正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉘魏冉(穣公)です。
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凡例
- 後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
- 『戦国策』には年代が明記されていません。『戦国策』が出典の項目は、時系列を推測で配置していますので、時系列が正確ではない場合があります。
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き㉘
魏冉(穣公)
魏冉(穣公)
生没年不詳。秦の昭襄王の母・宣太后の異父弟。
出自
魏冉の先祖は楚人で、姓は羋氏である。
秦の武王4年(紀元前307年)に秦の武王が亡くなった時、武王には子がなかったため、その弟が立てられて昭襄王となった。
昭襄王の母は、これまで羋八子と呼ばれていたが、昭襄王が即位するに及んで宣太后と呼ばれるようになった。宣太后は武王の母ではなく、武王の母・恵文后は、武王より先に亡くなっていた。
宣太后には2人の弟がいた。上の弟は異父弟で(穰侯といい、)姓は魏氏、名は冉。同父弟の下の弟は羋戎といい、華陽君となった。
また、昭襄王の同母弟には高陵君と涇陽君がいたが、これらのうちで魏冉が最も賢明であり、恵王・武王の時代から官職に就いて実務を執っていた。
昭襄王を擁立する
秦の武王が亡くなった時、弟たちはその後継者の地位をめぐって争ったが、ただ魏冉だけがその力によって昭襄王を立てることができたのである。
昭襄王が即位すると、昭襄王は魏冉を将軍に任命して(秦の首都・)咸陽を守らせた。
秦の昭襄王2年(紀元前305年)、魏冉は「季君の乱(武王の弟・公子壮の反乱)」を鎮圧して首謀者らを誅殺し、武王の后を追放して魏国へ送り出し、昭襄王の兄弟たちの中で従順でない者をすべて滅ぼしたので、その威名は秦国中に轟いた。
昭襄王がまだ若かったため、宣太后が自ら政治を行い、魏冉を任用して国政を執らせた。
秦の宰相となる
秦の昭襄王7年(紀元前300年)、(秦の名宰相であった)樗里子が亡くなると、秦は(昭襄王の同母弟である)涇陽君を人質として斉国へ送り込んだ。
秦の昭襄王10年(紀元前297年)、趙人の楼緩がやって来て秦の相(宰相)となったが、これは趙国にとっては不都合であったので、趙は仇液を秦へ派遣して、魏冉を秦の相(宰相)とするように要請することにした。
仇液が出発しようとした時、その食客である宋公が仇液に次のように言った。
「もし秦が(魏冉を宰相にするという)公の提案を聞き入れなければ、(秦の宰相であり続ける)楼緩は必ずや公を怨むでしょう。
ですから公は楼緩に『公(楼緩)のために、秦に(魏冉を宰相にする件を)強く要求するようなことはいたしません』と言うのです。
秦王(昭襄王)は、趙国が魏冉を宰相にすることを求めている割には、あまり熱心でない様子を見れば、きっと公の提案を聴き入れないでしょう。
そうなれば、公の(魏冉を宰相にするという)任務は失敗に終わりますが、楼緩には恩を売ることができます。そして逆にもし、事が成って魏冉が宰相になったなら、魏冉は公に恩を感じることでしょう」
そこで仇液がこの助言に従ったところ、秦は果たして楼緩を罷免して魏冉を秦の相(宰相)に任命した。秦の昭襄王12年(紀元前295年)のことである。
秦の昭襄王13年(紀元前294年)、魏冉は呂礼を誅殺しようとしたが、呂礼は斉へ逃亡した。
『戦国策』秦策3
薛公、魏の為に魏冉に謂う(魏冉が呂礼を誅殺しようとした経緯)
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(斉を追われ魏の宰相となっていた)薛公(孟嘗君:田文)が、魏のために魏冉に言った。
「文が聞くところによると『秦王(昭襄王)は呂礼一人を秦・斉両国の相(宰相)とすることで斉を取り込み、それによって天下を思い通りに動かそうとしている』とのことです。そうなれば、必ずや君(魏冉)は軽んぜられるようになるでしょう*1。
そして、斉と秦が手を結んで三晋(韓・趙・魏)に圧力をかけることになれば、呂礼は必ずや両国の相(宰相)を兼任することになります。これでは、君(魏冉)の斉を取り込もうとする行為が、かえって呂礼の地位を重くする結果になってしまいます。
しかも、(秦と手を結ぶことで)斉は天下の兵から攻められる危険を免れることになるため、(過去に斉を追い詰めた)君(魏冉)への怨みはさらに深くなるでしょう。
君(魏冉)は秦王(昭襄王)を説得して、弊邑(魏)に斉を攻撃させるよう仕向けるべきです。
もし斉を打ち破ることができれば、文は斉から手に入れた領地を割譲し、君(魏冉)の封邑とすることを約束しましょう。
