正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉖魏延(ぎえん)です。

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凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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き㉖

魏延・文長

魏延(ぎえん)・文長(ぶんちょう)

魏延

生年不詳〜蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)12年(234年)没。荊州(けいしゅう)・義陽郡(ぎようぐん)の人。

劉備(りゅうび)、劉禅(りゅうぜん)に仕えた。剛勇にして将略(将軍(しょうぐん)としての優れた計略)があり、劉備(りゅうび)から深く信頼され、張飛(ちょうひ)を差し置いて漢中太守(かんちゅうたいしゅ)に任命された他、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)にも重用されて、たびたび戦功を立てた。

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)12年(234年)に諸葛亮(しょかつりょう)が病没すると、魏延(ぎえん)はかねてより不和であった長史(ちょうし)の楊儀(ようぎ)の統制を受けることに反発し、大軍の撤退の途中で桟道(さんどう)を焼き払い、楊儀(ようぎ)を攻撃したが、何平(かへい)(王平(おうへい))、馬岱(ばたい)らに敗れて三族皆殺しにされた。

劉備の信任

部曲(ぶきょく)(私兵)を率(ひき)いて劉備(りゅうび)の入蜀(にゅうしょく)(益州(えきしゅう)入り)に従い、何度も戦功を立てて牙門将軍(がもんしょうぐん)に昇進した。*1

その後、漢中王(かんちゅうおう)となった劉備(りゅうび)は、統治の中心を成都(せいと)(益州(えきしゅう)・蜀郡(しょくぐん)・成都県(せいとけん))へ移したが、その際、漢川(かんせん)(益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん))を鎮守するという重責を担(にな)う将を任命する必要があった。

人々は皆、「その任には必ず張飛(ちょうひ)が選ばれるだろう」と考えており、張飛(ちょうひ)自身も心中では「当然自分がその任に選ばれるものだ」と思っていた。

ところが劉備(りゅうび)は、その任に魏延(ぎえん)を抜擢(ばってき)して督(とく)漢中(かんちゅう)鎮遠将軍(ちんえんしょうぐん)に任命し、漢中太守(かんちゅうたいしゅ)を兼任させたので、全軍の将兵はみな驚いた。


劉備(りゅうび)は群臣を一堂に集めて大いに宴会を開き、魏延(ぎえん)に、

「今、卿(けい)(あなた)に重大な任務を委(ゆだ)ねることにした。卿(けい)はこの任務に就(つ)いて、どのように事に当たるつもりであるか?」

と尋(たず)ねると、魏延(ぎえん)は答えて言った。

「もし曹操(そうそう)が天下の兵を挙(あ)げて攻めて来たならば、大王(だいおう)(劉備(りゅうび))のためにこれを防ぎ止めてみせましょう。もし偏将(へんしょう)(配下の将)が10万の兵を率(ひき)いて攻めて来たならば、大王(だいおう)(劉備(りゅうび))のためにこれを平らげてみせましょう」*2

劉備(りゅうび)はこれを「非常に良い答えだ」と称賛し、群臣も皆、その言葉を「壮大で頼もしいものだ」と評価した。


劉備(りゅうび)が帝位に即(つ)いて尊号を称するようになると、魏延(ぎえん)の位を進めて鎮北将軍(ちんほくしょうぐん)に任命した。

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)元年(223年)、魏延(ぎえん)は(劉禅(りゅうぜん)によって)都亭侯(とていこう)に封ぜられた。

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)5年(227年)、諸葛亮(しょかつりょう)が漢中(かんちゅう)に駐屯すると、魏延(ぎえん)を改めて督前部(とくぜんぶ)に任命し、丞相(じょうしょう)司馬(しば)と涼州刺史(りょうしゅうしし)を兼任させた。

脚注

*1正史(せいし)『三国志(さんごくし)』や裴松之(はいしょうし)注には、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』のように「魏延(ぎえん)が劉表(りゅうひょう)や韓玄(かんげん)に仕えていた」という記述はない。

