正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉕(魏顆(ぎか)・魏絳(ぎこう))です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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き㉕

魏顆

魏顆(ぎか)

生没年不詳。春秋(しゅんじゅう)時代の晋(しん)の臣下。父は魏武子(ぎぶし)(魏犨(ぎしゅう))。令狐氏(れいこし)の祖。

輔氏の戦い

晋(しん)の景公(けいこう)6年(魯(ろ)の宣公(せんこう)15年・紀元前594年)秋7月、秦(しん)の桓公(かんこう)が晋(しん)を攻め、秦(しん)軍は(晋(しん)の)輔氏(ほし)に駐屯した。

壬午(じんご)の日、晋侯(しんこう)(晋(しん)の景公(けいこう))は稷(しょく)において軍隊を整え、狄(てき)(北方異民族)の領土を攻略すると、(その地の君主として)黎侯(れいこう)を立ててから帰還した。

[晋侯(しんこう)(晋(しん)の景公(けいこう))の軍が](晋(しん)の)雒(らく)に至った時、(晋(しん)の)魏顆(ぎか)が輔氏(ほし)において秦(しん)軍を打ち破り、秦(しん)将の中でも屈指の剛力の持ち主であった杜回(とかい)を捕虜にした。

結草の恩

これより以前、(魏顆(ぎか)の父・)魏武子(ぎぶし)(魏犨(ぎしゅう))には嬖妾(へいしょう)(寵愛(ちょうあい)している妾(めかけ))がいたが、その婦人との間には子がなかった。

魏武子(ぎぶし)は病気になった時、魏顆(ぎか)に命じて「必ず(この嬖妾(へいしょう)を)他家へ嫁(とつ)がせよ」と言ったが、病状が重くなると、「必ず(この嬖妾(へいしょう)を自分と一緒に)殉死(じゅんし)させよ」と言った。

魏武子(ぎぶし)が亡くなると、魏顆(ぎか)はその嬖妾(へいしょう)を他家へ嫁(とつ)がせて言った。

「病(やまい)が重くなった時の言葉は、意識が乱れていたから出た言葉だ。吾(わたし)は正常な判断ができていた時の命令に従ったのである」


「輔氏(ほし)の役(えき)」の際、魏顆(ぎか)は1人の老人が草を結んで杜回(とかい)の進路を妨(さまた)げるのを見たが、魏顆(ぎか)が杜回(とかい)を捕(と)らえることができたのは、杜回(とかい)がその草につまずいて倒れたためであった。

その夜、魏顆(ぎか)が見た夢の中で、その老人は言った。

「余(わたし)は爾(おまえ)が嫁(とつ)がせてくれた婦人の父である。爾(おまえ)は先人(魏武子(ぎぶし))が正気であった時の命令を用(もち)いてくれた。余(わたし)はその行いに報(むく)いたのだ」

令狐に封ぜられる

魏顆(ぎか)は秦(しん)将の杜回(とかい)を捕(と)らえた功績によって、別に令狐(れいこ)の地に封ぜられた。

魏顆(ぎか)は文子(ぶんし)・魏頡(ぎけつ)を生み、その子孫はこれによって令狐(れいこ)を氏とし、代々太原(たいげん)に居住するようになった。

備考
魏武子(ぎぶし)(魏犨(ぎしゅう))と魏顆(ぎか)の続柄について
  • 『春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)』伝(でん)15年の杜預(とよ)注に「武子(ぶし)とは魏犨(ぎしゅう)のことであり、魏顆(ぎか)の父である」とある。
  • 『古今姓氏書辯證(ここんせいししょべんしょう)』巻(かん)29に「犨(しゅう)(魏犨(ぎしゅう))は悼子(とうし)(魏悼子(ぎとうし))と錡(き)(魏錡(ぎき))、および顆(か)(魏顆(ぎか))を生んだ」とある。

基維百科:魏顆 には「魏犨(ぎしゅう)の庶長子」とあるが、出典は不明。

魏犨(ぎしゅう)の後を継いだのは魏悼子(ぎとうし)だが、魏犨(ぎしゅう)の死後、魏犨(ぎしゅう)の嬖妾(へいしょう)の処遇を魏顆(ぎか)が取り仕切っている。これを「幼い嫡子(ちゃくし)・魏悼子(ぎとうし)の代わりに、年長の庶長子である魏顆(ぎか)が取り仕切った」と考えれば自然である。

出典
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』宣公(せんこう)15年
  • 『春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)』伝(でん)15年
  • 『古今姓氏書辯證(ここんせいししょべんしょう)』巻(かん)29
  • 『新唐書(しんとうしょ)』宰相世系(さいしょうせいけい)5下

「魏顆(ぎか)」の関連記事

魏絳

魏絳(ぎこう)

生没年不詳。春秋(しゅんじゅう)時代の晋(しん)の臣下。魏荘子(ぎそうし)(『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』)、魏昭子(ぎしょうし)(『史記(しき)』魏世家(ぎせいか))とも言う。

父は魏悼子(ぎとうし)。祖父は魏武子(ぎぶし)(魏犨(ぎしゅう))。子に魏嬴(ぎえい)。孫に魏舒(ぎじょ)(魏献子(ぎけんし))。ただし、『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』襄公(じょうこう)23年・杜預(とよ )注には「魏絳(ぎこう)は魏献子(ぎけんし)の父」とある。

晋(しん)の悼公(とうこう)・平公(へいこう)の2代に仕え、戎狄(じゅうてき)を晋(しん)に帰服させた功績で知られる。中軍司馬(ちゅうぐんしば)、佐新軍(さしんぐん)、佐下軍(さかぐん)を歴任した。

中軍司馬に任命される

魯(ろ)の成公(せいこう)18年(紀元前573年)2月朔(ついたち)の乙酉(いつゆう)の日、晋侯(しんこう)・悼公(とうこう)が即位し、初めて百官に対して諸官を任命した。

このとき悼公(とうこう)は、「魏絳(ぎこう)が勇敢で軽率に乱れることがないこと」を知っていたので、彼を元司馬(げんしば)(中軍司馬(ちゅうぐんしば))に任命した。

