正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉓[戯志才・曁豔(曁艶)]です。
スポンサーリンク
凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
スポンサーリンク
き㉓
戯志才
戯志才
生年不詳〜建安元年(196年)以前没*1。豫州(予州)・潁川郡の人。曹操の初期における主要な参謀の1人。
荀彧によって推薦されて曹操に仕えた。
策略立案能力に優れ(籌画の士*2)、曹操は彼を非常に重用していたが、早くに亡くなった。
戯志才が亡くなると、曹操は荀彧に手紙を送って言った。
「志才が亡くなって以来、共に計略を論じることができる者がいない。汝南郡と潁川郡には元々奇才の士が多いが、誰か志才の後を継げる者はいないだろうか?」
これを受け、荀彧は(潁川郡出身の)郭嘉を推薦した。
戯志才や郭嘉には、世俗の価値観から外れているとの非難を受ける点があったが、荀彧はその知略を高く評価して推薦し、結果として荀彧に推薦された者たちの皆が名声を顕した。
脚注
*1建安元年(196年)は郭嘉が曹操に仕え、曹操が豫州(予州)・潁川郡・許県に献帝を迎えた年。
*2籌画(籌畫)とは、計略を立てる、作戦を練る、計画すること。「籌」は計算に使う竹の棒(算木)のこと。「画」は計画を意味する。
出典
- 『魏書』荀彧荀攸賈詡伝・荀彧伝
- 『魏書』荀彧荀攸賈詡伝・荀彧伝・裴松之注・『荀彧別伝』
- 『魏書』程郭董劉蔣劉伝・郭嘉伝
「戯志才」の関連記事
曁豔・子休(曁艶)
曁豔・子休(曁艶)
生年不詳〜呉の黄武3年(224年)没。揚州・呉郡の人。呉の尚書*3。「私情によって人事を行っている」との罪に問われ、自害した。
出自
曁豔は張温に推薦されて選曹郎に任命され、その後、尚書*3にまで昇進した。
曁豔は狷厲[融通が利かず、自分にも他人にも厳格で激しい]な性格で、清議(人物の品評や政治・道徳に対する高尚な議論)を好んだ。
孫権は張温に罪状を伝える詔の中で「曁豔の父兄は逆賊*4に加担していたが、寡人はそれを気にかけず、あえて曁豔を身近に置いて任用した。それは曁豔がどのような人物なのかを見極めたいと思ったからである」と言っている。
脚注
*3明示されている史料はないが、文官の人事・登用を司る選曹尚書であると考えられる。
*4孫権にとっての逆賊。おそらく厳白虎・許貢・王朗など、孫策・孫権に敵対した江東勢力であろうと思われる。
曁艶・徐彪事件(営府の論)
彼は当時の郎署(官僚たちの詰所)が濁り乱れて善悪が入り混じっており、その多くが本来その地位にふさわしい人物ではないと考えていた。
そこで曁豔は、官僚たちの臧否(善し悪し)・賢者と愚者を区別したいと考え、百僚(百官)を弾劾し、また、三署(官僚の登用を担当する部署)の人事を厳しく査定した。
その結果、多くの者が高い地位から低い地位へ移され、何段階も格下げされたので、従来の地位をそのまま保つことができた者は、10人に1人もいなかった。
また、現在の地位にありながら貪欲で卑しい者や、志や節操が下品で卑劣な者については、みな軍吏に任命し、軍営や幕府に配置した。
備考
曁豔の人事評価は、張温の派閥でない者の小さな欠点や過失にまで難癖をつけ、非難の議論を作り上げたものであった。
曁艶への諫言
陸瑁の諫言
曁豔の選別・査定は、人々が抱えている小さな欠点や過失をことさらに取り上げ、それを公にして非難することによって、自分の人物評価の正しさを示そうとする傾向があった。
そこで(陸遜の弟・)陸瑁は曁豔に手紙を送り、
「聖人というものは、人の善行を称賛し、愚かな者には同情を寄せるものです。そして過失は忘れ、功績は記憶に留めることで、美しい教化を成し遂げるのです。
しかも今は、(わが国の)王業がようやく築かれ始め、天下統一という大事業に向かおうとしている時です。まさに漢の高祖(劉邦)が人の欠点を咎めず、その長所をもって人材を登用したような時期なのです。
もし善人と悪人を厳格に区別し、(あなたが)汝南郡や潁川郡(の名士たち)が行ったような、厳格な月旦評(人物批評)*5を行うのであれば、たしかに風俗を正し、教化を明らかにすることができるでしょう。ですが、それを実際に行うことは容易ではありません。
どうか遠くは孔子の万人への広い愛を手本とし、中ほどには郭泰(郭林宗)のような寛大な救済の精神を模範としてください。そうすれば、より大道にかなうものとなるでしょう」
と諫めたが、曁豔は陸瑁の忠告を聞き入れることはなかった。
脚注
*5原文:汝穎月旦之評。「月旦之評」とは、後漢末期の許劭らが毎月1日に行った「郷里の人物の人物批評」のこと。「月旦評」。ここでは「厳しい人物批評」の代名詞として使っている。
「汝穎」は汝南郡と潁川郡。当時、汝南郡と潁川郡は、人物評論の二大聖地であった。
朱拠の諫言
また、侍御史の朱拠は、
「天下はいまだ平定されておりません。功績によって過失を覆い、欠点を捨てて長所を用いるべきです。
清廉な者を抜擢して腐敗した者を戒めれば、悪を阻み善を勧めるには十分です。もし、一度に大量の官僚を免職や降格をさせてしまえば、『後になってお咎めを受けることになるのではないか』と恐れます」
と諫めたが、曁豔は朱拠の忠告を聞き入れることはなかった。
陸遜の諫言
曁豔はが「営府の論」を唱えたとき、陸遜はこれを諫めて戒め、
「必ず禍を招くことになる」
と言った。
丞相・孫邵の辞職
張温と曁豔は、呉の丞相・孫邵(青州・北海国の人)の(罪状を)上奏した。
そこで孫邵は自ら官位を辞して罪を請うたところ、孫権はその罪を許し、再び元の職務に復帰させた。
自害
こうして人々の怨みや憤りの声は積み重なっていき、しだいに讒言や中傷が広まって、人々は競うように、
「曁豔と選曹郎の徐彪は専ら私情によって人事を行っている。その愛憎(評価)は公正な道理によるものではない」
と言い立てた。
曁豔と徐彪は共にその罪を問われ、自害した。
張温の処分
張温は以前から曁豔・徐彪と志を同じくして、たびたび手紙を交わしていた。
孫権はこれを張温の罪として彼を有司(役所)に幽閉した。
そして、詔を下してその罪状を列挙し、張温を本郡(揚州・呉郡)に還して、廝吏(召使いや雑用係にあたる下級役人)として働くように命じた。
出典
- 『呉書』虞陸張駱陸吾朱伝・張温伝
- 『呉書』虞陸張駱陸吾朱伝・陸瑁伝
- 『呉書』虞陸張駱陸吾朱伝・朱拠伝
- 『呉書』虞陸張駱陸吾朱伝・陸遜伝
- 『資治通鑑』巻70(魏紀2)
「曁豔」の関連記事
スポンサーリンク

