正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉑儀父(邾子克、曹克)です。
スポンサーリンク
凡例
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
スポンサーリンク
き㉑
儀父
儀父(邾子克、曹克)
生年不詳〜紀元前678年没。曹克、字は儀父。邾国の第12代国君。邾子克*1。
春秋左氏伝
『春秋』
魯の隠公元年(紀元前722年)3月、魯の隠公は邾国の儀父と蔑(姑蔑)において盟約を結んだ。
『左氏伝』
この儀父とは邾子克*1のことである。まだ周王(周の平王)から正式な命を受けて爵位を認められていなかったため、『春秋』ではその爵位を書かなかったのである。(名の克ではなく字の)儀父と記しているのは、彼を尊重しているからである。
隠公は摂政として(魯の)君位を代行していたが、邾国との友好関係を求めようとして、蔑(姑蔑)での盟約を結んだのである。
魯の桓公17年(紀元前695年)2月丙午の日、魯の桓公は邾の儀父と趡において会盟を行った。
魯の荘公16年(紀元前678年)冬、邾子克が亡くなった。
脚注
*1邾子とは邾国の国君のこと。邾は国名。子は周の爵位(子爵)。
『魏書』文帝紀・裴松之注『魏略』
後漢の延康元年(220年)秋7月、孫権が使者を派遣して(魏に)貢物を献上した。蜀将の孟達が、その配下の者たちを率いて降伏した。涼州・武都郡の氐王・楊僕が、その部族の者たちを率いて魏に帰順し、漢陽郡に居住した。
(『魏略』には)魏王(曹丕)が自ら筆を執って書いた命令文として、次のように記されている。
「吾が使者を遣わして魏の威徳を示したところ、孟達は直ちに帰順した。吾は『春秋』が(自ら進んで魯と盟約を結び、周の秩序へ参加した)儀父を褒めた例にならい、孟達を厚く処遇して新城太守に任命した。
近頃はさらに、老幼を連れて自ら王化に帰服する者が相次いでいる。昔、夙沙の民が君主を縛って神農氏に帰順し、豳の民が子を背負って周に従ったのも、武力や脅迫によるものではなく、教化と仁義に心を動かされたからであった。同様に考えれば、西南の地も やがて ことごとく魏の王化に服するであろう。その時、孫権や劉備は誰と共に抵抗し続けることができるだろうか」
『魏書』三少帝纪・陳留王
魏の景元4年(263年)に魏が蜀漢を滅ぼすと、魏の(実質的な支配者である)相国・司馬昭の威勢は大いに高まり、その影響は遠く南方の交州にまで及んだ。
当時、交州は呉の支配下にあったが、その苛酷な政治や刑罰、重い租税や賦役に対する不満が高まっており、呉の将・呂興が民衆や豪傑たちを糾合して蜂起し、太守や長吏たちを追放して魏の命令を待った。
魏の咸熙元年(264年)9月辛未の日、[魏の元帝(曹奐)は]詔を下して言った。
「呉の賊どもの政治と刑罰は苛酷で暴虐であり、租税や賦役の徴発にも際限がない。(呉の景帝・)孫休は使者の鄧句を派遣して交阯太守に任命し、その土地の民を捕縛して、兵士として徴発させた。
呉の将であった呂興は民心の憤怒に乗じ、また王師(魏軍)が巴蜀を平定したことを受け、豪傑たちを糾合して鄧句らを誅殺し、太守や長吏たちを追放して吏民を慰撫し、国命(魏の命令)を待った。
九真郡・日南郡もまた、呂興が逆賊である呉を捨てて魏の朝廷に帰順したことを聞くと、直ちに心を1つにして呼応し、呂興と協力して行動した。
呂興は日南郡の(周辺の)諸郡に文書を送って大計を明らかに示すと、軍を合浦郡に進めて利害得失を説き聞かせた。また、都尉の唐譜らを進乗県へ派遣して、南中都督護軍の霍弋を通じて上表し、自らの事情を陳述した。
さらに、交阯郡の将校や官吏たちもそれぞれ上表して、
『呂興は(新たな)事業を創始し、大小の指令をことごとく承服させております。
当郡には山賊がおり、諸郡にまで入り込んで連帯しているため、各々が二心を抱くのではないかと危惧し、一時的に呂興を督交阯諸軍事・上大将軍・定安県侯に任命しました。
どうぞ褒章を賜り、辺境の荒地(に住む我々)をお慰めください』
と述べたが、その真心と誠意は、文章の言葉遣いにはっきりと現れていた。
昔、儀父が魯に朝見したことを、『春秋』は美事として称賛した。また、竇融が漢に帰順した時には、特別の礼をもって待遇された。
