正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉕(魏顆ぎか魏絳ぎこう)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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き㉕

魏顆

魏顆ぎか

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代のしんの臣下。父は魏武子ぎぶし魏犨ぎしゅう)。令狐氏れいこしの祖。

輔氏の戦い

しん景公けいこう6年(宣公せんこう15年・紀元前594年)秋7月、しん桓公かんこうしんを攻め、しん軍は(しんの)輔氏ほしに駐屯した。

壬午じんごの日、晋侯しんこうしん景公けいこう)はしょくにおいて軍隊を整え、てき(北方異民族)の領土を攻略すると、(その地の君主として)黎侯れいこうを立ててから帰還した。

晋侯しんこうしん景公けいこう)の軍が](しんの)らくに至った時、(しんの)魏顆ぎか輔氏ほしにおいてしん軍を打ち破り、しん将の中でも屈指の剛力の持ち主であった杜回とかいを捕虜にした。

結草の恩

これより以前、(魏顆ぎかの父・)魏武子ぎぶし魏犨ぎしゅう)には嬖妾へいしょう寵愛ちょうあいしているめかけ)がいたが、その婦人との間には子がなかった。

魏武子ぎぶしは病気になった時、魏顆ぎかに命じて「必ず(この嬖妾へいしょうを)他家へとつがせよ」と言ったが、病状が重くなると、「必ず(この嬖妾へいしょうを自分と一緒に)殉死じゅんしさせよ」と言った。

魏武子ぎぶしが亡くなると、魏顆ぎかはその嬖妾へいしょうを他家へとつがせて言った。

やまいが重くなった時の言葉は、意識が乱れていたから出た言葉だ。わたしは正常な判断ができていた時の命令に従ったのである」


輔氏ほしえき」の際、魏顆ぎかは1人の老人が草を結んで杜回とかいの進路をさまたげるのを見たが、魏顆ぎか杜回とかいらえることができたのは、杜回とかいがその草につまずいて倒れたためであった。

その夜、魏顆ぎかが見た夢の中で、その老人は言った。

わたしおまえとつがせてくれた婦人の父である。おまえは先人(魏武子ぎぶし)が正気であった時の命令をもちいてくれた。わたしはその行いにむくいたのだ」

令狐に封ぜられる

魏顆ぎかしん将の杜回とかいらえた功績によって、別に令狐れいこの地に封ぜられた。

魏顆ぎか文子ぶんし魏頡ぎけつを生み、その子孫はこれによって令狐れいこを氏とし、代々太原たいげんに居住するようになった。

備考
魏武子ぎぶし魏犨ぎしゅう)と魏顆ぎかの続柄について
  • 春秋経伝集解しゅんじゅうけいでんしっかいでん15年杜預とよ注に「武子ぶしとは魏犨ぎしゅうのことであり、魏顆ぎかの父である」とある。
  • 古今姓氏書辯證ここんせいししょべんしょうかん29に「しゅう魏犨ぎしゅう)は悼子とうし魏悼子ぎとうし)と魏錡ぎき)、および魏顆ぎか)を生んだ」とある。

基維百科:魏顆 には「魏犨ぎしゅうの庶長子」とあるが、出典は不明。

魏犨ぎしゅうの後を継いだのは魏悼子ぎとうしだが、魏犨ぎしゅうの死後、魏犨ぎしゅう嬖妾へいしょうの処遇を魏顆ぎかが取り仕切っている。これを「幼い嫡子ちゃくし魏悼子ぎとうしの代わりに、年長の庶長子である魏顆ぎかが取り仕切った」と考えれば自然である。

出典
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん宣公せんこう15年
  • 春秋経伝集解しゅんじゅうけいでんしっかいでん15年
  • 古今姓氏書辯證ここんせいししょべんしょうかん29
  • 新唐書しんとうしょ宰相世系さいしょうせいけい5下

魏顆ぎか」の関連記事

魏絳

魏絳ぎこう

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代のしんの臣下。魏荘子ぎそうし春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん)、魏昭子ぎしょうし史記しき魏世家ぎせいか)とも言う。

父は魏悼子ぎとうし。祖父は魏武子ぎぶし魏犨ぎしゅう)。子に魏嬴ぎえい。孫に魏舒ぎじょ魏献子ぎけんし)。ただし、春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん襄公じょうこう23年杜預とよ 注には「魏絳ぎこう魏献子ぎけんしの父」とある。

しん悼公とうこう平公へいこうの2代に仕え、戎狄じゅうてきしんに帰服させた功績で知られる。中軍司馬ちゅうぐんしば佐新軍さしんぐん佐下軍さかぐんを歴任した。

中軍司馬に任命される

成公せいこう18年(紀元前573年)2月ついたち乙酉いつゆうの日、晋侯しんこう悼公とうこうが即位し、初めて百官に対して諸官を任命した。

このとき悼公とうこうは、「魏絳ぎこうが勇敢で軽率に乱れることがないこと」を知っていたので、彼を元司馬げんしば中軍司馬ちゅうぐんしば)に任命した。

鶏沢の会盟

襄公じょうこう3年(しん悼公とうこう3年・紀元前570年)6月己未きびの日、諸侯しょこうが会盟して、鶏沢けいたく鶏丘けいきゅう)において盟約を結んだ。

ところがこの時、晋侯しんこう悼公とうこう)の弟・揚干ようかん曲梁きょくりょうにおいて軍列を乱したため、魏絳ぎこうは(軍法の執行と処罰をつかさど中軍司馬ちゅうぐんしばとして)そのぼく(従者)を処刑した。

