正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉖魏延です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き㉖
魏延・文長
魏延・文長

生年不詳〜蜀漢の建興12年(234年)没。荊州・義陽郡の人。
劉備、劉禅に仕えた。剛勇にして将略(将軍としての優れた計略)があり、劉備から深く信頼され、張飛を差し置いて漢中太守に任命された他、丞相の諸葛亮にも重用されて、たびたび戦功を立てた。
蜀漢の建興12年(234年)に諸葛亮が病没すると、魏延はかねてより不和であった長史の楊儀の統制を受けることに反発し、大軍の撤退の途中で桟道を焼き払い、楊儀を攻撃したが、何平(王平)、馬岱らに敗れて三族皆殺しにされた。
劉備の信任
部曲(私兵)を率いて劉備の入蜀(益州入り)に従い、何度も戦功を立てて牙門将軍に昇進した。*1
その後、漢中王となった劉備は、統治の中心を成都(益州・蜀郡・成都県)へ移したが、その際、漢川(益州・漢中郡)を鎮守するという重責を担う将を任命する必要があった。
人々は皆、「その任には必ず張飛が選ばれるだろう」と考えており、張飛自身も心中では「当然自分がその任に選ばれるものだ」と思っていた。
ところが劉備は、その任に魏延を抜擢して督漢中鎮遠将軍に任命し、漢中太守を兼任させたので、全軍の将兵はみな驚いた。
劉備は群臣を一堂に集めて大いに宴会を開き、魏延に、
「今、卿(あなた)に重大な任務を委ねることにした。卿はこの任務に就いて、どのように事に当たるつもりであるか?」
と尋ねると、魏延は答えて言った。
「もし曹操が天下の兵を挙げて攻めて来たならば、大王(劉備)のためにこれを防ぎ止めてみせましょう。もし偏将(配下の将)が10万の兵を率いて攻めて来たならば、大王(劉備)のためにこれを平らげてみせましょう」*2
劉備はこれを「非常に良い答えだ」と称賛し、群臣も皆、その言葉を「壮大で頼もしいものだ」と評価した。
劉備が帝位に即いて尊号を称するようになると、魏延の位を進めて鎮北将軍に任命した。
蜀漢の建興元年(223年)、魏延は(劉禅によって)都亭侯に封ぜられた。
蜀漢の建興5年(227年)、諸葛亮が漢中に駐屯すると、魏延を改めて督前部に任命し、丞相司馬と涼州刺史を兼任させた。
脚注
*1正史『三国志』や裴松之注には、『三国志演義』のように「魏延が劉表や韓玄に仕えていた」という記述はない。
*2魏延は(漢中の)諸陣地に十分な兵を配置して外敵の侵入を防いだ。後に王平が「興勢の役[蜀漢の延熙7年(244年)]」で曹爽を撃退した際も、この魏延の防衛方針を踏襲したものであった。
陽谿の戦い
蜀漢の建興8年(230年)、魏の大司馬・曹真は、
「蜀が何度も出兵して辺境を侵しているため、こちらから進攻して討伐すべきです。いくつかの道から同時に侵入すれば、大勝利を収めることができるでしょう」
と進言し、魏の明帝(曹叡)はこの計略に従った。
8月、曹真は長安(司隷・京兆尹・長安県)から子午道を通って南進し、司馬懿は漢水を遡って南鄭(益州・漢中郡・南鄭県)で合流することとし、(他の)諸軍はあるいは斜谷道から入り、あるいは武威(涼州・武威郡)から侵入した。
ところがこの時、30日余りも続く激しい長雨に遭い、桟道(断崖絶壁に架けられた木道)が途絶したところもあったため、明帝(曹叡)は詔を下して曹真に撤退を命じた。
(迎撃に出た)諸葛亮は、魏延と呉壹(呉懿)に命じ、西へ進んで羌中(羌族の居住地域)へと侵入させた。この時、魏の後将軍・費瑤と雍州刺史・郭淮が陽谿(雍州・南安郡の境)において魏延と戦ったが、魏延は郭淮らを大いに撃ち破った。
その戦功により魏延は前軍師・征西大将軍に昇進し、仮節(独自の軍事・処刑権限)を与えられ、爵位を進めて南鄭侯に封ぜられた。
魏延の不満
