正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉒[嬀満(陳の胡公)・嬀覧]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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き㉒
嬀満
嬀満(陳の胡公)
生没年不詳。姓は嬀、名は満。西周から春秋時代にかけての諸侯国・陳国の初代国君。虞帝舜の子孫。陳の胡公。陳胡公満。
その昔、舜がまだ一介の庶民であった時、堯は自らの2人の娘を舜に嫁がせた。舜は嬀汭という地に住んだので、その後、その一族は氏姓を称するようになり、嬀氏を姓とした。
舜が崩御すると、天下は禹に伝えられ、舜の子である商均には封国が与えられたが、夏王朝の時代には、その封国はある時には断絶し、ある時には存続するという状態であった。
そして、周の武王が殷の紂王を討ち滅ぼすに至ると、あらためて舜の後裔を捜し求め、その結果、嬀満を見つけ出した。そこで(武王は)嬀満を陳の地に封じて、帝舜の祭祀を奉らせた。
これが陳の胡公である。
胡公が亡くなると、その子の申公(犀侯)が後を継いで国君となった。
出典
- 『史記』陳杞世家
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嬀覧
嬀覧
生年不詳〜建安9年(204年)没。姓は嬀、名は覧。後漢末期の人物。
後漢の盛憲によって孝廉に推挙されたが、後に丹陽太守・孫翊の下で(丹陽郡の)大都督を務めた。
その後、孫翊と孫河*1を殺害し、曹操配下の揚州刺史・劉馥と呼応しようとしたが、孫翊の妻・徐氏と孫翊の旧臣たちの計略によって殺害された。
脚注
*1孫堅の同族の子弟。幼くして父方の叔母(または伯母)が嫁いでいた俞氏の家の後継ぎとなったため俞氏を名乗ったが、後に再び孫姓に復した。
孫翊に招かれる
孫権が元呉郡太守であった盛憲を殺害した。
かつて盛憲によって孝廉に推挙されていた嬀覧と戴員は、逃亡して山中に身を隠していたが、建安8年(203年)に(孫権の弟・)孫翊が丹陽太守となると、孫翊は礼を尽くして2人を招き、嬀覧は大都督として兵を統率するようになり、戴員は郡丞となった。
盛憲について
盛憲は字を孝章といい、器量は高雅で堂々としていた。孝廉に推挙されて尚書郎に任命され、その後次第に昇進して呉郡太守となったが、病気のため官を辞した。
孫策が揚州の呉郡・会稽郡を平定すると、その地の名士や豪族たちを誅殺したが、盛憲はもともと非常に高い名声を有していたため、孫策は深くこれを警戒していた。
かつて盛憲と親しく交わっていた少府の孔融は、盛憲が災禍を免れることができないであろうことを憂え、曹操に手紙を送って盛憲を招くように願った。
その結果、盛憲は騎都尉に任命されることになったが、その任命の詔書が到着する前に、孫権によって殺害されてしまった。
『呉書』宗室伝・孫韶伝には「呉郡太守・盛憲」とあるが、元呉郡太守とするのが正しいと思われる。
孫翊を殺害する
嬀覧と戴員は、辺洪らを親しく身近に引き入れていたが、しばしば孫翊から厳しく叱責されていたため、常々叛逆の意図を抱いており、孫権が出征した機会に乗じて、その姦計を実行に移すことにした。
その日、諸県の県令や県長たちはみな孫翊に謁見するために集まっていたが、孫翊は卜に精通している妻の徐氏に、
「吾は明日、長吏たちのために宴を開こうと思う。試しに卜ってみてくれ」
と言った。すると徐氏は、
「卦の結果は良くありません。日を改めてなさるのがよろしいでしょう」
と答えたが、孫翊は「長吏たちは長らく待たされているのだから、早く帰らせるべきだ」と考え、結局、盛大に賓客を招いて宴を催した。
孫翊は外出や人と会う時には常に刀を携えていたが、この時は酒に酔い、また気分も高揚していたため、丸腰のまま客を見送っていた。
そこへ辺洪が後ろから孫翊を斬りつけると、郡府内は大混乱となり、孫翊を救う者は誰もおらず、孫翊は辺洪に殺害され、辺洪はそのまま山中へ逃亡した。
徐氏は賞金を出して辺洪を捕縛することを命じた。一夜が過ぎた頃になって、ついに辺洪が捕らえられたが、嬀覧と戴員はその罪をすべて辺洪・1人に負わせて彼を殺害した。
諸将たちは皆、これが嬀覧と戴員の仕業であることを知っていたが、力がなく彼らを討伐することができなかった。
孫河を殺害する
孫翊が殺害されたことを知った孫河*1は、駐屯していた京城(揚州・呉郡・丹徒県)から急いで揚州・丹陽郡・宛陵県(丹陽郡の治所)に駆けつけると、「嬀覧と戴員が(孫翊を)十分に守ることができず、奸人(悪人)どもの叛逆の企てを成功させてしまったこと」を厳しく責め立てた。
