後漢・三国時代の異民族の内、西南夷に分類される白馬氐についてまとめています。
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白馬氐
白馬氐の領域
白馬氐
白馬氐とは、前漢の武帝が開拓した地域に居住する夷人で、武帝は広漢郡の西部を分割して武都郡としました。
風土・風俗
風土
- その土地は険阻で、麻田(麻の栽培地)があります。
- 名馬・牛・羊・漆・蜜を産出します。
風俗
- 氐人(白馬氐)は勇猛ですが、愚かで反抗的であり、利益のために死を賭して財貨を貪ります。
- 河や池に居住し、一名を仇池と言います。四方の広さは100頃(約458.647 ha)あり、四面は険しく切り立っています。
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白馬氐の歴史
白馬氐と中国の関係
【前漢】武帝期
前漢・武帝の元鼎6年(紀元前111年)、武帝は白馬氐が居住する地域に広漢郡の西部を分割・併合して武都郡としました。
氐人(白馬氐)はしばしば辺境に危害を加え、郡県がこれを討伐すれば、堅固な地形を頼って守りました。
元封3年(紀元前108年)、氐人(白馬氐)が反乱を起こすと、武帝は兵を派遣してこれを撃ち破り、酒泉郡に分けて移住させました。
【前漢】昭帝期
前漢・昭帝の元鳳元年(紀元前80年)、氐人(白馬氐)が再び反乱を起こしました。
昭帝は、執金吾の馬適建・龍頟侯の韓増・大鴻臚の田広明を派遣し、三輔*6と太常の刑徒を率いてこれを撃ち破らせました。
脚注
*6前漢の都が置かれていた長安を中心とする京兆尹・左馮翊・右扶風の3つの行政区画のこと。前漢・武帝の太初元年(紀元前104年)に制定され、これらの官庁はいずれも長安城内に置かれた。
【新】王莽期
王莽が簒奪するに及んで、氐人(白馬氐)もまた反乱を起こしました。
建武年間(25年〜56年)の初め、氐人(白馬氐)のことごとくが、隗囂が拠る隴と公孫述が拠る蜀に味方していましたが、隗囂が滅びたことで、その酋長(酋豪)は公孫述に背いて漢に降伏します。これに隴西太守の馬援は、氐人(白馬氐)の王侯・君長を元に戻し、印綬を下賜するように上奏しました。
後に隗囂の一族の隗茂が反乱を起こし、武都太守を殺害します。
氐人(白馬氐)の大豪・斉鍾留は、種族たちから尊敬されており、威信により諸々の豪族を服従させていました。
斉鍾留は、郡丞の孔奮と共に隗茂を攻撃し、これを撃ち破って隗茂を斬りました。
後にまた氐人(白馬氐)は時々略奪を働きましたが、その度に郡県は氐人(白馬氐)を撃ち破りました。
白馬氐と中国の関係年表
西暦 |
出来事 |
B.C.111年 |
■前漢・武帝の元鼎6年
- 武帝が広漢郡の西部を分割・併合して武都郡としました。
|
不明 |
■前漢・武帝期
- 氐人(白馬氐)がしばしば辺境に危害を加える。
|
B.C.108年
|
■前漢・武帝の元封3年
- 氐人(白馬氐)が反乱を起こし、兵を派遣して撃ち破る。
- 氐人(白馬氐)を分けて酒泉郡に移住させる。
|
B.C.80年
|
■前漢・昭帝の元鳳元年
- 氐人(白馬氐)が再び反乱を起こす。
- 昭帝が執金吾の馬適建・龍頟侯の韓増・大鴻臚の田広明を派遣し、三輔*6と太常の刑徒を率いてこれを撃ち破る。
|
不明 |
■新・王莽期
- 氐人(白馬氐)が再び反乱を起こす。
|
25年
〜
32年 |
■後漢・光武帝の建武年間(25年〜56年)の初め
- 氐人(白馬氐)のことごとくが、隗囂が拠る隴と公孫述が拠る蜀に味方する。
|
33年 |
■後漢・光武帝の建武9年
- 隗囂が滅びると、氐人(白馬氐)の酋長(酋豪)が公孫述に背いて漢に降伏する。
- 隴西太守の馬援が「氐人(白馬氐)の王侯・君長を元に戻し、印綬を下賜する」ように上奏する。
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不明 |
- 隗囂の一族の隗茂が反乱を起こし、武都太守を殺害する。
- 氐人(白馬氐)の大豪・斉鍾留が郡丞の孔奮と共に隗茂を攻撃し、隗茂を斬る。
- 氐人(白馬氐)は時々略奪を働くが、その度に郡県に撃ち破られる。
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脚注
*6前漢の都が置かれていた長安を中心とする京兆尹・左馮翊・右扶風の3つの行政区画のこと。前漢・武帝の太初元年(紀元前104年)に制定され、これらの官庁はいずれも長安城内に置かれた。
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【後漢・三国時代の異民族】目次