斉を破ったことで晋(韓・趙・魏)が強くなれば、秦王(昭襄王)は晋の強大化を畏れ、必ずや君(魏冉)を重用して晋を抑えようとなさるでしょう。
また、斉が弊邑(魏)に領地を差し出して秦に対抗しようとしても、(秦の攻撃を)持ちこたえられなくなれば、晋は秦に仕えるために君(魏冉)を頼り、重んじるようになります。
これこそが、君(魏冉)が斉を破って功績を立て、晋を手の内に握って自身の権力を重くする方法なのです。
斉を破って領地を確定させれば、秦も晋(韓・趙・魏)もみな君(魏冉)を重んじます。ですが、もし斉を破ることができず、再び呂礼が重用されるようなことにでもなれば、君(魏冉)は完全に追い詰められてしまうでしょう」
脚注
*1原文:文聞秦王欲一呂禮收齊,以濟天下,君必輕矣。
白起を推挙する
秦の昭襄王14年(紀元前293年)、魏冉は白起を推挙し、向寿に代えて将とすると、韓・魏を攻撃させた。その結果、(白起は)伊闕でこれを破り、斬首24万人、魏の将・公孫喜を捕虜にして5つの城を攻め落とした。
その翌年[秦の昭襄王15年(紀元前292年)]、大良造となった白起が魏を攻撃して垣を攻め取ったが、後にこれを魏に返還した。また、楚を攻撃して宛と葉の地を攻め取った。
『戦国策』秦策3
秦が楚を破れば、秦は斉と勢力を均衡させることができなくなる。
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(ある者が)魏冉に言った。
「もし秦が楚を打ち破ってしまえば、(もう1つの大国である)斉と勢力を均衡させることができなくなります。
秦は3代にわたって韓・魏に怨恨を積み重ねてきましたが、(今、)斉は韓・魏に恩徳を施し始めております。斉と秦が争い、韓・魏が東の斉の言うことを聞くようになれば、秦は孤立して攻撃を受けることになります。
斉には東国に四方千理に及ぶ(豊かな)土地があります。また、楚は九夷(9つの異民族が住む広大な地域)を内包しており、こちらも四方千里に及び、南には符離の塞が、北には甘魚の河口があります。
(秦は)宋や衛を天秤に縣け(、その影響下に置こうとし)ていますが、宋や衛などは(斉や楚から見れば)桑阿や甄といった小さな一地方にすぎない存在です。
(楚には)四方千里の利益をもたらす土地が2つもあり、かつて越が支配していた豊かな土地を単独でほしいままにしています。(そんな強大な楚が没落してしまったら、)秦はどうして斉との均衡を保ちながら、韓・魏を従え続けることができるでしょうか。
また、(楚の)方城の肥沃な土地を切り取って分け合い、鄭の国境にまで迫るような(大それた)ことができるでしょうか?(いえ、到底できるはずがありません)
(楚が)兵を休めて再起したならば、秦に大打撃を与えるために斉の参戦を待つまでもありません。(ゆえに楚を徹底的に叩き潰してはならないのです)」
穰侯と呼ばれる*2
魏冉は病気を理由に辞職を願い出て相(宰相)の職を免じられ、客卿(他国から招かれた高官)の寿燭が代わって相(宰相)となった。
その翌年[秦の昭襄王16年(紀元前291年)]、[寿燭が罷免されると、再び魏冉が相(宰相)となり、*3]魏冉は穰の地に封ぜられ、さらに陶の地を増封されて、「穰侯」と呼ばれるようになった。
『戦国策』秦策3
魏冉の封地を盤石にする策。
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(ある者が)魏冉に言った。
「君のために確固たる封地を確立するための策を申し上げます。
もし今そのまま宋の犯した罪を許してしまえば、隣国である斉の怒りを買うことになるでしょう。
それよりも、乱れた宋の国を徹底的に攻撃して打ち砕き、強国である斉に恩を売ることで、ご自身の封地を盤石にさせるべきです。
これこそ、百世の時(百世代に1度訪れるかどうかの絶好の好機)なのです!」
脚注
*2『史記』秦本紀では、魏冉の免職も秦の昭襄王16年(紀元前291年)とする。ここでは『史記』穰侯列伝と『史記』六国年表の記述に従って、魏冉の免職を秦の昭襄王15年(紀元前292年)とした。
*3[]内は『史記』穰侯列伝の本文(原文:其明年,燭免,復相冉,乃封魏冉於穰,復益封陶,號曰穰侯)であるが、『史記』秦本紀にその記述はない(原文:十六年,左更錯取軹及鄧。冉免,封公子市宛,公子悝鄧,魏冉陶,為諸侯)。
ここに記述されている魏冉の相(宰相)再任は、秦の昭襄王19年(紀元前288年)の再任と同一の事柄であると考えると、秦の昭襄王19年(紀元前288年)に、罷免されてもいないのに相(宰相)に再任されていることの辻褄が合う。
魏冉の栄華
穰の地に封ぜられてから4年の間に、穰侯(魏冉)は秦の将として魏を攻撃し、[秦の昭襄王17年(紀元前290年)、]魏は河東の地400里を割譲して献上したが、さらに[秦の昭襄王18年(紀元前289年)、]魏の河内の地を攻め落とし、大小60余りの城を奪い取った。
