、その子の后杼は戈で豷を滅ぼしました。有窮国がこうしてついに滅亡したのは、人心を失ったからです。
昔、周の辛甲が太史となった時、百官に命じて、それぞれの職務の立場から王の過失を諫めさせました。その中にある、虞人(山林・鳥獣を管理する役人)が作った『虞人の箴』には、次のように書かれています。
『はるか遠くまで広がる禹が治めた大地は九つの州に分けられております。(禹は)九つの大きな道を切り開き、民には住居と宗廟があり、鳥獣には生い茂る草原があって、それぞれがそれぞれの居場所を持っておりましたので、徳が乱れることはありませんでした。
ですが、帝夷羿(后羿)の時代になると、羿は鳥獣の狩猟に心を奪われて国を憂える心を忘れ、ただ(獲物の鹿の)雌雄のことばかりを考えていました。
武(田猟)は何度も繰り返し行うべきではありません。(ですが后羿は、田猟ばかりして)夏王朝を盛大にするためのことをしませんでした。
鳥獣を司る臣は野原を管理し、(天子の車を操る従者である)僕夫に告げ知らせました』
『虞箴』はこのように述べています。これを戒めとしないわけにはまいりません」
当時、晋侯(悼公)は田猟を好んでいたため、魏絳はこの故事を引用して諫めたのである。
悼公「それでは、戎と和親するのが最善ということか?」
魏絳「戎と和親することには5つの利益があります。
戎狄は(牧草を求めて)移住を繰り返す生活をしており、財貨を貴んで土地を軽視します。そのため、(彼らの)土地を買い取ることができます。これが第1の利益です。
辺境の地が(敵の襲撃に)脅かされなくなれば、民は安心して野良仕事に勤しむことができるようになり、穡人(農夫)は無事に農作物を収穫することができます。これが第2の利益です。
戎狄が晋国に仕えるようになれば周囲の国々は衝撃を受け、諸侯たちは(晋の)武威を恐れ、その徳に懐くようになります。これが第3の利益です。
徳をもって戎を安んじれば軍隊を動かす必要がなく、甲兵や武器も傷つき傷むことがありません。これが第4の利益です。
(かつて武力に頼って滅んだ)后羿の事例を鑑みて徳の基準を用いれば、遠方の者は帰順し、近隣の者は安泰となります。これが第5の利益です。
我が君にはどうか、よくお考えになっていただきたいと存じます」
脚注
*1無終国の国君・嘉父。「無終」とは、周代から春秋時代にかけて燕山山脈の周辺(現在の河北省・薊県付近)に存在した、山戎と呼ばれる北方民族の国。「無終子」の「子」は爵位。
*2有窮氏の后羿。「后」は夏代における「王」や「リーダー」を指す称号。厳密には「有窮氏の長・羿」。
楚の子囊の諫言
魯の襄公9年(晋の悼公9年・紀元前564年)夏、秦の景公が楚へ士雃を派遣して援軍を求めた。晋を討伐しようとしていたからである。
楚の共王がこれを許すと、子囊は次のように言った。
「いけません。今の状況では、吾々(楚)は晋と争うことはできません。
晋君(悼公)は、能力のある者を見分けてその者を登用しており、人材の登用において選択を誤ることがありません。また官職についても、その任務を(勝手に)変更することがありません。
その卿(最高政務官)たちは善良な者に地位を譲り、その大夫(高級官僚)たちは職責を失わず、その士(知識人・戦士)たちは教化や武芸に競い励み、その庶人(庶民)は農業に力を尽くしています。商人、職人、皁隸(下級の召使に)至るまで、自分の生業を途中で変えようとはいたしません。
(晋の最高権力者であった)韓厥は高齢を理由に現役を退き、後任の知罃は、その方針をしっかりと受け継いで国政を執り行っております。
范匄は中行偃より年少であるにもかかわらず、中行偃は范匄を自分より上位に推挙し、佐中軍(中軍の副司令官)に就かせております。