魏延は、諸葛亮に従って出征するたびに「(自分に)1万人の兵を与えて欲しい」と願い出て、諸葛亮とは別の道を進み、潼関で合流することを望んだ。これは、かつて韓信が行った戦法にならったものであるが、諸葛亮はこれを制して許可しなかった。
魏延はいつも「諸葛亮のことを臆病だ」と考えており、自分の才能を十分に発揮できないことを嘆き恨んでいた。
子午谷の計
蜀漢の建興6年(228年)、夏侯楙が安西将軍となって長安を鎮守していた時のこと。諸葛亮は南鄭で、配下の者たちと作戦を協議したが、その席で魏延は、
「夏侯楙はまだ若く、主君(曹操)の娘婿であると聞いております。臆病で策略もありません。
今、延に精兵5千と、その兵糧を運ぶ兵5千をお貸しくだされば、褒中(益州・漢中郡・褒中県)から直進して秦嶺山脈に沿って東へ進み、子午谷を北へ抜ければ、10日もかからずに長安へ到着することができます。
楙(夏侯楙)は、延が突如として(長安に)現れたと聞けば、必ずや船に乗って逃げ出すでしょう。長安の城中には御史(監察官)と京兆太守が残っているだけとなります。
横門(長安の北側に3つある城門のうち、西側の門)の邸閣に蓄えられている穀物と、逃げ散った領民の穀物を集めれば、我が軍の食糧を賄うのに十分な量を確保することができます。
(魏の)東方の軍勢が召集されて(長安に)やって来るまでには、まだ20日ほどかかります。その間に、公(諸葛亮)が斜谷から本隊を率いて進んで来られたならば、必ずや無事に合流することができます。
このようにすれば、一挙に咸陽以西の地を平定することができます」
と提案したが、諸葛亮は「この作戦はあまりにも危険な賭けであり、それよりも安全に平坦な道を通って進軍し、着実に隴右の地を占領するほうが、万全で憂いなく勝利を収められる」と考えていたので、魏延の計略は採用されなかった。
これは裴松之が注に引く『魏略』にある「第1次北伐の際の軍議の様子」であるが、魏延はこれと同様の策を何度も献策して却下されたことを恨んでいたのである。
第4次北伐
蜀漢の建興9年(231年)、諸葛亮は再び出兵して祁山を包囲した。
この時、魏の大司馬・曹真が病気になったため、魏の明帝(曹叡)は司馬懿を長安に駐屯させ、張郃、費曜、戴陵、郭淮らを統括させた。
司馬懿は費曜と戴陵に精鋭4千人を残して上邽(雍州・天水郡・上邽県)を守らせると、残りの全軍を率いて西へ向かい、祁山の救援に赴いた。
諸葛亮は上邽の東で司馬懿と遭遇したが、司馬懿は兵を収めて険阻な地形に立て籠ったため、諸葛亮は軍を引いて(鹵城へ)戻った。
司馬懿は諸葛亮の後を追って鹵城に到着したが、そこでもまた山に登って塹壕を掘り、戦おうとはしなかった。すると賈栩や魏平らが何度も出撃を願い出たので、司馬懿はこれに苦悩した。
5月辛巳の日、司馬懿はついに張郃に命じて、南の包囲陣地にいる無当監(蜀漢の精鋭部隊の指揮官)の何平(王平)を攻撃させ、自らは本道を伝って諸葛亮の正面へと向かった。
諸葛亮は魏延・高翔・吳班らを出撃させて迎撃し、魏軍を大破した。蜀軍は首3千級を討ち取り、玄鎧(黒い鉄製の鎧)5千領、角弩(角製の弩)3,100張を獲得した。
司馬懿は敗れて陣営へと逃げ帰り、そこに立て籠った。
楊儀との確執
魏延は普段から兵士たちをよく養い、その勇猛さは人並み外れていたが、その性格は誇り高く傲慢であった。
そのため当時の人々は皆、魏延を避けて謙って接していたが、ただ1人、楊儀だけは魏延に遠慮することがなかったので、魏延はこれを非常に腹立たしく思い、2人の関係は激しく対立する水と火のようであった。
魏延と楊儀が席を同じくして議論になるたびに、魏延は刀を抜いて楊儀に突きつけんばかりの脅しをかけ、楊儀は涙を流して泣き濡れるような有様であった。
そのような時はいつも、費禕が2人の席の間に割って入り、時に諫め、時に諭し、それぞれに理を説き明かして場を収めていた。