秦の昭襄王19年(紀元前288年)、秦の昭襄王は「西帝」と称し、斉の湣王は「東帝」と称したが、1ヶ月余りして(斉から)呂礼が派遣され(、斉が帝号を返上したことを知)ると、秦も帝号を返上して元の「王」に戻した。
この年、魏冉は再び秦の相(宰相)となったが、6年後[秦の昭襄王24年(紀元前283年)]に罷免され、その2年後[秦の昭襄王26年(紀元前281年)]にまた秦の相(宰相)となった。
『戦国策』秦策3
東方の噂。(魏冉が罷免されていた時のことと思われる)
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ある者が魏のために魏冉に説いて言った。
ある者「公は東方の国々で交わされている噂をお聞きになりましたか?」
魏冉「いや、聞いていない」
そこである者は言った。
「(東方の遊説の士である)辛、張陽、毋沢の3人が、魏王、薛公(孟嘗君:田文)、公叔に説いて、こう言っています。
『臣(ども)が戦うにあたっては、先祖の位牌を戦車に載せて決死の覚悟を示し、敗れた際には国(領土)を割譲するという誓約書を交わして、王(魏王)と固い約束を結んでおりますので、王(魏王)がご心配なされているような事態(敗北や裏切り)は、決して起こり得ません。
もしこれを失敗させるような者がいたならば、臣(ども)は((自ら)首を刎ねられることを願い出ます。
しかしながら、臣(ども)には非常に心配なことがございます。
それは、楚王が国を挙げて冉(魏冉)を頼りとし、臣(ども)の主(魏)に仕えようとしていることです。これこそが、臣(ども)が最も恐れていることなのです』
と。
今、公が東方へ出て楚に働きかければ、それは張儀の言葉を聖王・禹の言葉のように持ち上げることになり、結果として公自身の事業を台無しにするようなものです。
公は、ご自分の領国(陶邑)へお帰りになり、楚に恩義を施した上で、薛公(孟嘗君:田文)が公のために(どのように動くか)様子を見るほうが得策です。
そうして三国(斉・魏・韓)が秦に要求しても得られなかったものを、公が三国の代わりに秦に請求してやり、その恩をもって三国に号令し、公への信頼を築くのです。
そして、張陽(原文は張儀)や毋沢が薛公に求めても得られなかったものを、公が(薛公に)請求することで、公自身の重みを増すべきです」
その4年後[秦の昭襄王29年(紀元前278年)]、魏冉は白起を派遣して楚の首都・郢を攻め落とさせ、秦はその地に南郡を置き、白起を封じて「武安君」とした。
白起は穰侯(魏冉)が推挙して登用されたことから、2人の仲は非常に親密であった。こうして穰侯(魏冉)の富は秦の王室よりも豊かになった。
魏の大夫・須賈の説得
秦の昭襄王32年(紀元前275年)、相国となった穰侯(魏冉)は兵を率いて魏を攻撃し、魏の将・芒卯を敗走させ、北宅に進入して、ついに(魏の首都・)大梁を包囲した。
すると梁(魏)*4の大夫である須賈は、穰侯(魏冉)を説得して言った。
「堅城な大梁を力攻めすれば、秦軍は疲弊してあなたのこれまでの功績を失うことになるでしょう。
もし、魏が楚・趙の援軍を得る前に、わずかな土地の割譲で講和を受け入れれば、秦は兵を損なわずに実利を得ることができ、さらに魏の単独講和に怒った楚や趙も、競って秦に臣従するようになるでしょう」
これを聞いた穰侯(魏冉)は「もっともだ」と言い、大梁の包囲を解いて引き揚げた。
魏の大夫・須賈の説得・全文
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臣は魏の長吏(役人)が、魏王(安釐王)にこう言ったと聞いております。
「昔、梁(魏)*4の恵王が趙を討ち、三梁で勝利して(趙の首都・)邯鄲を占領しましたが、趙氏(趙国)が土地を割譲しなかったため、邯鄲は再び趙に戻りました。
また、斉人が衛を攻撃し、(衛の)旧都を占領して子良を殺しましたが、衛人が領土を割譲しなかったため、旧地は再び衛に戻りました。
趙や衛が(大打撃を受けながらも)国を滅ぼされずに全うして軍隊の強さを保ち、その領土を諸侯(強国)に併合されずに済んだ理由は、彼らが苦難に耐え忍び、(安易に)土地を手放さなかったからに他なりません。
逆に宋や中山国は、何度も攻撃されてはそのたびに土地を割譲したため、国はそれに伴って滅亡しました。
臣は、衛や趙を手本とし、宋や中山を戒めとすべきだと存じます。
秦は強欲で道理に外れた国であり、親しむべき国ではありません。魏氏(魏国)の領土を蚕食(侵食)し、さらにかつての晋国(韓・魏・趙)の領土を奪い尽くそうとしています。
先だっては(魏の救援に向かった韓の将・)暴子(暴鳶)を破って(魏から)8県を割譲させましたが、その土地がまだ完全に秦の手に渡る前に、またもや兵を出してきました。秦の強欲には際限がありません!