鶏沢の会盟

魯(ろ)の襄公(じょうこう)3年(晋(しん)の悼公(とうこう)3年・紀元前570年)6月己未(きび)の日、諸侯(しょこう)が会盟して、鶏沢(けいたく)(鶏丘(けいきゅう))において盟約を結んだ。

ところがこの時、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))の弟・揚干(ようかん)が曲梁(きょくりょう)において軍列を乱したため、魏絳(ぎこう)は(軍法の執行と処罰を司(つかさど)る中軍司馬(ちゅうぐんしば)として)その僕(ぼく)(従者)を処刑した。

これを知った晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は怒り、羊舌赤(ようぜつせき)に言った。

「諸侯(しょこう)を集めて会盟したのは、国の栄誉とするためである。ところが揚干(ようかん)がこのような辱(はずかし)めを受けた。これ以上の恥辱(ちじょく)があろうか。必ず魏絳(ぎこう)を殺せ。決して取り逃がしてはならぬ!」

すると羊舌赤(ようぜつせき)は、答えて言った。

「絳(こう)(魏絳(ぎこう))に二心(ふたごころ)はございません。(彼は)君に仕えるにあたっては困難を避けず、罪があるならば刑罰から逃(のが)れようともいたしません。まもなく自(みずか)ら弁明にやって来るでしょう。どうして君命を辱(はずかし)めるようなことがありましょうか」


そう言い終わった時、ちょうど魏絳(ぎこう)がやって来た。

魏絳(ぎこう)は僕人(ぼくじん)(召使い)に1通の書状を渡すと、自(みずか)ら剣に伏して自害しようとしたので、士魴(しほう)と張老(ちょうろう)がこれを制止した。

その魏絳(ぎこう)の書状には、以下のように記(しる)されていた。


「先日、我が君は人材が不足していたため、臣(わたくし)のような者を司馬(しば)に任命なさいました。

臣(わたくし)は『師衆(ししゅう)(軍隊)は、命令に従って秩序を保(たも)つことをもって武(ぶ)となし、軍事においては、死ぬことはあっても命令に背(そむ)かないことを敬(けい)となす』と聞いております。

今、我が君は諸侯(しょこう)を糾合(きゅうごう)なさいました。臣(わたくし)がどうして、我が君の軍を敬(うやま)わずにおれましょうか。

我が君の軍が秩序を失うことは武(ぶ)ではなく、職務を執(と)る者が職責を果たさないことは敬(けい)ではなく、これほどの大罪は他にございません。

臣(わたくし)は(軍の秩序を失わせた)死罪に値する罪が、(我が君の弟君である)揚干(ようかん)様に及び、その罪から逃(のが)れる術(すべ)がなくなってしまうことを恐れました。(臣(わたくし)には揚干(ようかん)様を)十分に訓戒(くんかい)することができず、[その僕(ぼく)(従者)に対して]斧鉞(ふえつ)(軍法による処刑)を用(もち)いるに至りました。

臣(わたくし)の罪は誠(まこと)に重いものでございます。どうして君命に従わぬことがありましょうか。我が君のお怒りを招(まね)きましたうえは、司寇(しこう)(司法長官)の元へ参り、死刑に処されることを願い出ます」


この書状を読んだ晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は、裸足(はだし)のまま外へ出て言った。


「先ほどの(『必ず魏絳(ぎこう)を殺せ』との)寡人(わたし)の言葉は、弟への親愛の情から出たものであった。

吾子(そなた)が揚干(ようかん)を処罰したのは、軍法・軍礼に基づくものである。

寡人(わたし)には弟がありながら、これをよく教え導くことができず、そのために揚干(ようかん)に大命(国家の根本をなす最高法規)を犯(おか)させてしまった。

これは寡人(わたし)の過(あやま)ちである。どうか、(あなたが命を絶(た)って)寡人(わたし)の過(あやま)ちをこれ以上重くしないで欲しいと、心から願う」


晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は「魏絳(ぎこう)が(私情に流されずに法を執行できる)有能な人物であり、刑罰をもって領民を正しく導くことができる者である」と認めた。

鶏沢(けいたく)(鶏丘(けいきゅう))の会盟から帰還すると、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は魏絳(ぎこう)に礼を尽くした食事を賜(たまわ)り、また、佐新軍(さしんぐん[新軍(しんぐん)の佐(さ)(副司令官)]であった令狐文子(れいこぶんし)(魏頡(ぎけつ))が亡くなったことから、魏絳(ぎこう)が不法を犯さなかったことを評価し、彼を佐新軍(さしんぐん)に任命した。

張老(ちょうろう)の評価

悼公(とうこう)は張老(ちょうろう)を卿(けい)に任命しようとしたが、張老(ちょうろう)は辞退して言った。


「臣(わたくし)は魏絳(ぎこう)には及びません。

絳(こう)(魏絳(ぎこう))の知恵は大官の職務をこなすことができ、その仁徳は公室(晋(しん)の王室)に利益をもたらすことを忘れず、勇気は刑罰を恐れて怯(ひる)むことがなく、その学識は先祖の職務を廃(すた)れさせることがありません。

もし彼を卿(けい)の位に就(つ)ければ、朝廷の内外は必ずや平穏に治まるでしょう。

さらに、先の『鶏丘(けいきゅう)(鶏沢(けいたく))の会盟』ではその職責を犯すことなく、弁明の言葉も道理にかなっていました。このことも、賞さないわけにはまいりません」


悼公(とうこう)は5度にわたって張老(ちょうろう)に卿(けい)への就任を命じたが、張老(ちょうろう)は固く辞退した。

そこで悼公(とうこう)は、張老(ちょうろう)を司馬(しば)に任命し、魏絳(ぎこう)を佐新軍(さしんぐん)[新軍(しんぐん)の佐(さ)(副司令官)]に任命した。

晋と戎狄を講和させる

魯(ろ)の襄公(じょうこう)4年(晋(しん)の悼公(とうこう)4年・紀元前569年)冬、無終子(むしゅう)・嘉父(かほ)*1が、孟楽(もうがく)を晋(しん)へ使者として派遣し、あわせて魏荘子(ぎそうし)(魏絳(ぎこう))に虎や豹(ひょう)の毛皮を贈り、それによって諸戎(じゅう)(異民族たち)との講和を取り持ってくれるよう願った。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は、