韓起は欒黶より年少ですが、欒黶と士魴は韓起を自分たちより上位に推挙し、佐上軍(上軍の副司令官)に就かせております。
魏絳は多くの功績を立てていますが、それでも趙武を賢者であると認め、趙武の佐(補佐)となっております。
このように、君主は明晰で臣下は忠誠を尽くし、上位の者は善い人物に地位を譲り、下位の者は互いに励み競い合っております。
このような時にあっては、晋に敵対することはできません。(今は)晋に仕え、(力を蓄えた)後になってようやく、晋と争うことができるのです。
我が君には、どうかこのことをよくお考えください」
すると楚の共王は、
「吾はすでに秦に援軍を出すことを許してしまったのだ。たとえ晋に及ばないとしても、必ず軍を出さねばならないのだ」
と言った。
秋、楚の共王は軍を武城に進め、秦への援軍とした。
秦軍は晋に攻め入ったが、このとき晋は飢饉に見舞われており、報復の出兵をすることができなかった。
鄭の討伐に加わる
冬10月、諸侯は鄭を討伐した。
庚午の日、(魯の)季武子、斉の崔杼、宋の皇鄖らは、(晋の)荀罃(知罃)と士匄(范宣子)に従って、(鄭の都・新鄭の)鄟門に攻め寄せた。
衛の北宮括、曹人、邾人は、晋の荀偃(中行偃)と韓起に従って、城門・師之梁に攻め寄せた。
滕人、薛人は、(晋の)欒黶と士魴に従って北門に攻め寄せた。
杞人、郳人は、(晋の)趙武と魏絳に従って、(鄭の都・新鄭の)道沿いに植えられていた栗の並木を斬り倒した。
鄭人は恐れて和睦を申し入れて来たので、11月己亥の日、戯で盟約を結んで軍を引き上げた。
12月癸亥の日、晋は鄭を服従させることができなかったため、諸侯を率いて再び鄭を討伐し、鄭の3つの城門を攻撃した。
閏12月戊寅の日、(諸侯の軍は)陰阪を渡って鄭の領内に侵入して鄭を攻撃し、陰口に軍を駐屯させて引き返した。
その後、楚子(楚の共王)が鄭を討伐すると、鄭は楚と講和して、今度は楚と同盟を結んだ。
施舍を進言する
晋侯(悼公)は帰国すると、「(戦に疲れた)民を休養させるためにはどうすればよいか」を相談した。
すると魏絳は施舍(恩恵を施し、税や労役を免除すること)を行い、国家の備蓄を放出して人々に貸し付けるように願い出た。
[晋侯(悼公)はこの意見を採用し、]晋侯(悼公)以下、財産を蓄えている者は誰もがそれをすべて出し尽くすと、国内に流通せずに滞っていた富はなくなり、また生活に困窮する民もいなくなった。
晋侯(悼公)は利益を独占することを禁じ、貪欲に利益を貪るような民もいなくなった。
また、祈祷の際のお供え物は(高価な犠牲ではなく)幣帛(布などの物品)に替え、賓客をもてなす際には特牲(1頭だけの犠牲)で済ませ、器物や道具は新しく作らず、馬車や衣服はすでにあるもので間に合わせた。
これらを実行して満1年が経つと、国家の財政にゆとりが生まれ、(晋は)3度も大軍を動かして遠征(三駕)し、楚はこれに対抗して争うことができなくなった。
再び鄭を攻撃する
魯の襄公10年(晋の悼公10年・紀元前563年)秋9月、諸侯は鄭を攻撃し、己酉の日、諸侯の軍は牛首に駐屯した。
冬10月、諸侯の軍は虎牢に城を築き、そこに兵を駐屯させた。晋軍は梧と制に城を築き、士魴と魏絳がそこを守った。
『春秋』に「戍鄭虎牢。(鄭の虎牢を守備した)」と書かれているのは、(当時、虎牢は晋が占領しており)鄭の土地ではなかったからである。(あえて鄭の土地と書いたのは、後にこれを鄭に返還するであろうことを見越して)将来的に帰属するはずだと述べているのである。
鄭は晋と講和した。
鄭の服従