*2魏延(ぎえん)は(漢中(かんちゅう)の)諸陣地に十分な兵を配置して外敵の侵入を防いだ。後(のち)に王平(おうへい)が「興勢(こうせい)の役(えき)[蜀漢(しょくかん)の延熙(えんき)7年(244年)]」で曹爽(そうそう)を撃退した際も、この魏延(ぎえん)の防衛方針を踏襲(とうしゅう)したものであった。

陽谿の戦い

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)8年(230年)、魏(ぎ)の大司馬(だいしば)・曹真(そうしん)は、

「蜀(しょく)が何度も出兵して辺境を侵(おか)しているため、こちらから進攻して討伐すべきです。いくつかの道から同時に侵入すれば、大勝利を収(おさ)めることができるでしょう」

と進言し、魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))はこの計略に従った。

8月、曹真(そうしん)は長安(ちょうあん)(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・長安県(ちょうあんけん))から子午道(しごどう)を通って南進し、司馬懿(しばい)は漢水(かんすい)を遡(さかのぼ)って南鄭(なんてい)(益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)・南鄭県(なんていけん))で合流することとし、(他の)諸軍はあるいは斜谷道(やこくどう)から入り、あるいは武威(ぶい)(涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん))から侵入した。

ところがこの時、30日余りも続く激しい長雨に遭(あ)い、桟道(さんどう)(断崖絶壁に架(か)けられた木道)が途絶したところもあったため、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は詔(みことのり)を下して曹真(そうしん)に撤退を命じた。


(迎撃に出た)諸葛亮(しょかつりょう)は、魏延(ぎえん)と呉壹(ごいつ)(呉懿(ごい))に命じ、西へ進んで羌中(きょうちゅう)(羌族(きょうぞく)の居住地域)へと侵入させた。この時、魏(ぎ)の後将軍(こうしょうぐん)・費瑤(ひよう)と雍州刺史(ようしゅうしし)・郭淮(かくわい)が陽谿(ようけい)(雍州(ようしゅう)・南安郡(なんあんぐん)の境)において魏延(ぎえん)と戦ったが、魏延(ぎえん)は郭淮(かくわい)らを大いに撃ち破った。

その戦功により魏延(ぎえん)は前軍師(ぜんぐんし)・征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)に昇進し、仮節(かせつ)(独自の軍事・処刑権限)を与えられ、爵位を進めて南鄭侯(なんていこう)に封ぜられた。

魏延の不満

魏延(ぎえん)は、諸葛亮(しょかつりょう)に従って出征するたびに「(自分に)1万人の兵を与えて欲しい」と願い出て、諸葛亮(しょかつりょう)とは別の道を進み、潼関(どうかん)で合流することを望んだ。これは、かつて韓信(かんしん)が行った戦法にならったものであるが、諸葛亮(しょかつりょう)はこれを制して許可しなかった。

魏延(ぎえん)はいつも「諸葛亮(しょかつりょう)のことを臆病(おくびょう)だ」と考えており、自分の才能を十分に発揮できないことを嘆(なげ)き恨(うら)んでいた。

子午谷の計

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)6年(228年)、夏侯楙(かこうぼう)が安西将軍(あんせいしょうぐん)となって長安(ちょうあん)を鎮守していた時のこと。諸葛亮(しょかつりょう)は南鄭(なんてい)で、配下の者たちと作戦を協議したが、その席で魏延(ぎえん)は、


「夏侯楙(かこうぼう)はまだ若く、主君(曹操(そうそう))の娘婿(むすめむこ)であると聞いております。臆病(おくびょう)で策略もありません。

今、延(わたし)に精兵5千と、その兵糧を運ぶ兵5千をお貸しくだされば、褒中(ほうちゅう)(益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)・褒中県(ほうちゅうけん))から直進して秦嶺(しんれい)山脈に沿(そ)って東へ進み、子午谷(しごこく)を北へ抜ければ、10日もかからずに長安(ちょうあん)へ到着することができます。

楙(ぼう)(夏侯楙(かこうぼう))は、延(わたし)が突如として(長安(ちょうあん)に)現れたと聞けば、必ずや船に乗って逃げ出すでしょう。長安(ちょうあん)の城中には御史(ぎょし)(監察官)と京兆太守(けいちょうたいしゅ)が残っているだけとなります。