今また芒卯を敗走させ、北宅に進入しましたが、これは本気で梁(魏)*4を攻め落とそうとしているのではなく、王(魏の安釐王)を脅迫して、さらに多くの土地を割譲させようとしているだけです。王(魏の安釐王)は決してその要求を聞き入れてはなりません。
もし今、王(魏の安釐王)が(同盟国である)楚や趙に背いて秦と講和すれば、楚と趙は怒って王(魏の安釐王)から離れ、王(魏の安釐王)と競うようにして秦に仕えるでしょう。そうなれば、秦は必ず彼らを受け入れます。
そして秦が、楚や趙の兵を従えて再び梁(魏)*4を攻撃したならば、国を滅亡から救うことできません。
王(魏の安釐王)よ、どうか絶対に講和なさらないでください。もしどうしても講和したいのであれば、わずかな土地を割譲するに留め、(秦から)人質を取ってください。そうでなければ、必ずや(秦に)欺かれます」
と。
これが、臣が魏(の宮廷)で聞いたことでございます。どうか君には、このことを踏まえて今後の処置をお考えいただきたいのです。
『周書』に『天命は一定不変ではない』とあり、これが意味するところは『偶然の幸運は何度も続かない』ということです。
(秦が)かつて暴子(暴鳶)に勝って8県を割譲させたのは、兵力が精鋭だったからでもなく、計略が巧みだったからでもありません。天の幸運が多かっただけです。
今また芒卯を敗走させて北宅に進入し、大梁を攻撃しようとしていますが、これは『天の幸運が常に自分の味方である』と思い込んでいるようなものです。智者はそのようなことはいたしません。
臣が聞くところによると、魏氏(魏国)は百県(すべての県)の精鋭を動員して大梁を守らせており、その数は30万を下らないとのことです。
30万の軍勢で大梁の七仞*5の城を守るとなれば、たとえ[放伐(武力による王朝交代)を成功させた](殷の)湯王や(周の)武王が蘇ったとしても、簡単に攻め落とせるものではありません。
楚や趙の兵を軽々しく敵に回して七仞*5の城を侮り、30万もの大軍を相手に戦って、『必ず攻め落とすことができる』と考えるなど、臣は天地が分かれてから今日に至るまで、一度も聞いたことがありません。
もし攻撃を敢行して攻め落とせなければ、秦兵は必ず疲弊し、(あなたの領地である)陶邑は必ず滅び、これまでの功績はすべて水泡に帰すでしょう。
幸い魏氏(魏国)は今、どうすべきかを迷い疑っております。今のうちなら、わずかな土地の割譲で矛を収めることができます。
どうか楚や趙の救援軍が梁(魏)*4に到着する前に、急いでわずかな土地の割譲で魏と講和してください。
魏も迷っている最中ですので、わずかな土地の割譲で済むのなら好都合と考え、必ずや要求を受け入れるでしょう。そうすれば、君は望むものを手に入れることができます。
また、楚と趙は「魏が自分たちを出し抜いて先に秦と講和したこと」に怒り、必ずや競って秦に仕えるようになるでしょう。
そうなれば(秦に対抗する)合従(同盟)は崩壊します。そうなった後で、君は有利な相手を選べばよいのです。
それに君(秦の昭襄王)が土地を手に入れるために、どうして必ずしも兵を用いる必要があるでしょうか!