これを知った晋侯しんこう悼公とうこう)は怒り、羊舌赤ようぜつせきに言った。

諸侯しょこうを集めて会盟したのは、国の栄誉とするためである。ところが揚干ようかんがこのようなはずかしめを受けた。これ以上の恥辱ちじょくがあろうか。必ず魏絳ぎこうを殺せ。決して取り逃がしてはならぬ!」

すると羊舌赤ようぜつせきは、答えて言った。

こう魏絳ぎこう)に二心ふたごころはございません。(彼は)君に仕えるにあたっては困難を避けず、罪があるならば刑罰からのがれようともいたしません。まもなくみずから弁明にやって来るでしょう。どうして君命をはずかしめるようなことがありましょうか」


そう言い終わった時、ちょうど魏絳ぎこうがやって来た。

魏絳ぎこう僕人ぼくじん(召使い)に1通の書状を渡すと、みずから剣に伏して自害しようとしたので、士魴しほう張老ちょうろうがこれを制止した。

その魏絳ぎこうの書状には、以下のようにしるされていた。


「先日、我が君は人材が不足していたため、わたくしのような者を司馬しばに任命なさいました。

わたくしは『師衆ししゅう(軍隊)は、命令に従って秩序をたもつことをもってとなし、軍事においては、死ぬことはあっても命令にそむかないことをけいとなす』と聞いております。

今、我が君は諸侯しょこう糾合きゅうごうなさいました。わたくしがどうして、我が君の軍をうやまわずにおれましょうか。

我が君の軍が秩序を失うことはではなく、職務をる者が職責を果たさないことはけいではなく、これほどの大罪は他にございません。

わたくしは(軍の秩序を失わせた)死罪に値する罪が、(我が君の弟君である)揚干ようかん様に及び、その罪からのがれるすべがなくなってしまうことを恐れました。(わたくしには揚干ようかん様を)十分に訓戒くんかいすることができず、[そのぼく(従者)に対して]斧鉞ふえつ(軍法による処刑)をもちいるに至りました。

わたくしの罪はまことに重いものでございます。どうして君命に従わぬことがありましょうか。我が君のお怒りをまねきましたうえは、司寇しこう(司法長官)の元へ参り、死刑に処されることを願い出ます」


この書状を読んだ晋侯しんこう悼公とうこう)は、裸足はだしのまま外へ出て言った。


「先ほどの(『必ず魏絳ぎこうを殺せ』との)寡人わたしの言葉は、弟への親愛の情から出たものであった。

吾子そなた揚干ようかんを処罰したのは、軍法・軍礼に基づくものである。

寡人わたしには弟がありながら、これをよく教え導くことができず、そのために揚干ようかんに大命(国家の根本をなす最高法規)をおかさせてしまった。

これは寡人わたしあやまちである。どうか、(あなたが命をって)寡人わたしあやまちをこれ以上重くしないで欲しいと、心から願う」


晋侯しんこう悼公とうこう)は「魏絳ぎこうが(私情に流されずに法を執行できる)有能な人物であり、刑罰をもって領民を正しく導くことができる者である」と認めた。

鶏沢けいたく鶏丘けいきゅう)の会盟から帰還すると、晋侯しんこう悼公とうこう)は魏絳ぎこうに礼を尽くした食事をたまわり、また、佐新軍さしんぐん新軍しんぐん(副司令官)]であった令狐文子れいこぶんし魏頡ぎけつ)が亡くなったことから、魏絳ぎこうが不法を犯さなかったことを評価し、彼を佐新軍さしんぐんに任命した。

張老ちょうろうの評価

悼公とうこう張老ちょうろうけいに任命しようとしたが、張老ちょうろうは辞退して言った。


わたくし魏絳ぎこうには及びません。

こう魏絳ぎこう)の知恵は大官の職務をこなすことができ、その仁徳は公室(しんの王室)に利益をもたらすことを忘れず、勇気は刑罰を恐れてひるむことがなく、その学識は先祖の職務をすたれさせることがありません。