横門(おうもん)(長安(ちょうあん)の北側に3つある城門のうち、西側の門)の邸閣(ていかく)に蓄(たくわ)えられている穀物と、逃げ散った領民の穀物(こくもつ)を集めれば、我が軍の食糧を賄(まかな)うのに十分な量を確保することができます。

(魏(ぎ)の)東方の軍勢が召集されて(長安(ちょうあん)に)やって来るまでには、まだ20日ほどかかります。その間に、公(こう)(諸葛亮(しょかつりょう))が斜谷(やこく)から本隊を率(ひき)いて進んで来られたならば、必ずや無事に合流することができます。

このようにすれば、一挙に咸陽(かんよう)以西の地を平定することができます」


と提案したが、諸葛亮(しょかつりょう)は「この作戦はあまりにも危険な賭(か)けであり、それよりも安全に平坦な道を通って進軍し、着実に隴右(ろうゆう)の地を占領するほうが、万全で憂(うれ)いなく勝利を収(おさ)められる」と考えていたので、魏延(ぎえん)の計略は採用されなかった。


これは裴松之(はいしょうし)が注に引く『魏略(ぎりゃく)』にある「第1次北伐の際の軍議の様子」であるが、魏延(ぎえん)はこれと同様の策を何度も献策して却下されたことを恨(うら)んでいたのである。

第4次北伐

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)9年(231年)、諸葛亮(しょかつりょう)は再び出兵して祁山(きざん)を包囲した。

この時、魏(ぎ)の大司馬(だいしば)・曹真(そうしん)が病気になったため、魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は司馬懿(しばい)を長安(ちょうあん)に駐屯させ、張郃(ちょうこう)、費曜(ひよう)、戴陵(たいりょう)、郭淮(かくわい)らを統括させた。

司馬懿(しばい)は費曜(ひよう)と戴陵(たいりょう)に精鋭4千人を残して上邽(じょうけい)(雍州(ようしゅう)・天水郡(てんすいぐん)・上邽県(じょうけいけん))を守らせると、残りの全軍を率(ひき)いて西へ向かい、祁山(きざん)の救援に赴(おもむ)いた。

諸葛亮(しょかつりょう)は上邽(じょうけい)の東で司馬懿(しばい)と遭遇(そうぐう)したが、司馬懿(しばい)は兵を収(おさ)めて険阻(けんそ)な地形に立て籠(こも)ったため、諸葛亮(しょかつりょう)は軍を引いて(鹵城(ろじょう)へ)戻った。

司馬懿(しばい)は諸葛亮(しょかつりょう)の後を追って鹵城(ろじょう)に到着したが、そこでもまた山に登って塹壕(ざんごう)を掘り、戦おうとはしなかった。すると賈栩(かく)や魏平(ぎへい)らが何度も出撃を願い出たので、司馬懿(しばい)はこれに苦悩した。

5月辛巳(しんし)の日、司馬懿(しばい)はついに張郃(ちょうこう)に命じて、南の包囲陣地にいる無当監(むとうかん)(蜀漢(しょくかん)の精鋭部隊の指揮官)の何平(かへい)(王平(おうへい))を攻撃させ、自(みずか)らは本道を伝って諸葛亮(しょかつりょう)の正面へと向かった。

諸葛亮(しょかつりょう)は魏延(ぎえん)・高翔(こうしょう)・吳班(ごはん)らを出撃させて迎撃し、魏(ぎ)軍を大破した。蜀(しょく)軍は首3千級(きゅう)を討(う)ち取り、玄鎧(げんがい)(黒い鉄製の鎧)5千領(りょう)、角弩(かくど)(角(つの)製の弩(いしゆみ))3,100張(はり)を獲得した。

司馬懿(しばい)は敗れて陣営へと逃げ帰り、そこに立て籠(こも)った。

楊儀との確執

魏延(ぎえん)は普段から兵士たちをよく養(やしな)い、その勇猛さは人並み外れていたが、その性格は誇(ほこ)り高く傲慢(ごうまん)であった。

そのため当時の人々は皆、魏延(ぎえん)を避(さ)けて謙(へりくだ)って接していたが、ただ1人、楊儀(ようぎ)だけは魏延(ぎえん)に遠慮することがなかったので、魏延(ぎえん)はこれを非常に腹立たしく思い、2人の関係は激しく対立する水と火のようであった。


