正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉗魏舒です。
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凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き㉗
魏舒
魏舒・陽元
生年不詳〜西晋の太熙元年(290年)没。兗州・任城郡・樊県の人。
出自
相宅者の予言
魏舒は幼い頃に父親を亡くして孤児となり、母方の実家である寧氏に養われた。
寧氏が邸宅を建てた際、相宅者(家相鑑定士)が「この家からは将来、尊い地位に登る甥が出るでしょう」と言った。外祖母(母方の祖母)は、魏氏の甥(魏舒)が幼くして聡明であったため、この予言は彼のことだろうと考えた。
すると魏舒は「外氏(母方の実家)のために、この立派な邸宅にふさわしい吉相を叶えてみせましょう」と言い、しばらくすると別居するようになった。
風貌と人柄
身長8尺2寸(約198.4cm)、容姿や風采は秀麗で堂々としており、酒を1石(約20.2ℓ)余りも飲むことができたが、口が重く飾り気のない性格であったため、郷里の人々や親戚たちからは重んじられなかった。
魏舒は常人の節(普通の人がこだわるような細かい節義)にとらわれず、高潔さをひけらかすようなこともしなかった。そして、いつも人の才能を許容する度量の広さがあり、決して他人の短所を暴き立てるようなことはしなかった。
その性格は乗馬と弓術を好んで韋衣(革の衣)を着用し、また、山や沢に入って漁や猟をして暮らしていた。
従叔父の魏衡と太原の王乂
従叔父の吏部郎・魏衡は当時名声があったが、彼もまた魏舒の才能に気づかず、水碓(水力で穀物を挽く臼)の見張りをさせ、いつも、
「舒(魏舒)は数百戸の長(小さな村の村長)くらいにはなれるだろうか。(それが叶うのならば、)それ以上望むことはない」
と嘆いていたが、魏舒はそれを気に留めることもなかった。
ただ1人、太原[幷州(并州)・太原郡]の王乂だけは、
「卿(あなた:魏舒)はいずれ台輔(三公)になる人物だが、今はまだ妻子を飢えや寒さから救うことすらもできていない。吾が卿の生活を援助しよう」
と言って、いつも彼の困窮を救ってやったが、魏舒も辞退せずにそれを受け取った。
ある夜の予言
魏舒がかつて野王(司州・河内郡・野王県)の地を訪れた時のこと。
(泊まった宿の)主人の妻が夜に出産した。すると、どこからともなく車馬が通りかかる音が聞こえ、互いにこう問いかける声が聞こえた。
「(生まれたのは)男か、女か?」
「男だ。書き留めておけ。15歳になった時、兵(武器の傷)によって死ぬ」
「そこに寝ているのは誰だ?」
「魏公の舒だ」
それから15年後、魏衡が再びその主人のもとを訪れて「あのとき生まれた子はどこにいるかね?」と尋ねたところ、主人は「桑の枝を切り落としていたところ、斧で自らを傷つけて死んでしまいました」と答えた。
これにより魏舒は、自分が将来「公」と呼ばれるような身分になることを確信したのである。
『魏書』華歆伝との共通点
『魏書』華歆伝が注に引く『列異伝』に、これとよく似た華歆の話がある。
裴松之は、
「『晋陽秋』には『魏舒が若い頃、他人の家に泊まったときの出来事』についても、(『列異伝』と)同じような話が記されている。
しかし道理から考えて、2人の人間がそれぞれ同じ出来事を体験したとは考えにくい。
おそらく伝承者が異なったために、1つの話が別々の人物の話として伝わったのであろう。そこでここでは『列異伝』の記述の方を信じることにする」
と言っている。
裴松之注・『列異伝』・全文