今や国家(魏)の威光は遠方まで轟いて、天下の隅々まで慈しみ落ち着かせており、まさに辺境の異民族をも包み込み、四方の果てまで1つに統一しようとしている。
呂興は真っ先に王化に帰して、多くの人々を率いて朝廷に服従し、万里の遠方から義のために馳せ参じ、自ら官吏や将帥として朝廷の職務を担うことを願い出たのである。
当然ながら特別の恩寵を加えてその爵位を高めなければならない。そうすれば、呂興らも忠誠心を抱いて感激するであろうし、遠方の人々もこれを聞けば、必ず競って朝廷への帰順を志すであろう。
よって呂興を使持節・都督交州諸軍事・南中大将軍とし、定安県侯に封ずる。また、情勢に応じて臨機応変に処置する権限を与え、事後に奏上することを認める」
ところが、この策命(任命の詔書)が到着する前に、呂興は部下の者によって殺害されてしまった。
『魏書』董昭伝
建安5年(200年)、袁紹の将・顔良を討ち取った曹操は、軍を進めて冀州・魏郡・鄴県を包囲した。
この時、袁紹と同族の魏郡太守・袁春卿が鄴城の中にいることを知ると、曹操は揚州にいた袁春卿の父・袁元長に人を遣わしてこれを迎え寄せた。
そこで董昭は、袁春卿に書簡を送って次のように述べた。
「そもそも聞くところによれば、『孝ある者は利益を求めるために親に背くことはなく、仁ある者は私情に従うために君主を忘れることはない。志ある士は乱世に乗じて幸運を求めることはなく、知恵ある者は道理に背いて自らを危険に陥れることはない』と言います。
足下の大君(ご尊父)は、かつて国内の難を避けて南方へ赴き、百越の地を遊歴された。それは骨肉の親族を疎んじて呉会(呉・会稽)の地を好んだからではなく、深い見識と知恵を備えた方が深く考えを巡らせた結果、そのような行動を取られたのでしょう。
曹公(曹操)は、(ご尊父が)その志を守り、清廉・謹直でありながら、仲間と離れて孤独な境遇にあることを憐れみ、特別に江東へ使者を派遣してお迎えに行かせました。(ご尊父は)各地の送迎を受けて、今まさにこちらへ到着しようとしております。
たとえ足下が安全で平穏な土地に身を置いて徳と義を備えた主君に仕え、泰山のように揺るぎない強固な城壁に守られ、王子喬や赤松子といった仙人と並ぶほどの長寿と富貴(喬松之偶)をまっとうできる立場にあったとしても、『義』の観点から言えば、やはり彼(袁紹)を背いてこちら(曹操)へ向かい、その地の民を捨ててでも、ご尊父のもとへ馳せ参じるべきなのです。
また、かつて邾の儀父が初めて魯の隠公と盟約を結んだ時、魯の人々はそのことを賞賛しましたが、『春秋』は彼の爵位を書き記しませんでした。それは、まだ周王(周の平王)から正式な命を受けていない以上、その爵位は正式には成立していないという意味であり、これが『春秋』の義なのです。
ましてや足下が今日身を寄せているのは危うく乱れた国であり、受けている任命もまた正統なものではなく、偽りによって作られた命令ではありませんか。
もし不逞の徒と行動を共にしながら、その父を顧みないのであれば、それを『孝』と言うことはできません。また、祖先代々 仕えてきた正統な王朝を忘れ、姦職(朝廷の許可なく勝手に任命された官職)に安住しているのであれば、それを『忠』と言うことも難しいでしょう。
『忠』も『孝』も共に失っているならば、それを知恵のある行いとは言えません。
さらに、足下はかつて曹公(曹操)から礼を尽くして辟かれたことがありました。それにもかかわらず、(本家筋にあたる袁紹の)一族を親しんで(曹操の庇護下にいる)生みの父親を疎んじ、身を寄せている勢力を内に置いて王室を外に置き、邪禄(不正な俸禄)に執着して自分を理解してくれた人に背き、幸福と繁栄を遠ざけて危険と滅亡に近づき、明らかな大義を捨てて大きな恥辱を受け取ろうとしているのです。これは実に惜しむべきことではありませんか。
もし考えを改めて節義を正し、天子(献帝)に奉仕して父を養い、曹公(曹操)に身を委ねるならば、『忠』と『孝』は失われることなく、栄誉ある名声は世に明らかとなるでしょう。どうか深く熟慮され、早急に最善の方策を決断されることを願います」
袁春卿がこれに応じたかどうかは不明。
出典
- 『春秋左氏伝』隠公元年
- 『春秋左氏伝』桓公17年
- 『春秋左氏伝』荘公16年
- 『魏書』文帝紀・裴松之注『魏略』
- 『魏書』三少帝纪・陳留王
- 『魏書』程郭董劉蒋劉伝
- 『魏書』董昭伝
「儀父」の関連記事
スポンサーリンク