魏延(ぎえん)と楊儀(ようぎ)が席を同じくして議論になるたびに、魏延(ぎえん)は刀(かたな)を抜いて楊儀(ようぎ)に突きつけんばかりの脅(おど)しをかけ、楊儀(ようぎ)は涙を流して泣き濡(ぬ)れるような有様であった。

そのような時はいつも、費禕(ひい)が2人の席の間に割って入り、時に諫(いさ)め、時に諭(さと)し、それぞれに理を説(と)き明かして場を収(おさ)めていた。

諸葛亮(しょかつりょう)が亡くなるまで魏延(ぎえん)と楊儀(ようぎ)がそれぞれの才能を十分に発揮できたのは、実に費禕(ひい)のとりなしの力によるものであった。


諸葛亮(しょかつりょう)は楊儀(ようぎ)のすぐれた才幹を深く惜(お)しみ、同時に魏延(ぎえん)の驍勇(ぎょうゆう)(剛勇)を頼みとしていたので、常にこの2人の仲が険悪であることを嘆(なげ)いていたが、どちらか一方だけを罷免(ひめん)することはできなかった。

孫権(そんけん)の忠告

費禕(ひい)と董恢(とうかい)が使者として呉(ご)へ赴(おもむ)いた時のこと。泥酔(でいすい)した孫権(そんけん)が費禕(ひい)に言った。


「楊儀(ようぎ)と魏延(ぎえん)は牧童(ぼくどう)(牛(うし)飼(か)い)のような小人(しょうじん)だ。確かに時宜(じぎ)に適(かな)って番犬ほどの役には立っているが、すでに彼らを重用してしまっている以上、その勢力を軽んじることはできない。

もし、ある日突然、諸葛亮(しょかつりょう)がいなくなれば、必ずや彼らは災(わざわ)いや反乱を起こすだろう。なのに諸君(あなたがた)は、このことに対してまったく予防や配慮をしていない。これで一体、『貽厥孫謀(いけつそんぼう)(子孫のために良い計略を残す)』と言えるだろうか?」


費禕(ひい)が返答に困って答えられずにいると、董恢(とうかい)は費禕(ひい)に目配(めくば)せをして言った。


「簡単に申し上げますと、楊儀(ようぎ)と魏延(ぎえん)の不仲は、ただの個人的な怨恨(えんこん)から生じているに過ぎず、黥布(げいふ)(英布(えいふ))や韓信(かんしん)のような(天下を覆(くつがえ)そうとする)御(ぎょ)しがたい謀反(むほん)の心があるわけではありません。

今はまさに、強力な賊(ぞく)(魏(ぎ))を掃除して天下を1つにしようとしている時です。功績は才能によって成し遂(と)げられ、大業は才能によって広がるものです。

もし、後(のち)の患(わずら)いを防ぐために才能ある者を任用しないのだとすれば、それはまるで『嵐を警戒するあまり、あらかじめ船や櫂(かじ)をすべて廃棄してしまう』ようなものであり、長期的な優れた計略とは申せません」


これを聞いた孫権(そんけん)は、大笑いして喜んだ。

諸葛亮(しょかつりょう)はこのことを聞くと、董恢(とうかい)の言葉を「知言(道理をわきまえた発言)である」と評価した。

劉琰(りゅうえん)の虚言

劉琰(りゅうえん)は豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))時代から劉備(りゅうび)に寵遇(ちょうぐう)され、劉禅(りゅうぜん)の代においても李厳(りげん)に次ぐ車騎将軍(しゃきしょうぐん)にまで昇進したが、国政には参与せず、ただ1千人余りの兵を率(ひき)いて丞相(じょうしょう)である諸葛亮(しょかつりょう)の軍に従い、彼の意向を汲(く)んで遠回しに意見を述(の)べるだけであった。

