正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧㉘魏冉(ぎぜん)(穣公(じょうこう))です。

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凡例

  • 後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
  • 『戦国策(せんごくさく)』には年代が明記されていません。『戦国策(せんごくさく)』が出典の項目は、時系列を推測で配置していますので、時系列が正確ではない場合があります。

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き㉘

魏冉(穣公)

魏冉(ぎぜん)(穣公(じょうこう))

生没年不詳。秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)の母・宣太后(せんたいごう)の異父弟。

出自

魏冉(ぎぜん)の先祖は楚(そ)人(ひと)で、姓は羋氏(びし)である。

秦(しん)の武王(ぶおう)4年(紀元前307年)に秦(しん)の武王(ぶおう)が亡くなった時、武王(ぶおう)には子がなかったため、その弟が立てられて昭襄王(しょうじょうおう)となった。

昭襄王(しょうじょうおう)の母は、これまで羋八子(びはちし)と呼ばれていたが、昭襄王(しょうじょうおう)が即位するに及んで宣太后(せんたいごう)と呼ばれるようになった。宣太后(せんたいごう)は武王(ぶおう)の母ではなく、武王(ぶおう)の母・恵文后(けいぶんこう)は、武王(ぶおう)より先に亡くなっていた。

宣太后(せんたいごう)には2人の弟がいた。上の弟は異父弟で(穰侯(じょうこう)といい、)姓は魏氏(ぎし)、名は冉(ぜん)。同父弟の下の弟は羋戎(びじゅう)といい、華陽君(かようくん)となった。

また、昭襄王(しょうじょうおう)の同母弟には高陵君(こうりょうくん)と涇陽君(けいようくん)がいたが、これらのうちで魏冉(ぎぜん)が最も賢明であり、恵王(けいおう)・武王(ぶおう)の時代から官職に就(つ)いて実務を執(と)っていた。

昭襄王を擁立する

秦(しん)の武王(ぶおう)が亡くなった時、弟たちはその後継者の地位をめぐって争ったが、ただ魏冉(ぎぜん)だけがその力によって昭襄王(しょうじょうおう)を立てることができたのである。

昭襄王(しょうじょうおう)が即位すると、昭襄王(しょうじょうおう)は魏冉(ぎぜん)を将軍(しょうぐん)に任命して(秦(しん)の首都・)咸陽(かんよう)を守らせた。


秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)2年(紀元前305年)、魏冉(ぎぜん)は「季君(きくん)の乱(武王(ぶおう)の弟・公子(こうし)壮(そう)の反乱)」を鎮圧して首謀者らを誅殺(ちゅうさつ)し、武王(ぶおう)の后(きさき)を追放して魏(ぎ)国へ送り出し、昭襄王(しょうじょうおう)の兄弟たちの中で従順でない者をすべて滅ぼしたので、その威名は秦(しん)国中に轟(とどろ)いた。

昭襄王(しょうじょうおう)がまだ若かったため、宣太后(せんたいごう)が自(みずか)ら政治を行い、魏冉(ぎぜん)を任用して国政を執(と)らせた。

秦の宰相となる

秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)7年(紀元前300年)、(秦(しん)の名宰相(さいしょう)であった)樗里子(ちょりし)が亡くなると、秦(しん)は(昭襄王(しょうじょうおう)の同母弟である)涇陽君(けいようくん)を人質として斉(せい)国へ送り込んだ。


秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)10年(紀元前297年)、趙(ちょう)人(ひと)の楼緩(ろうかん)がやって来て秦(しん)の相(しょう)(宰相(さいしょう))となったが、これは趙(ちょう)国にとっては不都合であったので、趙(ちょう)は仇液(きゅうえき)を秦(しん)へ派遣して、魏冉(ぎぜん)を秦(しん)の相(しょう)(宰相(さいしょう))とするように要請することにした。

仇液(きゅうえき)が出発しようとした時、その食客(しょっかく)である宋公(そうこう)が仇液(きゅうえき)に次のように言った。


「もし秦(しん)が(魏冉(ぎぜん)を宰相(さいしょう)にするという)公(あなた)の提案を聞き入れなければ、(秦(しん)の宰相(さいしょう)であり続ける)楼緩(ろうかん)は必ずや公(あなた)を怨(うら)むでしょう。

ですから公(あなた)は楼緩(ろうかん)に『公(あなた)(楼緩(ろうかん))のために、秦(しん)に(魏冉(ぎぜん)を宰相(さいしょう)にする件を)強く要求するようなことはいたしません』と言うのです。

秦王(しんおう)(昭襄王(しょうじょうおう))は、趙(ちょう)国が魏冉(ぎぜん)を宰相(さいしょう)にすることを求めている割には、あまり熱心でない様子を見れば、きっと公(あなた)の提案を聴(き)き入れないでしょう。

そうなれば、公(あなた)の(魏冉(ぎぜん)を宰相(さいしょう)にするという)任務は失敗に終わりますが、楼緩(ろうかん)には恩を売ることができます。そして逆にもし、事が成(な)って魏冉(ぎぜん)が宰相(さいしょう)になったなら、魏冉(ぎぜん)は公(あなた)に恩を感じることでしょう」


そこで仇液(きゅうえき)がこの助言に従ったところ、秦(しん)は果たして楼緩(ろうかん)を罷免(ひめん)して魏冉(ぎぜん)を秦(しん)の相(しょう)(宰相(さいしょう))に任命した。秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)12年(紀元前295年)のことである。


秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)13年(紀元前294年)、魏冉(ぎぜん)は呂礼(りょれい)を誅殺(ちゅうさつ)しようとしたが、呂礼(りょれい)は斉(せい)へ逃亡した。

『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3

薛公(せつこう)、魏(ぎ)の為に魏冉(ぎぜん)に謂(い)う(魏冉(ぎぜん)が呂礼(りょれい)を誅殺(ちゅうさつ)しようとした経緯)

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(斉(せい)を追われ魏(ぎ)の宰相(さいしょう)となっていた)薛公(せつこう)(孟嘗君(もうしょうくん):田文(でんぶん))が、魏(ぎ)のために魏冉(ぎぜん)に言った。


「文(わたし)が聞くところによると『秦王(しんおう)(昭襄王(しょうじょうおう))は呂礼(りょれい)一人を秦(しん)・斉(せい)両国の相(しょう)(宰相(さいしょう))とすることで斉(せい)を取り込み、それによって天下を思い通りに動かそうとしている』とのことです。そうなれば、必ずや君(あなた)(魏冉(ぎぜん))は軽(かろ)んぜられるようになるでしょう*1。

