正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉗魏舒(ぎじょ)です。

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凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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き㉗

魏舒

魏舒(ぎじょ)・陽元(ようげん)

生年不詳〜西晋(せいしん)の太熙(たいき)元年(290年)没。兗州(えんしゅう)・任城郡(じんじょうぐん)・樊県(はんけん)の人。

出自
相宅者(そうたくしゃ)の予言

魏舒(ぎじょ)は幼い頃に父親を亡くして孤児となり、母方の実家である寧氏(ねいし)に養われた。

寧氏(ねいし)が邸宅を建てた際、相宅者(そうたくしゃ)(家相鑑定士)が「この家からは将来、尊(とうと)い地位に登る甥(おい)が出るでしょう」と言った。外祖母(母方の祖母)は、魏氏(ぎし)の甥(おい)(魏舒(ぎじょ))が幼くして聡明であったため、この予言は彼のことだろうと考えた。

すると魏舒(ぎじょ)は「外氏(母方の実家)のために、この立派な邸宅にふさわしい吉相を叶(かな)えてみせましょう」と言い、しばらくすると別居するようになった。

風貌(ふうぼう)と人柄

身長8尺2寸(約198.4cm)、容姿や風采は秀麗で堂々としており、酒を1石(約20.2ℓ)余りも飲むことができたが、口が重く飾り気のない性格であったため、郷里の人々や親戚たちからは重んじられなかった。

魏舒(ぎじょ)は常人の節(普通の人がこだわるような細かい節義)にとらわれず、高潔さをひけらかすようなこともしなかった。そして、いつも人の才能を許容する度量の広さがあり、決して他人の短所を暴(あば)き立てるようなことはしなかった。

その性格は乗馬と弓術を好んで韋衣(いい)(革の衣)を着用し、また、山や沢に入って漁(りょう)や猟(りょう)をして暮らしていた。

従叔父の魏衡(ぎこう)と太原(たいげん)の王乂(おうがい)

従叔父の吏部郎(りぶろう)・魏衡(ぎこう)は当時名声があったが、彼もまた魏舒(ぎじょ)の才能に気づかず、水碓(すいたい)(水力で穀物(こくもつ)を挽(ひ)く臼(うす))の見張りをさせ、いつも、

「舒(じょ)(魏舒(ぎじょ))は数百戸の長(小さな村の村長)くらいにはなれるだろうか。(それが叶(かな)うのならば、)それ以上望むことはない」

と嘆(なげ)いていたが、魏舒(ぎじょ)はそれを気に留(と)めることもなかった。


ただ1人、太原(たいげん)[幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)]の王乂(おうがい)だけは、

「卿(けい)(あなた:魏舒(ぎじょ))はいずれ台輔(たいほ)(三公(さんこう))になる人物だが、今はまだ妻子を飢(う)えや寒さから救うことすらもできていない。吾(わたし)が卿(あなた)の生活を援助しよう」

と言って、いつも彼の困窮(こんきゅう)を救ってやったが、魏舒(ぎじょ)も辞退せずにそれを受け取った。

ある夜の予言

魏舒(ぎじょ)がかつて野王(やおう)(司州(ししゅう)・河内郡(かだいぐん)・野王県(やおうけん))の地を訪(おとず)れた時のこと。

(泊まった宿の)主人の妻が夜に出産した。すると、どこからともなく車馬が通りかかる音が聞こえ、互いにこう問(と)いかける声が聞こえた。


「(生まれたのは)男か、女か?」

「男だ。書き留(と)めておけ。15歳になった時、兵(武器の傷)によって死ぬ」

「そこに寝ているのは誰だ?」

「魏公(ぎこう)の舒(じょ)だ」


それから15年後、魏衡(ぎこう)が再びその主人のもとを訪(おとず)れて「あのとき生まれた子はどこにいるかね?」と尋(たず)ねたところ、主人は「桑(くわ)の枝を切り落としていたところ、斧(おの)で自(みずか)らを傷つけて死んでしまいました」と答えた。

これにより魏舒(ぎじょ)は、自分が将来「公(こう)」と呼ばれるような身分になることを確信したのである。

『魏書(ぎしょ)』華歆伝(かきんでん)との共通点

『魏書(ぎしょ)』華歆伝(かきんでん)が注に引く『列異伝(れついでん)』に、これとよく似た華歆(かきん)の話がある。

裴松之(はいしょうし)は、


「『晋陽秋(しんようしゅう)』には『魏舒(ぎじょ)が若い頃、他人の家に泊まったときの出来事』についても、(『列異伝(れついでん)』と)同じような話が記(しる)されている。