魯の襄公11年(晋の悼公11年・紀元前562年)9月、諸侯は全軍を挙げて再び鄭を討伐した。
すると鄭人は、良霄と太宰の石鄿を楚に派遣して「晋に服従するつもりであること」を告げ、[鄭伯(鄭の簡公)の言葉を伝えて]言った。
「孤(鄭の簡公)は社稷(国家)を守るために、残念ながらこれまで通り君(楚の共王)をお慕いし続けることができなくなりました。
ですがもし、君(楚の共王)が玉帛[宝玉と絹(贈り物)]をもって晋と和睦し、(我々への攻撃を)宥めてくださるなら、それに越したことはありません。
もしそれができないのであれば、武(軍事力)を振るって晋を威圧してください。これこそが孤(鄭の簡公)の願いでございます」
これを聞いた楚人は、2人を捕らえて監禁した。
諸侯の軍が鄭の東門に進んでその軍勢を示すと、鄭人は王子伯駢を派遣して講和を申し入れた。
甲戌の日、晋の趙武が鄭に入って鄭伯(鄭の簡公)と盟約を結び、冬10月丁亥の日、鄭の子展が出向いて晋侯(悼公)と盟約を結んだ。
12月戊寅の日、[晋侯(悼公)と鄭伯(鄭の簡公)は]蕭魚で会盟した。
庚辰の日、[晋侯(悼公)は]鄭の捕虜をすべて赦免し、礼を尽くして帰国させると、鄭に斥候を送って侵入や略奪を禁じ、叔肸を諸侯のもとへ派遣してこのことを告げさせた。
恩賞を賜る
鄭人は、
- (鄭の宮廷楽師である)師悝、師触、師蠲の3人
- 広車(高級な攻撃用の戦車)・軘車(陣地を守るための戦車)を15乗ずつ
- 甲冑・武器一式と兵車百乗(両)
- 歌鐘(並べられた青銅製の鐘)2肆(2列)と、それに付随する鎛(大型の鐘)や磬(石の打楽器)
- 二八(16人)の女楽(女性の音楽隊)
を晋侯(悼公)に献上した。
晋侯(悼公)は、その音楽に関する献上品の半分[女楽一八(8人)と歌鐘1肆(1列)]を魏絳に与えて次のように言った。
「子が寡人に『戎狄(異民族)たちと和睦して中華の諸侯を正しく導く』ように教えてくれたおかげで、この8年の間に9回も、諸侯を集めて会盟を開く(諸侯をまとめる)ことができた。
これはまるで、音楽の調和が取れて、どこにも不調和がないようなものだ。どうか子と一緒に音楽を楽しませてくれ(そのためにこれを受け取ってくれ)」
すると魏絳は辞退して言った。
「戎狄と和睦することができたのは国家にとっての福でございます。
この8年の間に9回も諸侯を集めて会盟し、諸侯が二心を抱かなかったのは、我が君(悼公)の霊(ご威徳)と、他の2、3人の臣下たちの功労によるものです。臣に何の功績がありましょうか?
ただ、臣は我が君に『この楽しみに安住しつつも、その終(将来)を考えていただきたい』と願っております。
『詩経』に『なんと楽しいことであろうか、君子よ。天子の邦(国)を鎮め安んじておられる。なんと楽しいことであろうか、君子よ。福禄(幸せと豊かな生活)が君のもとに集まっている。左右に侍る者たちもまた、君を手本として従っている*3』とあります。
原文:楽只君子,殿天子之邦。楽只君子,福祿攸同。便蕃左右,亦是帥從。
そもそも『楽(楽しむ)』とは徳を安んじるためのものであり、義(正しさ)をもって処し、礼をもって行い、信(誠実)をもって守り、仁(慈しみ)をもって励むことです。そうしてこそ、初めて邦国を鎮め安んじ、福禄を共にし、遠方の人々を来服させることができるのです。これこそが(『詩経』にいう)『楽(楽しむ)』なのです。
また『書経』に『安きに居りて危うきを思え(居安思危)』とあります。先々の危機を思えばこそ備えができ、備えがあれば憂いはありません。あえてこの言葉をもって[晋侯(悼公)への]戒めといたします」
これを受け、晋侯(悼公)は言った。
「子の教えを、どうして受け入れないことがあろうか!