諸葛亮が亡くなるまで魏延と楊儀がそれぞれの才能を十分に発揮できたのは、実に費禕のとりなしの力によるものであった。
諸葛亮は楊儀のすぐれた才幹を深く惜しみ、同時に魏延の驍勇(剛勇)を頼みとしていたので、常にこの2人の仲が険悪であることを嘆いていたが、どちらか一方だけを罷免することはできなかった。
孫権の忠告
費禕と董恢が使者として呉へ赴いた時のこと。泥酔した孫権が費禕に言った。
「楊儀と魏延は牧童(牛飼い)のような小人だ。確かに時宜に適って番犬ほどの役には立っているが、すでに彼らを重用してしまっている以上、その勢力を軽んじることはできない。
もし、ある日突然、諸葛亮がいなくなれば、必ずや彼らは災いや反乱を起こすだろう。なのに諸君は、このことに対してまったく予防や配慮をしていない。これで一体、『貽厥孫謀(子孫のために良い計略を残す)』と言えるだろうか?」
費禕が返答に困って答えられずにいると、董恢は費禕に目配せをして言った。
「簡単に申し上げますと、楊儀と魏延の不仲は、ただの個人的な怨恨から生じているに過ぎず、黥布(英布)や韓信のような(天下を覆そうとする)御しがたい謀反の心があるわけではありません。
今はまさに、強力な賊(魏)を掃除して天下を1つにしようとしている時です。功績は才能によって成し遂げられ、大業は才能によって広がるものです。
もし、後の患いを防ぐために才能ある者を任用しないのだとすれば、それはまるで『嵐を警戒するあまり、あらかじめ船や櫂をすべて廃棄してしまう』ようなものであり、長期的な優れた計略とは申せません」
これを聞いた孫権は、大笑いして喜んだ。
諸葛亮はこのことを聞くと、董恢の言葉を「知言(道理をわきまえた発言)である」と評価した。
劉琰の虚言
劉琰は豫州(予州)時代から劉備に寵遇され、劉禅の代においても李厳に次ぐ車騎将軍にまで昇進したが、国政には参与せず、ただ1千人余りの兵を率いて丞相である諸葛亮の軍に従い、彼の意向を汲んで遠回しに意見を述べるだけであった。
蜀漢の建興10年(232年)、劉琰は前軍師の魏延と対立した。その際、劉琰が(魏延を非難して)放った言葉は、根拠のないでたらめなものであったため、諸葛亮は劉琰を厳しく叱責した。
その後、劉琰が諸葛亮に「自らの過ちを認めて平謝りする箋(手紙)」を送ると、諸葛亮は劉琰を(前線から)成都へ送り返したが、官位は元のまま据え置いた。
第5次北伐
夢占いの意味
蜀漢の建興12年(234年)、諸葛亮は北谷口(秦嶺山脈を貫く斜谷の北側の出口)から出撃した。
このとき先鋒を務めた魏延は、諸葛亮の本陣から10里(約4.3km)ほど進んだところで、「自分の頭に角が生える夢」を見た。
そこで、夢占いを得意とする趙直にこの夢の意味を尋ねると、趙直は魏延を欺いて次のように答えた。
「そもそも(聖獣である)麒麟には角がありますが、それを使って争うことはありません。これは『戦わずして賊が勝手に自滅する』という吉兆です」
ところが、趙直は魏延の前から退出すると、他の人にこう語った。
「『角』という文字は、分解すると『刀』の下に『用』(頭の上に刀を用いる)と書く。頭の上で刀が使われる(刃を向けられる)のだから、その凶兆たるや極めて甚だしいものだ」
諸葛亮の死
秋、諸葛亮は病が重くなると、秘密裏に長史の楊儀、司馬の費禕、護軍の姜維らと、自分が亡くなった後の撤退の規則を定め、
「延(魏延)に殿(撤退時の最後尾の防衛)を務めさせ、姜維をその次にせよ。もし延(魏延)が命令に従わなければ、軍はそのまま(魏延を置いて)出発せよ」
と命じた。
諸葛亮が亡くなると、喪を秘して発さず、楊儀は費禕を遣わして魏延の意向を推し量らせた。
すると魏延は、
「丞相(諸葛亮)が亡くなったとはいえ、この吾が健在である。丞相府の親近の官属たちは、遺体と共に帰還して葬儀を行えばよい。
吾は自ら諸軍を率いて賊を討つ。何故たった1人の死によって、天下の大事を中断する必要があると言うのか?