しかし道理から考えて、2人の人間がそれぞれ同じ出来事を体験したとは考えにくい。

おそらく伝承者が異なったために、1つの話が別々の人物の話として伝わったのであろう。そこでここでは『列異伝(れついでん)』の記述の方を信じることにする」


と言っている。

裴松之(はいしょうし)注・『列異伝(れついでん)』・全文
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華歆(かきん)がまだ諸生であった頃、ある人の家の門外に泊まったことがあったが、その時、その家の主人の妻が夜に出産した。

しばらくすると、2人の役人がその家の門までやって来たが、2人はそこでたじろいで後ずさりし、互いに言った。

「ここに公(こう)がおられる」

2人は長い間ためらっていたが、片方の役人が言った。

「籍(せき)にはもう定めてある。どうしてここで立ち止まっていられようか?」

そこで2人は華歆(かきん)のところへ進み出て華歆(かきん)に拝礼し、連れ立って家の中へ入っていった。


2人は家の中から出てくると、並んで歩きながら話し合っていた。

「この子には何歳の寿命を与えることになっているのか?」

「3歳ということになっている」

夜が明けると、華歆(かきん)はその場を立ち去った。


その後、華歆(かきん)は「彼らの言葉」が本当であったか確かめようと思った。

そして3年が経った時、わざわざその家へ行って「子供の消息」を尋(たず)ねたところ、果たしてその子はすでに死んでいた。

これにより華歆(かきん)は、自分が将来「公(こう)」と呼ばれるような身分になることを確信したのである。

孝廉に合格する

魏舒(ぎじょ)が40歳を過ぎた頃、郡(兗州(えんしゅう)・任城郡(じんじょうぐん))の上計掾(じょうけいえん)*1が魏舒(ぎじょ)を孝廉(こうれん)に推挙しようとした。

魏舒(ぎじょ)の宗党(一族や親しい人々)は、魏舒(ぎじょ)がこれまで学問をしてこなかったことから、辞退することを勧め、

「(辞退すれば、地位を求めない)『高潔な隠者』としての評判を得られるぞ」

と言ったが、魏舒(ぎじょ)は、

「もし試験に落ちたなら、恥(はじ)を被(こうむ)るのは我(わたし)自身です。(あなた方ではありません)。どうして『官職に就(つ)かないという(名ばかりの)高潔さ』を虚(むな)しく盗み取り、それをもって自分の栄誉にできるでしょうかっ!」

と言い、自(みずか)ら猛勉強に励(はげ)んでわずか百日の間に1つの経書を習得し、そして見事に合格した。


澠池(べんち)(司州(ししゅう)・弘農郡(こうのうぐん)・澠池県(べんちけん))の県長(けんちょう)に任命され、浚儀(しゅんぎ)(豫州(よしゅう)・陳留国(ちんりゅうこく)・浚儀県(しゅんぎけん))の県令(けんれい)へと昇進し、中央に入って尚書郎(しょうしょろう)(尚書(しょうしょ)の郎官(ろうかん))となった。

ところがその後、「能力の低い郎官(ろうかん)を罷免(ひめん)する」ことになると、魏舒(ぎじょ)は「吾(わたし)こそその対象者だ」と言って、荷物をまとめて役所を出て行ってしまった。同僚の中で、日頃から(地位にしがみついていた)清廉(せいれん)な評判のない者たちはみな恥じ入り、談者(知識人)たちは魏舒(ぎじょ)の「潔(いさぎよ)い行動」を称賛した。

脚注

*1地方の成果や財政を、朝廷へ報告する任務を負(お)った地方の役人。

後将軍・鍾毓の長史となる

その後、魏舒(ぎじょ)は昇進を重ねて後将軍(こうしょうぐん)・鍾毓(しょういく)の長史(ちょうし)となった。

鍾毓(しょういく)が属僚たちと射的(の競技)をする時はいつも、魏舒(ぎじょ)は籌(ちゅう)(竹や木の棒)で射的の得点を数える役目をしているだけであった。このとき鍾毓(しょういく)は、魏舒(ぎじょ)が弓射を得意としていることを知らなかったのである。

ある時、たまたま射手の人数が足りなくなったので、鍾毓(しょういく)は人数をそろえるために魏舒(ぎじょ)を射手の中に加えた。魏舒(ぎじょ)の(弓を構える)姿や物腰はゆったりとして上品で、矢を放てばことごとく命中した。その場にいる者はみな驚愕し、魏舒(ぎじょ)に敵(かな)う者は誰もいなかった。