そして、斉(せい)と秦(しん)が手を結んで三晋(さんしん)(韓(かん)・趙(ちょう)・魏(ぎ))に圧力をかけることになれば、呂礼(りょれい)は必ずや両国の相(しょう)(宰相(さいしょう))を兼任することになります。これでは、君(あなた)(魏冉(ぎぜん))の斉(せい)を取り込もうとする行為が、かえって呂礼(りょれい)の地位を重くする結果になってしまいます。

しかも、(秦(しん)と手を結ぶことで)斉(せい)は天下の兵から攻められる危険を免(まぬか)れることになるため、(過去に斉(せい)を追い詰(つ)めた)君(あなた)(魏冉(ぎぜん))への怨(うら)みはさらに深くなるでしょう。

君(あなた)(魏冉(ぎぜん))は秦王(しんおう)(昭襄王(しょうじょうおう))を説得して、弊邑(へいゆう)(魏(ぎ))に斉(せい)を攻撃させるよう仕向けるべきです。

もし斉(せい)を打ち破ることができれば、文(わたし)は斉(せい)から手に入れた領地を割譲(かつじょう)し、君(あなた)(魏冉(ぎぜん))の封邑(ほうゆう)とすることを約束しましょう。

斉(せい)を破ったことで晋(しん)(韓(かん)・趙(ちょう)・魏(ぎ))が強くなれば、秦王(しんおう)(昭襄王(しょうじょうおう))は晋(しん)の強大化を畏(おそ)れ、必ずや君(あなた)(魏冉(ぎぜん))を重用して晋(しん)を抑(おさ)えようとなさるでしょう。

また、斉(せい)が弊邑(へいゆう)(魏(ぎ))に領地を差し出して秦(しん)に対抗しようとしても、(秦(しん)の攻撃を)持ちこたえられなくなれば、晋(しん)は秦(しん)に仕えるために君(あなた)(魏冉(ぎぜん))を頼り、重んじるようになります。

これこそが、君(あなた)(魏冉(ぎぜん))が斉(せい)を破って功績を立て、晋(しん)を手の内に握(にぎ)って自身の権力を重くする方法なのです。

斉(せい)を破って領地を確定させれば、秦(しん)も晋(しん)(韓(かん)・趙(ちょう)・魏(ぎ))もみな君(あなた)(魏冉(ぎぜん))を重んじます。ですが、もし斉(せい)を破ることができず、再び呂礼(りょれい)が重用されるようなことにでもなれば、君(あなた)(魏冉(ぎぜん))は完全に追い詰(つ)められてしまうでしょう」

脚注

*1原文:文聞秦王欲一呂禮收齊,以濟天下,君必輕矣。

白起を推挙する

秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)14年(紀元前293年)、魏冉(ぎぜん)は白起(はくき)を推挙し、向寿(しょうじゅ)に代えて将とすると、韓(かん)・魏(ぎ)を攻撃させた。その結果、(白起(はくき)は)伊闕(いけつ)でこれを破り、斬首24万人、魏(ぎ)の将・公孫喜(こうそんき)を捕虜にして5つの城を攻め落とした。


その翌年[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)15年(紀元前292年)]、大良造(だいりょうぞう)となった白起(はくき)が魏(ぎ)を攻撃して垣(えん)を攻め取ったが、後(のち)にこれを魏(ぎ)に返還した。また、楚(そ)を攻撃して宛(えん)と葉(しょう)の地を攻め取った。

『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3

秦(しん)が楚(そ)を破れば、秦(しん)は斉(せい)と勢力を均衡(きんこう)させることができなくなる。

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(ある者が)魏冉(ぎぜん)に言った。


「もし秦(しん)が楚(そ)を打ち破ってしまえば、(もう1つの大国である)斉(せい)と勢力を均衡(きんこう)させることができなくなります。

秦(しん)は3代にわたって韓(かん)・魏(ぎ)に怨恨(えんこん)を積み重ねてきましたが、(今、)斉(せい)は韓(かん)・魏(ぎ)に恩徳を施(ほどこ)し始めております。斉(せい)と秦(しん)が争い、韓(かん)・魏(ぎ)が東の斉(せい)の言うことを聞くようになれば、秦(しん)は孤立して攻撃を受けることになります。

斉(せい)には東国に四方千理に及ぶ(豊かな)土地があります。また、楚(そ)は九夷(きゅうい)(9つの異民族が住む広大な地域)を内包しており、こちらも四方千里に及び、南には符離(ふり)の塞(とりで)が、北には甘魚(かんぎょ)の河口があります。

(秦(しん)は)宋(そう)や衛(えい)を天秤(てんびん)に縣(か)け(、その影響下に置こうとし)ていますが、宋(そう)や衛(えい)などは(斉(せい)や楚(そ)から見れば)桑阿(そうあ)や甄(しん)といった小さな一地方にすぎない存在です。

(楚(そ)には)四方千里の利益をもたらす土地が2つもあり、かつて越(えつ)が支配していた豊かな土地を単独でほしいままにしています。(そんな強大な楚(そ)が没落してしまったら、)秦(しん)はどうして斉(せい)との均衡(きんこう)を保(たも)ちながら、韓(かん)・魏(ぎ)を従え続けることができるでしょうか。

また、(楚(そ)の)方城(ほうじょう)の肥沃(ひよく)な土地を切り取って分け合い、鄭(てい)の国境にまで迫るような(大それた)ことができるでしょうか?(いえ、到底できるはずがありません)

(楚(そ)が)兵を休めて再起したならば、秦(しん)に大打撃を与えるために斉(せい)の参戦を待つまでもありません。(ゆえに楚(そ)を徹底的に叩き潰(つぶ)してはならないのです)」

穰侯と呼ばれる*2

魏冉(ぎぜん)は病気を理由に辞職を願い出て相(しょう)(宰相(さいしょう))の職を免じられ、客卿(かくけい)(他国から招かれた高官)の寿燭(じゅしょく)が代わって相(しょう)(宰相(さいしょう))となった。

その翌年[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)16年(紀元前291年)]、[寿燭(じゅしょく)が罷免(ひめん)されると、再び魏冉(ぎぜん)が相(しょう)(宰相(さいしょう))となり、*3]魏冉(ぎぜん)は穰(じょう)の地に封ぜられ、さらに陶(とう)の地を増封されて、「穰侯(じょうこう)」と呼ばれるようになった。

