正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉙魏豹(ぎほう)です。

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凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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き㉙

魏豹

魏豹(ぎほう)

生年不詳〜漢(かん)の高祖(こうそ)3年(紀元前204年)没。元の魏(ぎ)の公族。秦(しん)末の動乱期における6国の群雄の1人。兄は魏咎(ぎきゅう)。

兄の魏咎が魏王となる

魏豹(ぎほう)は元は魏(ぎ)の公子(こうし)の1人であった。

兄の魏咎(ぎきゅう)は魏(ぎ)の時代に寧陵君(ねいりょうくん)に封ぜられていたが、[秦(しん)の始皇(しこう)22年(紀元前225年)に]秦(しん)が魏(ぎ)を滅ぼすと、秦(しん)は魏咎(ぎきゅう)を(別の土地へ)強制移住させて家人(かじん)(庶民)とした。


[秦(しん)の二世皇帝(にせいこうてい)元年(紀元前209年)に]陳勝(ちんしょう)が蜂起(ほうき)して王(おう)となると、魏咎(ぎきゅう)はこれに従った。

陳王(ちんおう)(陳勝(ちんしょう))は魏(ぎ)人(ひと)の周市(しゅうし)を派遣して魏(ぎ)の地を攻略させ、魏(ぎ)の地が平定されると、人々は周市(しゅうし)を魏王(ぎおう)に立てようとした。

すると周市(しゅうし)は、

「天下がひどく乱れて初めて、本当の忠臣が誰であるかが分かるものです。今、天下の人々が皆で一斉に秦(しん)に背(そむ)いているのですから、大義としては、必ずかつての魏(ぎ)の王(おう)の末裔(まつえい)を立てるべきであり、そうしてこそ(反乱は)成功するでしょう」

と言った。

斉(せい)や趙(ちょう)の国も、それぞれ車50乗(じょう)を遣(つか)わして周市(しゅうし)を魏王(ぎおう)に立てようとしたが、周市(しゅうし)は辞退して受けず、陳(ちん)の地に魏咎(ぎきゅう)を迎えに行き、(陳(ちん)と魏(ぎ)の間を)5度も往復した。

そこで陳王(ちんおう)(陳勝(ちんしょう))は、ついに(魏(ぎ)の公子(こうし)である)魏咎(ぎきゅう)を派遣して魏王(ぎおう)に立てた。

兄・魏咎の死

その後、(秦(しん)の将軍(しょうぐん)・)章邯(しょうかん)が陳王(ちんおう)(陳勝(ちんしょう))を破り、そのまま兵を進めて臨済(りんせい)で魏王(ぎおう)(魏咎(ぎきゅう))を攻撃した。

そこで魏王(ぎおう)(魏咎(ぎきゅう))が周市(しゅうし)を遣(つか)わして斉(せい)・楚(そ)に救援を請(こ)わせたところ、斉(せい)・楚(そ)はこれに答えて項它(こうた)と田巴(でんば)に兵を率(ひき)いさせ、周市(しゅうし)に従わせて魏(ぎ)を救援させた。

ところが、章邯(しょうかん)は周市(しゅうし)らの軍を撃破して殺害し、臨済(りんせい)を包囲した。

すると魏咎(ぎきゅう)は、その領民のために(秦(しん)軍と)降伏の約束を交(か)わし、約束がまとまると、魏咎(ぎきゅう)は自(みずか)ら火を放って焼死し、魏豹(ぎほう)は楚(そ)へ逃亡した。秦(しん)の二世皇帝(にせいこうてい)2年(紀元前208年)5月のことである。

魏王に立てられる

楚(そ)の懐王(かいおう)は、魏豹(ぎほう)に数千人の兵を与えて再び魏(ぎ)の地の平定に向かわせた。

その間、項羽(こうう)は秦(しん)軍を破って章邯(しょうかん)を降伏させ、魏豹(ぎほう)は魏(ぎ)の20余りの城を攻め落として魏王(ぎおう)に立てられた。

魏豹(ぎほう)は精鋭兵を率(ひき)いて項羽(こうう)に従い、函谷関(かんこくかん)に入った。


漢(かん)の高祖(こうそ)元年(紀元前206年)2月、項羽(こうう)は諸侯(しょこう)を王(おう)に封じたが、「みずから梁(りょう)(魏(ぎ))の地を領有したい」と考え、そこで魏王(ぎおう)豹(ほう)(魏豹(ぎほう))を河東(かとう)へ移し、平陽(へいよう)に都を置かせて西魏王(せいぎおう)とした。