もし彼をけいの位にければ、朝廷の内外は必ずや平穏に治まるでしょう。

さらに、先の『鶏丘けいきゅう鶏沢けいたく)の会盟』ではその職責を犯すことなく、弁明の言葉も道理にかなっていました。このことも、賞さないわけにはまいりません」


悼公とうこうは5度にわたって張老ちょうろうけいへの就任を命じたが、張老ちょうろうは固く辞退した。

そこで悼公とうこうは、張老ちょうろう司馬しばに任命し、魏絳ぎこう佐新軍さしんぐん新軍しんぐん(副司令官)]に任命した。

晋と戎狄を講和させる

襄公じょうこう4年(しん悼公とうこう4年・紀元前569年)冬、無終子むしゅう嘉父かほ*1が、孟楽もうがくしんへ使者として派遣し、あわせて魏荘子ぎそうし魏絳ぎこう)に虎やひょうの毛皮を贈り、それによって諸じゅう(異民族たち)との講和を取り持ってくれるよう願った。

晋侯しんこう悼公とうこう)は、

戎狄じゅうてき(異民族)には親しみというものがなく、しかも貪欲どんよくである。講和するより討伐したほうがよい」

と言ったが、魏絳ぎこうは、

えびすを討伐するために軍を疲弊ひへいさせ、(その結果として諸侯しょこうの危機を救うことができず、)中華の諸侯しょこうの信頼を失うならば、たとえ功績があったとしても、それは獣を得て人を失うようなものです」

と言い、加えて「民をかえりみず、田猟でんりょう(野に出て狩りをすること)に夢中になって滅んだ有窮后羿ゆうきゅうこうげい*2の故事を例に出し、また、戎狄じゅうてきと和親することによる5つの利益」を提示した。

晋侯しんこう悼公とうこう)はこれを喜び、魏絳ぎこうに命じて諸じゅうと盟約を結ばせすと、民のための政治を整え、(自身も熱中していた)田猟でんりょうも、時節にかなって行うようになった。

こうしてしんは、ついに覇権となったのである。

晋侯(悼公)と魏絳の会話・全文
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悼公とうこう戎狄じゅうてき(異民族)には親しみというものがなく、しかも貪欲どんよくである。講和するより討伐したほうがよい」


魏絳ぎこう諸侯しょこうは新たにわが国に服従し、ちんもまた新たに和親を求めてまいりました。

彼らは我が国の行いを注視しております。もし我が国に徳があれば、彼らは親しみ結束しますが、そうでなければ、離反して二心ふたごころいだくようになるでしょう。

軍をえびすの討伐に疲弊ひへいさせている間にちんを攻めれば、ちんを救援することはできません。つまりそれは、結果としてちんを見捨てることになるのです。それを見た中華の諸侯しょこうは、必ずやしんそむくでしょう。

えびす禽獣きんじゅう(鳥獣)のような者どもです。えびすを得て、中華の諸侯しょこうを失うようなことがあって良いものでしょうか。

夏訓かくんに『有窮后羿ゆうきゅうこうげい*2』の話があります」


悼公とうこう后羿こうげいとはどのような人物であったのか?」


魏絳ぎこう「昔、王朝がまさにおとろえ始めたころ、后羿こうげいしょの地から窮石きゅうせきへ移り住み、の民を利用しての政治を奪い、みずからこれに代わって政治を行いました。

ですが后羿こうげいは、自分の弓術を頼みとして民のための政治をおさめようとはせず、野原で鳥獣を狩ることにふけり、武羅ぶら伯困はくこん熊髡ゆうこん尨圉ぼうぎょ退しりぞけ、寒浞かんさくもちいました。

寒浞かんさく伯明氏はくめいしの子弟でしたが、他人を中傷する性格であったので、伯明氏はくめいしこう(長)であるかん寒浞かんさくを見捨てました。これを夷羿いげい后羿こうげい)が受け入れ、信用してみずからの宰相さいしょうとしたのです。

寒浞かんさくは宮中では人にびへつらい、外では賄賂わいろほどこし、民をおろかにあざむきました。さらに后羿こうげい田猟でんりょう(野に出て狩りをすること)に出ている隙をうかがって様々な奸計かんけいや悪事を積み重ね、それによってその国家を奪い取りました。

ですが、国の内外の人々がみな寒浞かんさくに服従してもなお、后羿こうげいみずからの行いを改めようとせず、田猟でんりょうから帰ろうとしたところを、家衆(裏切った后羿こうげいの召使いたち)によって殺されてしまいました。

家衆たちはその肉を煮て后羿こうげいの息子に食べさせようとしましたが、どうしてもその肉を食べることができずに窮門きゅうもん有窮国ゆうきゅうこくの都の城門)のところで殺され、(王朝の旧臣・)有鬲氏ゆうれきし有鬲氏ゆうかくし)のもとへのがれました。

寒浞かんさくはそのまま后羿こうげいの妻を自分のものとし、ぎょうを生みましたが、2人は父の奸悪かんあく邪悪じゃあく欺瞞ぎまんいつわりを頼みとして、民に徳をほどこすことはありませんでした。

そして寒浞かんさくぎょうに軍をひきいさせ、斟灌氏しんかんし斟尋氏しんじんしを滅ぼすと、ぎょうに住まわせ、に住まわせました。

その後、有鬲氏ゆうれきし有鬲氏ゆうかくし)から出て滅ぼされた2国の生き残りを集め、寒浞かんさくを滅ぼして少康しょうこうを王位に立て、少康しょうこうぎょうを滅ぼし、その子の后杼こうちょを滅ぼしました。有窮国ゆうきゅうこくがこうしてついに滅亡したのは、人心を失ったからです。