『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3

魏冉(ぎぜん)の封地を盤石(ばんじゃく)にする策。

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(ある者が)魏冉(ぎぜん)に言った。


「君(あなた)のために確固たる封地を確立するための策を申し上げます。

もし今そのまま宋(そう)の犯した罪を許してしまえば、隣国である斉(せい)の怒りを買うことになるでしょう。

それよりも、乱れた宋(そう)の国を徹底的に攻撃して打ち砕(くだ)き、強国である斉(せい)に恩を売ることで、ご自身の封地を盤石(ばんじゃく)にさせるべきです。

これこそ、百世の時(百世代に1度訪(おとず)れるかどうかの絶好の好機)なのです!」

脚注

*2『史記(しき)』秦本紀(しんほんぎ)では、魏冉(ぎぜん)の免職も秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)16年(紀元前291年)とする。ここでは『史記(しき)』穰侯列伝(じょうこうれつでん)と『史記(しき)』六国年表(りっこくねんぴょう)の記述に従って、魏冉(ぎぜん)の免職を秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)15年(紀元前292年)とした。

*3[]内は『史記(しき)』穰侯列伝(じょうこうれつでん)の本文(原文:其明年,燭免,復相冉,乃封魏冉於穰,復益封陶,號曰穰侯)であるが、『史記(しき)』秦本紀(しんほんぎ)にその記述はない(原文:十六年,左更錯取軹及鄧。冉免,封公子市宛,公子悝鄧,魏冉陶,為諸侯)。
ここに記述されている魏冉(ぎぜん)の相(しょう)(宰相(さいしょう))再任は、秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)19年(紀元前288年)の再任と同一の事柄であると考えると、秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)19年(紀元前288年)に、罷免(ひめん)されてもいないのに相(しょう)(宰相(さいしょう))に再任されていることの辻褄(つじつま)が合う。

魏冉の栄華

穰(じょう)の地に封ぜられてから4年の間に、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は秦(しん)の将として魏(ぎ)を攻撃し、[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)17年(紀元前290年)、]魏(ぎ)は河東(かとう)の地400里を割譲(かつじょう)して献上したが、さらに[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)18年(紀元前289年)、]魏(ぎ)の河内(かだい)の地を攻め落とし、大小60余りの城を奪い取った。


秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)19年(紀元前288年)、秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)は「西帝(せいてい)」と称し、斉(せい)の湣王(びんおう)は「東帝(とうてい)」と称したが、1ヶ月余りして(斉(せい)から)呂礼(りょれい)が派遣され(、斉(せい)が帝号を返上したことを知)ると、秦(しん)も帝号を返上して元の「王(おう)」に戻した。

この年、魏冉(ぎぜん)は再び秦(しん)の相(しょう)(宰相(さいしょう))となったが、6年後[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)24年(紀元前283年)]に罷免(ひめん)され、その2年後[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)26年(紀元前281年)]にまた秦(しん)の相(しょう)(宰相(さいしょう))となった。

『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3

東方の噂。(魏冉(ぎぜん)が罷免(ひめん)されていた時のことと思われる)

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ある者が魏(ぎ)のために魏冉(ぎぜん)に説(と)いて言った。

ある者「公(あなた)は東方の国々で交(か)わされている噂をお聞きになりましたか?」

魏冉(ぎぜん)「いや、聞いていない」

そこである者は言った。


「(東方の遊説(ゆうぜい)の士である)辛(しん)、張陽(ちょうよう)、毋沢(ぶたく)の3人が、魏王(ぎおう)、薛公(せつこう)(孟嘗君(もうしょうくん):田文(でんぶん))、公叔(こうしゅく)に説(と)いて、こう言っています。


『臣(わたくし)(ども)が戦うにあたっては、先祖の位牌(いはい)を戦車に載(の)せて決死の覚悟を示し、敗れた際には国(領土)を割譲(かつじょう)するという誓約書を交(か)わして、王(おう)(魏王(ぎおう))と固い約束を結んでおりますので、王(おう)(魏王(ぎおう))がご心配なされているような事態(敗北や裏切り)は、決して起こり得ません。

もしこれを失敗させるような者がいたならば、臣(わたくし)(ども)は((自(みずか)ら)首を刎(は)ねられることを願い出ます。

しかしながら、臣(わたくし)(ども)には非常に心配なことがございます。

それは、楚王(そおう)が国を挙(あ)げて冉(ぜん)(魏冉(ぎぜん))を頼りとし、臣(わたくし)(ども)の主(魏(ぎ))に仕えようとしていることです。これこそが、臣(わたくし)(ども)が最も恐れていることなのです』

と。


今、公(あなた)が東方へ出て楚(そ)に働きかければ、それは張儀(ちょうぎ)の言葉を聖王・禹(う)の言葉のように持ち上げることになり、結果として公(あなた)自身の事業を台無しにするようなものです。

公(あなた)は、ご自分の領国(陶邑(とうゆう))へお帰りになり、楚(そ)に恩義を施(ほどこ)した上で、薛公(せつこう)(孟嘗君(もうしょうくん):田文(でんぶん))が公(あなた)のために(どのように動くか)様子を見るほうが得策です。

そうして三国(斉(せい)・魏(ぎ)・韓(かん))が秦(しん)に要求しても得られなかったものを、公(あなた)が三国の代わりに秦(しん)に請求してやり、その恩をもって三国に号令し、公(あなた)への信頼を築くのです。

そして、張陽(ちょうよう)(原文は張儀(ちょうぎ))や毋沢(ぶたく)が薛公(せつこう)に求めても得られなかったものを、公(あなた)が(薛公(せつこう)に)請求することで、公(あなた)自身の重みを増すべきです」


その4年後[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)29年(紀元前278年)]、魏冉(ぎぜん)は白起(はくき)を派遣して楚(そ)の首都・郢(えい)を攻め落とさせ、秦(しん)はその地に南郡(なんぐん)を置き、白起(はくき)を封じて「武安君(ぶあんくん)」とした。

白起(はくき)は穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))が推挙して登用されたことから、2人の仲は非常に親密であった。こうして穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))の富は秦(しん)の王室よりも豊かになった。

魏の大夫・須賈の説得

秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)32年(紀元前275年)、相国(しょうこく)となった穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は兵を率(ひき)いて魏(ぎ)を攻撃し、魏(ぎ)の将・芒卯(ぼうぼう)を敗走させ、北宅(ほくたく)に進入して、ついに(魏(ぎ)の首都・)大梁(たいりょう)を包囲した。

すると梁(りょう)(魏(ぎ))*4の大夫(たいふ)である須賈(しゅか)は、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))を説得して言った。


「堅城な大梁(たいりょう)を力攻めすれば、秦(しん)軍は疲弊(ひへい)してあなたのこれまでの功績を失うことになるでしょう。

もし、魏(ぎ)が楚(そ)・趙(ちょう)の援軍を得る前に、わずかな土地の割譲(かつじょう)で講和を受け入れれば、秦(しん)は兵を損(そこ)なわずに実利を得ることができ、さらに魏(ぎ)の単独講和に怒った楚(そ)や趙(ちょう)も、競(きそ)って秦(しん)に臣従するようになるでしょう」