鍾毓(しょういく)は感嘆して魏舒(ぎじょ)に謝(あやま)り、

「吾(わたし)は卿(あなた)の才能を十分に理解していなかった。これほど弓射に優(すぐ)れているのだから、(卿(あなた)の才能は)1つのことだけに留(とど)まるはずがない!」

と言った。

人の領袖なり

その後、相国(しょうこく)(司馬昭(しばしょう))の参軍(さんぐん)に転任し、劇陽子(げきようし)[幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・雁門郡(がんもんぐん)・劇陽県(げきようけん)を封邑(ほうゆう)とする子爵(ししゃく)]に封ぜられた。

魏舒(ぎじょ)は、相国府(しょうこくふ)や朝廷における些細(ささい)な事柄について是非を論じることは一度もなかったが、国の興廃に関わる重大な事柄については、誰も判断を下すことができない場合でも、落ち着いてその問題について方策を考えた。そして魏舒(ぎじょ)の判断の多くは、皆の意見をはるかに超えるものであった。

相国(しょうこく)(司馬昭(しばしょう))は魏舒(ぎじょ)を深く才能のある人物として重んじ、朝会が終わって席を立つたびに、魏舒(ぎじょ)が去っていく姿を目で追いながら、

「魏舒(ぎじょ)は実に堂々としている。人々の領袖(りょうしゅう)(指導者)となる人物だ」

と言った。


その後、昇進して宜陽太守(ぎようたいしゅ)と滎陽太守(けいようたいしゅ)を転任し、非常に高い評判を得た。

中央に徵(め)し出されて散騎常侍(さんきじょうじ)に任命され、地方に出て冀州刺史(きしゅうしし)として冀州(きしゅう)に在任すること3年、その簡潔で(領民に)恵みを施(ほどこ)す政策によって称賛された。

また中央に入って侍中(じちゅう)となった。

武帝(西晋の司馬炎)の恩遇

西晋(せいしん)の泰始(たいし)元年(265年)12月、魏(ぎ)の元帝(げんてい)(曹奐(そうかん))の禅譲(ぜんじょう)を受け、西晋(せいしん)の武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が即位した。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は魏舒(ぎじょ)が清廉(せいれん)で質素な人物であることから、特別に絹(きぬ)百匹(ひき)を賜(たまわ)った。

その後、尚書(しょうしょ)に昇進し、公務上のことで本来ならば罷免(ひめん)されるべきことになったが、[武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は]詔(みことのり)によって、贖罪金(しょくざいきん)を納(おさ)めることで罪を贖(あがな)わせることとした。

魏舒(ぎじょ)は3度妻を娶(めと)ったが、妻がみな亡くなったその年、自(みずか)ら上表して「休暇を賜(たまわ)って故郷の郡に帰り、妻を葬(ほうむ)ること」を願い出た。すると、詔(みことのり)によって妻を葬(ほうむ)るための土地1頃(けい)[約3.57ha(約10,800坪(つぼ))]と、50万銭(せん)を賜(たまわ)った。

封禅と後宮の使者に関する上言

太康(たいこう)年間(280年〜289年)の初め、(尚書令(しょうしょれい)の)右僕射(ゆうぼくや)に任命された。

魏舒(ぎじょ)は、衛瓘(えいかん)・山濤(さんとう)・張華(ちょうか)らと共に「天下が統一されたのだから、古典に倣(なら)って東嶽(とうがく)(泰山(たいざん))で『封禅(ほうぜん)の儀式*2』を行うべきだ」と考え、前後何度もそのことを上奏したが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は謙遜(けんそん)して許可しなかった。


その後、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は魏舒(ぎじょ)を(尚書令(しょうしょれい)の)左僕射(さぼくや)に任命し、吏部(りぶ)(吏部尚書(りぶしょうしょ))の職務を兼任させた。

魏舒(ぎじょ)は上言して言った。


「現在、六宮(りくきゅう)(の妃嬪(ひひん))を選び、玉帛(ぎょくはく)(玉や絹織物)をもって迎(むか)えようとなされておりますが、従来通り御府丞(ぎょふじょう)を使者とするのでは、このめでたい婚礼の儀を広く天下に知らしめるにあたり、贈り物の豪華さに対して(それを届ける)使者の身分が軽く、釣り合いが取れておりません。