昔、しゅう辛甲しんこう太史たいしとなった時、百官に命じて、それぞれの職務の立場からおうの過失をいさめさせました。その中にある、虞人ぐじん(山林・鳥獣を管理する役人)が作った虞人ぐじんいましめには、次のように書かれています。

『はるか遠くまで広がるが治めた大地はここのつの州に分けられております。(は)ここのつの大きな道を切り開き、民には住居と宗廟そうびょうがあり、鳥獣にはしげる草原があって、それぞれがそれぞれの居場所を持っておりましたので、徳が乱れることはありませんでした。
ですが、帝夷羿ていいげい后羿こうげい)の時代になると、羿げいは鳥獣の狩猟に心を奪われて国をうれえる心を忘れ、ただ(獲物の鹿の)雌雄しゆうのことばかりを考えていました。
武(田猟でんりょう)は何度も繰り返し行うべきではありません。(ですが后羿こうげいは、田猟でんりょうばかりして)王朝を盛大にするためのことをしませんでした。
鳥獣をつかさどわたくしは野原を管理し、(天子てんしの車をあやつる従者である)僕夫ぼくふに告げ知らせました』

虞箴ぐしんはこのように述べています。これをいましめとしないわけにはまいりません」


当時、晋侯しんこう悼公とうこう)は田猟でんりょうを好んでいたため、魏絳ぎこうはこの故事を引用していさめたのである。


悼公とうこう「それでは、えびすと和親するのが最善ということか?」


魏絳ぎこうえびすと和親することには5つの利益があります。

戎狄じゅうてきは(牧草を求めて)移住を繰り返す生活をしており、財貨をとうとんで土地を軽視します。そのため、(彼らの)土地を買い取ることができます。これが第1の利益です。

辺境の地が(敵の襲撃に)おびやかされなくなれば、民は安心して野良仕事にいそしむことができるようになり、穡人しょくじん(農夫)は無事に農作物を収穫することができます。これが第2の利益です。

戎狄じゅうてきしん国に仕えるようになれば周囲の国々は衝撃を受け、諸侯しょこうたちは(しんの)武威を恐れ、その徳になつくようになります。これが第3の利益です。

徳をもってえびすを安んじれば軍隊を動かす必要がなく、甲兵や武器も傷つき傷むことがありません。これが第4の利益です。

(かつて武力に頼って滅んだ)后羿こうげいの事例をかんがみて徳の基準をもちいれば、遠方の者は帰順し、近隣の者は安泰となります。これが第5の利益です。

我が君にはどうか、よくお考えになっていただきたいと存じます」

脚注

*1無終むしゅう国の国君・嘉父かほ。「無終むしゅう」とは、しゅう代から春秋しゅんじゅう時代にかけて燕山山脈えんざんさんみゃくの周辺(現在の河北省かほくしょう薊県けいけん付近)に存在した、山戎さんじゅうと呼ばれる北方民族の国。「無終子むしゅうし」の「子」は爵位。

*2有窮氏ゆうきゅうし后羿こうげい。「こう」は代における「おう」や「リーダー」を指す称号。厳密には「有窮氏ゆうきゅうしの長・羿げい」。

楚の子囊の諫言

襄公じょうこう9年(しん悼公とうこう9年・紀元前564年)夏、しん景公けいこう士雃しけんを派遣して援軍を求めた。しんを討伐しようとしていたからである。

共王きょうおうがこれを許すと、子囊しどうは次のように言った。


「いけません。今の状況では、吾々われわれ)はしんと争うことはできません。

晋君しんくん悼公とうこう)は、能力のある者を見分けてその者を登用しており、人材の登用において選択をあやまることがありません。また官職についても、その任務を(勝手に)変更することがありません。

そのけい(最高政務官)たちは善良な者に地位をゆずり、その大夫たいふ(高級官僚)たちは職責を失わず、その(知識人・戦士)たちは教化や武芸にきそはげみ、その庶人しょじん(庶民)は農業に力を尽くしています。商人、職人、皁隸そうれい(下級の召使に)至るまで、自分の生業を途中で変えようとはいたしません。

しんの最高権力者であった)韓厥かんけつは高齢を理由に現役を退しりぞき、後任の知罃ちおうは、その方針をしっかりと受け継いで国政をり行っております。

范匄はんかい中行偃ちゅうこうえんより年少であるにもかかわらず、中行偃ちゅうこうえん范匄はんかいを自分より上位に推挙し、佐中軍さちゅうぐん(中軍の副司令官)にかせております。