「戎狄(じゅうてき)(異民族)には親しみというものがなく、しかも貪欲(どんよく)である。講和するより討伐したほうがよい」

と言ったが、魏絳(ぎこう)は、

「戎(えびす)を討伐するために軍を疲弊(ひへい)させ、(その結果として諸侯(しょこう)の危機を救うことができず、)中華の諸侯(しょこう)の信頼を失うならば、たとえ功績があったとしても、それは獣を得て人を失うようなものです」

と言い、加えて「民を顧(かえり)みず、田猟(でんりょう)(野に出て狩りをすること)に夢中になって滅んだ有窮后羿(ゆうきゅうこうげい)*2の故事を例に出し、また、戎狄(じゅうてき)と和親することによる5つの利益」を提示した。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))はこれを喜び、魏絳(ぎこう)に命じて諸戎(じゅう)と盟約を結ばせすと、民のための政治を整え、(自身も熱中していた)田猟(でんりょう)も、時節にかなって行うようになった。

こうして晋(しん)は、ついに覇権となったのである。

晋侯(悼公)と魏絳の会話・全文
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悼公(とうこう)「戎狄(じゅうてき)(異民族)には親しみというものがなく、しかも貪欲(どんよく)である。講和するより討伐したほうがよい」


魏絳(ぎこう)「諸侯(しょこう)は新たにわが国に服従し、陳(ちん)もまた新たに和親を求めてまいりました。

彼らは我が国の行いを注視しております。もし我が国に徳があれば、彼らは親しみ結束しますが、そうでなければ、離反して二心(ふたごころ)を抱(いだ)くようになるでしょう。

軍を戎(えびす)の討伐に疲弊(ひへい)させている間に楚(そ)が陳(ちん)を攻めれば、陳(ちん)を救援することはできません。つまりそれは、結果として陳(ちん)を見捨てることになるのです。それを見た中華の諸侯(しょこう)は、必ずや晋(しん)に背(そむ)くでしょう。

戎(えびす)は禽獣(きんじゅう)(鳥獣)のような者どもです。戎(えびす)を得て、中華の諸侯(しょこう)を失うようなことがあって良いものでしょうか。

『夏訓(かくん)』に『有窮后羿(ゆうきゅうこうげい)*2』の話があります」


悼公(とうこう)「后羿(こうげい)とはどのような人物であったのか?」


魏絳(ぎこう)「昔、夏(か)王朝がまさに衰(おとろ)え始めたころ、后羿(こうげい)は鉏(しょ)の地から窮石(きゅうせき)へ移り住み、夏(か)の民を利用して夏(か)の政治を奪い、自(みずか)らこれに代わって政治を行いました。

ですが后羿(こうげい)は、自分の弓術を頼みとして民のための政治を修(おさ)めようとはせず、野原で鳥獣を狩ることにふけり、武羅(ぶら)・伯困(はくこん)・熊髡(ゆうこん)・尨圉(ぼうぎょ)を退(しりぞ)け、寒浞(かんさく)を用(もち)いました。

寒浞(かんさく)は伯明氏(はくめいし)の子弟でしたが、他人を中傷する性格であったので、伯明氏(はくめいし)の后(こう)(長)である寒(かん)は寒浞(かんさく)を見捨てました。これを夷羿(いげい)(后羿(こうげい))が受け入れ、信用して自(みずか)らの宰相(さいしょう)としたのです。

寒浞(かんさく)は宮中では人に媚(こ)びへつらい、外では賄賂(わいろ)を施(ほどこ)し、民を愚(おろ)かに欺(あざむ)きました。さらに后羿(こうげい)が田猟(でんりょう)(野に出て狩りをすること)に出ている隙をうかがって様々な奸計(かんけい)や悪事を積み重ね、それによってその国家を奪い取りました。

ですが、国の内外の人々がみな寒浞(かんさく)に服従してもなお、后羿(こうげい)は自(みずか)らの行いを改めようとせず、田猟(でんりょう)から帰ろうとしたところを、家衆(裏切った后羿(こうげい)の召使いたち)によって殺されてしまいました。

家衆たちはその肉を煮て后羿(こうげい)の息子に食べさせようとしましたが、どうしてもその肉を食べることができずに窮門(きゅうもん)(有窮国(ゆうきゅうこく)の都の城門)のところで殺され、(夏(か)王朝の旧臣・)靡(び)は有鬲氏(ゆうれきし)(有鬲氏(ゆうかくし))のもとへ逃(のが)れました。

寒浞(かんさく)はそのまま后羿(こうげい)の妻を自分のものとし、澆(ぎょう)と豷(い)を生みましたが、2人は父の奸悪(かんあく)・邪悪(じゃあく)・欺瞞(ぎまん)・偽(いつわ)りを頼みとして、民に徳を施(ほどこ)すことはありませんでした。

そして寒浞(かんさく)は澆(ぎょう)に軍を率(ひき)いさせ、斟灌氏(しんかんし)と斟尋氏(しんじんし)を滅ぼすと、澆(ぎょう)を過(か)に住まわせ、豷(い)を戈(か)に住まわせました。

その後、靡(び)は有鬲氏(ゆうれきし)(有鬲氏(ゆうかくし))から出て滅ぼされた2国の生き残りを集め、寒浞(かんさく)を滅ぼして少康(しょうこう)を王位に立て、少康(しょうこう)は過(か)で澆(ぎょう)を滅ぼし、その子の后杼(こうちょ)は戈(か)で豷(い)を滅ぼしました。有窮国(ゆうきゅうこく)がこうしてついに滅亡したのは、人心を失ったからです。