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華歆がまだ諸生であった頃、ある人の家の門外に泊まったことがあったが、その時、その家の主人の妻が夜に出産した。
しばらくすると、2人の役人がその家の門までやって来たが、2人はそこでたじろいで後ずさりし、互いに言った。
「ここに公がおられる」
2人は長い間ためらっていたが、片方の役人が言った。
「籍にはもう定めてある。どうしてここで立ち止まっていられようか?」
そこで2人は華歆のところへ進み出て華歆に拝礼し、連れ立って家の中へ入っていった。
2人は家の中から出てくると、並んで歩きながら話し合っていた。
「この子には何歳の寿命を与えることになっているのか?」
「3歳ということになっている」
夜が明けると、華歆はその場を立ち去った。
その後、華歆は「彼らの言葉」が本当であったか確かめようと思った。
そして3年が経った時、わざわざその家へ行って「子供の消息」を尋ねたところ、果たしてその子はすでに死んでいた。
これにより華歆は、自分が将来「公」と呼ばれるような身分になることを確信したのである。
孝廉に合格する
魏舒が40歳を過ぎた頃、郡(兗州・任城郡)の上計掾*1が魏舒を孝廉に推挙しようとした。
魏舒の宗党(一族や親しい人々)は、魏舒がこれまで学問をしてこなかったことから、辞退することを勧め、
「(辞退すれば、地位を求めない)『高潔な隠者』としての評判を得られるぞ」
と言ったが、魏舒は、
「もし試験に落ちたなら、恥を被るのは我自身です。(あなた方ではありません)。どうして『官職に就かないという(名ばかりの)高潔さ』を虚しく盗み取り、それをもって自分の栄誉にできるでしょうかっ!」
と言い、自ら猛勉強に励んでわずか百日の間に1つの経書を習得し、そして見事に合格した。
澠池(司州・弘農郡・澠池県)の県長に任命され、浚儀(豫州・陳留国・浚儀県)の県令へと昇進し、中央に入って尚書郎(尚書の郎官)となった。
ところがその後、「能力の低い郎官を罷免する」ことになると、魏舒は「吾こそその対象者だ」と言って、荷物をまとめて役所を出て行ってしまった。同僚の中で、日頃から(地位にしがみついていた)清廉な評判のない者たちはみな恥じ入り、談者(知識人)たちは魏舒の「潔い行動」を称賛した。
脚注
*1地方の成果や財政を、朝廷へ報告する任務を負った地方の役人。
後将軍・鍾毓の長史となる
その後、魏舒は昇進を重ねて後将軍・鍾毓の長史となった。
鍾毓が属僚たちと射的(の競技)をする時はいつも、魏舒は籌(竹や木の棒)で射的の得点を数える役目をしているだけであった。このとき鍾毓は、魏舒が弓射を得意としていることを知らなかったのである。
ある時、たまたま射手の人数が足りなくなったので、鍾毓は人数をそろえるために魏舒を射手の中に加えた。魏舒の(弓を構える)姿や物腰はゆったりとして上品で、矢を放てばことごとく命中した。その場にいる者はみな驚愕し、魏舒に敵う者は誰もいなかった。
鍾毓は感嘆して魏舒に謝り、
「吾は卿の才能を十分に理解していなかった。これほど弓射に優れているのだから、(卿の才能は)1つのことだけに留まるはずがない!」
と言った。
人の領袖なり
その後、相国(司馬昭)の参軍に転任し、劇陽子[幷州(并州)・雁門郡・劇陽県を封邑とする子爵]に封ぜられた。
魏舒は、相国府や朝廷における些細な事柄について是非を論じることは一度もなかったが、国の興廃に関わる重大な事柄については、誰も判断を下すことができない場合でも、落ち着いてその問題について方策を考えた。そして魏舒の判断の多くは、皆の意見をはるかに超えるものであった。
相国(司馬昭)は魏舒を深く才能のある人物として重んじ、朝会が終わって席を立つたびに、魏舒が去っていく姿を目で追いながら、