漢に帰順する

漢(かん)の高祖(こうそ)2年(紀元前205年)3月、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が三秦(さんしん)(関中(かんちゅう))を平定して臨晋(りんしん)の渡し場を渡ると、魏王(ぎおう)豹(ほう)(魏豹(ぎほう))は国(西魏(せいぎ))を挙(あ)げて漢(かん)に帰属し、そのまま従軍して彭城(ほうじょう)で楚(そ)(項羽(こうう))を攻撃した。

この時、彭越(ほうえつ)は自身の兵3万余りを率(ひき)いて、外黄(がいこう)の地で漢(かん)に帰順した。

すると漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は、

「彭(ほう)将軍(しょうぐん)(彭越(ほうえつ))は魏(ぎ)の土地を攻略して10余りの城を手に入れ、急いで魏(ぎ)の後継者を立てようとした。今の西魏王(せいぎおう)豹(ほう)(魏豹(ぎほう))は、(かつての魏王(ぎおう)・)魏咎(ぎきゅう)の従弟であり、正統な魏(ぎ)の血筋である」

と言い、彭越(ほうえつ)を魏(ぎ)の相国(しょうこく)に任命した。

これにより彭越(ほうえつ)は独断で軍事行動を起こす権限を与えられ、梁(りょう)(魏(ぎ))の土地を攻略して平定していった。

漢に反旗を翻す

5月、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が大敗して滎陽(けいよう)まで撤退すると、6月、魏豹(ぎほう)は「親の病気を見舞いたい」と願い出て帰国し、国に到着すると、すぐに黄河(こうが)の渡し場を封鎖して漢(かん)に反旗を翻(ひるがえ)した。


漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は「魏豹(ぎほう)が反乱した」と聞いても、ちょうど東方の楚(そ)(の攻勢)を憂慮(りゅうりょ)している最中だったため、自(みずか)ら討伐に行く余裕がなかった。

秋8月、そこで漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は滎陽(けいよう)に行き、酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))に、

「言葉を和(やわ)らげて魏豹(ぎほう)を説得してきてくれ。もし彼を下らせる(降伏させる)ことができたなら、吾(わたし)は若(おまえ)を万戸(1万戸の領地)に封じよう」

と言って彼を魏(ぎ)に派遣した。

ところが、酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))の説得を受けた魏豹(ぎほう)は謝絶して言った。

「人の一生というものは、細い隙間から白駒(はっく)(白馬)が走り抜けるのが見えるようなもので、ほんの一瞬にすぎない。今、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は傲慢(ごうまん)で人を侮(あなど)り、諸侯(しょこう)や群臣を奴隷のように罵(ののし)っており、上下の礼節というものがまるでない。吾(わたし)は2度とあの男の顔を見たくないのだ」

薄姫(はくき)

秦(しん)の時代、呉(ご)人(ひと)の薄氏(はくし)はかつての魏王(ぎおう)の宗家の女(むすめ)・魏媼(ぎおう)と通じて薄姫(はくき)を生み、魏豹(ぎほう)が立って魏王(ぎおう)となると、魏媼(ぎおう)は薄姫(はくき)を魏宮(ぎきゅう)に入れた。

魏媼(ぎおう)が(人相見の)許負(きょふ)*1に占わせたところ、薄姫(はくき)の相を観て「将来、天子(てんし)を生むでしょう」と言った。

魏豹(ぎほう)は漢(かん)と共に楚(そ)を攻撃していたが、許負(きょふ)*1の言葉を聞くと心の中で密(ひそ)かに喜び、これがきっかけとなって漢(かん)に背(そむ)いて中立を保(たも)ち、改めて楚(そ)と和親を結んだのである。

正史(せいし)『三国志(さんごくし)』の記述

呉氏(ごし)(後(のち)の穆皇后(ぼくこうごう))は、呉壹(ごいつ)(呉懿(ごい))の妹である。

(益州牧(えきしゅうぼく)・)劉焉(りゅうえん)には(天子(てんし)になろうという)野心があったが、人相見が「呉氏(ごし)は将来、非常に尊(とうと)い身分になる」と占ったことを聞いた。