昔、周(しゅう)の辛甲(しんこう)が太史(たいし)となった時、百官に命じて、それぞれの職務の立場から王(おう)の過失を諫(いさ)めさせました。その中にある、虞人(ぐじん)(山林・鳥獣を管理する役人)が作った『虞人(ぐじん)の箴(いましめ)』には、次のように書かれています。

『はるか遠くまで広がる禹(う)が治めた大地は九(ここの)つの州に分けられております。(禹(う)は)九(ここの)つの大きな道を切り開き、民には住居と宗廟(そうびょう)があり、鳥獣には生(お)い茂(しげ)る草原があって、それぞれがそれぞれの居場所を持っておりましたので、徳が乱れることはありませんでした。
ですが、帝夷羿(ていいげい)(后羿(こうげい))の時代になると、羿(げい)は鳥獣の狩猟に心を奪われて国を憂(うれ)える心を忘れ、ただ(獲物の鹿の)雌雄(しゆう)のことばかりを考えていました。
武(田猟(でんりょう))は何度も繰り返し行うべきではありません。(ですが后羿(こうげい)は、田猟(でんりょう)ばかりして)夏(か)王朝を盛大にするためのことをしませんでした。
鳥獣を司(つかさど)る臣(わたくし)は野原を管理し、(天子(てんし)の車を操(あやつ)る従者である)僕夫(ぼくふ)に告げ知らせました』

『虞箴(ぐしん)』はこのように述べています。これを戒(いまし)めとしないわけにはまいりません」


当時、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は田猟(でんりょう)を好んでいたため、魏絳(ぎこう)はこの故事を引用して諫(いさ)めたのである。


悼公(とうこう)「それでは、戎(えびす)と和親するのが最善ということか?」


魏絳(ぎこう)「戎(えびす)と和親することには5つの利益があります。

戎狄(じゅうてき)は(牧草を求めて)移住を繰り返す生活をしており、財貨を貴(とうと)んで土地を軽視します。そのため、(彼らの)土地を買い取ることができます。これが第1の利益です。

辺境の地が(敵の襲撃に)脅(おびや)かされなくなれば、民は安心して野良仕事に勤(いそ)しむことができるようになり、穡人(しょくじん)(農夫)は無事に農作物を収穫することができます。これが第2の利益です。

戎狄(じゅうてき)が晋(しん)国に仕えるようになれば周囲の国々は衝撃を受け、諸侯(しょこう)たちは(晋(しん)の)武威を恐れ、その徳に懐(なつ)くようになります。これが第3の利益です。

徳をもって戎(えびす)を安んじれば軍隊を動かす必要がなく、甲兵や武器も傷つき傷むことがありません。これが第4の利益です。

(かつて武力に頼って滅んだ)后羿(こうげい)の事例を鑑(かんが)みて徳の基準を用(もち)いれば、遠方の者は帰順し、近隣の者は安泰となります。これが第5の利益です。

我が君にはどうか、よくお考えになっていただきたいと存じます」

脚注

*1無終(むしゅう)国の国君・嘉父(かほ)。「無終(むしゅう)」とは、周(しゅう)代から春秋(しゅんじゅう)時代にかけて燕山山脈(えんざんさんみゃく)の周辺(現在の河北省(かほくしょう)・薊県(けいけん)付近)に存在した、山戎(さんじゅう)と呼ばれる北方民族の国。「無終子(むしゅうし)」の「子」は爵位。

*2有窮氏(ゆうきゅうし)の后羿(こうげい)。「后(こう)」は夏(か)代における「王(おう)」や「リーダー」を指す称号。厳密には「有窮氏(ゆうきゅうし)の長・羿(げい)」。

楚の子囊の諫言

魯(ろ)の襄公(じょうこう)9年(晋(しん)の悼公(とうこう)9年・紀元前564年)夏、秦(しん)の景公(けいこう)が楚(そ)へ士雃(しけん)を派遣して援軍を求めた。晋(しん)を討伐しようとしていたからである。

楚(そ)の共王(きょうおう)がこれを許すと、子囊(しどう)は次のように言った。


「いけません。今の状況では、吾々(われわれ)(楚(そ))は晋(しん)と争うことはできません。

晋君(しんくん)(悼公(とうこう))は、能力のある者を見分けてその者を登用しており、人材の登用において選択を誤(あやま)ることがありません。また官職についても、その任務を(勝手に)変更することがありません。

その卿(けい)(最高政務官)たちは善良な者に地位を譲(ゆず)り、その大夫(たいふ)(高級官僚)たちは職責を失わず、その士(し)(知識人・戦士)たちは教化や武芸に競(きそ)い励(はげ)み、その庶人(しょじん)(庶民)は農業に力を尽くしています。商人、職人、皁隸(そうれい)(下級の召使に)至るまで、自分の生業を途中で変えようとはいたしません。

(晋(しん)の最高権力者であった)韓厥(かんけつ)は高齢を理由に現役を退(しりぞ)き、後任の知罃(ちおう)は、その方針をしっかりと受け継いで国政を執(と)り行っております。

范匄(はんかい)は中行偃(ちゅうこうえん)より年少であるにもかかわらず、中行偃(ちゅうこうえん)は范匄(はんかい)を自分より上位に推挙し、佐中軍(さちゅうぐん)(中軍の副司令官)に就(つ)かせております。

韓起(かんき)は欒黶(らんえん)より年少ですが、欒黶(らんえん)と士魴(しほう)は韓起(かんき)を自分たちより上位に推挙し、佐上軍(さじょうぐん)(上軍の副司令官)に就(つ)かせております。

魏絳(ぎこう)は多くの功績を立てていますが、それでも趙武(ちょうぶ)を賢者であると認め、趙武(ちょうぶ)の佐(さ)(補佐)となっております。

このように、君主は明晰(めいせき)で臣下は忠誠を尽くし、上位の者は善(よ)い人物に地位を譲(ゆず)り、下位の者は互いに励(はげ)み競(きそ)い合っております。

このような時にあっては、晋(しん)に敵対することはできません。(今は)晋(しん)に仕え、(力を蓄(たくわ)えた)後になってようやく、晋(しん)と争うことができるのです。