(魏の領内にある)かつての晋国の土地を孤立させれば、秦の兵が攻撃せずとも、魏は必ず絳や安邑を差し出します。
また、君の領地である陶のために2つの交易路を開いて、かつての宋の領土の大半を手中に収めれば、衛は必ず単父を差し出します。
そうなれば、秦は兵力を完全に保ったまま、君が天下を制することができます。求めて得られず、行って成功しないことがありましょうか!
どうか君におかれましては、熟慮なさって危険な行動はなさらないようお願いいたします」
『戦国策』魏策3
上記「須賈の説得」の原典
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秦は華の地で魏を破り、(魏の将・)芒卯を敗走させて、(魏の首都・)大梁を包囲した。
須賈は魏のために穰侯(魏冉)に向かって次のように言った。
「臣が聞くところによりますと、魏氏(魏)の大臣や王の父兄(一族の長老たち)は、皆一様に魏王へ次のように進言しているそうです。
『かつて恵王の時代、(魏は)趙を討って三梁で勝利し、10万の軍勢で(趙の首都・)邯鄲を攻め落としましたが、趙氏(趙国)が土地を割譲しなかったため、邯鄲は再び趙に戻りました。
また、斉人が燕を攻めた際も、子之を殺してその旧都を打ち破りましたが、燕が領土を割譲しなかったため、燕の国は元通りに復興しました。
燕や趙が(大打撃を受けながらも)国を滅ぼされずに軍隊の強さを保ち、その領土を諸侯(強国)に併合されずに済んだ理由は、彼らが苦難に耐え忍び、(安易に)土地を手放さなかったからに他なりません。
逆に宋や中山国は、何度も攻撃されてはそのたびに土地を割譲したため、国はそれに伴って滅亡しました。
臣は、衛や趙を手本とし、宋や中山を戒めとすべきだと存じます。
そもそも秦は貪欲で冷酷な国であり、他国と親義を結ぶような情など持ち合わせておりません。蚕が桑の葉を食うように少しずつ侵略し、かつての晋国(韓・魏・趙)の領土を奪い尽くそうとしています。
先だっては(魏の救援に向かった韓の将・)暴子(暴鳶)を破って(魏から)8県を割譲させましたが、その土地がまだ完全に秦の手に渡る前に、またもや兵を出してきました。秦の強欲には際限がありません!
今また芒卯を敗走させ、北宅に進入しましたが、これは本気で梁(魏)*4を攻め落とそうとしているのではなく、王(魏の安釐王)を脅迫して、さらに多くの土地を割譲させようとしているだけです。王(魏の安釐王)は決してその要求を聞き入れてはなりません。
今、王(魏王)が楚・趙との同盟を無視して単独で秦と和平を結んでしまえば、楚・趙は激怒し、王(魏王)に負けじと競って秦に仕えるようになるでしょう。そして秦は間違いなくそれを受け入れます。
そして、秦が楚・趙の兵を従えて再び(魏に)攻めて来たならば、もはや国を滅亡から救うことはできません。
どうか王(魏王)よ、決して安易に講和なさらないでください。もしどうしても講和したいのであれば、わずかな土地を割譲するに留め、(秦から)人質を取ってください。そうでなければ、必ずや(秦に)欺かれます』
これが、臣が魏(の宮廷)で聞いたことでございます。どうか君には、このことを踏まえて今後の処置をお考えいただきたいのです。
『戦国策』魏策4
大梁(魏)を攻めた穰侯(魏冉)に言う。
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穰侯(魏冉)が大梁(魏)を攻め、(楚の)北郢を圧倒したため、魏は(秦に降伏して)従おうとしていた。
ある者が穰侯(魏冉)に言った。
「君は楚を攻めて宛や穰を手に入れ、(ご自身の領地である)陶を広げました。また、斉を攻めて剛や博を手に入れ、陶を広げました。そしてさらに、(魏の)許や鄢陵を手に入れて、陶を広げました。
それなのに、秦王(昭襄王)が(得た領土を国に返せと言わず、)不問に付してきたのは何故だと思われますか?