すると2人は相談して、
「伯海(孫河*1)は、将軍(孫翊)とは元々疎遠な関係であったのに、ただ我々ばかりを責め立てている。もし討虜将軍(孫権)が出征から帰還したら、吾たちの仲間は誰一人として生き残ることはできないだろう」
と言い、ついに孫河*1を殺害した。
そして、さらに北方に人を遣わして「揚州刺史の劉馥を迎えて揚州・九江郡・歴陽侯国に駐留するよう」に求め、丹陽郡をもってこれに呼応しようとした。
脚注
*1孫堅の同族の子弟。幼くして父方の叔母(または伯母)が嫁いでいた俞氏の家の後継ぎとなったため俞氏を名乗ったが、後に再び孫姓に復した。
徐氏の仇討ち
嬀覧は軍府に入り込んで居座り、孫翊の嬪妾(側室)たちや近侍の者たちのことごとくを自分のものとし、さらに徐氏までをも手に入れようとした。
すると徐氏は「逆らえば殺される」ことを恐れ、嬀覧を欺いて、
「どうか晦日(月末の日)に(亡き夫の追悼の)祭りを営み、喪服を脱ぐまでお待ちください」
と言った。その時はちょうど月末が近づいていたので、嬀覧は祭祀が終わるまで待つことを許した。
そこで徐氏は、ひそかに親しく信頼できる者を遣わして、孫翊の旧将の孫高・傅嬰らにこう伝えた。
「嬀覧はすでに婢妾(侍女や妾)たちを奪い去り、今度は私にまで無理強いしようとしております。私が表面上は承知したように見せているのは、(嬀覧の)心を安心させて災いを避けるためにすぎません。ささやかな計略を立てたいと思います。どうかお二人には、私を憐れんでお救いくださることを願います」
すると孫高と傅嬰は涙を流して答えて言った。
「(私たちは)府君(孫翊)からひとかたならぬご恩を受けてまいりました。それにもかかわらず、(孫翊が殺害された時に)直ちに殉死しなかったのは、ただ死ぬだけでは何の意味もなく、仇を討つための計略をじっくりと考えたいと思ったからです。
ですが計略がまだ定まっていなかったため、夫人(徐氏)に申し上げることができませんでした。今日のお言葉こそ、まさに(私たちが)朝夕ずっと胸に抱いていたことなのです」
そこで2人は、密かに孫翊に仕えていた従者・20余人を呼び集め、彼らに徐氏の意向を伝え、皆で盟約を結び、誓いを立てて共に計画を練った。
こうして晦日(月末の日)となり、祭祀が執り行われた。徐氏は声を上げて泣き、哀悼の意を尽くして祭祀を終えると、喪服を脱ぎ、香を焚いて沐浴をした。
その後、別室へ移ってそこに幃帳(とばり)を綺麗に整えると、言葉を交わしてにこやかに笑い、楽しげに振る舞って、少しも悲しみの表情を見せなかった。大人も子供もみな悲しみに沈んでいたため、人々は徐氏のその様子を見て不思議に思っていた。
嬀覧はその様子を密かに窺っていが、もはや何の疑いも抱かなかった。
徐氏は孫高と傅嬰、侍女たちを戸口の内側に待機させると、嬀覧に人を遣わして、
「(喪が明けて、)凶事から吉事へと移りました。後はただ、府君(嬀覧)のお言いつけを待つのみです」
と言った。
この報告を受けた嬀覧が喜び勇んで部屋へ入ると、徐氏は戸外へ出て拝礼した。そして、嬀覧が拝礼を受けたその瞬間、徐氏は大声で叫んだ。
「お二人とも、お立ちなさい!」
すると孫高と傅嬰が共に飛び出して、力を合わせて嬀覧を殺害し、他の者たちは直ちに外へ出て戴員を殺害した。
夫人(徐氏)はその後、再び縗絰(喪服)を身につけ、嬀覧と戴員の首を奉げて孫翊の墓に祭ったが、全軍は震え驚き、この出来事を神がかったような不思議なことだと思った。
その後、孫権が帰還すると、嬀覧と戴員の残党の一族をことごとく誅殺した。そして孫高と傅嬰を牙門将に抜擢し、その他の者たちにもみな金帛(金と絹)を与えて褒賞し、その家門を特別に顕彰した。
備考
『呉書』宗室伝・孫韶伝の本文には、
そして、さらに北方に人を遣わして「揚州刺史の劉馥を迎えて揚州・九江郡・歴陽侯国に駐留するよう」に求め、丹陽郡をもってこれに呼応しようとした。
しかしちょうどその時、孫翊の幕下(配下)であった徐元・孫高・傅嬰らが、嬀覧と戴員を殺害した。
とあり、孫高・傅嬰の他に徐元の名前が見えるが、正史『三国志』の中に徐元の名前はここだけにしか登場しないため、詳細は分からない。
『呉書』宗室伝・孫韶伝・裴松之注・『呉歴』の中で「孫高・傅嬰ら」と記されている、その他の人物の中に徐元も含まれていたものと思われる。
出典
- 『呉書』宗室伝・孫韶伝
- 『呉書』宗室伝・孫韶伝・裴松之注・『呉歴』
- 『呉書』宗室伝・孫韶伝・裴松之注・韋昭『呉書』
- 『資治通鑑』巻64(漢紀56)
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