我が君には、どうかこのことをよくお考えください」


すると楚(そ)の共王(きょうおう)は、

「吾(わたし)はすでに秦(しん)に援軍を出すことを許してしまったのだ。たとえ晋(しん)に及ばないとしても、必ず軍を出さねばならないのだ」

と言った。


秋、楚(そ)の共王(きょうおう)は軍を武城(ぶじょう)に進め、秦(しん)への援軍とした。

秦(しん)軍は晋(しん)に攻め入ったが、このとき晋(しん)は飢饉(ききん)に見舞われており、報復の出兵をすることができなかった。

鄭の討伐に加わる

冬10月、諸侯(しょこう)は鄭(てい)を討伐した。

庚午(こうご)の日、(魯(ろ)の)季武子(きぶし)、斉(せい)の崔杼(さいちょ)、宋(そう)の皇鄖(こううん)らは、(晋(しん)の)荀罃(じゅんおう)(知罃(ちおう))と士匄(しかい)(范宣子(はんせんし))に従って、(鄭(てい)の都・新鄭(しんてい)の)鄟門(せんもん)に攻め寄せた。

衛(えい)の北宮括(ほくきゅうかつ)、曹(そう)人(ひと)、邾(ちゅう)人(ひと)は、晋(しん)の荀偃(じゅんえん)(中行偃(ちゅうこうえん))と韓起(かんき)に従って、城門・師之梁(ししりょう)に攻め寄せた。

滕(とう)人(ひと)、薛(せつ)人(ひと)は、(晋(しん)の)欒黶(らんえん)と士魴(しほう)に従って北門(ほくもん)に攻め寄せた。

杞(き)人(ひと)、郳(げい)人(ひと)は、(晋(しん)の)趙武(ちょうぶ)と魏絳(ぎこう)に従って、(鄭(てい)の都・新鄭(しんてい)の)道沿(みちぞ)いに植えられていた栗(くり)の並木を斬り倒した。

鄭(てい)人(ひと)は恐れて和睦(わぼく)を申し入れて来たので、11月己亥(きがい)の日、戯(き)で盟約を結んで軍を引き上げた。


12月癸亥(きがい)の日、晋(しん)は鄭(てい)を服従させることができなかったため、諸侯(しょこう)を率(ひき)いて再び鄭(てい)を討伐し、鄭(てい)の3つの城門を攻撃した。

閏(うるう)12月戊寅(ぼいん)の日、(諸侯(しょこう)の軍は)陰阪(いんはん)を渡って鄭(てい)の領内に侵入して鄭(てい)を攻撃し、陰口(いんこう)に軍を駐屯させて引き返した。

その後、楚子(そし)(楚(そ)の共王(きょうおう))が鄭(てい)を討伐すると、鄭(てい)は楚(そ)と講和して、今度は楚(そ)と同盟を結んだ。

施舍を進言する

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は帰国すると、「(戦(いくさ)に疲れた)民を休養させるためにはどうすればよいか」を相談した。

すると魏絳(ぎこう)は施舍(ししゃ)(恩恵を施し、税や労役を免除すること)を行い、国家の備蓄を放出して人々に貸し付けるように願い出た。

[晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))はこの意見を採用し、]晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))以下、財産を蓄えている者は誰もがそれをすべて出し尽くすと、国内に流通せずに滞(とどこお)っていた富はなくなり、また生活に困窮(こんきゅう)する民もいなくなった。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は利益を独占することを禁じ、貪欲(どんよく)に利益を貪(むさぼ)るような民もいなくなった。

また、祈祷の際のお供え物は(高価な犠牲(いけにえ)ではなく)幣帛(へいはく)(布などの物品)に替(か)え、賓客(ひんかく)をもてなす際には特牲(とくせい)(1頭だけの犠牲(いけにえ))で済ませ、器物や道具は新しく作らず、馬車や衣服はすでにあるもので間に合わせた。

これらを実行して満1年が経(た)つと、国家の財政にゆとりが生まれ、(晋(しん)は)3度も大軍を動かして遠征(三駕(さんが))し、楚(そ)はこれに対抗して争うことができなくなった。

再び鄭を攻撃する

魯(ろ)の襄公(じょうこう)10年(晋(しん)の悼公(とうこう)10年・紀元前563年)秋9月、諸侯(しょこう)は鄭(てい)を攻撃し、己酉(きゆう)の日、諸侯(しょこう)の軍は牛首(ぎゅうしゅ)に駐屯した。

冬10月、諸侯(しょこう)の軍は虎牢(ころう)に城を築き、そこに兵を駐屯させた。晋(しん)軍は梧(ご)と制(せい)に城を築き、士魴(しほう)と魏絳(ぎこう)がそこを守った。

『春秋(しゅんじゅう)』に「戍鄭虎牢。(鄭(てい)の虎牢(ころう)を守備した)」と書かれているのは、(当時、虎牢(ころう)は晋(しん)が占領しており)鄭(てい)の土地ではなかったからである。(あえて鄭(てい)の土地と書いたのは、後にこれを鄭(てい)に返還するであろうことを見越して)将来的に帰属するはずだと述(の)べているのである。

鄭(てい)は晋(しん)と講和した。

鄭の服従

魯(ろ)の襄公(じょうこう)11年(晋(しん)の悼公(とうこう)11年・紀元前562年)9月、諸侯(しょこう)は全軍を挙(あ)げて再び鄭(てい)を討伐した。

すると鄭(てい)人(ひと)は、良霄(りょうしょう)と太宰(たいさい)の石鄿(せきき)を楚(そ)に派遣して「晋(しん)に服従するつもりであること」を告げ、[鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の簡公(かんこう))の言葉を伝えて]言った。


「孤(わたくし)(鄭(てい)の簡公(かんこう))は社稷(しゃしょく)(国家)を守るために、残念ながらこれまで通り君(あなたさま)(楚(そ)の共王(きょうおう))をお慕(した)いし続けることができなくなりました。