当時、劉焉(りゅうえん)は息子の劉瑁(りゅうぼう)をそばに連れていたため、すぐに劉瑁(りゅうぼう)の妻として彼女を迎えた。後(のち)に劉瑁(りゅうぼう)が亡くなると、呉氏(ごし)は独身のまま暮らした。

建安(けんあん)17年(212年)に孫夫人(そんふじん)(孫権(そんけん)の妹)が呉(ご)へ帰国すると、劉備(りゅうび)は臣下たちの勧めに従い、呉氏(ごし)を娶(めと)って夫人(ふじん)に立てた。

建安(けんあん)24年(219年)に劉備(りゅうび)が漢中王(かんちゅうおう)となると王妃(おうひ)に立てられ、章武(しょうぶ)元年(221年)夏5月、皇帝に即位した劉備(りゅうび)によって策書(さくしょ)が下され、皇后(こうごう)に立てられた。

(以上、『蜀書(しょくしょ)』二主妃子伝(にしゅひしでん)・先主穆皇后伝(せんしゅぼくこうごうでん))


昔、魏豹(ぎほう)は(人相見の)許負(きょふ)*1の言葉を聞いて、薄姫(はくき)を側室に迎え入れた。また劉歆(りゅうきん)は図讖(としん)(予言書)の文面を見て(予言に合わせて)名と字(あざな)を改(あらた)めたが、結局は身を滅ぼすのを免(まぬか)れず、最終的な天命の恩恵は(漢(かん)の文帝(ぶんてい)と光武帝(こうぶてい)の)2人の君主に集まった。

これらのことは、神霊の意志はむやみに求めることはできず、天命はみだりに期待して手に入れられるものではないという、確実な証明である。

それなのに劉焉(りゅうえん)は、董扶(とうふ)の言葉を聞いて益州(えきしゅう)に執着し、人相見の言葉を聞いて(高貴な相を持つ)呉氏(ごし)を(息子の妻として)娶(めと)ろうとした。さらには、にわかに天子(てんし)の車や衣服を造り、帝位を盗み取ろうと図(はか)ったのは、その惑(まど)わされ方が甚(はなは)だしいと言わざるを得ない。

(以上、『蜀書(しょくしょ)』劉二牧伝(りゅうにぼくでん)・評)

脚注

*1孔衍(こうえん)の『漢魏春秋(かんぎしゅんじゅう)』には「許負(きょふ)は河内郡(かだいぐん)・温県(おんけん)の婦人であり、漢(かん)の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は彼女を明雌亭侯(めいしていこう)に封じた」とあるが、臣(わたくし)、松之(しょうし)(裴松之(はいしょうし))が考えるに、今の東方の地方の人は母のことを「負」と呼んでおり、孔衍(こうえん)が許負(きょふ)を女性だとしたのは、その点からすれば一理あるように思われる。
しかし、漢(かん)の高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))の時代、爵位はすべて「列侯(れっこう)」であり、まだ「郷侯(きょうこう)」や「亭侯(ていこう)」といった爵位はなかった。したがって、この「明雌亭侯(めいしていこう)に封ぜられた」という話は事実ではないと思われる。

安邑の戦い

魏豹(ぎほう)の説得の失敗を受け、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)を左丞相(さじょうしょう)に任命し、曹参(そうさん)、灌嬰(かんえい)と共に魏(ぎ)を攻撃させた。

酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))が帰還すると、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は彼に次のように尋(たず)ねた。


漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))「魏(ぎ)の大将は周叔(しゅうしゅく)か?」

酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))「柏直(はくちょく)です」

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))「(そいつは)乳臭(ちちくさ)い青二才だ、韓信(かんしん)の相手にはならない。騎兵の将は誰だ?」

酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))「馮敬(ふうけい)です」

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))「(そいつは)秦(しん)の将であった馮無択(ふうぶたく)の子だ。賢能ではあるが、灌嬰(かんえい)の相手にはならない。歩兵の将は誰だ?」

酈生(れきせい)(酈食其(れきいき))「項它(こうた)です」

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))「(そいつは)曹参(そうさん)の相手にはならない。それなら吾(わたし)は何も心配することはない」