韓起かんき欒黶らんえんより年少ですが、欒黶らんえん士魴しほう韓起かんきを自分たちより上位に推挙し、佐上軍さじょうぐん(上軍の副司令官)にかせております。

魏絳ぎこうは多くの功績を立てていますが、それでも趙武ちょうぶを賢者であると認め、趙武ちょうぶ(補佐)となっております。

このように、君主は明晰めいせきで臣下は忠誠を尽くし、上位の者はい人物に地位をゆずり、下位の者は互いにはげきそい合っております。

このような時にあっては、しんに敵対することはできません。(今は)しんに仕え、(力をたくわえた)後になってようやく、しんと争うことができるのです。

我が君には、どうかこのことをよくお考えください」


すると共王きょうおうは、

わたしはすでにしんに援軍を出すことを許してしまったのだ。たとえしんに及ばないとしても、必ず軍を出さねばならないのだ」

と言った。


秋、共王きょうおうは軍を武城ぶじょうに進め、しんへの援軍とした。

しん軍はしんに攻め入ったが、このときしん飢饉ききんに見舞われており、報復の出兵をすることができなかった。

鄭の討伐に加わる

冬10月、諸侯しょこうていを討伐した。

庚午こうごの日、(の)季武子きぶしせい崔杼さいちょそう皇鄖こううんらは、(しんの)荀罃じゅんおう知罃ちおう)と士匄しかい范宣子はんせんし)に従って、(ていの都・新鄭しんていの)鄟門せんもんに攻め寄せた。

えい北宮括ほくきゅうかつそうひとちゅうひとは、しん荀偃じゅんえん中行偃ちゅうこうえん)と韓起かんきに従って、城門・師之梁ししりょうに攻め寄せた。

とうひとせつひとは、(しんの)欒黶らんえん士魴しほうに従って北門ほくもんに攻め寄せた。

ひとげいひとは、(しんの)趙武ちょうぶ魏絳ぎこうに従って、(ていの都・新鄭しんていの)道沿みちぞいに植えられていたくりの並木を斬り倒した。

ていひとは恐れて和睦わぼくを申し入れて来たので、11月己亥きがいの日、で盟約を結んで軍を引き上げた。


12月癸亥きがいの日、しんていを服従させることができなかったため、諸侯しょこうひきいて再びていを討伐し、ていの3つの城門を攻撃した。

うるう12月戊寅ぼいんの日、(諸侯しょこうの軍は)陰阪いんはんを渡ってていの領内に侵入してていを攻撃し、陰口いんこうに軍を駐屯させて引き返した。

その後、楚子そし共王きょうおう)がていを討伐すると、ていと講和して、今度はと同盟を結んだ。

施舍を進言する

晋侯しんこう悼公とうこう)は帰国すると、「(いくさに疲れた)民を休養させるためにはどうすればよいか」を相談した。

すると魏絳ぎこう施舍ししゃ(恩恵を施し、税や労役を免除すること)を行い、国家の備蓄を放出して人々に貸し付けるように願い出た。

晋侯しんこう悼公とうこう)はこの意見を採用し、]晋侯しんこう悼公とうこう)以下、財産を蓄えている者は誰もがそれをすべて出し尽くすと、国内に流通せずにとどこおっていた富はなくなり、また生活に困窮こんきゅうする民もいなくなった。

晋侯しんこう悼公とうこう)は利益を独占することを禁じ、貪欲どんよくに利益をむさぼるような民もいなくなった。

また、祈祷の際のお供え物は(高価な犠牲いけにえではなく)幣帛へいはく(布などの物品)にえ、賓客ひんかくをもてなす際には特牲とくせい(1頭だけの犠牲いけにえ)で済ませ、器物や道具は新しく作らず、馬車や衣服はすでにあるもので間に合わせた。

これらを実行して満1年がつと、国家の財政にゆとりが生まれ、(しんは)3度も大軍を動かして遠征(三駕さんが)し、はこれに対抗して争うことができなくなった。

再び鄭を攻撃する

襄公じょうこう10年(しん悼公とうこう10年・紀元前563年)秋9月、諸侯しょこうていを攻撃し、己酉きゆうの日、諸侯しょこうの軍は牛首ぎゅうしゅに駐屯した。

冬10月、諸侯しょこうの軍は虎牢ころうに城を築き、そこに兵を駐屯させた。しん軍はせいに城を築き、士魴しほう魏絳ぎこうがそこを守った。

春秋しゅんじゅうに「戍鄭虎牢。(てい虎牢ころうを守備した)」と書かれているのは、(当時、虎牢ころうしんが占領しており)ていの土地ではなかったからである。(あえてていの土地と書いたのは、後にこれをていに返還するであろうことを見越して)将来的に帰属するはずだとべているのである。

ていしんと講和した。

鄭の服従

襄公じょうこう11年(しん悼公とうこう11年・紀元前562年)9月、諸侯しょこうは全軍をげて再びていを討伐した。

するとていひとは、良霄りょうしょう太宰たいさい石鄿せききに派遣して「しんに服従するつもりであること」を告げ、[鄭伯ていはくてい簡公かんこう)の言葉を伝えて]言った。