ですがもし、君(あなたさま)(楚(そ)の共王(きょうおう))が玉帛(ぎょくはく)[宝玉と絹(贈り物)]をもって晋(しん)と和睦(わぼく)し、(我々への攻撃を)宥(なだ)めてくださるなら、それに越したことはありません。

もしそれができないのであれば、武(軍事力)を振るって晋(しん)を威圧してください。これこそが孤(わたくし)(鄭(てい)の簡公(かんこう))の願いでございます」


これを聞いた楚(そ)人(ひと)は、2人を捕らえて監禁した。


諸侯(しょこう)の軍が鄭(てい)の東門に進んでその軍勢を示すと、鄭(てい)人(ひと)は王子(おうじ)伯駢(はくべん)を派遣して講和を申し入れた。

甲戌(こうじゅつ)の日、晋(しん)の趙武(ちょうぶ)が鄭(てい)に入って鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の簡公(かんこう))と盟約を結び、冬10月丁亥(ていがい)の日、鄭(てい)の子展(してん)が出向いて晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))と盟約を結んだ。

12月戊寅(ぼいん)の日、[晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))と鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の簡公(かんこう))は]蕭魚(しょうぎょ)で会盟した。

庚辰(こうしん)の日、[晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は]鄭(てい)の捕虜をすべて赦免(しゃめん)し、礼を尽くして帰国させると、鄭(てい)に斥候(せっこう)を送って侵入や略奪を禁じ、叔肸(しゅくきつ)を諸侯(しょこう)のもとへ派遣してこのことを告げさせた。

恩賞を賜る

鄭(てい)人(ひと)は、

  • (鄭(てい)の宮廷楽師である)師悝(しかい)、師触(ししょく)、師蠲(しけん)の3人
  • 広車(こうしゃ)(高級な攻撃用の戦車)・軘車(とんしゃ)(陣地を守るための戦車)を15乗ずつ
  • 甲冑(かっちゅう)・武器一式と兵車百乗(じょう)(両)
  • 歌鐘(かしょう)(並べられた青銅製の鐘(かね))2肆(し)(2列)と、それに付随(ふずい)する鎛(はく)(大型の鐘(かね))や磬(けい)(石の打楽器)
  • 二八(16人)の女楽(じょがく)(女性の音楽隊)

を晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))に献上した。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は、その音楽に関する献上品の半分[女楽(じょがく)一八(8人)と歌鐘(かしょう)1肆(し)(1列)]を魏絳(ぎこう)に与えて次のように言った。


「子(あなた)が寡人(わたし)に『戎狄(じゅうてき)(異民族)たちと和睦(わぼく)して中華の諸侯(しょこう)を正しく導く』ように教えてくれたおかげで、この8年の間に9回も、諸侯(しょこう)を集めて会盟を開く(諸侯(しょこう)をまとめる)ことができた。

これはまるで、音楽の調和が取れて、どこにも不調和がないようなものだ。どうか子(あなた)と一緒に音楽を楽しませてくれ(そのためにこれを受け取ってくれ)」


すると魏絳(ぎこう)は辞退して言った。


「戎狄(じゅうてき)と和睦(わぼく)することができたのは国家にとっての福でございます。

この8年の間に9回も諸侯(しょこう)を集めて会盟し、諸侯(しょこう)が二心(ふたごころ)を抱(いだ)かなかったのは、我が君(悼公(とうこう))の霊(ご威徳)と、他の2、3人の臣下たちの功労によるものです。臣(わたくし)に何の功績がありましょうか?

ただ、臣(わたくし)は我が君に『この楽しみに安住しつつも、その終(将来)を考えていただきたい』と願っております。

『詩経(しきょう)』に『なんと楽しいことであろうか、君子よ。天子(てんし)の邦(くに)(国)を鎮(しず)め安(やす)んじておられる。なんと楽しいことであろうか、君子よ。福禄(ふくろく)(幸せと豊かな生活)が君のもとに集まっている。左右に侍(はべ)る者たちもまた、君を手本として従っている*3』とあります。

原文:楽只君子,殿天子之邦。楽只君子,福祿攸同。便蕃左右,亦是帥從。

そもそも『楽(がく)(楽しむ)』とは徳を安(やす)んじるためのものであり、義(正しさ)をもって処し、礼をもって行い、信(誠実)をもって守り、仁(慈(いつく)しみ)をもって励(はげ)むことです。そうしてこそ、初めて邦国(ほうこく)を鎮(しず)め安(やす)んじ、福禄(ふくろく)を共にし、遠方の人々を来服させることができるのです。これこそが(『詩経(しきょう)』にいう)『楽(がく)(楽しむ)』なのです。

また『書経(しょきょう)』に『安(やす)きに居(お)りて危(あや)うきを思え(居安思危)』とあります。先々の危機を思えばこそ備(そな)えができ、備(そな)えがあれば憂(うれ)いはありません。あえてこの言葉をもって[晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))への]戒(いまし)めといたします」


これを受け、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は言った。


「子(あなた)の教えを、どうして受け入れないことがあろうか!