それは大梁(魏)が滅びていないからです。(魏という大きな敵が残っているからこそ、秦王は君を必要とし、これまで大目にみてきたのです)
もし今日、大梁(魏)が屈服してしまえば、(君が私物化している)許や鄢陵の領有について、必ずや議論が起こるでしょう。そうなれば、君が窮地に追い込まれることは必定です。
君のために計るならば、大梁(魏)を攻めないでおくことこそが、得策であると存じます」
『戦国策』秦策3
白起への警戒を促す。
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(ある者が)魏冉に言った。
「和平交渉が成立しなければ、必ずや軍を出すことになりますが、その際、白起が副将となるでしょう。
戦いに勝てば、白起は必ずや公を(政治的に)追い詰めるでしょう。もし負ければ、白起は必ずや趙に仕えて公を従わせるでしょう。
(どちらに転んでも)公の立場は軽んじられて(危うく)なります。公はこれ以上、多くを交渉しようとせず、速やかに帰還するに越したことはありません」
脚注
*5「仞」は古代中国における長さ・高さ・深さの単位。1仞は「大人が両手を左右に広げた長さ」であり、「七仞」は非常に高い、または非常に深い様子をあらわし、ここでは「非常に高い城壁」を意味する。
ところがその翌年[秦の昭襄王33年(紀元前274年)]、魏は秦に背き、斉と合従(同盟)して親交を深めた。
そこで秦は穰侯(魏冉)を派遣して魏を討たせ、斬首4万人、魏の将・暴鳶を敗走させ、魏の3つの県を奪い取った*6。
この功績により、穰侯(魏冉)はさらに封邑を加増された。
脚注
*4原文:梁大夫須賈說穰侯曰:
梁は魏の別称。魏は魏の恵王の時代に都を安邑から大梁に移して以後、大梁にちなんで「梁」とも称された。そのため、ここでいう「梁大夫」は「魏の大夫・須賈」を意味する。なお、この時期の魏の正式な国名が「梁」に改められていたわけではない。
*6『史記』秦本紀には、秦の昭襄王32年(紀元前275年)に、この(『史記』穰侯列伝の)秦の昭襄王33年(紀元前274年)の内容が記載されている。そのため翌年の「華陽の戦い」は秦の昭襄王33年(紀元前274年)になっている。
華陽の戦い
その翌年[秦の昭襄王34年(紀元前273年)]、穰侯(魏冉)は白起や客卿の胡陽と共に再び趙・韓・魏の3国を攻め、華陽の麓で(魏の将・)芒卯を破り、斬首10万人、魏の巻・蔡陽・長社、および趙の観津を奪い取った。
『戦国策』韓策3
趙・魏が(韓の)華陽を攻める。
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趙と魏が(韓の領地である)華陽を攻撃したため、韓は秦に緊急の救援を求め、冠蓋(使者の馬車)が途切れることなくやって来たが、秦は救いの手を差し伸べようとはしなかった。
そこで韓の相国は田苓に言った。
「事態は極めて差し迫っている。どうか公には、病の身を押してでも、急ぎ(一晩で)秦へ行ってはもらえないだろうか」
こうして田苓は秦に赴き穰侯(魏冉)と会見した。
穰侯「韓はそこまで危急の状況なのか? なぜわざわざ他国にいる公を使者として寄越したのだ?」
田苓「まだ危急ではございません」
穰侯「公はどのようなつもりで韓王の使者を務めているのか! 冠蓋(使者の馬車)が引きも切らずやって来て、弊邑(秦)に急を告げているというのに、公は『まだ急ではない』と言う。これは一体、どういうことか?」
田苓「もし本当に韓が(限界まで追い詰められて)『急』となったなら、韓は方針を変えているはずです。(方針を変えて趙・魏と手を結び、共に秦を攻める側に回るしかなくなります。そうなる前だからこそ、まだ『急』ではないと申し上げたのです)」
するとその言葉の意図を悟った穰侯(魏冉)は、
「公(田苓)よ、わざわざ王(昭襄王)に謁見する必要はない。臣が今すぐ兵を発して韓を救うように命じよう」
と言うと、わずか8日のうちに華陽の麓で趙・魏の軍を大破した。
蘇代の説得
その後、[穰侯(魏冉)は]そのまま趙に観津を返還し、さらに趙の兵力を増強してやって、(共同で)斉を討とうとした。
斉の襄王は恐れ、蘇代を派遣して、斉のために内密に穰侯(魏冉)へ書簡を送らせた。
その中で蘇代は、5つの理由を挙げて「秦は絶対に、趙に4万の兵を貸し与えて斉を討つようなことはしない」と断言した。
これを受け、穰侯(魏冉)は(斉への侵攻を)中止し、兵を率いて秦国へ引き揚げた。
蘇代の書簡・全文
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臣は、行き交う人々が『秦は趙に4万の兵を増強して斉を討たせようとしている』と言っているのを聞き、密かに敝邑の王(斉の襄王)に、
「秦王(秦の昭襄王)は賢明で計略(外交戦略)に熟知しており、穰侯(魏冉)は智恵者で政務に慣れておられます。ですから、絶対に趙に4万の兵を貸し与えて斉を討つようなことはなされないでしょう」
と断言いたしました。
それはなぜか?