「魏舒は実に堂々としている。人々の領袖(指導者)となる人物だ」
と言った。
その後、昇進して宜陽太守と滎陽太守を転任し、非常に高い評判を得た。
中央に徵し出されて散騎常侍に任命され、地方に出て冀州刺史として冀州に在任すること3年、その簡潔で(領民に)恵みを施す政策によって称賛された。
また中央に入って侍中となった。
武帝(西晋の司馬炎)の恩遇
西晋の泰始元年(265年)12月、魏の元帝(曹奐)の禅譲を受け、西晋の武帝(司馬炎)が即位した。
武帝(司馬炎)は魏舒が清廉で質素な人物であることから、特別に絹百匹を賜った。
その後、尚書に昇進し、公務上のことで本来ならば罷免されるべきことになったが、[武帝(司馬炎)は]詔によって、贖罪金を納めることで罪を贖わせることとした。
魏舒は3度妻を娶ったが、妻がみな亡くなったその年、自ら上表して「休暇を賜って故郷の郡に帰り、妻を葬ること」を願い出た。すると、詔によって妻を葬るための土地1頃[約3.57ha(約10,800坪)]と、50万銭を賜った。
封禅と後宮の使者に関する上言
太康年間(280年〜289年)の初め、(尚書令の)右僕射に任命された。
魏舒は、衛瓘・山濤・張華らと共に「天下が統一されたのだから、古典に倣って東嶽(泰山)で『封禅の儀式*2』を行うべきだ」と考え、前後何度もそのことを上奏したが、武帝(司馬炎)は謙遜して許可しなかった。
その後、武帝(司馬炎)は魏舒を(尚書令の)左僕射に任命し、吏部(吏部尚書)の職務を兼任させた。
魏舒は上言して言った。
「現在、六宮(の妃嬪)を選び、玉帛(玉や絹織物)をもって迎えようとなされておりますが、従来通り御府丞を使者とするのでは、このめでたい婚礼の儀を広く天下に知らしめるにあたり、贈り物の豪華さに対して(それを届ける)使者の身分が軽く、釣り合いが取れておりません。
そのため、『三夫人*3を迎える際には卿を使者とし、九嬪*4を迎える際には五官中郎将を使者とし、美人・良人を迎える際には謁者を使者とするべき』と考えます。このようにすれば、典制(国家の制度・儀礼)として理にかなっており、より格式を高めることになるでしょう」
これについて詳しく検討するよう詔が下され、議論が行われたが、賛成・反対の意見が分かれてまとまらなかったため、結局この提案は実施されないままになった。
脚注
*2天下統一や太平の世を達成した皇帝だけが行える、その功績を天地の神々へ報告する祭祀。最高峰の聖地・泰山の山頂に壇を築いて天を祀ることを「封」、麓の小山で地を祀ることを「禅」と呼ぶ。秦の始皇帝や前漢の武帝など、歴史上の一握りの大皇帝しか行えなかった究極の儀式。
*3妃嬪(側室)の階級。皇后(正室)に次ぐ、貴嬪・夫人・貴人のこと。
*4妃嬪(側室)の階級。貴嬪・夫人・貴人に次ぐ、淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華のこと。
司徒に就任する
その後、魏舒は右光禄大夫の官位が加えられ、儀同三司*5の待遇を与えられた。
[西晋の太康4年(283年)に司徒の]山濤が亡くなると、魏舒は司徒の職務を兼任することとなり、ほどなくして正式に司徒に就任した。
魏舒には堂々とした威厳と徳望(人々から慕われる高い人望)があったが、俸禄や恩賞はすべて九族(親族)に分け与えてしまったため、家には少しの余分な財産も残らなかった。
脚注
*5三公(太尉・司徒・司空)ではない臣下に対し、「儀礼や格式(車馬や護衛の数など)を三公と同等とする」という特権を与える加官。高級官僚への優遇措置。
陳留の周震
陳留(兗州・陳留国)の周震という者は、何度も諸府(三公などの役所)に辟召されたが、その「辟召の書」が下されるたびに、その後まもなく(周震を辟召いた)公が亡くなってしまった。