わたくしてい簡公かんこう)は社稷しゃしょく(国家)を守るために、残念ながらこれまで通りあなたさま共王きょうおう)をおしたいし続けることができなくなりました。

ですがもし、あなたさま共王きょうおう)が玉帛ぎょくはく[宝玉と絹(贈り物)]をもってしん和睦わぼくし、(我々への攻撃を)なだめてくださるなら、それに越したことはありません。

もしそれができないのであれば、武(軍事力)を振るってしんを威圧してください。これこそがわたくしてい簡公かんこう)の願いでございます」


これを聞いたひとは、2人を捕らえて監禁した。


諸侯しょこうの軍がていの東門に進んでその軍勢を示すと、ていひと王子おうじ伯駢はくべんを派遣して講和を申し入れた。

甲戌こうじゅつの日、しん趙武ちょうぶていに入って鄭伯ていはくてい簡公かんこう)と盟約を結び、冬10月丁亥ていがいの日、てい子展してんが出向いて晋侯しんこう悼公とうこう)と盟約を結んだ。

12月戊寅ぼいんの日、[晋侯しんこう悼公とうこう)と鄭伯ていはくてい簡公かんこう)は]蕭魚しょうぎょで会盟した。

庚辰こうしんの日、[晋侯しんこう悼公とうこう)は]ていの捕虜をすべて赦免しゃめんし、礼を尽くして帰国させると、てい斥候せっこうを送って侵入や略奪を禁じ、叔肸しゅくきつ諸侯しょこうのもとへ派遣してこのことを告げさせた。

恩賞を賜る

ていひとは、

  • ていの宮廷楽師である)師悝しかい師触ししょく師蠲しけんの3人
  • 広車こうしゃ(高級な攻撃用の戦車)・軘車とんしゃ(陣地を守るための戦車)を15乗ずつ
  • 甲冑かっちゅう・武器一式と兵車百じょう(両)
  • 歌鐘かしょう(並べられた青銅製のかね)2(2列)と、それに付随ふずいするはく(大型のかね)やけい(石の打楽器)
  • 二八(16人)の女楽じょがく(女性の音楽隊)

晋侯しんこう悼公とうこう)に献上した。

晋侯しんこう悼公とうこう)は、その音楽に関する献上品の半分[女楽じょがく一八(8人)と歌鐘かしょう1(1列)]を魏絳ぎこうに与えて次のように言った。


あなた寡人わたしに『戎狄じゅうてき(異民族)たちと和睦わぼくして中華の諸侯しょこうを正しく導く』ように教えてくれたおかげで、この8年の間に9回も、諸侯しょこうを集めて会盟を開く(諸侯しょこうをまとめる)ことができた。

これはまるで、音楽の調和が取れて、どこにも不調和がないようなものだ。どうかあなたと一緒に音楽を楽しませてくれ(そのためにこれを受け取ってくれ)」


すると魏絳ぎこうは辞退して言った。


戎狄じゅうてき和睦わぼくすることができたのは国家にとっての福でございます。

この8年の間に9回も諸侯しょこうを集めて会盟し、諸侯しょこう二心ふたごころいだかなかったのは、我が君(悼公とうこう)の霊(ご威徳)と、他の2、3人の臣下たちの功労によるものです。わたくしに何の功績がありましょうか?

ただ、わたくしは我が君に『この楽しみに安住しつつも、その終(将来)を考えていただきたい』と願っております。

詩経しきょうに『なんと楽しいことであろうか、君子よ。天子てんしくに(国)をしずやすんじておられる。なんと楽しいことであろうか、君子よ。福禄ふくろく(幸せと豊かな生活)が君のもとに集まっている。左右にはべる者たちもまた、君を手本として従っている*3』とあります。

原文:楽只君子,殿天子之邦。楽只君子,福祿攸同。便蕃左右,亦是帥從。

そもそも『がく(楽しむ)』とは徳をやすんじるためのものであり、義(正しさ)をもって処し、礼をもって行い、信(誠実)をもって守り、仁(いつくしみ)をもってはげむことです。そうしてこそ、初めて邦国ほうこくしずやすんじ、福禄ふくろくを共にし、遠方の人々を来服させることができるのです。これこそが(詩経しきょうにいう)『がく(楽しむ)』なのです。

また書経しょきょうに『やすきにりてあやうきを思え(居安思危)』とあります。先々の危機を思えばこそそなえができ、そなえがあればうれいはありません。あえてこの言葉をもって[晋侯しんこう悼公とうこう)への]いましめといたします」


これを受け、晋侯しんこう悼公とうこう)は言った。


あなたの教えを、どうして受け入れないことがあろうか!