これを聞いた穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は「もっともだ」と言い、大梁(たいりょう)の包囲を解(と)いて引き揚(あ)げた。

魏(ぎ)の大夫(たいふ)・須賈(しゅか)の説得・全文
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臣(わたくし)は魏(ぎ)の長吏(ちょうり)(役人)が、魏王(ぎおう)(安釐王(あんきおう))にこう言ったと聞いております。


「昔、梁(りょう)(魏(ぎ))*4の恵王(けいおう)が趙(ちょう)を討(う)ち、三梁(さんりょう)で勝利して(趙(ちょう)の首都・)邯鄲(かんたん)を占領しましたが、趙氏(ちょうし)(趙(ちょう)国)が土地を割譲(かつじょう)しなかったため、邯鄲(かんたん)は再び趙(ちょう)に戻りました。

また、斉(せい)人(ひと)が衛(えい)を攻撃し、(衛(えい)の)旧都を占領して子良(しりょう)を殺しましたが、衛(えい)人(ひと)が領土を割譲(かつじょう)しなかったため、旧地は再び衛(えい)に戻りました。

趙(ちょう)や衛(えい)が(大打撃を受けながらも)国を滅ぼされずに全(まっと)うして軍隊の強さを保(たも)ち、その領土を諸侯(しょこう)(強国)に併合されずに済んだ理由は、彼らが苦難に耐え忍(しの)び、(安易(あんい)に)土地を手放さなかったからに他なりません。

逆に宋(そう)や中山国(ちゅうざんこく)は、何度も攻撃されてはそのたびに土地を割譲(かつじょう)したため、国はそれに伴(ともな)って滅亡しました。

臣(わたくし)は、衛(えい)や趙(ちょう)を手本とし、宋(そう)や中山(ちゅうざん)を戒(いまし)めとすべきだと存じます。

秦(しん)は強欲で道理に外(はず)れた国であり、親(した)しむべき国ではありません。魏氏(ぎし)(魏(ぎ)国)の領土を蚕食(さんしょく)(侵食)し、さらにかつての晋(しん)国(韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう))の領土を奪い尽くそうとしています。

先だっては(魏(ぎ)の救援に向かった韓(かん)の将・)暴子(ぼうし)(暴鳶(ぼうえん))を破って(魏(ぎ)から)8県を割譲(かつじょう)させましたが、その土地がまだ完全に秦(しん)の手に渡る前に、またもや兵を出してきました。秦(しん)の強欲には際限がありません!

今また芒卯(ぼうぼう)を敗走させ、北宅(ほくたく)に進入しましたが、これは本気で梁(りょう)(魏(ぎ))*4を攻め落とそうとしているのではなく、王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))を脅迫して、さらに多くの土地を割譲(かつじょう)させようとしているだけです。王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))は決してその要求を聞き入れてはなりません。

もし今、王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))が(同盟国である)楚(そ)や趙(ちょう)に背(そむ)いて秦(しん)と講和すれば、楚(そ)と趙(ちょう)は怒って王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))から離れ、王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))と競(きそ)うようにして秦(しん)に仕えるでしょう。そうなれば、秦(しん)は必ず彼らを受け入れます。

そして秦(しん)が、楚(そ)や趙(ちょう)の兵を従えて再び梁(りょう)(魏(ぎ))*4を攻撃したならば、国を滅亡から救うことできません。

王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))よ、どうか絶対に講和なさらないでください。もしどうしても講和したいのであれば、わずかな土地を割譲(かつじょう)するに留(とど)め、(秦(しん)から)人質を取ってください。そうでなければ、必ずや(秦(しん)に)欺(あざむ)かれます」

と。


これが、臣(わたくし)が魏(ぎ)(の宮廷)で聞いたことでございます。どうか君(あなた)には、このことを踏(ふ)まえて今後の処置をお考えいただきたいのです。


『周書(しゅうしょ)』に『天命は一定不変ではない』とあり、これが意味するところは『偶然の幸運は何度も続かない』ということです。

(秦(しん)が)かつて暴子(ぼうし)(暴鳶(ぼうえん))に勝って8県を割譲(かつじょう)させたのは、兵力が精鋭だったからでもなく、計略が巧(たく)みだったからでもありません。天の幸運が多かっただけです。

今また芒卯(ぼうぼう)を敗走させて北宅(ほくたく)に進入し、大梁(たいりょう)を攻撃しようとしていますが、これは『天の幸運が常に自分の味方である』と思い込んでいるようなものです。智者はそのようなことはいたしません。


臣(わたくし)が聞くところによると、魏氏(ぎし)(魏(ぎ)国)は百県(すべての県)の精鋭を動員して大梁(たいりょう)を守らせており、その数は30万を下らないとのことです。

30万の軍勢で大梁(たいりょう)の七仞(しちじん)*5の城を守るとなれば、たとえ[放伐(ほうばつ)(武力による王朝交代)を成功させた](殷(いん)の)湯王(とうおう)や(周(しゅう)の)武王(ぶおう)が蘇(よみがえ)ったとしても、簡単に攻め落とせるものではありません。

楚(そ)や趙(ちょう)の兵を軽々しく敵に回して七仞(しちじん)*5の城を侮(あなど)り、30万もの大軍を相手に戦って、『必ず攻め落とすことができる』と考えるなど、臣(わたくし)は天地が分かれてから今日に至るまで、一度も聞いたことがありません。

もし攻撃を敢行(かんこう)して攻め落とせなければ、秦(しん)兵は必ず疲弊(ひへい)し、(あなたの領地である)陶邑(とうゆう)は必ず滅び、これまでの功績はすべて水泡(すいほう)に帰すでしょう。


幸(さいわ)い魏氏(ぎし)(魏(ぎ)国)は今、どうすべきかを迷い疑っております。今のうちなら、わずかな土地の割譲(かつじょう)で矛(ほこ)を収めることができます。

どうか楚(そ)や趙(ちょう)の救援軍が梁(りょう)(魏(ぎ))*4に到着する前に、急いでわずかな土地の割譲(かつじょう)で魏(ぎ)と講和してください。

魏(ぎ)も迷っている最中ですので、わずかな土地の割譲(かつじょう)で済むのなら好都合と考え、必ずや要求を受け入れるでしょう。そうすれば、君(あなた)は望むものを手に入れることができます。

また、楚(そ)と趙(ちょう)は「魏(ぎ)が自分たちを出し抜いて先に秦(しん)と講和したこと」に怒り、必ずや競(きそ)って秦(しん)に仕えるようになるでしょう。

そうなれば(秦(しん)に対抗する)合従(がっしょう)(同盟)は崩壊します。そうなった後で、君(あなた)は有利な相手を選べばよいのです。


それに君(秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう))が土地を手に入れるために、どうして必ずしも兵を用(もち)いる必要があるでしょうか!