それにこの魏延に、楊儀ごときの指示に従って殿を務めよと言うのかっ!」
と言い、費禕と共に「従軍する者と(前線に)留まる者」の分担を決め、費禕に手書きさせた命令文を、自分と連名で諸将に布告させようとした。
そこで費禕は、
「君のために、戻って楊長史(楊儀)を説得いたしましょう。長史(楊儀)は文吏(文官)です。実戦をまともに経験したことがない男ですから、必ずや(君の)命令に背くことはないでしょう」
と言って(魏延の陣の)門を出ると、馬を急がせて走り去った。
魏延はすぐに後悔して追いかけさせたが、追いつくことはできなかった。
魏延の最期
魏延が人を派遣して楊儀らの様子を探らせると、彼らは諸葛亮が定めた言葉通りに諸営の軍を引き連れて、次々に帰還しようとしていた。
これに魏延は激怒して、楊儀らがまだ出発しないうちに、自分の部隊を率いて真っ先に南へと帰還し、通過した場所の閣道(断崖絶壁に架けられた木道)を焼き払って遮断した。
魏延と楊儀はそれぞれ「相手が叛逆した」と上表したので、(朝廷には)1日のうちに2人の羽檄(緊急の軍事文書)が交互に届いた。
劉禅がこのことを侍中の董允と留府長史の蒋琬に尋ねると、蒋琬と董允は2人とも楊儀の言葉を保証し、魏延に疑いをかけた。
楊儀らは山を切り開き、道を切り拓いて昼夜兼行で進み、魏延の後を追っていたが、先を行く魏延が南谷口(秦嶺山脈を貫く斜谷の南側の出口)を占拠し、兵を派遣して迎え撃とうとしたので、楊儀らは何平(王平)を先頭に立てて魏延の軍を防がせた。
そこで何平(王平)が魏延の先鋒の兵たちを叱りつけ、
「公(諸葛亮)が亡くなられ、そのお体もまだ冷え切っていないというのに、汝輩は何と恐れ多いことをするのだ!」
と言うと、魏延の兵士たちは、そこで初めて「魏延に非があること」を知り、誰も命を懸けて戦おうとせず、軍はみな散り散りになった。
魏延はただ自分の子ら数人と共に逃亡し、漢中へと逃げ奔った。
楊儀は馬岱にこれを追わせて斬らせ、その首を楊儀のもとに届けさせた。楊儀は立ち上がって自らその首を踏みつけると、「庸奴(凡庸な愚か者)め! これでもまた悪事を働けるか?」と言って、ついに魏延の三族(父母・兄弟・妻子)を皆殺しにした。
このとき蒋琬は、この難局に対処するため宿衛(近衛兵)の諸営を率いて北へ向かっていたが、数十里進んだところで「魏延が死んだ」という知らせが届いたため、(成都へ)引き返した。
もともと魏延の意図は、北の魏に降伏することではなく、南へ帰還しただけであり、ただ楊儀らを排除し殺害しようとしただけであった。
(魏延は)平素から諸将とはまったく融和していなかったが、当時の世論が「必ずや自分を諸葛亮の後継者に選ぶだろう」と期待していた。(魏延の)本心はこのようなものであり、国家に背いて謀反を起こすつもりではなかった。
魏延の最期・異説
裴松之が注に引く『魏略』に、魏延の最期についての異説が記載されている。
諸葛亮は病が重くなると、魏延らに向かって、
「我の死後は、ただ慎重に陣地を守るにとどめ、決してまた(魏の領内へ)攻め込んではならぬ」
と言い、魏延に自分の職務を代行させ、秘密裏に喪(遺体)を運んで撤退するよう命じた。
魏延は(諸葛亮の死を)秘匿したまま行軍し、褒口に到着して初めて諸葛亮の死を公表した。
諸葛亮の長史である楊儀は平素から魏延と不和であったので、魏延が軍事を代行しているのを見て、自分が殺されるのではないかと懼れた。
そこで楊儀は「魏延は全軍を挙げて北の魏に投降しようとしている」と言いふらし、ついに自分の部隊を率いて魏延を攻撃した。
魏延にはもともと謀反の心はなかったため、戦わずに敗走し、追撃されて殺された。
臣(裴松之)が考えるに、おそらくこれは(蜀漢の)敵国である魏での伝聞(噂話)であり、本伝(『蜀書』劉彭廖李劉魏楊伝・魏延伝の記述)とどちらが正確であるかを争うことはできない(本伝の方が正しい)。
『季漢輔臣贊』賛魏文長
文長(魏延)は剛勇にして妥協を知らぬ性格であった。
国家の危機に際して命令を受け、敵の攻撃をはね返して外敵を防ぎ、国境をしっかりと守り抜いた。
(しかし、)周囲と協調することができず、臣下としての節義を忘れて乱暴な言葉を吐いた。
その悲惨な最期を憎みつつも、輝かしかった初期の功績を惜しむ。
これらすべては、実に彼の生まれ持った性格のせいなのだ。
出典
- 『蜀書』劉彭廖李劉魏楊伝・魏延伝
- 『蜀書』劉彭廖李劉魏楊伝・劉琰伝
- 『蜀書』劉彭廖李劉魏楊伝・楊儀伝
- 『蜀書』蔣琬費禕姜維伝・費禕伝
- 『蜀書』蔣琬費禕姜維伝・姜維伝
- 『蜀書』鄧張宗楊伝・楊戲伝・『季漢輔臣贊』贊魏文長
- 『蜀書』鄧張宗楊伝・楊戲伝・『季漢輔臣贊』贊呉子遠の陳寿による解説文
- 『魏書』諸夏侯曹伝・曹真伝
- 『蜀書』劉彭廖李劉魏楊伝・魏延伝・裴松之注『魏略』
- 『蜀書』董劉馬陳董呂伝・董允伝・裴松之注『襄陽記』
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