もしあなたがいなかったなら、寡人わたしえびす(異民族)に対処(和親)することもできず、黄河こうがを渡(ってていを服従させ)ることもできなかった。

そもそも功績に対して恩賞を与えるのは『国の典(法)』であり、その記録は盟府めいふ(同盟の記録を保管する役所)に保管されているもので、廃止することはできない。どうかこれらを受け取ってくれ」


魏絳ぎこうは3度辞退した後に、ようやくこれを受け取った。

魏絳ぎこうはここにおいて初めて、『金石きんせきがく(高貴な身分にのみ許される宮廷音楽)』をかなでることを許されたが、これは礼にかなったことであった。

晋侯しんこう悼公とうこう)はまた、魏絳ぎこう安邑あんゆうを与え、魏絳ぎこう安邑あんゆうに居所を移した。

脚注

*3詩経しきょう小雅しょうが桑扈之什そうこのじゅう采菽さいしゅく

櫟の役

その後、しん庶長しょちょうほう庶長しょちょうが軍をひきいてしんを攻め、それによってていを救おうとした。

しん庶長しょちょうほうが先にしんの領内に入ると、しん士魴しほうがこれを防ぎ迎えたが、しんの軍勢が少数であるとあなどって防備を固めていなかった。

壬午じんごの日、しん庶長しょちょう輔氏ほしの地から黄河こうがを渡り、ほう軍と合流してはさみ撃ちの形でしん軍を攻め立てた。

己丑きちゅうの日、しんしんれきの地で戦い、しん軍は大敗した。この戦いの敗因は、しん軍がしん軍をかろんじ見くびっていたためである。

佐下軍(下軍の佐)に任命される

襄公じょうこう13年(しん悼公とうこう13年・紀元前560年)夏、しんでは[将中軍しょうちゅうぐん中軍ちゅうぐんの将)であった]荀罃じゅんおうと[下軍かぐん(副司令官)であった]士魴しほうが亡くなった。

晋侯しんこう悼公とうこう)は綿上めんじょうで軍を閲兵えっぺいし、軍を整えて戦争にそなえた。そして、士匄しかい范宣子はんせんし)を中軍ちゅうぐんの将に任命しようとしたが、士匄しかい范宣子はんせんし)は、

伯游はくゆう荀偃じゅんえん)殿の方が年長でいらっしゃいます。かつてわたくし知伯ちはく荀罃じゅんおう)殿のもとで(軍務を)学びましたので、知伯ちはく荀罃じゅんおう)殿を補佐していたに過ぎません。わたくし自身がすぐれて賢いわけではないのです。どうかわたくし伯游はくゆう荀偃じゅんえん)殿の配下にかせてください」

と言って辞退したので、晋侯しんこう悼公とうこう)は荀偃じゅんえん将中軍しょうちゅうぐん中軍ちゅうぐんの将)とし、士匄しかい范宣子はんせんし)をその(副司令官)とした。

さらに韓起かんき将上軍しょうじょうぐん上軍じょうぐんの将)に任命しようとしたところ、韓起かんき趙武ちょうぶ(の方がすぐれていること)を理由にして辞退した。

そこで晋侯しんこう悼公とうこう)は、欒黶らんえん将上軍しょうじょうぐん上軍じょうぐんの将)に任命しようとしたところ、欒黶らんえんも辞退して言った。

わたくし韓起かんきには及びません。韓起かんき趙武ちょうぶ将上軍しょうじょうぐん上軍じょうぐんの将)になることを望んでおります。我が君、どうかその願いをお聞き入れください」

そこで晋侯しんこう悼公とうこう)は、趙武ちょうぶ将上軍しょうじょうぐん上軍じょうぐんの将)として韓起かんきをその(副司令官)とし、欒黶らんえん将下軍しょうかぐん下軍かぐんの将)として魏絳ぎこうをその(副司令官)とした。


この結果、新軍しんぐんには将としての適任者がいなくなってしまった。

晋侯しんこう悼公とうこう)は将新軍しょうしんぐん新軍しんぐんの将)を誰にするか悩んだ結果、(新軍しんぐんの)什吏じゅうり(部隊長)たちに「それぞれが管轄する兵卒・戦車・官属(役人)」をひきいさせ、下軍かぐんの指揮下に組み込んで従わせることにした。これは礼にかなったことである。

遷延の役

襄公じょうこう14年(しん悼公とうこう14年・紀元前559年)夏、諸侯しょこう大夫たいふたちは晋侯しんこう悼公とうこう)に従ってしんを討伐した。これは[襄公じょうこう11年(しん悼公とうこう11年・紀元前562年)冬に起こった]「れきえき」で受けた敗北に報復するためであった。

晋侯しんこう悼公とうこう)は国境で待機し、六卿りくけい諸侯しょこうの軍をひきいて先へ進ませた。諸侯しょこうの軍は涇水けいすいを渡って宿営したが、しんひと涇水けいすいの上流に毒を流し入れたため、涇水けいすいを渡ってしんの領内に入った諸侯しょこうの軍勢には多くの死者が出た。

(このような状況の中でも、)てい司馬しば子蟜しきょうてい軍をひきいて真っ先に進撃すると、諸侯しょこうの軍もみなこれに従い棫林よくりんの地まで至ったものの、何も戦果をげることはできなかった。