そもそも三晋(韓・趙・魏)の国々は互いに親密ですが、秦にとっては深い仇敵です。彼らは百度も裏切り、百度も欺き合ってきましたが、それを不誠実とも不品行とも思っておりません。
今、斉を打ち破ることは、趙を肥え太らせるだけです。趙は秦の深い仇敵であり、(趙が強くなることは)秦にとって利益になりません。これが第1の理由です。
秦の謀者(策士)たちは、必ずや『斉を破ることで、(共に戦う)三晋や楚を疲弊させ、その後に疲弊した三晋や楚を制圧するのだ』と言うでしょう。
そもそも斉は、すでに罷国(疲弊しきった国)です。天下の兵を挙げて斉を攻めるのは、まるで千鈞(超重量)の弩(強弓)で、今にも潰れかかった癕(腫れ物)を撃ち抜くようなもので、斉は必ずや(瞬く間に)滅びるでしょう。
(斉との戦いで)三晋や楚を疲弊させることなどできません。これが第2の理由です。
(共同で戦う場合、)秦が出す兵が少なければ、三晋や楚は秦を信用せず、逆に多くの兵を出せば、三晋や楚は秦の統制下に置かれるのを嫌がります。
すると斉は恐れ、秦を頼るのではなく、必ず三晋や楚に逃げ込むでしょう。これが第3の理由です。
秦が斉の土地を割譲して三晋や楚に喰らわせた(与えた)としたら、三晋や楚は兵力を温存し、秦は逆に敵の攻撃を受ける羽目になります。これが第4の理由です。
(共同で戦うことは、)三晋や楚が秦を利用して斉を謀り、斉を利用して秦を謀っているようなものです。三晋や楚がこれほど賢く、秦や斉がこれほど愚かであってよいでしょうか。これが第5の理由です。
ゆえに(秦は、斉を攻めるよりも魏の)安邑を手に入れてうまく治めるほうが、必ずや後の憂いがありません。
秦が安邑を領有すれば、韓は上党の地を維持できなくなります。天下の腸胃(要所)を取るのと、遠くへ出兵して兵が戻らないことを恐れるのとでは、どちらが利益になるでしょうか?
だからこそ臣は『秦王(秦の昭襄王)は賢明で計略(外交戦略)に熟知しており、穰侯(魏冉)は智恵者で政務に慣れておられるから、絶対に趙に4万の兵を貸し与えて斉を討つようなことはなされない』と言ったのです。
穰侯(魏冉)の野心
秦の昭襄王36年(紀元前271年)、相国の穰侯(魏冉)は客卿・灶の言葉を容れ、斉を討って剛と寿の地を奪い、(自分の封邑である)陶邑を広げようと考えた。
『戦国策』秦策3
客卿・灶の言葉。『戦国策』の「客卿・造」を「客卿・灶」と同一人物と考えてここに置いた。
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秦の客卿である造が、穰侯(魏冉)に告げて言った。
「君(魏冉)は秦によって陶の地に封ぜられてから、(その権勢で)数年間にわたって天下の諸侯を揺さぶり動かしてきました。
もし斉を攻め、勝つことができれば、(あなたの領地である)陶は万乗の国*7となり、諸々の小国を率いて天子(周王)を朝見させることができるようになります。天下の国々が(あなたに)従うようになれば、それは五伯(春秋時代の五覇)のような大業です。
ですが、もし斉を攻め、勝つことができなければ、陶は隣国から格好の標的として狙われ、もはやどこにも拠り所がなくなってしまいます。ゆえに斉を攻めるということは、陶という領地にとって、まさに「存亡の機(重要な分岐点)なのです。
君(魏冉)がこの大業を成し遂げたいとお望みなら、どうして使者を派遣して、燕の相国に次のように言わないのですか?