もし子(あなた)がいなかったなら、寡人(わたし)は戎(えびす)(異民族)に対処(和親)することもできず、黄河(こうが)を渡(って鄭(てい)を服従させ)ることもできなかった。

そもそも功績に対して恩賞を与えるのは『国の典(法)』であり、その記録は盟府(めいふ)(同盟の記録を保管する役所)に保管されているもので、廃止することはできない。どうかこれらを受け取ってくれ」


魏絳(ぎこう)は3度辞退した後に、ようやくこれを受け取った。

魏絳(ぎこう)はここにおいて初めて、『金石(きんせき)の楽(がく)(高貴な身分にのみ許される宮廷音楽)』を奏(かな)でることを許されたが、これは礼に適(かな)ったことであった。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))はまた、魏絳(ぎこう)に安邑(あんゆう)を与え、魏絳(ぎこう)は安邑(あんゆう)に居所を移した。

脚注

*3『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・桑扈之什(そうこのじゅう)・采菽(さいしゅく)。

櫟の役

その後、秦(しん)の庶長(しょちょう)・鮑(ほう)と庶長(しょちょう)・武(ぶ)が軍を率(ひき)いて晋(しん)を攻め、それによって鄭(てい)を救おうとした。

秦(しん)の庶長(しょちょう)・鮑(ほう)が先に晋(しん)の領内に入ると、晋(しん)の士魴(しほう)がこれを防ぎ迎えたが、秦(しん)の軍勢が少数であると侮(あなどって防備を固めていなかった。

壬午(じんご)の日、秦(しん)の庶長(しょちょう)・武(ぶ)が輔氏(ほし)の地から黄河(こうが)を渡り、鮑(ほう)軍と合流して挟(はさ)み撃ちの形で晋(しん)軍を攻め立てた。

己丑(きちゅう)の日、秦(しん)と晋(しん)は櫟(れき)の地で戦い、晋(しん)軍は大敗した。この戦いの敗因は、晋(しん)軍が秦(しん)軍を軽(かろ)んじ見くびっていたためである。

佐下軍(下軍の佐)に任命される

魯(ろ)の襄公(じょうこう)13年(晋(しん)の悼公(とうこう)13年・紀元前560年)夏、晋(しん)では[将中軍(しょうちゅうぐん)(中軍(ちゅうぐん)の将)であった]荀罃(じゅんおう)と[下軍(かぐん)の佐(さ)(副司令官)であった]士魴(しほう)が亡くなった。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は綿上(めんじょう)で軍を閲兵(えっぺい)し、軍を整えて戦争に備(そな)えた。そして、士匄(しかい)(范宣子(はんせんし))を中軍(ちゅうぐん)の将に任命しようとしたが、士匄(しかい)(范宣子(はんせんし))は、

「伯游(はくゆう)(荀偃(じゅんえん))殿の方が年長でいらっしゃいます。かつて臣(わたくし)は知伯(ちはく)(荀罃(じゅんおう))殿のもとで(軍務を)学びましたので、知伯(ちはく)(荀罃(じゅんおう))殿を補佐していたに過ぎません。臣(わたくし)自身が優(すぐ)れて賢いわけではないのです。どうか臣(わたくし)を伯游(はくゆう)(荀偃(じゅんえん))殿の配下に就(つ)かせてください」

と言って辞退したので、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は荀偃(じゅんえん)を将中軍(しょうちゅうぐん)(中軍(ちゅうぐん)の将)とし、士匄(しかい)(范宣子(はんせんし))をその佐(さ)(副司令官)とした。

さらに韓起(かんき)を将上軍(しょうじょうぐん)(上軍(じょうぐん)の将)に任命しようとしたところ、韓起(かんき)は趙武(ちょうぶ)(の方が優(すぐ)れていること)を理由にして辞退した。

そこで晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は、欒黶(らんえん)を将上軍(しょうじょうぐん)(上軍(じょうぐん)の将)に任命しようとしたところ、欒黶(らんえん)も辞退して言った。

「臣(わたくし)は韓起(かんき)には及びません。韓起(かんき)は趙武(ちょうぶ)が将上軍(しょうじょうぐん)(上軍(じょうぐん)の将)になることを望んでおります。我が君、どうかその願いをお聞き入れください」

そこで晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は、趙武(ちょうぶ)を将上軍(しょうじょうぐん)(上軍(じょうぐん)の将)として韓起(かんき)をその佐(さ)(副司令官)とし、欒黶(らんえん)を将下軍(しょうかぐん)(下軍(かぐん)の将)として魏絳(ぎこう)をその佐(さ)(副司令官)とした。


この結果、新軍(しんぐん)には将としての適任者がいなくなってしまった。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は将新軍(しょうしんぐん)(新軍(しんぐん)の将)を誰にするか悩んだ結果、(新軍(しんぐん)の)什吏(じゅうり)(部隊長)たちに「それぞれが管轄する兵卒・戦車・官属(役人)」を率(ひき)いさせ、下軍(かぐん)の指揮下に組み込んで従わせることにした。これは礼に適(かな)ったことである。

遷延の役

魯(ろ)の襄公(じょうこう)14年(晋(しん)の悼公(とうこう)14年・紀元前559年)夏、諸侯(しょこう)の大夫(たいふ)たちは晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))に従って秦(しん)を討伐した。これは[魯(ろ)の襄公(じょうこう)11年(晋(しん)の悼公(とうこう)11年・紀元前562年)冬に起こった]「櫟(れき)の役(えき)」で受けた敗北に報復するためであった。

晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は国境で待機し、六卿(りくけい)に諸侯(しょこう)の軍を率(ひき)いて先へ進ませた。諸侯(しょこう)の軍は涇水(けいすい)を渡って宿営したが、秦(しん)人(ひと)が涇水(けいすい)の上流に毒を流し入れたため、涇水(けいすい)を渡って秦(しん)の領内に入った諸侯(しょこう)の軍勢には多くの死者が出た。

(このような状況の中でも、)鄭(てい)の司馬(しば)・子蟜(しきょう)が鄭(てい)軍を率(ひき)いて真っ先に進撃すると、諸侯(しょこう)の軍もみなこれに従い棫林(よくりん)の地まで至ったものの、何も戦果を挙(あ)げることはできなかった。

そこで将中軍(しょうちゅうぐん)の荀偃(じゅんえん)が命令を下し、

「鶏(にわとり)(一番鶏(いちばんどり))が鳴いたら馬車に馬を繋(つな)ぎ、井戸を埋(う)め、竈(かまど)を壊し、ただ余(わたし)の馬首の向く方向だけを見て、不退転の覚悟で前進せよ」