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)10年(232年)、劉琰(りゅうえん)は前軍師(ぜんぐんし)の魏延(ぎえん)と対立した。その際、劉琰(りゅうえん)が(魏延(ぎえん)を非難して)放った言葉は、根拠のないでたらめなものであったため、諸葛亮(しょかつりょう)は劉琰(りゅうえん)を厳しく叱責(しっせき)した。

その後、劉琰(りゅうえん)が諸葛亮(しょかつりょう)に「自(みずか)らの過(あやま)ちを認めて平謝(ひらあやま)りする箋(せん)(手紙)」を送ると、諸葛亮(しょかつりょう)は劉琰(りゅうえん)を(前線から)成都(せいと)へ送り返したが、官位は元のまま据(す)え置いた。

第5次北伐
夢占(ゆめうらな)いの意味

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)12年(234年)、諸葛亮(しょかつりょう)は北谷口(ほくこくこう)(秦嶺(しんれい)山脈を貫(つらぬ)く斜谷(やこく)の北側の出口)から出撃した。

このとき先鋒(せんぽう)を務(つと)めた魏延(ぎえん)は、諸葛亮(しょかつりょう)の本陣から10里(約4.3km)ほど進んだところで、「自分の頭に角(つの)が生(は)える夢」を見た。

そこで、夢占(ゆめうらな)いを得意とする趙直(ちょうちょく)にこの夢の意味を尋(たず)ねると、趙直(ちょうちょく)は魏延(ぎえん)を欺(あざむ)いて次のように答えた。

「そもそも(聖獣である)麒麟(きりん)には角(つの)がありますが、それを使って争うことはありません。これは『戦わずして賊(ぞく)が勝手に自滅する』という吉兆(きっちょう)です」

ところが、趙直(ちょうちょく)は魏延(ぎえん)の前から退出すると、他の人にこう語った。

「『角(つの)』という文字は、分解すると『刀(かたな)』の下に『用(もちいる)』(頭の上に刀(かたな)を用(もち)いる)と書く。頭の上で刀(かたな)が使われる(刃(やいば)を向けられる)のだから、その凶兆(きょうちょう)たるや極めて甚(はなは)だしいものだ」

諸葛亮(しょかつりょう)の死

秋、諸葛亮(しょかつりょう)は病(やまい)が重くなると、秘密裏に長史(ちょうし)の楊儀(ようぎ)、司馬(しば)の費禕(ひい)、護軍(ごぐん)の姜維(きょうい)らと、自分が亡くなった後の撤退の規則を定め、

「延(えん)(魏延(ぎえん))に殿(しんがり)(撤退時の最後尾の防衛)を務(つと)めさせ、姜維(きょうい)をその次にせよ。もし延(えん)(魏延(ぎえん))が命令に従わなければ、軍はそのまま(魏延(ぎえん)を置いて)出発せよ」

と命じた。

諸葛亮(しょかつりょう)が亡くなると、喪(も)を秘して発さず、楊儀(ようぎ)は費禕(ひい)を遣(つか)わして魏延(ぎえん)の意向を推(お)し量(はか)らせた。

すると魏延(ぎえん)は、


「丞相(じょうしょう)(諸葛亮(しょかつりょう))が亡くなったとはいえ、この吾(わたし)が健在である。丞相府(じょうしょうふ)の親近の官属たちは、遺体と共に帰還して葬儀を行えばよい。

吾(わたし)は自(みずか)ら諸軍を率(ひき)いて賊(ぞく)を討(う)つ。何故(なにゆえ)たった1人の死によって、天下の大事を中断する必要があると言うのか?

それにこの魏延(ぎえん)に、楊儀(ようぎ)ごときの指示に従って殿(しんがり)を務(つと)めよと言うのかっ!」


と言い、費禕(ひい)と共に「従軍する者と(前線に)留(とど)まる者」の分担を決め、費禕(ひい)に手書きさせた命令文を、自分と連名で諸将に布告させようとした。

そこで費禕(ひい)は、

「君(あなた)のために、戻って楊長史(ようちょうし)(楊儀(ようぎ))を説得いたしましょう。長史(ちょうし)(楊儀(ようぎ))は文吏(ぶんり)(文官)です。実戦をまともに経験したことがない男ですから、必ずや(君(あなた)の)命令に背(そむ)くことはないでしょう」