『聖人であっても時(好機)」を作り出すことはできませんが、時(好機)が訪れた時には、それを決して逃さないものです。
舜はどれほど賢明であっても、堯に出会っていなければ、天子になることはできませんでした。
殷の湯王や周の武王がどれほど賢明であっても、(暴君である)夏の桀王や殷の紂王の時代に生まれ合わせていなければ、王となることはできませんでした。このように、舜・湯王・武王のような賢人でさえ、時(好機)に恵まれなければ帝王にはなれなかったのです。
斉を攻撃するよう命令を下すのです。(今こそ)君(燕の相国)にとって最大の時(好機)です。
天下の諸国の力を借りて仇敵である斉を討つことは、(かつて斉に敗れた燕の)恵王の恥を雪ぎ、(秦の)昭襄王の功績を成し、万世の害を取り除くことであり、これこそが燕の長きにわたる利益であり、君(燕の相国)の大きな名声となることです。
『書経(尚書)』に「徳を植え付けるなら、潤し育てるのが良い。害を取り除くなら、徹底的に根絶やしにするのが良い」とあります。
かつて呉が越を滅ぼさなかったため、越は国外(他国)の力を借りて呉を滅ぼしました。そして、(かつて)斉が燕を滅ぼさなかったため、今度は燕が斉を滅ぼすのです。
斉が燕に、呉が越に滅ぼされることになったのは、すべて「病(害)を取り除くことを徹底しなかった」ことが原因です。
もし、この時(好機)を逃して君(燕の相国)の功績を成し遂げず、害を取り除かずにいたならば、秦の外交方針が変わって斉と手を結び、斉と趙が連合することにでもなれば、彼らが君(燕の相国)を怨む心は必ずや深くなるでしょう。
彼らが君(燕の相国)に怨みを抱き、燕に攻めて来た後で悔やんでも、その時にはもう手遅れです。
君(燕の相国)が燕の全軍を動かして迅速に斉を攻め滅ぼせば、天下の人々は父子の仇を討つかのように君(燕の相国)に従うでしょう。
誠に斉を滅ぼすことができれば、君(燕の相国)を河南の地に封じて万乗*7(の主)とし、中国(中原)への道を切り開いて、南は[穰侯(魏冉)の領地である]陶と隣り合わせにさせ、子々孫々にわたって憂いがないようにいたしましょう。
どうか君(燕の相国)におかれましては、ただ斉を攻めることだけに心を集中させ、他の余計な心配はなさらぬように』
と。このように(燕の相国に)説得するのです。
脚注
*71万台の戦車を持つほどの大国。戦車1乗につき100人の兵士で編成されるため、100万人の兵士を動員できる国。
穰侯(魏冉)の失脚
魏人である范雎は自ら「張禄先生」と名乗り、穰侯(魏冉)が斉を討とうとしたことについて「三晋(韓・趙・魏)を飛び越えて遠方の斉を攻めるのは間違っています」と非難し、この機会を捉えて秦の昭襄王を言葉巧みに説き伏せた。
これにより昭襄王に登用された范雎は、(昭襄王の母である)宣太后が国政を専制し、(宣太后の異父弟である)穰侯(魏冉)が諸侯の間で権力をほしいままにしていること、そして(昭襄王の同母弟である)涇陽君や高陵君らが贅沢を極め、王室よりも富んでいることを(昭襄王に)言上した。
秦の昭襄王は(自身の権力が脅かされていることを)悟り、ついに穰侯(魏冉)の相国の職を免じ、涇陽君の属官たちをみな函谷関から退去させて、それぞれの封地へと赴かせた。
穰侯(魏冉)が関所を出て行く時、彼の輜車(荷物を運ぶための車)千乗余りを数えた。
後に穰侯(魏冉)は陶の地で亡くなり、そのままそこに葬られた。
秦は(魏冉の死後、)再び陶の地を没収して郡とした。
評価
太史公曰
太史公(司馬遷)は言う。
穰侯(魏冉)は、秦の昭襄王の母方の叔父(宣太后の異母弟)である。
秦が東方へ領土を広げて諸侯の力を弱め、天下に「帝」を称して、天下の国々がみな西(秦の方向)を向いて稽首(頭を下げて服従)した理由は、すべて穰侯(魏冉)の功績によるものである。
しかし、彼の貴(地位)が極まり、富が溢れんばかりになった時、一夫(1人の男:范雎)が(昭襄王を)説き伏せたことによって地位を挫かれ、権勢を奪われて、最期は憂いの中で死んでいった。
(王の親族である彼でさえこうなのだから)ましてや、他国からやってきた羈旅の臣(頼るもののない異国の臣下)ならなおさら(悲惨な結末になるの)ではないか!
索隱述贊
穰侯(魏冉)の知恵と見識は、状況の変化に応じて無限に対応できるものであった。
内にあっては(姉の)宣太后を頼りにし、外にあっては(甥の)昭襄王を補佐した。
4度も相(宰相)の位に登り、2度も広大な領地を分け与えられて封じられた。
斉をくじき、楚を屈服させ、魏を破り梁(魏の首都:大梁)を包囲した。
しかし、一夫(1人の男:范雎)が(昭襄王を)説き伏せたことによって、最期は憂いと憤りの中で亡くなった。
出典
- 『史記』穰侯列伝
- 『史記』秦本紀
- 『史記』六国年表
- 『戦国策』秦策3
- 『戦国策』韓策3
- 『戦国策』魏策3
- 『戦国策』魏策4
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