(魏(ぎ)の領内にある)かつての晋(しん)国の土地を孤立させれば、秦(しん)の兵が攻撃せずとも、魏(ぎ)は必ず絳(こう)や安邑(あんゆう)を差し出します。

また、君(あなた)の領地である陶(とう)のために2つの交易路を開いて、かつての宋(そう)の領土の大半を手中に収(おさ)めれば、衛(えい)は必ず単父(ぜんほ)を差し出します。

そうなれば、秦(しん)は兵力を完全に保(たも)ったまま、君(あなた)が天下を制することができます。求めて得られず、行って成功しないことがありましょうか!

どうか君(あなた)におかれましては、熟慮(じゅくりょ)なさって危険な行動はなさらないようお願いいたします」

『戦国策(せんごくさく)』魏策(ぎさく)3

上記「須賈(しゅか)の説得」の原典

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秦(しん)は華(か)の地で魏(ぎ)を破り、(魏(ぎ)の将・)芒卯(ぼうぼう)を敗走させて、(魏(ぎ)の首都・)大梁(たいりょう)を包囲した。

須賈(しゅか)は魏(ぎ)のために穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))に向かって次のように言った。

「臣(わたくし)が聞くところによりますと、魏氏(ぎし)(魏(ぎ))の大臣や王(おう)の父兄(一族の長老たち)は、皆一様に魏王(ぎおう)へ次のように進言しているそうです。


『かつて恵王(けいおう)の時代、(魏(ぎ)は)趙(ちょう)を討(う)って三梁(さんりょう)で勝利し、10万の軍勢で(趙(ちょう)の首都・)邯鄲(かんたん)を攻め落としましたが、趙氏(ちょうし)(趙(ちょう)国)が土地を割譲(かつじょう)しなかったため、邯鄲(かんたん)は再び趙(ちょう)に戻りました。

また、斉(せい)人(ひと)が燕(えん)を攻めた際も、子之(しし)を殺してその旧都を打ち破りましたが、燕(えん)が領土を割譲(かつじょう)しなかったため、燕(えん)の国は元通りに復興しました。

燕(えん)や趙(ちょう)が(大打撃を受けながらも)国を滅ぼされずに軍隊の強さを保(たも)ち、その領土を諸侯(しょこう)(強国)に併合されずに済んだ理由は、彼らが苦難に耐え忍(しの)び、(安易(あんい)に)土地を手放さなかったからに他なりません。

逆に宋(そう)や中山国(ちゅうざんこく)は、何度も攻撃されてはそのたびに土地を割譲(かつじょう)したため、国はそれに伴(ともな)って滅亡しました。

臣(わたくし)は、衛(えい)や趙(ちょう)を手本とし、宋(そう)や中山(ちゅうざん)を戒(いまし)めとすべきだと存じます。

そもそも秦(しん)は貪欲(どんよく)で冷酷(れいこく)な国であり、他国と親義を結ぶような情など持ち合わせておりません。蚕(かいこ)が桑(くわ)の葉を食うように少しずつ侵略し、かつての晋(しん)国(韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう))の領土を奪い尽くそうとしています。

先だっては(魏(ぎ)の救援に向かった韓(かん)の将・)暴子(ぼうし)(暴鳶(ぼうえん))を破って(魏(ぎ)から)8県を割譲(かつじょう)させましたが、その土地がまだ完全に秦(しん)の手に渡る前に、またもや兵を出してきました。秦(しん)の強欲には際限がありません!

今また芒卯(ぼうぼう)を敗走させ、北宅(ほくたく)に進入しましたが、これは本気で梁(りょう)(魏(ぎ))*4を攻め落とそうとしているのではなく、王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))を脅迫して、さらに多くの土地を割譲(かつじょう)させようとしているだけです。王(おう)(魏(ぎ)の安釐王(あんきおう))は決してその要求を聞き入れてはなりません。

今、王(おう)(魏王(ぎおう))が楚(そ)・趙(ちょう)との同盟を無視して単独で秦(しん)と和平を結んでしまえば、楚(そ)・趙(ちょう)は激怒し、王(おう)(魏王(ぎおう))に負けじと競って秦(しん)に仕えるようになるでしょう。そして秦(しん)は間違いなくそれを受け入れます。

そして、秦(しん)が楚(そ)・趙(ちょう)の兵を従えて再び(魏(ぎ)に)攻めて来たならば、もはや国を滅亡から救うことはできません。

どうか王(おう)(魏王(ぎおう))よ、決して安易に講和なさらないでください。もしどうしても講和したいのであれば、わずかな土地を割譲(かつじょう)するに留(とど)め、(秦(しん)から)人質を取ってください。そうでなければ、必ずや(秦(しん)に)欺(あざむ)かれます』


これが、臣(わたくし)が魏(ぎ)(の宮廷)で聞いたことでございます。どうか君(あなた)には、このことを踏(ふ)まえて今後の処置をお考えいただきたいのです。

『戦国策(せんごくさく)』魏策(ぎさく)4

大梁(たいりょう)(魏(ぎ))を攻めた穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))に言う。

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穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))が大梁(たいりょう)(魏(ぎ))を攻め、(楚(そ)の)北郢(ほくえい)を圧倒したため、魏(ぎ)は(秦(しん)に降伏して)従おうとしていた。

ある者が穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))に言った。


「君(あなた)は楚(そ)を攻めて宛(えん)や穰(じょう)を手に入れ、(ご自身の領地である)陶(とう)を広げました。また、斉(せい)を攻めて剛(ごう)や博(はく)を手に入れ、陶(とう)を広げました。そしてさらに、(魏(ぎ)の)許(きょ)や鄢陵(えんりょう)を手に入れて、陶(とう)を広げました。

それなのに、秦王(しんおう)(昭襄王(しょうじょうおう))が(得た領土を国に返せと言わず、)不問(ふもん)に付(ふ)してきたのは何故だと思われますか?