と言った。するとこれを聞いた将下軍(しょうかぐん)の欒黶(らんえん)は、

「晋(しん)国の命令にこのような前例はなかった。余(わたし)の馬首は東(晋(しん)国の方角=退却)を向きたがっている」

と言って帰国してしまい、彼が率(ひき)いる下軍(かぐん)もこれに従って退却した。

左史(さし)が魏荘子(ぎそうし)(魏絳(ぎこう))に「中行伯(ちゅうこうはく)(荀偃(じゅんえん))殿の指示を待たなくてよろしいのですか?」と尋(たず)ねると、魏荘子(ぎそうし)(魏絳(ぎこう))は、

「夫子(ふうし)(あの方:荀偃(じゅんえん))は『(各軍の)指揮官に従え』と命令された。吾(わたし)の将は欒伯(らんはく)(欒黶(らんえん))殿である。吾(わたし)は吾(わたし)の将に従う。指揮官に従うことこそが、夫子(ふうし)(あの方:荀偃(じゅんえん))の命令を待つ(尊重する)ことになるのだ」

と答えた。

(この事態に)伯游(はくゆう)(荀偃(じゅんえん))は、

「今回の命令は、本当に吾(わたし)の過(あやま)ちであった。後悔しても手遅れだ。このままでは多くの兵を秦(しん)の捕虜にさせてしまうだろう」

と言い、全軍に撤退を命じた。

晋(しん)人(ひと)はこの戦いのことを「遷延(せんえん)の役(えき)」(だらだらと長引き、成果なく引き揚(あ)げた戦い)と呼んだ。

晋の悼公の死と溴梁の会

魯(ろ)の襄公(じょうこう)15年(晋(しん)の悼公(とうこう)15年・紀元前558年)秋、邾(ちゅう)人(ひと)が魯(ろ)の南の辺境の国境地帯を攻撃したので、魯(ろ)は使者を派遣して晋(しん)に事態を告げた。

晋(しん)は諸侯(しょこう)の会合を開いて邾(ちゅう)と莒(きょ)を討伐しようとしたが、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))が病気になったため中止となった。冬、晋(しん)の悼公(とうこう)が亡くなり、とうとう諸侯(しょこう)の会合を開くことはできなかった。


魯(ろ)の襄公(じょうこう)16年(晋(しん)の悼公(とうこう)16年・紀元前557年)春、晋(しん)では悼公(とうこう)を葬(ほうむ)り、平公(へいこう)が即位した。

(平公(へいこう)は)溴梁(しゅうりょう)で会合して(諸侯(しょこう)に)侵略した他国の領地を元に戻すように命じ、(前年に攻撃された)魯(ろ)の事情を考慮して邾(ちゅう)の宣公(せんこう)と莒(きょ)の犁比公(りひこう)を拘束(こうそく)し、さらに「これからは斉(せい)や楚(そ)との間に使者を通じさせよ」と命じた。

また、諸侯(しょこう)と温(おん)の地で宴(うたげ)を開き、各国の正卿(せいけい)たちに舞を踊らせて、「歌う詩は、必ず宴(うたげ)の趣旨(君臣・諸侯(しょこう)の和合)に合ったものにするように」と言った。

ところが、斉(せい)の高厚(こうこう)が歌った詩はその趣旨に合っていなかったので、荀偃(じゅんえん)は怒り、「諸侯(しょこう)の中に(晋(しん)に)二心(ふたごころ)を持つ者がいるぞ」と言った。

(晋(しん)は)各国の正卿(せいけい)たちに高厚(こうこう)と同盟の誓いをさせようとしたが、高厚(こうこう)は逃げ帰ってしまった。

そこで、(魯(ろ)の)叔孫豹(しゅくそんほう)、晋(しん)の荀偃(じゅんえん)、宋(そう)の向戌(しょうじゅつ)、衛(えい)の甯殖(ねいしょく)、鄭(てい)の公孫蠆(こうそんたい)、小邾(しょうちゅう)の大夫(たいふ)らが同盟を結び、「晋(しん)の命令に従わない不忠な国は、協力して討伐しよう」と誓った。

平陰の戦い

魯(ろ)の襄公(じょうこう)18年(晋(しん)の平公(へいこう)3年・紀元前555年)冬10月、諸侯(しょこう)は(魯(ろ)の)済水(せいすい)のほとりで会合し、かつて溴梁(しゅうりょう)で結んだ盟約を改めて確認し、共同で斉(せい)を討伐した。

斉侯(せいこう)(斉(せい)の霊公(れいこう))は平陰(へいいん)でこれを防ぎ、防門に塹壕(ざんごう)を掘って固守したが、斉(せい)軍は城門の戦闘で多くの戦死者を出した。

そこへ(晋(しん)の)范宣子(はんせんし)が(斉(せい)の)析文子(せきぶんし)を通じて「魯(ろ)と莒(きょ)の軍が別の道から斉(せい)へ攻め入る手はずになっている」との偽の情報を流し、また、山や沢を視察する際に旗を大量に立て、馬車に柴(木の枝)を引かせて砂煙を巻き上げて軍を大きく見せる「偽装工作」を行ったため、これを見た斉侯(せいこう)(斉(せい)の霊公(れいこう))は畏(おそ)れ、夜陰に紛(まぎ)れて逃走した。

諸侯(しょこう)は斉(せい)の国都(臨淄(りんし))に迫(せま)り、周辺の要塞を次々と攻略して、城門や外郭、池の竹林などを焼き払い、東は濰水(いすい)、南は沂水(ぎすい)まで侵攻して引き揚(あ)げた。

この戦いの中で魏絳(ぎこう)は、欒盈(らんえい)と共に下軍(かぐん)を率(ひき)いて邿(し)を攻め落とした。11月乙酉(いつゆう)の日のことである。


魏絳(ぎこう)の没年は伝わっていないが、その死後は孫の魏舒(ぎじょ)(魏献子(ぎけんし))が魏氏(ぎし)の当主の地位を継承した。

出典
  • 『国語(こくご)』晋語(しんご)7
  • 『史記(しき)』魏世家(ぎせいか)
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』成公(せいこう)18年
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』襄公(じょうこう)3年、4年、9年、10年、11年、13年、14年、15年、16年、18年、23年、

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