もし子がいなかったなら、寡人は戎(異民族)に対処(和親)することもできず、黄河を渡(って鄭を服従させ)ることもできなかった。
そもそも功績に対して恩賞を与えるのは『国の典(法)』であり、その記録は盟府(同盟の記録を保管する役所)に保管されているもので、廃止することはできない。どうかこれらを受け取ってくれ」
魏絳は3度辞退した後に、ようやくこれを受け取った。
魏絳はここにおいて初めて、『金石の楽(高貴な身分にのみ許される宮廷音楽)』を奏でることを許されたが、これは礼に適ったことであった。
晋侯(悼公)はまた、魏絳に安邑を与え、魏絳は安邑に居所を移した。
脚注
*3『詩経』小雅・桑扈之什・采菽。
櫟の役
その後、秦の庶長・鮑と庶長・武が軍を率いて晋を攻め、それによって鄭を救おうとした。
秦の庶長・鮑が先に晋の領内に入ると、晋の士魴がこれを防ぎ迎えたが、秦の軍勢が少数であると侮って防備を固めていなかった。
壬午の日、秦の庶長・武が輔氏の地から黄河を渡り、鮑軍と合流して挟み撃ちの形で晋軍を攻め立てた。
己丑の日、秦と晋は櫟の地で戦い、晋軍は大敗した。この戦いの敗因は、晋軍が秦軍を軽んじ見くびっていたためである。
佐下軍(下軍の佐)に任命される
魯の襄公13年(晋の悼公13年・紀元前560年)夏、晋では[将中軍(中軍の将)であった]荀罃と[下軍の佐(副司令官)であった]士魴が亡くなった。
晋侯(悼公)は綿上で軍を閲兵し、軍を整えて戦争に備えた。そして、士匄(范宣子)を中軍の将に任命しようとしたが、士匄(范宣子)は、
「伯游(荀偃)殿の方が年長でいらっしゃいます。かつて臣は知伯(荀罃)殿のもとで(軍務を)学びましたので、知伯(荀罃)殿を補佐していたに過ぎません。臣自身が優れて賢いわけではないのです。どうか臣を伯游(荀偃)殿の配下に就かせてください」
と言って辞退したので、晋侯(悼公)は荀偃を将中軍(中軍の将)とし、士匄(范宣子)をその佐(副司令官)とした。
さらに韓起を将上軍(上軍の将)に任命しようとしたところ、韓起は趙武(の方が優れていること)を理由にして辞退した。
そこで晋侯(悼公)は、欒黶を将上軍(上軍の将)に任命しようとしたところ、欒黶も辞退して言った。
「臣は韓起には及びません。韓起は趙武が将上軍(上軍の将)になることを望んでおります。我が君、どうかその願いをお聞き入れください」
そこで晋侯(悼公)は、趙武を将上軍(上軍の将)として韓起をその佐(副司令官)とし、欒黶を将下軍(下軍の将)として魏絳をその佐(副司令官)とした。
この結果、新軍には将としての適任者がいなくなってしまった。
晋侯(悼公)は将新軍(新軍の将)を誰にするか悩んだ結果、(新軍の)什吏(部隊長)たちに「それぞれが管轄する兵卒・戦車・官属(役人)」を率いさせ、下軍の指揮下に組み込んで従わせることにした。これは礼に適ったことである。
遷延の役
魯の襄公14年(晋の悼公14年・紀元前559年)夏、諸侯の大夫たちは晋侯(悼公)に従って秦を討伐した。これは[魯の襄公11年(晋の悼公11年・紀元前562年)冬に起こった]「櫟の役」で受けた敗北に報復するためであった。
晋侯(悼公)は国境で待機し、六卿に諸侯の軍を率いて先へ進ませた。諸侯の軍は涇水を渡って宿営したが、秦人が涇水の上流に毒を流し入れたため、涇水を渡って秦の領内に入った諸侯の軍勢には多くの死者が出た。
(このような状況の中でも、)鄭の司馬・子蟜が鄭軍を率いて真っ先に進撃すると、諸侯の軍もみなこれに従い棫林の地まで至ったものの、何も戦果を挙げることはできなかった。
そこで将中軍の荀偃が命令を下し、
「鶏(一番鶏)が鳴いたら馬車に馬を繋ぎ、井戸を埋め、竈を壊し、ただ余の馬首の向く方向だけを見て、不退転の覚悟で前進せよ」