それは大梁(たいりょう)(魏(ぎ))が滅びていないからです。(魏(ぎ)という大きな敵が残っているからこそ、秦王(しんおう)は君(あなた)を必要とし、これまで大目にみてきたのです)

もし今日、大梁(たいりょう)(魏(ぎ))が屈服してしまえば、(君(あなた)が私物化している)許(きょ)や鄢陵(えんりょう)の領有について、必ずや議論が起こるでしょう。そうなれば、君(あなた)が窮地(きゅうち)に追い込まれることは必定(ひつじょう)です。

君(あなた)のために計(はか)るならば、大梁(たいりょう)(魏(ぎ))を攻めないでおくことこそが、得策であると存じます」

『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3

白起(はくき)への警戒を促(うなが)す。

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(ある者が)魏冉(ぎぜん)に言った。


「和平交渉が成立しなければ、必ずや軍を出すことになりますが、その際、白起(はくき)が副将となるでしょう。

戦いに勝てば、白起(はくき)は必ずや公(あなた)を(政治的に)追い詰(つ)めるでしょう。もし負ければ、白起(はくき)は必ずや趙(ちょう)に仕えて公(あなた)を従わせるでしょう。

(どちらに転んでも)公(あなた)の立場は軽(かろ)んじられて(危(あや)うく)なります。公(あなた)はこれ以上、多くを交渉しようとせず、速(すみ)やかに帰還するに越したことはありません」

脚注

*5「仞(じん)」は古代中国における長さ・高さ・深さの単位。1仞(じん)は「大人が両手を左右に広げた長さ」であり、「七仞(しちじん)」は非常に高い、または非常に深い様子をあらわし、ここでは「非常に高い城壁」を意味する。


ところがその翌年[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)33年(紀元前274年)]、魏(ぎ)は秦(しん)に背(そむ)き、斉(せい)と合従(がっしょう)(同盟)して親交を深めた。

そこで秦(しん)は穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))を派遣して魏(ぎ)を討(う)たせ、斬首4万人、魏(ぎ)の将・暴鳶(ぼうえん)を敗走させ、魏(ぎ)の3つの県を奪い取った*6。

この功績により、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))はさらに封邑(ほうゆう)を加増された。

脚注

*4原文:梁大夫須賈說穰侯曰:
梁(りょう)は魏(ぎ)の別称。魏(ぎ)は魏(ぎ)の恵王(けいおう)の時代に都を安邑(あんゆう)から大梁(たいりょう)に移して以後、大梁(たいりょう)にちなんで「梁(りょう)」とも称された。そのため、ここでいう「梁(りょう)大夫(たいふ)」は「魏(ぎ)の大夫(たいふ)・須賈(しゅか)」を意味する。なお、この時期の魏(ぎ)の正式な国名が「梁(りょう)」に改められていたわけではない。

*6『史記(しき)』秦本紀(しんほんぎ)には、秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)32年(紀元前275年)に、この(『史記(しき)』穰侯列伝(じょうこうれつでん)の)秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)33年(紀元前274年)の内容が記載されている。そのため翌年の「華陽(かよう)の戦い」は秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)33年(紀元前274年)になっている。

華陽の戦い

その翌年[秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)34年(紀元前273年)]、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は白起(はくき)や客卿(かくけい)の胡陽(こよう)と共に再び趙(ちょう)・韓(かん)・魏(ぎ)の3国を攻め、華陽(かよう)の麓(ふもと)で(魏(ぎ)の将・)芒卯(ぼうぼう)を破り、斬首10万人、魏(ぎ)の巻(けん)・蔡陽(さいよう)・長社(ちょうしゃ)、および趙(ちょう)の観津(かんしん)を奪い取った。

『戦国策(せんごくさく)』韓策(かんさく)3

趙(ちょう)・魏(ぎ)が(韓(かん)の)華陽(かよう)を攻める。

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趙(ちょう)と魏(ぎ)が(韓(かん)の領地である)華陽(かよう)を攻撃したため、韓(かん)は秦(しん)に緊急の救援を求め、冠蓋(かんかい)(使者の馬車)が途切れることなくやって来たが、秦(しん)は救いの手を差し伸べようとはしなかった。

そこで韓(かん)の相国(しょうこく)は田苓(でんれい)に言った。

「事態は極(きわ)めて差し迫(せま)っている。どうか公(あなた)には、病(やまい)の身を押してでも、急ぎ(一晩で)秦(しん)へ行ってはもらえないだろうか」


こうして田苓(でんれい)は秦(しん)に赴(おもむ)き穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))と会見した。

穰侯(じょうこう)「韓(かん)はそこまで危急の状況なのか? なぜわざわざ他国にいる公(あなた)を使者として寄越(よこ)したのだ?」

田苓(でんれい)「まだ危急ではございません」

穰侯(じょうこう)「公(あなた)はどのようなつもりで韓王(かんおう)の使者を務(つと)めているのか! 冠蓋(かんかい)(使者の馬車)が引きも切らずやって来て、弊邑(へいゆう)(秦(しん))に急を告げているというのに、公(あなた)は『まだ急ではない』と言う。これは一体、どういうことか?」

田苓(でんれい)「もし本当に韓(かん)が(限界まで追い詰(つ)められて)『急』となったなら、韓(かん)は方針を変えているはずです。(方針を変えて趙(ちょう)・魏(ぎ)と手を結び、共に秦(しん)を攻める側に回るしかなくなります。そうなる前だからこそ、まだ『急』ではないと申し上げたのです)」

するとその言葉の意図を悟(さと)った穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は、

「公(こう)(田苓(でんれい))よ、わざわざ王(おう)(昭襄王(しょうじょうおう))に謁見(えっけん)する必要はない。臣(わたし)が今すぐ兵を発して韓(かん)を救うように命じよう」

と言うと、わずか8日のうちに華陽(かよう)の麓(ふもと)で趙(ちょう)・魏(ぎ)の軍を大破した。

蘇代の説得

その後、[穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は]そのまま趙(ちょう)に観津(かんしん)を返還し、さらに趙(ちょう)の兵力を増強してやって、(共同で)斉(せい)を討(う)とうとした。

斉(せい)の襄王(じょうおう)は恐れ、蘇代(そだい)を派遣して、斉(せい)のために内密に穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))へ書簡を送らせた。

その中で蘇代(そだい)は、5つの理由を挙(あ)げて「秦(しん)は絶対に、趙(ちょう)に4万の兵を貸し与えて斉(せい)を討(う)つようなことはしない」と断言した。

これを受け、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は(斉(せい)への侵攻を)中止し、兵を率(ひき)いて秦(しん)国へ引き揚(あ)げた。

蘇代(そだい)の書簡・全文
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臣(わたくし)は、行き交(か)う人々が『秦(しん)は趙(ちょう)に4万の兵を増強して斉(せい)を討(う)たせようとしている』と言っているのを聞き、密(ひそ)かに敝邑(へいゆう)の王(おう)(斉(せい)の襄王(じょうおう))に、

「秦王(しんおう)(秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう))は賢明で計略(外交戦略)に熟知しており、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は智恵者で政務に慣れておられます。ですから、絶対に趙(ちょう)に4万の兵を貸し与えて斉(せい)を討(う)つようなことはなされないでしょう」

と断言いたしました。

それはなぜか?