そのため、みな周震のことを「殺公掾(公を殺す属官)」と呼ぶようになり、当時、彼を辟召しようとする者は誰もいなくなっていた。
ところが魏舒は、周震を恐れることなく部下として任命したところ、結局何事も起こらなかったので、識者たちは魏舒のことを、「達命(天命に通じている)」と称賛した。
引退を却下される
魏舒は年老いたことを理由に、事あるごとに「病気」と称して官位を退き、その後また一時的に復帰して兗州の中正(地方の優秀な人材を評価し、朝廷に推薦する官職)に任命されたが、まもなく再び病気を理由に辞職した。
そこで尚書左丞の郤詵は、魏舒に手紙を送って、
「公の長年のご病気も少しは良くなられたのですから、執務を行われることこそが正しい道であり、これこそ陛下が何よりも望んでおられることです。
それなのにどうして、出仕したかと思えばすぐにまた引退し、臥せってしまわれるのですか。
自分の都合で法を曲げて立ち回るような振る舞いは、人々の憧れや期待を大きく裏切るものです。
公は若い頃から「高く尊い立派な徳*6」を立ててこられたのに、ある日突然それを捨て去ってしまわれるとは、なんと惜しいことではありませんか!」
と言ったが、それでも魏舒は、以前と同じように、病気と言い張って任官を拒み続けた。
その後、災異(天災や異変)が起こった責任をとって「官位を完全に辞退したい」と申し出たが、武帝(司馬炎)はこれを認めなかった。
脚注
*6原文:公少立巍巍。巍巍には、1.山などの高く大きいさま。2.徳の高く尊いさま。の意味がある。
引退を認められる
そこで魏舒は、正月元旦の朝儀が終わって私邸に帰ると、上表文を提出し、章綬(印綬)を返上し(て引退を願い出)た。
武帝(司馬炎)は手詔(天子が自書した詔書)をもって熱心に慰留したが、魏舒の意志はますます固くなっていったので、ついに(引退を認める)詔を下した。
武帝(司馬炎)の手詔・全文
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司徒・劇陽子の舒(魏舒)は、人の踏み行うべき正しい道を体現してその純粋な徳を広く推し広め、思慮深く遠い将来まで見通すことができる人物である。忠義と厳粛さをもって正しい道を歩み、公務にあたっては常に規律(臣下としての正しい道)をまっとうし、全力を尽くして国政の指針を示した。
(尚書台に)入っては人事を統括して官吏たちを適した地位へ正しく配置し、(国政の表舞台に)出ては三公として天子の職務を補佐し、五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の5つの徳目)を世に広く行き渡らせた。
その恵み深き教えは各地に行き渡り、徳行の誉れは極めて高い。まさに朝廷の優れた俊才と言うべき人物である。
それにもかかわらず、(あなたは)何度も謙遜して辞退(引退)を申し出ている。その上表文の言葉は極めて懇切丁寧であり、何度も繰り返し読んだが、これを見るたびに(引き留められぬことに)落胆し、呆然となった。
しかし、人の美徳を成し遂げさせてやることは、先典(古の立派な制度や、賢者が残した規範)も認めるところであり、その至誠の情には逆らいがたい。
そこで今、(あなたの)執念(固い決意)を聞き入れ、劇陽子(魏舒)を邸宅に退かせるが、その位は三公と同等とし、俸禄や恩賞はこれまで通り支給することとする。
また、几杖不朝*7(の特権を)を与え、銭百万と床帳簟褥*8一式を下賜し、舍人(身の回りの世話をする官吏)4人を劇陽子(魏舒)の舍人とし、官騎(警護の騎兵)10人を配置する。