そのため、『三夫人(さんふじん)*3を迎(むか)える際には卿(けい)を使者とし、九嬪(きゅうひん)*4を迎(むか)える際には五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)を使者とし、美人(びじん)・良人(りょうじん)を迎(むか)える際には謁者(えっしゃ)を使者とするべき』と考えます。このようにすれば、典制(国家の制度・儀礼)として理にかなっており、より格式を高めることになるでしょう」


これについて詳しく検討するよう詔(みことのり)が下され、議論が行われたが、賛成・反対の意見が分かれてまとまらなかったため、結局この提案は実施されないままになった。

脚注

*2天下統一や太平の世を達成した皇帝だけが行える、その功績を天地の神々へ報告する祭祀(さいし)。最高峰の聖地・泰山(たいざん)の山頂に壇(だん)を築いて天を祀(まつ)ることを「封(ほう)」、麓(ふもと)の小山で地を祀(まつ)ることを「禅(ぜん)」と呼ぶ。秦(しん)の始皇帝(しこうてい)や前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)など、歴史上の一握(ひとにぎ)りの大皇帝しか行えなかった究極の儀式。

*3妃嬪(ひひん)(側室)の階級。皇后(こうごう)(正室)に次ぐ、貴嬪(きひん)・夫人(ふじん)・貴人(きじん)のこと。

*4妃嬪(ひひん)(側室)の階級。貴嬪(きひん)・夫人(ふじん)・貴人(きじん)に次ぐ、淑妃(しゅくひ)・淑媛(しゅくえん)・淑儀(しゅくぎ)・修華(しゅうか)・修容(しゅうよう)・修儀(しゅうぎ)・婕妤(しょうよ)・容華(ようか)・充華(じゅうか)のこと。

司徒に就任する

その後、魏舒(ぎじょ)は右光禄大夫(ゆうこうろくたいふ)の官位が加えられ、儀同三司(ぎどうさんし)*5の待遇を与えられた。

[西晋(せいしん)の太康(たいこう)4年(283年)に司徒(しと)の]山濤(さんとう)が亡くなると、魏舒(ぎじょ)は司徒(しと)の職務を兼任することとなり、ほどなくして正式に司徒(しと)に就任した。

魏舒(ぎじょ)には堂々とした威厳と徳望(人々から慕(した)われる高い人望)があったが、俸禄や恩賞はすべて九族(親族)に分け与えてしまったため、家には少しの余分な財産も残らなかった。

脚注

*5三公(さんこう)(太尉(たいい)・司徒(しと)・司空(しくう))ではない臣下に対し、「儀礼や格式(車馬や護衛の数など)を三公(さんこう)と同等とする」という特権を与える加官。高級官僚への優遇措置。

陳留の周震

陳留(ちんりゅう)(兗州(えんしゅう)・陳留国(ちんりゅうこく))の周震(しゅうしん)という者は、何度も諸府(三公(さんこう)などの役所)に辟召(へきしょう)されたが、その「辟召(へきしょう)の書」が下されるたびに、その後まもなく(周震(しゅうしん)を辟召(まね)いた)公(こう)が亡くなってしまった。

そのため、みな周震(しゅうしん)のことを「殺公掾(さつこうえん)(公(こう)を殺す属官)」と呼ぶようになり、当時、彼を辟召(へきしょう)しようとする者は誰もいなくなっていた。

ところが魏舒(ぎじょ)は、周震(しゅうしん)を恐れることなく部下として任命したところ、結局何事も起こらなかったので、識者(しきしゃ)たちは魏舒(ぎじょ)のことを、「達命(天命に通じている)」と称賛した。

引退を却下される

魏舒(ぎじょ)は年老いたことを理由に、事あるごとに「病気」と称して官位を退(しりぞ)き、その後また一時的に復帰して兗州(えんしゅう)の中正(ちゅうせい)(地方の優秀な人材を評価し、朝廷に推薦する官職)に任命されたが、まもなく再び病気を理由に辞職した。

そこで尚書(しょうしょ)左丞(さじょう)の郤詵(げきしん)は、魏舒(ぎじょ)に手紙を送って、


「公(あなた)の長年のご病気も少しは良くなられたのですから、執務を行われることこそが正しい道であり、これこそ陛下が何よりも望んでおられることです。

それなのにどうして、出仕したかと思えばすぐにまた引退し、臥(ふ)せってしまわれるのですか。

自分の都合で法を曲(ま)げて立ち回るような振る舞いは、人々の憧れや期待を大きく裏切るものです。

公(あなた)は若い頃から「高く尊(とうと)い立派な徳*6」を立ててこられたのに、ある日突然それを捨て去ってしまわれるとは、なんと惜(お)しいことではありませんか!」