そもそも三晋(さんしん)(韓(かん)・趙(ちょう)・魏(ぎ))の国々は互いに親密ですが、秦(しん)にとっては深い仇敵(きゅうてき)です。彼らは百度も裏切り、百度も欺(あざむ)き合ってきましたが、それを不誠実とも不品行とも思っておりません。

今、斉(せい)を打ち破ることは、趙(ちょう)を肥(こ)え太らせるだけです。趙(ちょう)は秦(しん)の深い仇敵(きゅうてき)であり、(趙(ちょう)が強くなることは)秦(しん)にとって利益になりません。これが第1の理由です。


秦(しん)の謀者(策士)たちは、必ずや『斉(せい)を破ることで、(共に戦う)三晋(さんしん)や楚(そ)を疲弊(ひへい)させ、その後に疲弊(ひへい)した三晋(さんしん)や楚(そ)を制圧するのだ』と言うでしょう。

そもそも斉(せい)は、すでに罷国(ひこく)(疲弊(ひへい)しきった国)です。天下の兵を挙(あ)げて斉(せい)を攻めるのは、まるで千鈞(せんきん)(超重量)の弩(ど)(強弓)で、今にも潰(つぶ)れかかった癕(よう)(腫(は)れ物)を撃ち抜くようなもので、斉(せい)は必ずや(瞬(またた)く間に)滅びるでしょう。

(斉(せい)との戦いで)三晋(さんしん)や楚(そ)を疲弊(ひへい)させることなどできません。これが第2の理由です。


(共同で戦う場合、)秦(しん)が出す兵が少なければ、三晋(さんしん)や楚(そ)は秦(しん)を信用せず、逆に多くの兵を出せば、三晋(さんしん)や楚(そ)は秦(しん)の統制下に置かれるのを嫌がります。

すると斉(せい)は恐れ、秦(しん)を頼るのではなく、必ず三晋(さんしん)や楚(そ)に逃げ込むでしょう。これが第3の理由です。


秦(しん)が斉(せい)の土地を割譲(かつじょう)して三晋(さんしん)や楚(そ)に喰(く)らわせた(与えた)としたら、三晋(さんしん)や楚(そ)は兵力を温存し、秦(しん)は逆に敵の攻撃を受ける羽目になります。これが第4の理由です。


(共同で戦うことは、)三晋(さんしん)や楚(そ)が秦(しん)を利用して斉(せい)を謀(はか)り、斉(せい)を利用して秦(しん)を謀(はか)っているようなものです。三晋(さんしん)や楚(そ)がこれほど賢く、秦(しん)や斉(せい)がこれほど愚(おろ)かであってよいでしょうか。これが第5の理由です。


ゆえに(秦(しん)は、斉(せい)を攻めるよりも魏(ぎ)の)安邑(あんゆう)を手に入れてうまく治めるほうが、必ずや後(のち)の憂(うれ)いがありません。

秦(しん)が安邑(あんゆう)を領有すれば、韓(かん)は上党(じょうとう)の地を維持できなくなります。天下の腸胃(要所)を取るのと、遠くへ出兵して兵が戻らないことを恐れるのとでは、どちらが利益になるでしょうか?

だからこそ臣(わたくし)は『秦王(しんおう)(秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう))は賢明で計略(外交戦略)に熟知しており、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は智恵者で政務に慣れておられるから、絶対に趙(ちょう)に4万の兵を貸し与えて斉(せい)を討(う)つようなことはなされない』と言ったのです。

穰侯(魏冉)の野心

秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)36年(紀元前271年)、相国(しょうこく)の穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は客卿(かくけい)・灶(そう)の言葉を容(い)れ、斉(せい)を討(う)って剛(ごう)と寿(じゅ)の地を奪い、(自分の封邑(ほうゆう)である)陶邑(とうゆう)を広げようと考えた。

『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3

客卿(かくけい)・灶(そう)の言葉。『戦国策(せんごくさく)』の「客卿(かくけい)・造(そう)」を「客卿(かくけい)・灶(そう)」と同一人物と考えてここに置いた。

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秦(しん)の客卿(かくけい)である造(そう)が、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))に告げて言った。


「君(あなた)(魏冉(ぎぜん))は秦(しん)によって陶(とう)の地に封ぜられてから、(その権勢で)数年間にわたって天下の諸侯(しょこう)を揺(ゆ)さぶり動かしてきました。

もし斉(せい)を攻め、勝つことができれば、(あなたの領地である)陶(とう)は万乗(ばんじょう)の国*7となり、諸々の小国を率(ひき)いて天子(てんし)(周王(しゅうおう))を朝見させることができるようになります。天下の国々が(あなたに)従うようになれば、それは五伯(ごはく)(春秋(しゅんじゅう)時代の五覇(ごは))のような大業(たいぎょう)です。

ですが、もし斉(せい)を攻め、勝つことができなければ、陶(とう)は隣国から格好の標的として狙われ、もはやどこにも拠(よ)り所がなくなってしまいます。ゆえに斉(せい)を攻めるということは、陶(とう)という領地にとって、まさに「存亡の機(重要な分岐点)なのです。

君(あなた)(魏冉(ぎぜん))がこの大業(たいぎょう)を成(な)し遂(と)げたいとお望みなら、どうして使者を派遣して、燕(えん)の相国(しょうこく)に次のように言わないのですか?


『聖人であっても時(好機)」を作り出すことはできませんが、時(好機)が訪(おとず)れた時には、それを決して逃(のが)さないものです。

舜(しゅん)はどれほど賢明であっても、堯(ぎょう)に出会っていなければ、天子(てんし)になることはできませんでした。

殷(いん)の湯王(とうおう)や周(しゅう)の武王(ぶおう)がどれほど賢明であっても、(暴君である)夏(か)の桀王(けつおう)や殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の時代に生まれ合わせていなければ、王(おう)となることはできませんでした。このように、舜(しゅん)・湯王(とうおう)・武王(ぶおう)のような賢人でさえ、時(好機)に恵(めぐ)まれなければ帝王にはなれなかったのです。

斉(せい)を攻撃するよう命令を下すのです。(今こそ)君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))にとって最大の時(好機)です。