魏王(ぎおう)(魏豹(ぎほう))は蒲阪(ほはん)の軍備を固め、(対岸の)臨晋(りんしん)からの水路を封鎖した。

そこで韓信(かんしん)は、疑兵(ぎへい)を用(もち)いて(臨晋(りんしん)の対岸に)船を並べ、あたかも臨晋(りんしん)から黄河(こうが)を渡るかのように見せかけた上で、夏陽(かよう)から木罌缻(もくおうふ)*2で伏兵(ふくへい)を渡河(とか)させ、安邑(あんゆう)を奇襲した。

魏王(ぎおう)豹(ほう)(魏豹(ぎほう))は驚き、兵を率(ひき)いて韓信(かんしん)を迎え撃ったが、韓信(かんしん)はついに魏豹(ぎほう)を捕虜にして滎陽(けいよう)に護送した。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は魏豹(ぎほう)の国(西魏(せいぎ))を平定して(漢(かん)の)河東郡(かとうぐん)、太原郡(たいげんぐん)、上党郡(じょうとうぐん)を設置した。

魏豹(ぎほう)は滎陽(けいよう)の守備を命じられ、薄姫(はくき)は織室(しょくしつ)(宮廷の織物作業所)に送られた。

脚注

*2木で作った枠で多くの甕(かめ)を挟(はさ)み縛って作った浮水・渡河(とか)の道具。甕筏(かめいかだ)。

魏豹の死

漢(かん)の高祖(こうそ)3年(紀元前204年)夏4月、項羽(こうう)に滎陽(けいよう)を包囲された漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は和睦(わぼく)を申し入れ、「滎陽(けいよう)から西の地域を漢(かん)の領土とする」ことで手を打とうとしたが、(項羽(こうう)の参謀である)范増(はんぞう)が「滎陽(けいよう)を強襲するように」と項羽(こうう)に勧めたため、和睦(わぼく)することはできなかった。

5月、漢(かん)の将軍(しょうぐん)・紀信(きしん)は自(みずか)ら囮(おとり)となることを申し出て王車(おうしゃ)に乗り、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))の影武者となって「兵糧が尽きたため、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は楚(そ)に降伏する!」と叫んだ。

これにより楚(そ)兵の注意が東門に引きつけられたため、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))はわずか数十騎の騎兵と共に、手薄になった西門から脱出して逃(のが)れることができた。


漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は、御史大夫(ぎょしたいふ)の周苛(しゅうか)、魏豹(ぎほう)、樅公(しょうこう)を残して滎陽(けいよう)の守備を命じていたが、楚(そ)の攻撃がいよいよ激しくなると、周苛(しゅうか)と樅公(しょうこう)は「(一度でも)国を裏切った王(おう)と共に城を守ることは難しい」と言い、ついに魏豹(ぎほう)を殺害した。


魏豹(ぎほう)の死後、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が織室(しょくしつ)(宮廷の織物作業所)に入った際、薄姫(はくき)の美貌(びぼう)を見て詔(みことのり)を下し、彼女を後宮に召(め)し入れた。

薄姫(はくき)は劉恒(りゅうこう)(後(のち)の文帝(ぶんてい))を生み、劉恒(りゅうこう)は8歳の時に代王(だいおう)に立てられた。

出典
  • 『史記(しき)』魏豹彭越列伝(ぎほうほうえつれつでん)・魏豹伝(ぎほうでん)
  • 『史記(しき)』高祖本紀(こうそほんぎ)
  • 『史記(しき)』淮陰侯列伝(わいいんこうれつでん)
  • 『史記(しき)』外戚世家(がいせきせいか)
  • 『漢書(かんじょ)』魏豹田儋韓王信伝(ぎほうでんたんかんおうしんでん)・魏豹伝(ぎほうでん)
  • 『漢書(かんじょ)』高帝紀(こうていき)
  • 『漢書(かんじょ)』韓彭英盧呉伝(かんほうえいろごでん)・韓信伝(かんしんでん)・彭越伝(ほうえつでん)
  • 『漢書(かんじょ)』外戚伝(がいせきでん)上
  • 『蜀書(しょくしょ)』二主妃子伝(にしゅひしでん)・先主穆皇后伝(せんしゅぼくこうごうでん)
  • 『蜀書(しょくしょ)』劉二牧伝(りゅうにぼくでん)・評

『史記(しき)』と『漢書(かんじょ)』では年月の記述が異なっている部分があるが、『漢書(かんじょ)』を優先した。


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