と言ったが、それでも魏舒(ぎじょ)は、以前と同じように、病気と言い張って任官を拒(こば)み続けた。

その後、災異(さいい)(天災や異変)が起こった責任をとって「官位を完全に辞退したい」と申し出たが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はこれを認めなかった。

脚注

*6原文:公少立巍巍。巍巍(ぎぎ)には、1.山などの高く大きいさま。2.徳の高く尊いさま。の意味がある。

引退を認められる

そこで魏舒(ぎじょ)は、正月元旦の朝儀が終わって私邸に帰ると、上表文を提出し、章綬(しょうじゅ)(印綬(いんじゅ))を返上し(て引退を願い出)た。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は手詔(しゅしょう)(天子(てんし)が自書した詔書(しょうしょ))をもって熱心に慰留(いりゅう)したが、魏舒(ぎじょ)の意志はますます固くなっていったので、ついに(引退を認める)詔(みことのり)を下した。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の手詔(しゅしょう)・全文
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司徒(しと)・劇陽子(げきようし)の舒(じょ)(魏舒(ぎじょ))は、人の踏(ふ)み行うべき正しい道を体現してその純粋な徳を広く推(お)し広め、思慮深く遠い将来まで見通すことができる人物である。忠義と厳粛さをもって正しい道を歩み、公務にあたっては常に規律(臣下としての正しい道)をまっとうし、全力を尽くして国政の指針を示した。

(尚書台(しょうしょだい)に)入っては人事を統括して官吏たちを適した地位へ正しく配置し、(国政の表舞台に)出ては三公(さんこう)として天子(てんし)の職務を補佐し、五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の5つの徳目)を世に広く行き渡らせた。

その恵み深き教えは各地に行き渡り、徳行の誉れは極めて高い。まさに朝廷の優れた俊才と言うべき人物である。

それにもかかわらず、(あなたは)何度も謙遜して辞退(引退)を申し出ている。その上表文の言葉は極めて懇切丁寧であり、何度も繰り返し読んだが、これを見るたびに(引き留(と)められぬことに)落胆し、呆然(ぼうぜん)となった。

しかし、人の美徳を成し遂(と)げさせてやることは、先典(古(いにしえ)の立派な制度や、賢者が残した規範)も認めるところであり、その至誠の情には逆らいがたい。

そこで今、(あなたの)執念(固い決意)を聞き入れ、劇陽子(げきようし)(魏舒(ぎじょ))を邸宅に退(しりぞ)かせるが、その位(くらい)は三公(さんこう)と同等とし、俸禄や恩賞はこれまで通り支給することとする。

また、几杖不朝(きじょうふちょう)*7(の特権を)を与え、銭百万と床帳簟褥(しょうちょうてんじょく)*8一式を下賜(かし)し、舍人(しゃじん)(身の回りの世話をする官吏)4人を劇陽子(げきようし)(魏舒(ぎじょ))の舍人(しゃじん)とし、官騎(警護の騎兵)10人を配置する。

光禄勲(こうろくくん)に命じて(この旨(むね)を記(しる)した)策書(命令書)を奉じさせ、主者(担当官)には典礼を詳しく調べて、旧来の制度の通りに執(と)り行わせよ。

脚注

*7天子(てんし)が老齢の臣下に対して「几(き)(ひじ掛け)と杖(つえ)を与え、朝廷に参内しなくてもよい」とする特権。

*8床(しょう)は寝台、帳(ちょう)はとばり、簟(てん)は高級な筵(むしろ)、褥(じょく)は柔らかい布団(ふとん)。


そうして武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は、魏舒(ぎじょ)に四頭立ての安車(あんしゃ)(座って乗る馬車)を下賜(かし)し、その邸宅の門には行馬(こうま)*9を設置した。


魏舒(ぎじょ)は「物事を行う時には、必ず先に実行してから口に出す性格」であったため、官職を退任する際にも、周囲で知る者は誰もいなかった。

当時の世論は、「晋(しん)(西晋(せいしん))の建国以来、三公(さんこう)の地位にありながら、自(みずか)らその栄誉を辞退して見事に人生をまっとうできた者は、これまで1人もいなかった」と彼を称賛した。