天下の諸国の力を借りて仇敵(きゅうてき)である斉(せい)を討(う)つことは、(かつて斉(せい)に敗れた燕(えん)の)恵王(けいおう)の恥を雪(そそ)ぎ、(秦(しん)の)昭襄王(しょうじょうおう)の功績を成(な)し、万世の害を取り除くことであり、これこそが燕(えん)の長きにわたる利益であり、君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))の大きな名声となることです。

『書経(しょきょう)(尚書(しょうしょ))』に「徳を植え付けるなら、潤(うるお)し育てるのが良い。害を取り除くなら、徹底的に根絶(ねだ)やしにするのが良い」とあります。

かつて呉(ご)が越(えつ)を滅ぼさなかったため、越(えつ)は国外(他国)の力を借りて呉(ご)を滅ぼしました。そして、(かつて)斉(せい)が燕(えん)を滅ぼさなかったため、今度は燕(えん)が斉(せい)を滅ぼすのです。

斉(せい)が燕(えん)に、呉(ご)が越(えつ)に滅ぼされることになったのは、すべて「病(やまい)(害)を取り除くことを徹底しなかった」ことが原因です。

もし、この時(好機)を逃(のが)して君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))の功績を成(な)し遂(と)げず、害を取り除かずにいたならば、秦(しん)の外交方針が変わって斉(せい)と手を結び、斉(せい)と趙(ちょう)が連合することにでもなれば、彼らが君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))を怨(うら)む心は必ずや深くなるでしょう。

彼らが君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))に怨(うら)みを抱(いだ)き、燕(えん)に攻めて来た後で悔(く)やんでも、その時にはもう手遅れです。

君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))が燕(えん)の全軍を動かして迅速に斉(せい)を攻め滅ぼせば、天下の人々は父子の仇(かたき)を討(う)つかのように君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))に従うでしょう。

誠(まこと)に斉(せい)を滅ぼすことができれば、君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))を河南(かなん)の地に封じて万乗(ばんじょう)*7(の主(あるじ))とし、中国(中原(ちゅうげん))への道を切り開いて、南は[穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))の領地である]陶(とう)と隣り合わせにさせ、子々孫々にわたって憂(うれ)いがないようにいたしましょう。

どうか君(あなた)(燕(えん)の相国(しょうこく))におかれましては、ただ斉(せい)を攻めることだけに心を集中させ、他の余計な心配はなさらぬように』


と。このように(燕(えん)の相国(しょうこく)に)説得するのです。

脚注

*71万台の戦車を持つほどの大国。戦車1乗(じょう)につき100人の兵士で編成されるため、100万人の兵士を動員できる国。

穰侯(魏冉)の失脚

魏(ぎ)人(ひと)である范雎(はんしょ)は自(みずか)ら「張禄(ちょうろく)先生」と名乗り、穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))が斉(せい)を討(う)とうとしたことについて「三晋(さんしん)(韓(かん)・趙(ちょう)・魏(ぎ))を飛び越えて遠方の斉(せい)を攻めるのは間違っています」と非難し、この機会を捉(とら)えて秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)を言葉巧(たく)みに説(と)き伏(ふ)せた。

これにより昭襄王(しょうじょうおう)に登用された范雎(はんしょ)は、(昭襄王(しょうじょうおう)の母である)宣太后(せんたいごう)が国政を専制し、(宣太后(せんたいごう)の異父弟である)穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))が諸侯(しょこう)の間で権力をほしいままにしていること、そして(昭襄王(しょうじょうおう)の同母弟である)涇陽君(けいようくん)や高陵君(こうりょうくん)らが贅沢(ぜいたく)を極(きわ)め、王室よりも富んでいることを(昭襄王(しょうじょうおう)に)言上した。

秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)は(自身の権力が脅(おびや)かされていることを)悟(さと)り、ついに穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))の相国(しょうこく)の職を免じ、涇陽君(けいようくん)の属官たちをみな函谷関(かんこくかん)から退去させて、それぞれの封地へと赴(おもむ)かせた。

穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))が関所を出て行く時、彼の輜車(ししゃ)(荷物を運ぶための車)千乗(じょう)余りを数えた。

後(のち)に穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は陶(とう)の地で亡くなり、そのままそこに葬(ほうむ)られた。

秦(しん)は(魏冉(ぎぜん)の死後、)再び陶(とう)の地を没収して郡とした。

評価
太史公(たいしこう)曰(えつ)

太史公(たいしこう)(司馬遷(しばせん))は言う。

穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))は、秦(しん)の昭襄王(しょうじょうおう)の母方の叔父(おじ)(宣太后(せんたいごう)の異母弟)である。

秦(しん)が東方へ領土を広げて諸侯(しょこう)の力を弱め、天下に「帝」を称して、天下の国々がみな西(秦(しん)の方向)を向いて稽首(けいしゅ)(頭を下げて服従)した理由は、すべて穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))の功績によるものである。

しかし、彼の貴(地位)が極(きわ)まり、富が溢(あふ)れんばかりになった時、一夫(いっぷ)(1人の男:范雎(はんしょ))が(昭襄王(しょうじょうおう)を)説(と)き伏(ふ)せたことによって地位を挫(くじ)かれ、権勢を奪われて、最期は憂(うれ)いの中で死んでいった。

(王(おう)の親族である彼でさえこうなのだから)ましてや、他国からやってきた羈旅(きりょ)の臣(頼るもののない異国の臣下)ならなおさら(悲惨な結末になるの)ではないか!

索隱述贊(さくいんじゅつさん)

穰侯(じょうこう)(魏冉(ぎぜん))の知恵と見識は、状況の変化に応じて無限に対応できるものであった。

内にあっては(姉の)宣太后(せんたいごう)を頼りにし、外にあっては(甥(おい)の)昭襄王(しょうじょうおう)を補佐した。

4度も相(しょう)(宰相(さいしょう))の位に登り、2度も広大な領地を分け与えられて封じられた。

斉(せい)をくじき、楚(そ)を屈服させ、魏(ぎ)を破り梁(りょう)(魏(ぎ)の首都:大梁(たいりょう))を包囲した。

しかし、一夫(いっぷ)(1人の男:范雎(はんしょ))が(昭襄王(しょうじょうおう)を)説(と)き伏(ふ)せたことによって、最期は憂(うれ)いと憤(いきどお)りの中で亡くなった。

出典
  • 『史記(しき)』穰侯列伝(じょうこうれつでん)
  • 『史記(しき)』秦本紀(しんほんぎ)
  • 『史記(しき)』六国年表(りっこくねんぴょう)
  • 『戦国策(せんごくさく)』秦策(しんさく)3
  • 『戦国策(せんごくさく)』韓策(かんさく)3
  • 『戦国策(せんごくさく)』魏策(ぎさく)3
  • 『戦国策(せんごくさく)』魏策(ぎさく)4

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