そこで将中軍しょうちゅうぐん荀偃じゅんえんが命令を下し、

にわとり一番鶏いちばんどり)が鳴いたら馬車に馬をつなぎ、井戸をめ、かまどを壊し、ただわたしの馬首の向く方向だけを見て、不退転の覚悟で前進せよ」

と言った。するとこれを聞いた将下軍しょうかぐん欒黶らんえんは、

しん国の命令にこのような前例はなかった。わたしの馬首は東(しん国の方角=退却)を向きたがっている」

と言って帰国してしまい、彼がひきいる下軍かぐんもこれに従って退却した。

左史さし魏荘子ぎそうし魏絳ぎこう)に「中行伯ちゅうこうはく荀偃じゅんえん)殿の指示を待たなくてよろしいのですか?」とたずねると、魏荘子ぎそうし魏絳ぎこう)は、

夫子ふうし(あの方:荀偃じゅんえん)は『(各軍の)指揮官に従え』と命令された。わたしの将は欒伯らんはく欒黶らんえん)殿である。わたしわたしの将に従う。指揮官に従うことこそが、夫子ふうし(あの方:荀偃じゅんえん)の命令を待つ(尊重する)ことになるのだ」

と答えた。

(この事態に)伯游はくゆう荀偃じゅんえん)は、

「今回の命令は、本当にわたしあやまちであった。後悔しても手遅れだ。このままでは多くの兵をしんの捕虜にさせてしまうだろう」

と言い、全軍に撤退を命じた。

しんひとはこの戦いのことを「遷延せんえんえき」(だらだらと長引き、成果なく引きげた戦い)と呼んだ。

晋の悼公の死と溴梁の会

襄公じょうこう15年(しん悼公とうこう15年・紀元前558年)秋、ちゅうひとの南の辺境の国境地帯を攻撃したので、は使者を派遣してしんに事態を告げた。

しん諸侯しょこうの会合を開いてちゅうきょを討伐しようとしたが、晋侯しんこう悼公とうこう)が病気になったため中止となった。冬、しん悼公とうこうが亡くなり、とうとう諸侯しょこうの会合を開くことはできなかった。


襄公じょうこう16年(しん悼公とうこう16年・紀元前557年)春、しんでは悼公とうこうほうむり、平公へいこうが即位した。

平公へいこうは)溴梁しゅうりょうで会合して(諸侯しょこうに)侵略した他国の領地を元に戻すように命じ、(前年に攻撃された)の事情を考慮してちゅう宣公せんこうきょ犁比公りひこう拘束こうそくし、さらに「これからはせいとの間に使者を通じさせよ」と命じた。

また、諸侯しょこうおんの地でうたげを開き、各国の正卿せいけいたちに舞を踊らせて、「歌う詩は、必ずうたげの趣旨(君臣・諸侯しょこうの和合)に合ったものにするように」と言った。

ところが、せい高厚こうこうが歌った詩はその趣旨に合っていなかったので、荀偃じゅんえんは怒り、「諸侯しょこうの中に(しんに)二心ふたごころを持つ者がいるぞ」と言った。

しんは)各国の正卿せいけいたちに高厚こうこうと同盟の誓いをさせようとしたが、高厚こうこうは逃げ帰ってしまった。

そこで、(の)叔孫豹しゅくそんほうしん荀偃じゅんえんそう向戌しょうじゅつえい甯殖ねいしょくてい公孫蠆こうそんたい小邾しょうちゅう大夫たいふらが同盟を結び、「しんの命令に従わない不忠な国は、協力して討伐しよう」と誓った。

平陰の戦い

襄公じょうこう18年(しん平公へいこう3年・紀元前555年)冬10月、諸侯しょこうは(の)済水せいすいのほとりで会合し、かつて溴梁しゅうりょうで結んだ盟約を改めて確認し、共同でせいを討伐した。

斉侯せいこうせい霊公れいこう)は平陰へいいんでこれを防ぎ、防門に塹壕ざんごうを掘って固守したが、せい軍は城門の戦闘で多くの戦死者を出した。

そこへ(しんの)范宣子はんせんしが(せいの)析文子せきぶんしを通じて「きょの軍が別の道からせいへ攻め入る手はずになっている」との偽の情報を流し、また、山や沢を視察する際に旗を大量に立て、馬車に柴(木の枝)を引かせて砂煙を巻き上げて軍を大きく見せる「偽装工作」を行ったため、これを見た斉侯せいこうせい霊公れいこう)はおそれ、夜陰にまぎれて逃走した。

諸侯しょこうせいの国都(臨淄りんし)にせまり、周辺の要塞を次々と攻略して、城門や外郭、池の竹林などを焼き払い、東は濰水いすい、南は沂水ぎすいまで侵攻して引きげた。

この戦いの中で魏絳ぎこうは、欒盈らんえいと共に下軍かぐんひきいてを攻め落とした。11月乙酉いつゆうの日のことである。


魏絳ぎこうの没年は伝わっていないが、その死後は孫の魏舒ぎじょ魏献子ぎけんし)が魏氏ぎしの当主の地位を継承した。

出典
  • 国語こくご晋語しんご7
  • 史記しき魏世家ぎせいか
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん成公せいこう18年
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん襄公じょうこう3年4年9年10年11年13年14年15年16年18年23年

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