光禄勲に命じて(この旨を記した)策書(命令書)を奉じさせ、主者(担当官)には典礼を詳しく調べて、旧来の制度の通りに執り行わせよ。
脚注
*7天子が老齢の臣下に対して「几(ひじ掛け)と杖を与え、朝廷に参内しなくてもよい」とする特権。
*8床は寝台、帳はとばり、簟は高級な筵、褥は柔らかい布団。
そうして武帝(司馬炎)は、魏舒に四頭立ての安車(座って乗る馬車)を下賜し、その邸宅の門には行馬*9を設置した。
魏舒は「物事を行う時には、必ず先に実行してから口に出す性格」であったため、官職を退任する際にも、周囲で知る者は誰もいなかった。
当時の世論は、「晋(西晋)の建国以来、三公の地位にありながら、自らその栄誉を辞退して見事に人生をまっとうできた者は、これまで1人もいなかった」と彼を称賛した。
司空の衛瓘は、魏舒に手紙を送って言った。
「いつも足下と共に『引退の時機』について論じておきながら、日々実行できずにいましたが、(あなたの鮮やかな引き際は、)まさに『前に見えていたかと思えば、いつの間にか後ろにいる(瞻之在前,忽焉在後)*10』と言うものです」
西晋の太熙元年(290年)、82歳で亡くなった。
武帝(司馬炎)は魏舒の死を非常に悲しみ悼み、葬儀に際して贈る物品や葬儀費用の給付を手厚く与え、「康」と諡した。
脚注
*9邸宅の門前に設置する木製のバリケード。これを門前に置くことを許されるのは、その家が最高位の権力者の邸宅であることを世間に示すステータスとなった。
*10『論語』子罕第9の11の引用。孔子の弟子の顔淵(顔回)が、孔子を「あまりに偉大で、どれだけ近くにいても全貌を捉えることができない」と嘆息して言った言葉の一部。
原文:顏淵喟然歎曰:「仰之彌高,鑽之彌堅,瞻之在前,忽焉在後!夫子循循然善誘人:博我以文,約我以禮。欲罷不能,既竭吾才,如有所立卓爾,雖欲從之,末由也已!」
息子・魏混の死
魏舒の子の魏混は字を延広と言い、清廉で恵み深く、才能と品行を備えた人物であり、太子舎人となったが、27歳で魏舒に先立って亡くなったため、朝廷から民間に至るまで、誰もがみな魏舒のために悲しみ惜しんだ。
魏舒は毎日、声を上げて激しく泣き悲しんでいたが、退出すると嘆いて言った。
「吾は荘生(荘子)には遠く及ばない。(いくら泣いても)何の利益もないのに、どうして自らを損なっていてよいものだろうかっ!」
そして服喪の期間が終わると、言葉通り二度と泣くことはなかった。
武帝(司馬炎)は詔を下して言った。
「魏舒にはただ1人の子しかいないのに、その子は薄命で若くして亡くなってしまった。
魏舒は老齢を理由に引退を告げる年齢にもかかわらず、孤独の苦しみの中に身を置いており、(朕は)そのことを考えるたびに胸が痛み、嘆き悲しんでいる。
そこで魏舒の憂いを晴らし、心身を養うために何ができるかを考え、栄養のある美味しい食べ物を増し加えて下賜することにした。
それに加え、陽燧四望繐窗戸皁輪車*111乗と(それを引く)牛1頭を下賜する。これに乗って出かけ、様々な景色を眺めれば、少しは憂いも晴れるであろう」
庶孫(魏混の庶子?)の魏融に爵位を嗣がせたが、彼もまた早くに亡くなってしまったので、魏舒の従孫の魏晃が爵位を嗣いだ。
脚注
*11採光用の天窓(陽燧)があり、四方の景色が見渡せて(四望)、窓には薄い絹織物が張ってある(繐窗戸)、皁い車輪を持つ格式の高い特別な牛車(皁輪車)。
原文:仍給賜陽燧四望繐窗戶皁輪車牛一乘
出典
- 『晋書』列伝第11・魏舒伝
- 『魏書』鍾繇華歆王朗伝・華歆伝・裴松之注『列異伝』
- 『魏書』鍾繇華歆王朗伝・華歆伝・裴松之注『晋陽秋』
- 『論語』子罕第9の11
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