と言った。するとこれを聞いた将下軍の欒黶は、
「晋国の命令にこのような前例はなかった。余の馬首は東(晋国の方角=退却)を向きたがっている」
と言って帰国してしまい、彼が率いる下軍もこれに従って退却した。
左史が魏荘子(魏絳)に「中行伯(荀偃)殿の指示を待たなくてよろしいのですか?」と尋ねると、魏荘子(魏絳)は、
「夫子(あの方:荀偃)は『(各軍の)指揮官に従え』と命令された。吾の将は欒伯(欒黶)殿である。吾は吾の将に従う。指揮官に従うことこそが、夫子(あの方:荀偃)の命令を待つ(尊重する)ことになるのだ」
と答えた。
(この事態に)伯游(荀偃)は、
「今回の命令は、本当に吾の過ちであった。後悔しても手遅れだ。このままでは多くの兵を秦の捕虜にさせてしまうだろう」
と言い、全軍に撤退を命じた。
晋人はこの戦いのことを「遷延の役」(だらだらと長引き、成果なく引き揚げた戦い)と呼んだ。
晋の悼公の死と溴梁の会
魯の襄公15年(晋の悼公15年・紀元前558年)秋、邾人が魯の南の辺境の国境地帯を攻撃したので、魯は使者を派遣して晋に事態を告げた。
晋は諸侯の会合を開いて邾と莒を討伐しようとしたが、晋侯(悼公)が病気になったため中止となった。冬、晋の悼公が亡くなり、とうとう諸侯の会合を開くことはできなかった。
魯の襄公16年(晋の悼公16年・紀元前557年)春、晋では悼公を葬り、平公が即位した。
(平公は)溴梁で会合して(諸侯に)侵略した他国の領地を元に戻すように命じ、(前年に攻撃された)魯の事情を考慮して邾の宣公と莒の犁比公を拘束し、さらに「これからは斉や楚との間に使者を通じさせよ」と命じた。
また、諸侯と温の地で宴を開き、各国の正卿たちに舞を踊らせて、「歌う詩は、必ず宴の趣旨(君臣・諸侯の和合)に合ったものにするように」と言った。
ところが、斉の高厚が歌った詩はその趣旨に合っていなかったので、荀偃は怒り、「諸侯の中に(晋に)二心を持つ者がいるぞ」と言った。
(晋は)各国の正卿たちに高厚と同盟の誓いをさせようとしたが、高厚は逃げ帰ってしまった。
そこで、(魯の)叔孫豹、晋の荀偃、宋の向戌、衛の甯殖、鄭の公孫蠆、小邾の大夫らが同盟を結び、「晋の命令に従わない不忠な国は、協力して討伐しよう」と誓った。
平陰の戦い
魯の襄公18年(晋の平公3年・紀元前555年)冬10月、諸侯は(魯の)済水のほとりで会合し、かつて溴梁で結んだ盟約を改めて確認し、共同で斉を討伐した。
斉侯(斉の霊公)は平陰でこれを防ぎ、防門に塹壕を掘って固守したが、斉軍は城門の戦闘で多くの戦死者を出した。
そこへ(晋の)范宣子が(斉の)析文子を通じて「魯と莒の軍が別の道から斉へ攻め入る手はずになっている」との偽の情報を流し、また、山や沢を視察する際に旗を大量に立て、馬車に柴(木の枝)を引かせて砂煙を巻き上げて軍を大きく見せる「偽装工作」を行ったため、これを見た斉侯(斉の霊公)は畏れ、夜陰に紛れて逃走した。
諸侯は斉の国都(臨淄)に迫り、周辺の要塞を次々と攻略して、城門や外郭、池の竹林などを焼き払い、東は濰水、南は沂水まで侵攻して引き揚げた。
この戦いの中で魏絳は、欒盈と共に下軍を率いて邿を攻め落とした。11月乙酉の日のことである。
魏絳の没年は伝わっていないが、その死後は孫の魏舒(魏献子)が魏氏の当主の地位を継承した。
出典
- 『国語』晋語7
- 『史記』魏世家
- 『春秋左氏伝』成公18年
- 『春秋左氏伝』襄公3年、4年、9年、10年、11年、13年、14年、15年、16年、18年、23年、
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