と言って(魏延(ぎえん)の陣の)門を出ると、馬を急がせて走り去った。

魏延(ぎえん)はすぐに後悔して追いかけさせたが、追いつくことはできなかった。

魏延(ぎえん)の最期

魏延(ぎえん)が人を派遣して楊儀(ようぎ)らの様子を探(さぐ)らせると、彼らは諸葛亮(しょかつりょう)が定めた言葉通りに諸営の軍を引き連れて、次々に帰還しようとしていた。

これに魏延(ぎえん)は激怒して、楊儀(ようぎ)らがまだ出発しないうちに、自分の部隊を率(ひき)いて真っ先に南へと帰還し、通過した場所の閣道(かくどう)(断崖絶壁に架(か)けられた木道)を焼き払って遮断(しゃだん)した。


魏延(ぎえん)と楊儀(ようぎ)はそれぞれ「相手が叛逆(はんぎゃく)した」と上表したので、(朝廷には)1日のうちに2人の羽檄(うげき)(緊急の軍事文書)が交互に届いた。

劉禅(りゅうぜん)がこのことを侍中(じちゅう)の董允(とういん)と留府長史(りゅうふちょうし)の蒋琬(しょうえん)に尋(たず)ねると、蒋琬(しょうえん)と董允(とういん)は2人とも楊儀(ようぎ)の言葉を保証し、魏延(ぎえん)に疑いをかけた。

楊儀(ようぎ)らは山を切り開き、道を切り拓(ひら)いて昼夜兼行で進み、魏延(ぎえん)の後を追っていたが、先を行く魏延(ぎえん)が南谷口(なんこくこう)(秦嶺(しんれい)山脈を貫(つらぬ)く斜谷(やこく)の南側の出口)を占拠し、兵を派遣して迎え撃とうとしたので、楊儀(ようぎ)らは何平(かへい)(王平(おうへい))を先頭に立てて魏延(ぎえん)の軍を防がせた。

そこで何平(かへい)(王平(おうへい))が魏延(ぎえん)の先鋒(せんぽう)の兵たちを叱(しか)りつけ、

「公(こう)(諸葛亮(しょかつりょう))が亡くなられ、そのお体もまだ冷え切っていないというのに、汝輩(おまえたち)は何と恐れ多いことをするのだ!」

と言うと、魏延(ぎえん)の兵士たちは、そこで初めて「魏延(ぎえん)に非があること」を知り、誰も命を懸(か)けて戦おうとせず、軍はみな散り散りになった。


魏延(ぎえん)はただ自分の子ら数人と共に逃亡し、漢中(かんちゅう)へと逃げ奔(はし)った。

楊儀(ようぎ)は馬岱(ばたい)にこれを追わせて斬らせ、その首を楊儀(ようぎ)のもとに届けさせた。楊儀(ようぎ)は立ち上がって自(みずか)らその首を踏みつけると、「庸奴(ようど)(凡庸(ぼんよう)な愚(おろ)か者)め! これでもまた悪事を働けるか?」と言って、ついに魏延(ぎえん)の三族(父母・兄弟・妻子)を皆殺しにした。

このとき蒋琬(しょうえん)は、この難局に対処するため宿衛(しゅくえい)(近衛兵(このえへい))の諸営を率(ひき)いて北へ向かっていたが、数十里進んだところで「魏延(ぎえん)が死んだ」という知らせが届いたため、(成都(せいと)へ)引き返した。


もともと魏延(ぎえん)の意図は、北の魏(ぎ)に降伏することではなく、南へ帰還しただけであり、ただ楊儀(ようぎ)らを排除し殺害しようとしただけであった。

(魏延(ぎえん)は)平素から諸将とはまったく融和していなかったが、当時の世論が「必ずや自分を諸葛亮(しょかつりょう)の後継者に選ぶだろう」と期待していた。(魏延(ぎえん)の)本心はこのようなものであり、国家に背(そむ)いて謀反(むほん)を起こすつもりではなかった。