司空(しくう)の衛瓘(えいかん)は、魏舒(ぎじょ)に手紙を送って言った。

「いつも足下(あなた)と共に『引退の時機』について論じておきながら、日々実行できずにいましたが、(あなたの鮮やかな引き際は、)まさに『前に見えていたかと思えば、いつの間にか後ろにいる(瞻之在前,忽焉在後)*10』と言うものです」


西晋(せいしん)の太熙(たいき)元年(290年)、82歳で亡くなった。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は魏舒(ぎじょ)の死を非常に悲しみ悼(いた)み、葬儀に際して贈る物品や葬儀費用の給付を手厚く与え、「康(こう)」と諡(おくりな)した。

脚注

*9邸宅の門前に設置する木製のバリケード。これを門前に置くことを許されるのは、その家が最高位の権力者の邸宅であることを世間に示すステータスとなった。

*10『論語(ろんご)』子罕(しかん)第9の11の引用。孔子(こうし)の弟子の顔淵(がんえん)(顔回(がんかい))が、孔子(こうし)を「あまりに偉大で、どれだけ近くにいても全貌(ぜんぼう)を捉(とら)えることができない」と嘆息(たんそく)して言った言葉の一部。
原文:顏淵喟然歎曰:「仰之彌高,鑽之彌堅,瞻之在前,忽焉在後!夫子循循然善誘人:博我以文,約我以禮。欲罷不能,既竭吾才,如有所立卓爾,雖欲從之,末由也已!」

息子・魏混の死

魏舒(ぎじょ)の子の魏混(ぎこん)は字(あざな)を延広(えんこう)と言い、清廉で恵み深く、才能と品行を備えた人物であり、太子舎人(たいししゃじん)となったが、27歳で魏舒(ぎじょ)に先立って亡くなったため、朝廷から民間に至るまで、誰もがみな魏舒(ぎじょ)のために悲しみ惜(お)しんだ。

魏舒(ぎじょ)は毎日、声を上げて激しく泣き悲しんでいたが、退出すると嘆(なげ)いて言った。

「吾(わたし)は荘生(そうせい)(荘子(そうし))には遠く及ばない。(いくら泣いても)何の利益もないのに、どうして自(みずか)らを損なっていてよいものだろうかっ!」

そして服喪(ふくも)の期間が終わると、言葉通り二度と泣くことはなかった。


武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は詔(みことのり)を下して言った。


「魏舒(ぎじょ)にはただ1人の子しかいないのに、その子は薄命で若くして亡くなってしまった。

魏舒(ぎじょ)は老齢を理由に引退を告げる年齢にもかかわらず、孤独の苦しみの中に身を置いており、(朕(ちん)は)そのことを考えるたびに胸が痛み、嘆(なげ)き悲しんでいる。

そこで魏舒(ぎじょ)の憂(うれ)いを晴らし、心身を養うために何ができるかを考え、栄養のある美味しい食べ物を増し加えて下賜(かし)することにした。

それに加え、陽燧(ようすい)四望(しぼう)繐窗戸(けいそうこ)皁輪車(そうりんしゃ)*111乗(じょう)と(それを引く)牛1頭を下賜(かし)する。これに乗って出かけ、様々な景色を眺(なが)めれば、少しは憂(うれ)いも晴れるであろう」


庶孫(しょそん)(魏混(ぎこん)の庶子(しょし)?)の魏融(ぎゆう)に爵位を嗣(つ)がせたが、彼もまた早くに亡くなってしまったので、魏舒(ぎじょ)の従孫(じゅうそん)の魏晃(ぎこう)が爵位を嗣(つ)いだ。

脚注

*11採光用の天窓(陽燧(ようすい))があり、四方の景色が見渡せて(四望(しぼう))、窓には薄い絹織物が張ってある(繐窗戸(けいそうこ))、皁(くろ)い車輪を持つ格式の高い特別な牛車(皁輪車(そうりんしゃ))。
原文:仍給賜陽燧四望繐窗戶皁輪車牛一乘

出典
  • 『晋書(しんじょ)』列伝第(れつでんだい)11・魏舒伝(ぎじょでん)
  • 『魏書(ぎしょ)』鍾繇華歆王朗伝(しょうようかきんおうろうでん)・華歆伝(かきんでん)・裴松之(はいしょうし)注『列異伝(れついでん)』
  • 『魏書(ぎしょ)』鍾繇華歆王朗伝(しょうようかきんおうろうでん)・華歆伝(かきんでん)・裴松之(はいしょうし)注『晋陽秋(しんようしゅう)』
  • 『論語(ろんご)』子罕(しかん)第9の11

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