魏延(ぎえん)の最期・異説

裴松之(はいしょうし)が注に引く『魏略(ぎりゃく)』に、魏延(ぎえん)の最期についての異説が記載されている。


諸葛亮(しょかつりょう)は病(やまい)が重くなると、魏延(ぎえん)らに向かって、

「我(わたし)の死後は、ただ慎重に陣地を守るにとどめ、決してまた(魏(ぎ)の領内へ)攻め込んではならぬ」

と言い、魏延(ぎえん)に自分の職務を代行させ、秘密裏に喪(も)(遺体)を運んで撤退するよう命じた。

魏延(ぎえん)は(諸葛亮(しょかつりょう)の死を)秘匿(ひとく)したまま行軍し、褒口(ほうこう)に到着して初めて諸葛亮(しょかつりょう)の死を公表した。

諸葛亮(しょかつりょう)の長史(ちょうし)である楊儀(ようぎ)は平素から魏延(ぎえん)と不和であったので、魏延(ぎえん)が軍事を代行しているのを見て、自分が殺されるのではないかと懼(おそ)れた。

そこで楊儀(ようぎ)は「魏延(ぎえん)は全軍を挙(あ)げて北の魏(ぎ)に投降しようとしている」と言いふらし、ついに自分の部隊を率(ひき)いて魏延(ぎえん)を攻撃した。

魏延(ぎえん)にはもともと謀反(むほん)の心はなかったため、戦わずに敗走し、追撃されて殺された。


臣(わたくし)(裴松之(はいしょうし))が考えるに、おそらくこれは(蜀漢(しょくかん)の)敵国である魏(ぎ)での伝聞(噂話(うわさばなし))であり、本伝(『蜀書(しょくしょ)』劉彭廖李劉魏楊伝(りゅうほうりょうりりゅうぎようでん)・魏延伝(ぎえんでん)の記述)とどちらが正確であるかを争うことはできない(本伝の方が正しい)。

『季漢輔臣贊』賛魏文長

文長(ぶんちょう)(魏延(ぎえん))は剛勇にして妥協(だきょう)を知らぬ性格であった。

国家の危機に際して命令を受け、敵の攻撃をはね返して外敵を防(ふせ)ぎ、国境をしっかりと守り抜いた。

(しかし、)周囲と協調することができず、臣下としての節義を忘れて乱暴な言葉を吐(は)いた。

その悲惨な最期を憎みつつも、輝かしかった初期の功績を惜(お)しむ。

これらすべては、実に彼の生まれ持った性格のせいなのだ。

出典
  • 『蜀書(しょくしょ)』劉彭廖李劉魏楊伝(りゅうほうりょうりりゅうぎようでん)・魏延伝(ぎえんでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』劉彭廖李劉魏楊伝(りゅうほうりょうりりゅうぎようでん)・劉琰伝(りゅうえんでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』劉彭廖李劉魏楊伝(りゅうほうりょうりりゅうぎようでん)・楊儀伝(ようぎでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』蔣琬費禕姜維伝(しょうえんひいきょういでん)・費禕伝(ひいでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』蔣琬費禕姜維伝(しょうえんひいきょういでん)・姜維伝(きょういでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』鄧張宗楊伝(とうちょうそうようでん)・楊戲伝(ようぎでん)・『季漢輔臣贊(きかんほしんさん)』贊魏文長(さんぎぶんちょう)
  • 『蜀書(しょくしょ)』鄧張宗楊伝(とうちょうそうようでん)・楊戲伝(ようぎでん)・『季漢輔臣贊(きかんほしんさん)』贊呉子遠(さんごしえん)の陳寿(ちんじゅ)による解説文
  • 『魏書(ぎしょ)』諸夏侯曹伝(しょかこうそうでん)・曹真伝(そうしんでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』劉彭廖李劉魏楊伝(りゅうほうりょうりりゅうぎようでん)・魏延伝(ぎえんでん)・裴松之(はいしょうし)注『魏略(ぎりゃく)』
  • 『蜀書(しょくしょ)』董劉馬陳董呂伝(とうりゅうばちんとうりょでん)・董允伝(とういんでん)・裴松之(はいしょうし)注『襄陽記(じょうようき)』

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